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   恋愛中毒症。


 ガラスと氷が触れあう澄んだ音がする。
 静かなバーのボックス席で、どうやってか連れ出されたナルを奥に(もちろん逃がさないため)、両脇を安原と滝川が固め、そして一番端にはリンとジョンが座っている。珍しく、女性陣抜き、しかもナルを巻き込んでの「飲み会」だ。(ちなみに女性陣は綾子引率のもとお泊まりらしい。)
 他人には無表情としか捉えられないであろう白皙の美貌は、氷のような鋭さを増して、漆黒の瞳は冷たく凪いでいる。………要するに機嫌が悪い。
「いいかげん諦めろよな、ナル」
「人を騙して連れて来ておいてそれですか滝川さん?」
 慇懃無礼な、絶対零度の微笑。
 さすがに目を逸らした滝川は目線でリンに助けを求め───リンは気付かなかったふりをした。
 なんといっても、ナルを連れ出した実行犯は彼なので、あとで皮肉の十や二十や三十は覚悟しなければならないのだ。ここでは、立案者に責任を取ってもらいたい。
 計画立案者、安原が、にこやかに切り出す。
「騙したって人聞きが悪いですよ所長。谷山さんもいないし、たまにはいいじゃないですか」
「麻衣がいないことと、この状況にどんな関係が?」
「たまには男同士の話もいいだろうってことですよ」
「何の意味が?」
「まあまあ渋谷さん、そお怒らはらんと。皆さん悪気があったわけと違うんですから」
 きらきらと後光のような金髪に天使のような笑みで、ジョンが割って入った。
 青い瞳は綺麗に澄んで、何の邪気も含まない。
「たまには、女性抜きでお話もしたいということでしたから、僕もこさしてもろたんです」
 どちらかというと呼び出された口のジョンは、穏やかな口調で続ける。その柔らかさには、ナルの冷気もまったく影響しない。
 ナルは溜息をついて───ジョンには、どうも逆らえないのだ。誰も。───闇色の瞳を安原に向けた。
「………男同士の話とやらの内容は?」
「所長。会議やってるわけじゃないんですから」
 安原は苦笑する。ナルの纏う空気がやわらいだためか、滝川が元の位置に座りなおした。
「いやいや。いっぺん聞いてみたいと思ってたんだ」
「何を」
「ナルだけじゃなく。少年もだが」
「………僕にですか?………やだな、僕、何も隠しごとなんてしてないのに」
「嘘をつけ」
 しなを作った安原に、きっぱりと言い渡して、滝川は手に持ったグラスを揺らした。
 ロックのバーボンが、揺れる。
「お前さんたち、ぜんっぜん興味がないような顔して、しっかりうちのかわいい娘たち獲得したろ」
「………人聞きが悪いなあ………」
 さすがに安原が苦笑し、ナルは軽く目を眇める。
「言っときますけどね。僕は、一回も、興味ないなんて言ったことないですよ?そりゃまあ誰でもいいから彼女が欲しい、とか馬鹿なことを考えたことはないですけど、それは別に変なことでもないでしょ」
「本命がいたからか?」
「そうとも言いますね」
 さらりと答えた安原は、いつもの微笑のまま、滝川を楽しげに見ている。
「原さんも、谷山さんも、言っときますけど極上の女の子ですよ?谷山さんは容姿を気にしてるようですけど」
「麻衣は十分可愛いぞ」
「その通りです。性格もいいですしね」
「なんで麻衣じゃなくて真砂子ちゃんになったんだ?素朴な疑問なんだが」
「そういうこと、所長の前で聞きますか」
 安原は苦笑してみせて、それからあっさりと、言った。
「まあ、最初っから谷山さんは所長のものだと思ってたので。そういう風に思考がいかなかったんですね、正直。所長に対抗できると思うほど、僕、馬鹿じゃないつもりですから」
「…………安原さんとお会いした頃は、別に麻衣と僕はどんな関係でもありませんでしたが?」
「上司と部下ってだけでもなかったですよね?」
