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「雪。もうすぐ降りそうだね」 「雪?」 薄暗い空を見上げて、呟いた言葉に、平坦な声が返った。 「うん。…………天気予報で平野部でも降るかも、っていってたけどどうかなぁ」 「‥‥‥‥興味ないな」 素っ気ない言葉に、麻衣はくすりと笑う。 「うん。ナルはそうだよね」 明るい筈の声は、抑制した、何か謎めいた空気を纏っていて、ナルは漆黒の瞳を麻衣に向けた。 美貌に、僅かな苛立ちが過ぎる。 「そんなに見たいのか?雪が」 「‥‥‥‥‥‥‥綺麗でしょ?」 「今年に限って?雪が降る前から何度も空を気にするほど?」 変わらず表情を見せない声で紡がれた言葉に、麻衣は軽く瞠目してから上目遣いでナルの秀麗な美貌を見上げる。 「‥‥‥‥‥‥気付いてたの?」 何時間もずっと上の空で、心の殆どを空に向けていたことを。 答えは、返らなかった。 作り物めいた無表情の、さらに無機的な闇色の瞳から、それでも麻衣は答えを読みとる。 「‥‥‥ごめんね」 声に滲んだ謝罪の響き。 綺麗に澄んだ琥珀の瞳に見上げられて、軽い溜息が、漏れた。 「‥‥‥‥理由は?」 やわらかい栗色の髪を揺らして、麻衣は頷く。 「‥‥‥‥‥初めての雪をてのひらに受けて、お願い事をすると叶うんだって聞いたの」 「‥‥‥‥信じたのか?」 「別にそういうわけじゃないけど。でも‥‥‥‥‥‥」 願い事。 闇色の瞳が、シャッターでも下ろしたように、硬化した。 その厳しい境遇からか、彼女が滅多に他力本願な「願い事」などしないことを、知っている。 まず自分で能う限りの努力をし、それでも駄目なときは周囲に助力を求めることも、彼女は知っている。 それを恥と考えるような偏狭なプライドとは、無縁だ。 そして。 自分だけでは力が及ばないと判断したときに、麻衣がまず助けを求めるのはナルのはず。 それなのに、ナルは麻衣の望みを、知らない。 それがどんなに頼りないものでも、願いが叶うと聞いただけでずっと空を見つめるほどの、彼女の希いを、知らない。 儚い初雪の魔法に縋るほど切ない、祈りを──────。 「別に無理に聞くつもりはない」 ナルは、自分の声が冷気を纏うのを、自覚する。 人知の及ばない望みなら、それは何か。 聞きたくもなかった。 凍り付いたような無表情のまま、漆黒の視線が外される。 「ナル?」 華奢な手が黒いコートの袖を掴む。 その手を振り払うことこそしなかったが、ナルは自分を縋るように見上げているであろう麻衣に一瞥すら与えなかった。 彼女の瞳を見てしまえば、その瞳を捕らえ続けてきた空を、そしてその先にある彼女の願いを、許せなくなる。 そのまま視界も意識もすべて奪ってしまいたいという子供じみた感情を、抑制できなくなる。 それがどれほど意味がないことか、分かりすぎるほど分かっていても。 たとえ初めての雪の結晶を麻衣から奪っても、彼女の心にある切ないほどの祈りを消し去ることはできないのに。 「‥‥‥見ていなくていいのか」 感情を綺麗に隠した低い声。 抑制の度合いがいつもよりも強いことに麻衣は気付いたが、彼の袖を掴んだまま視線を空に戻した。 曖昧な薄闇の中で、人工の灯りが硬質の光を放ち始める。 いよいよ鋭くなる冷気と凍てつくような風は、確実に、雪の気配を伝えていた。 「ナル」 やわらかな呼びかけが、二人の間にわだかまってしまっていた緊張を孕んだ沈黙を、破る。 「ごめんね」 「何に対して?」 