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  君のためいき。


「あたくし、もう帰りますわ」
 時計が五時に近くなったのをちらりと見て、和装の少女は立ち上がった。さっくりと切りそろえられた髪が、揺れる。
「僕、送りますよ」
「結構ですわ」
「もうそろそろ暗いですし、このあたりは一歩間違うと物騒ですから」
 安原が事務椅子をくるりと回して立ち上がり、かまいませんよね、と同僚に笑顔を向ける。
「いいと思いますよー。五時までの勤務ってつけときますね。真砂子も、気をつけてね」
「ええ」
「ありがとうございます。…………さっき言った例題と類題、もう一度解いておいてくださいね、谷山さん」
「………う。はーい………」
 麻衣は肩をすくめる。
「あともう一息ですから頑張ってください」
「はぁい」
「じゃあ所長とリンさんによろしく伝えておいてください」
「了解しましたー」
 すちゃ、と敬礼してみせた麻衣に笑顔を返して、安原はコートをとって、真砂子と一緒に外に出た。


 ビルを出ればすぐに、夕刻の渋谷の雑踏に踏み込む。
 その中で、安原はごくさりげなく真砂子をかばって歩く。気付かせないのは、当然の嗜みだ。
「八回目ですね」
 二人の間にあった沈黙を、安原の声が、破った。ごく静かな、けれど深い声に、真砂子は驚いたように隣の青年の顔を見上げる。
「え?」
「溜息ですよ。オフィスにあなたが来てから、今つかれたので、僕が気付いただけですけど、八回目」
「…………溜息なんて」
「つきましたよ。無意識ですか」
「気付いていませんでしたわ。…………すみません」
「謝られることはありませんよ。…………お茶でもしていきませんか。お急ぎでなければ」
「急いでは、いませんけれど。でも、お茶ならさっき麻衣に……」
「僕と一緒じゃご不満ですか?」
 冗談めかした安原の、眼鏡の奥の穏やかな瞳。
 真砂子は小さくわらって、頷いた。
「ご一緒しますわ」
「じゃあ行きましょう。近場のカフェでよろしいですか?」
「ええ」
 真砂子が頷くのを確認すると、安原は方向を転換した。


 ビルの三階。
 窓越しに、中庭がみえる。あえて道沿いは塞いでしまっているのだろう、落ち着いた暗さを纏った店内に、安原は慣れた調子で足を踏み入れた。
 ソファの席に案内されて、メニューから簡単にハーブティーを注文し、二人の視線が合って、真砂子は苦笑した。
「考えてみれば。安原さんと二人きり、というのは初めてですわね」
「そうですよ。誘うのに勇気が要りました」
 冗談めいた口調に、真砂子が笑う。
「嘘ばかり。………でも、そう。思わずこんなところに誘ってしまうほど、あたくし、おかしかったんですわね」
 照明は最小限の間接。
 各テーブルには小さなランプがおいてあるが、同じテーブルの人間の顔は見えても、違うテーブルの様子は窺えない。やわらかく沈み込むソファに身を預けると、深海魚のような気分になる。
「おかしかった、というわけではありませんよ。いつもより溜息が多かっただけです」
「狡いんですのね」
 真砂子がそう呟いたところでポットが運ばれてきて、無口なウェイターは砂時計を置くとすぐに下がっていった。
 それを見送って、安原は苦笑する。
「狡い、ですか」
「そうですわ」
「何故ですか?」
「なにもかも知っているくせに、そうやって知らないふりをしていらっしゃるから」
 真砂子は息をついて、まっすぐに正面の青年を見据えた。彼女本来の、凛とした表情。
「あたくしがナルを想っていたことも、ナルと麻衣がお互いを見ていることも、多分二人とも自覚していて、何も言わないことも」
「…………過去形ですか?」
「ええ。…………過去形ですわ」
「それならどうして溜息ですか?」
「……………意地が悪いんですのね。…………確かに、振り切れては、いませんわ」
「正直ですね」
 淡い笑みが、彼の口元に浮かぶ。
 しゃべりすぎている、とは思ったけれど、誰かに話したかったのかもしれない。真砂子はそのまま、苦笑した。
「だって、あたくし、初恋でしたのよ。…………意外ですかしら」
「意外と言えば意外、ですが」
 これだけの美貌の少女に、男がまったく近寄らないはずがないと思えるのだが、ただ、真砂子には、「霊媒」という形容詞が常について回ってきた。それは、十分以上に敬遠の理由になる。
「本気ではじめて。………だから馬鹿なことをして」
 脅迫のようにして、映画や展覧会に誘った。子どもっぽい自己満足にしか過ぎないのに、それで有利なつもりでいた。
「でも、所長は原さんを嫌ってはいませんよ」
「それは自分でも不思議ですのよ。あのナルが、あたくしに腹を立てないはずがないのに」
 真砂子は自嘲気味の笑みを浮かべる。
「それとも、それこそ自分の”初恋”に手一杯であたくしのことなんてどうでもいいのかもしれませんけれど」
「自虐的ですね」
「………普段はそうでもありませんのよ。ただ、どうにも進まないあの二人を見ていると、時々」
「腹が立ちますね」
 さらりと言葉を引き継がれて、真砂子は目を瞬いた。
「安原さん?」
「僕も、腹が立ちますよ。所長の気持ちも分からないわけじゃありませんけど、生殺しにされる方の身にもなってもらいたいですね」
「………安原さんって、え……?まさか、麻衣………?」
 こぼれ落ちんばかりに目を見張った真砂子に、安原は吹き出した。
「違いますよ。谷山さんは好きですが、別に恋愛感情関係ないです。そういう意味じゃありません」
「じゃあ、どういう意味ですの?」
「さっさとまとまってくれないと、振り切れるものも振り切れない、とたった今言われたじゃありませんか」
「…………ええ、言いましたけど」
「そういうことです」
 安原は笑って、落ち切った砂時計を指先で叩いた。
「もういいみたいですよ」
「……………………手に負えない方ですわね」
「光栄です」


 とぽとぽと音を立てて、ガラスのカップにお茶が注がれる。

 今はまだ、君の心はためいきをついて、遠い彼を思っている。
 だから、ゆるやかに。
 時を、待つ。
 
 その時まで、明かさない心。


 それは、秘めた、恋。




安原→真砂子ちっくなかんじで。
微妙な均衡が好きです(笑)
   2005.1.21HP初掲載



 
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