茜色の声。
ざん…………
波が、断崖に打ち寄せる。
珊瑚礁の海はどこまでもすきとおるようにあおく、そして落ちていく陽の光をうつして波飛沫がきらめく。
どこまでもすきとおった、静寂。
「夕焼けね?」
背後から声をかけられて、彼は振り返りもせず答えた。気配を消すことなどしない彼女の存在は、この部屋に入ってくる前から感じ取っている。
「そろそろ夕方だからな」
「ええ」
普段はひとつに束ねている蜜色の長い髪が、潮風に揺れてさらりとなびいた。それは頬をなで、風の悪戯で彼の髪にまで触れていく。
海に面したバルコニーの欄干にもたれかかっていた少年の横に、同じようにもたれかかった少女は、くすりと笑った。
「奇蹟みたいだわ」
「…………」
「夕陽をみるたびに、思い出すのよ、わたくし」
「何を?」
笑みを含んだ語調に、プルシアンブルーの瞳が、真横の少女の顔に向いた。
「あなたとはじめて出逢ったときのことを」
少女の笑いは止まらない。
普段からは想像もできないほど、柔らかな声音と、どこかあどけない表情が、彼女の心を何よりも雄弁に代弁する。
「覚えている?ヒイロ」
「忘れたくても、忘れられない」
対照的に、端麗な少年の顔は苦いものになった。
降下作戦は、不確定要素だったとはいえOZに見られ、MSを自爆させようとして海に残してきたまではよかったものの、岸に打ち上げられたところをリリーナに見られ、あげくの果てには宇宙服の自爆装置が故障していた。
ドクターJの手落ちだ、と呪いたくなる。
苦い顔の少年を見ても、リリーナの笑いは止まらない。
「お父様をお見送りして、歩いて帰ろうと思ったら、あなたがいたんですもの。あの時は本当に驚いたわ」
「………俺もまさかはじめから民間人にコンタクトするとは思わなかったが」
「そうよね。………降下地点、ずれてしまったのでしょう?でなければ、あんな………連合の宙港のすぐ脇に降りるなんてありえないでしょう?」
「そこまでは、俺は知らない。誤算に誤算が重なっただけだ」
「でも、その誤算には、わたくしは感謝しているのよ、ヒイロ」
アイリスブルーの瞳が、茜色を帯びてきた陽光を吸い込むように、ヒイロの瞳を覗き込んだ。
「だって、そのおかげであなたと出逢えたんですもの」
「…………」
「だから、わたくし、こんな夕焼けをみるたびにあの時のことを思い出すのよ」
くすくすとまた笑い出したリリーナにためいきで返して、ヒイロは「その時」を思い出した。
まったく予期しない降下作戦途中のOZとの遭遇、同じく予期しない、リリーナとの出会い。夕焼けなど、記憶の隅にも残っていない。残っているのは、「目撃者は消さなければならない」という反射にも似た使命感に支配されたことだけだ。
「夕焼け、か」
「そうよ。それから、救急車」
「…………あのあと、どうしたんだ?」
リリーナは彼のために救急車を呼んだのだ。それが奪われたのではお話にならない。
彼女は肩をすくめて、答えた。
「正直に答えたわ。あのときは何も知らなかったから、それ以外にどうしようもなかったんですもの」
今は地球圏国家の高級官僚、事実上の象徴的存在である彼女も、あの時───ほんの三年前には、地球の一地区に住む上流階級の少女にしかすぎなかった。だから何も知らず、なにも想像せず、ただ見たまま、ありのままを伝えた。それが連合でどう扱われたかは、もう分からない。
「………………だろうな」
呟くように答えて、ヒイロは身を翻した。夕陽と海を背にして、まっすぐに少女に相対する。
「そんなことより、リリーナ」
「何かしら」
「こんなところでうろうろしていていいのか?過労で休養中のはずだろう」
本来なら仕事に忙殺されているはずのリリーナ・ドーリアン外務次官がこんなところで休暇になっているのは、ドクターストップがかかったからだ。