「‥‥‥‥こんなに寒い中、付き合わせて」 「麻衣が付き合ってほしいと言ったわけじゃない」 麻衣は首を振った。 ナルも、麻衣も、瞳は虚空に向けたまま。 鋭利な冷気の中、僅かに伝わる体温だけが、近い。 「それに、怒らせてるから」 「別に怒ってない」 虚空を見つめたまま、麻衣は首を振って溜息のように呟く。 「‥‥‥‥‥‥声も空気も冷たい」 「‥‥‥‥そうか?」 「うん。‥‥‥‥‥‥‥でもね、それもちょっと嬉しいな、なんて思ってる自分が馬鹿だと思う」 小さくこぼれた笑いは、淡く白く、拡がった。 ナルの怒りの源となっているもの。 それは、冷徹怜悧な彼の心を、自分が捕らえているという確かな証。 そして、少なくとも今、自分が彼の心を動かしているということ。 抑えがたい喜びと、それに対する淡い自嘲は表裏一体となって、同じほどの強さで並び立っている。 私も勝手だよね、と内心だけで呟いて、麻衣は黒いコートの袖を掴んだ手に、僅かに力を込めた。 「嬉しいのか?」 平坦な声は、相変わらず心を見せない。 変わったようには聞こえなくても、奥にある感情がやや和らいだのを感知して、麻衣は微笑んだ。 「だって、ナル、誤解してるから」 目は向けなくても、吐息のように密やかな笑い声は耳に届く。 秀麗な美貌に苦笑が掠めた。 ナルが表情を緩めたのは、あるいは今日初めてだったかもしれない。 「僕が何を考えているか、分かるのか?」 「今はね」 「テレパシストの能力はなかったはずだが?」 「別にそんなのなくても分かるよ。今みたいな誤解、最近は減ったけど、それでも珍しいほどじゃないよね」 くすくす笑った麻衣の息がかすむように白く拡がった。 「誤解なのか?」 「もし誤解じゃなかったら、ナルが怒ってて嬉しいわけないでしょ。‥‥‥まして、自分のことを馬鹿だなんて思うわけないじゃんか」 白皙の面が、返る。 漆黒の瞳が、虚空を見つめたままの麻衣の姿を、捉える。 その、瞬間。 彼女の可憐な容貌が輝いた。 視線の先には。 ちらちらと舞う、純白の氷の花。 差し伸べられた華奢なてのひらに、小さな結晶が溶ける。 麻衣は一瞬目を閉じてその手を大切に握り込み、傍らに立つ漆黒の青年を見上げてふわりと笑った。 「ありがと、ナル」 「満足か?」 「うん。それもあるけど。‥‥‥そばで、一緒に雪を待ってくれて、ありがとう」 ナルはわずかに苦笑した。 「‥‥‥‥‥‥‥願い事は?」 「気になる?」 麻衣は笑って、漆黒の瞳を見上げたが、すぐに口を開いた。 もとより答えなど期待していない。 「‥‥‥‥ジーンの代わりになりたくて」 「は?」 予想を大きく外した答えに、ナルは目を瞬く。 驚愕するナル、などという珍しいものを見て麻衣は笑みを深めたが、もういちど繰り返した。 「だから、ジーンの代わり」 微笑んではいても、この上なく真剣な、瞳。 「麻衣?どういう意味で、言ってる?」 「怒らないで聞いてね。‥‥‥‥ナルが無条件に休める場所になりたい。私のそばで休んで、すぐに後ろもみずに飛んで行ってしまうのでもいいから」 「‥‥‥‥僕のための望みか?」 抑制された問いかけには、澄んだ瞳が返る。 「私のため、だよ。もちろん。‥‥‥‥‥ナルが、ナルでいてくれることが私の望みだから。でも、ナルだって人間なんだから、疲れちゃうでしょ?その時に気を張らずに休めるところがなかったら、休めないでしょ?‥‥‥‥‥‥‥ジーンがいたときはそれはジーンだったんだろうけど、今ジーンはいないから」 「だからジーンの代わりか?」 「うん。