そして、どこかの財閥当主がわざわざ、彼女の暗殺計画の偽情報を巧みに流さなければ───ヒイロ以外のガンダムパイロットには事前に「真実」が電話と言う原始的かつ確実な手段で明かされていた───ヒイロがここにくることも、多分なかったはずだ。彼も、プリベンターの一員として、そしてマーズプロジェクトの関係者として、そしてヒイロ・ユイという一人の少年として多忙を極めている。いくら彼でも、三重生活はそれなりに疲れるものだ。
「わたくしは大丈夫なのよ。ノインさんもレディ・アンさんも心配性なだけ」
「それで、こんなところへ隔離か」
ここは、連合が作った秘密ドックだった。
環礁地帯の無人島の地下に潜水空母用のドックを作り、上にはカモフラージュのつもりなのか、貴族の別荘らしき建物を建てたのだ。それをロームフェラ財団が買い取り、現在はドロシー・カタロニアが所有している。ドックも周辺設備も最新鋭のものに作り替えられていてヒイロはそれを自由に使えるが、リリーナはそれは知らない。彼女が知っているのは陸上部分、ヘリポートの所在だけだ。
「出られないように、そして誰も来ないように、ですって」
「ドロシー・カタロニアか」
「ええ。ドロシーよ」
「カトルと一緒になって好きにしてくれる」
「あのお二人には、かなわないわね」
リリーナは欄干から手を離す。ヒイロに一歩近づいて、でも、と囁いた。
ハニーブロンドが、夕陽を受けて後光のように彼女を浮かび上がらせる。
白い翼さえ見えそうな、錯覚が起きる。
「でもおかげで、ひさしぶりにヒイロに逢えたから、わたくしは嬉しいわ」
「…………それほど暇じゃないだろう、お前は」
「ええそうね。もちろん暇じゃないわ。お仕事は山のようだし、大変だわ」
「……………」
「でも。それは自分で選んだ立場だから。前のように、他の人から見られるだけの立場ではないから」
最初は、覚えていないけれど、サンクキングダムの王女として。そして次には、連合の外務次官の息女として。そして、戻った平和国家の象徴としてのピースクラフトの王女として、さらにはロームフェラに祭り上げられた地球圏の女王として。
常に、周囲の───本当は、実の両親だと信じていた養父母も含めて───敬愛と期待を受ける立場にいたけれど、それは、孤独で、自分で選んだ居場所ではあり得なかった。
「だから、今は、わたくしは幸せだわ」
望んだ仕事をしている。
自分が、誇りを捨てても守りたかった、平和への灯火をひきつぎ、ひろげる大切な役割を負っている。
「たったひとりでも」
「そうか」
「でも、ひとりでは寂しいことも、本当なの」
わたくしは弱いのよ、そう呟いて、リリーナはヒイロの手をとった。
「だから」
出逢った頃は殆ど変わらなかった体格は、今ではすっかり変わってしまった。
すらりと伸びた背、鋭利ななかにもあたたかさを内包し始めた、瞳。
大きな、掌。
「ときどき、あなたを思い出すことにしているの。…………あなたは、わたくしを、はじめてわたくしとして見てくれた人だから」
「……………お前の言うことはよく分からない」
「いいのよ、それは。わたくしが知っていればいいことですもの。………ヒイロに知っておいてほしいのは一つだけ」
「ひとつ?」
「ええ、そうよ。…………わたくしが……リリーナが、あなたの手を時々欲しがってるって覚えておいて?」
少女は身を翻す。
少年の目の前で、蜜色の長い髪がさらりと広がる。
「…………覚えておく」
「約束よ。………せっかく、あなたと出逢わせてくれた夕陽ですもの」
リリーナはくすりと笑って、部屋へと続く扉を開いた。
「そろそろお食事じゃないかしら。呼ばれる前に行きましょう?」
部屋の中には忠実な執事が控えていて、いつものように、お嬢様、と声をかけた。
振り返れば、すでに濃い茜色の夕焼けに空が染まっている。
空気まで染まりそうな色に、忘れかけていた出会いの記憶が再構成される。
───わたくしは、リリーナ・ドーリアン。
まだ幼さを残した澄んだ声の残滓が、耳に響いた。
GW。ヒイロ×リリーナ。
2005.12.15HP初掲載