休むなら、他の誰かじゃなくて私のそばにして欲しいから」 麻衣は真剣な瞳はそのままに、やわらかく微笑んだ。 疲れたように一瞬だけ瞑目した妍麗な美貌を、微かな苦笑が彩る。 「‥‥‥‥僕に直接言えば済むことじゃなかったのか?」 ─────初雪の魔法などに頼らなくても。 なんの躊躇もなくその願いは叶えられただろう。 言外の意味は伝わって、麻衣は困ったように首を傾げた。 やわらかな栗色の髪がさらさらとこぼれ、寒さのためか紅潮した頬を滑りおちる。 「確かにその通りなんだけど。でも、強制じゃなくて、自然にそうなって欲しかったの」 「いま言ってしまったら同じことじゃないか?」 「うん。そうなんだけどね。‥‥‥‥‥‥‥でも、ナル、この寒いのにそばにいてくれたから」 だから大丈夫かな、と思った。 そういって笑った彼女を、漆黒の瞳が捕らえる。 「‥‥‥麻衣は、麻衣だ。ジーンとは違う」 抑えられた、けれど透徹した声。 「うん。分かってるよ。‥‥‥ジーンには絶対になれない」 麻衣は軽く目を瞠り、そして笑った。 失われた彼の半身に代われるような存在は、何一つない。 ────麻衣自身を、含めて。 透明な笑顔に隠された切ない痛みを確実に感じ取って、ナルは溜息を付く。 「そういう意味じゃない」 「‥‥‥‥それなら、なに?」 まっすぐな視線に見上げられて、凄絶なまでの美貌が完璧な微笑を作った。 「さあ?」 さらりと受け流す。 答える気は、ない─────少なくとも、今、ここでは。 漆黒の瞳は無表情のまま、長い指が彼女の髪と肩にまぶされた雪を軽く払った。 「なにそれ。自分ばっかりずるい」 「‥‥‥‥‥用は済んだんだろう?」 急に話題が元に戻って、麻衣は目を瞬いた。 対応しきれず、反射的に答える。 「え?‥‥‥うん」 「その上で、この雪の中、突っ立っている必然性はあるのか?」 「ない、けど‥‥‥‥‥」 「それなら聞くが、おまえは風邪を引きたいのか?それとも僕に風邪を引かせたいのか?それとも凍えるのが趣味なのか?」 麻衣は憤然と無表情の美貌を睨み上げた。 畳みかける言葉はいちいち反論しようもなく、しかも声質が美しいだけ腹が立つ。 「どれでもありません!‥‥‥‥ごまかさないでよ?後で聞くからね」 深い闇色の美しい瞳を睨め付けると、無表情のまま端麗な唇が開いた。 「ご随意に」 言って、ナルは麻衣の様子を見てほんの僅かに眉を顰めた。 華奢な手が微かに震えて、細い肩のあたりが強ばっている。 彼は大袈裟に溜息を付いてみせ、意図して皮肉な視線を作った。 「とにかく。続きは暖かい部屋で、だな」 行くぞ、と歩き出したナルの左腕に抱きついて、麻衣はくすくす笑いながら彼の腕に頬を擦り寄せ、小さく囁く。 「ありがと」 「なにが?」 「私のこと心配してくれたでしょ?」 「風邪でもひかれては困るもので」 見上げてくる悪戯っぽい琥珀の瞳と一瞬だけ視線を絡めて、ナルは足を早めた。 氷の刃のような風と、視界を遮る雪。 凄烈な空気の中で、傍らにある互いのぬくもりだけが鮮明に浮かび上がる。 それは、闇の中にひかる唯一無二の燈火のように。 |
書いているときは結構一気だったのですが、こうしてみると何だか無駄に長いです(汗)。最後まで読んでくださってありがとうございました。 ちなみに続きはありません(笑)。‥‥‥‥多分。 二人が帰ってから(どこへ?)どんな話をするかは、ご想像にお任せしますvv 2001.2.1 HP初掲載
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