「それだけでしたが」
「うーん。そうは見えなかったんですけど」
「少年、それは、麻衣の態度がか?」
「違います。所長の態度が、ですよ。あのときは完璧外部の目、でしたからね。結構自信ありますよ。………松崎さんや原さんとは全く態度違ってましたし、リンさんへの態度とも違いましたし」
「どう違っていました?」
 面白そうに尋ねたリンに、安原はくすりと笑った。
「程度とか種類はありますけど、原さんにも松崎さんにも、一定の線をひいているのがよく分かったんですよ。で、リンさんにはそういう線はなかったですけど、あくまで上司と部下で、たとえば兄弟とか親子とか、親しい友達とか、そういう類いのウェットな関係は見えませんでした。でも、谷山さんに対してだけは、微妙に違ってたんですよね」
「どこが?………純粋に興味あるぞ」
「所長、自覚症状ありました?」
 面白げに安原に問われて、ナルは溜息をついて首を振った。
「いいえ。特に対応を変えていたつもりはありません」
「やっぱり無自覚ですか。………守らなければならないもの、に見えたんですよね。いつも谷山さんのことはかばってたでしょう。まあ、あのころはまだ素人って部分が大きかったみたいですから、そのせいもあったんでしょうけど、谷山さんに対する配慮は、他に対するのとは種類が違っているように見えました。できるだけ傷つけないように、所長が盾になっても守るように」
「………言われてみれば、確かになんだかんだこき使ってても麻衣には随分気遣ってたな」
「余計なところで泣かせたくなかっただけです」
「それだ」
「は?」
「恋愛の初歩。泣かせたくない」
「…………」
「所長って、いつ頃から谷山さんのこと好きだったんですか?」
 安原の質問に、その場の空気がなんとなく凍り付いた。
 聞きたくても誰も聞けなかった質問ではある。
「さあ?」
「…………さあってな………」
 がっくりとつっぷした滝川に、ナルは冷たい視線を送る。
「まず、好き、という状態の定義から曖昧だ」
「恋愛感情としての好きに決まってるだろ」
「つまり、PEAの過剰分泌によってエンドルフィンが活発に脳内をハイにさせている状態か」
「…………………」
 滝川ががっくりと肩を落とし、リンは溜息をついた。
「…………PEAってなんですやろか。不勉強ですんません」
「フェニルエチルアミンの略。脳内ホルモンの一種だな。エンドルフィンはいわゆる脳内麻薬」
「所長の話聞いてると、なんか麻薬中毒かなにかみたいですね………」
「変わらないと思いますが」
 淡々と答えたナルは、上質のブランデーグラスをとりあげた。さらりとこぼれた漆黒の髪が、白い膚にかかって鮮やかなコントラストを描き出す。ちょうど通りかかった店員が、息をのむのが聞こえて、ジョンが軽く微笑む。
「………まあとにかく、その脳内ホルモンが活動しはじめたのはいつ頃でしょうか?」
「わかりません」
 あっさりと答えられて、安原は溜息をつく。それを救うように、ナルは言葉を継いだ。
「僕の場合は、極端に脳内ホルモン、特に感情系のホルモンは抑制されているようですから、別に不思議なことではないと思いますが」
「……………んじゃ、聞くが。好きってだけと、つきあうのとは違うだろ。なんで踏み出したんだ?」
「なんとなく」
「………………あのなナル。真面目に答えろよ」
「真面目に答えているが。………ついでに言えば、多分麻衣も同じことを言うと思うが?」
「どういう意味か説明してもらえますか?」
「では、安原さんはどうしてそこを踏み出そうとしたわけですか?」
「そうきましたか」
 安原は苦笑する。これは、話を自分で振った以上答えなければならない。
「相手が相手だったんで。僕の意志をちゃんと伝えておきたかったことと、できることなら、できるだけ近い距離に……ってもちろん精神的にですが、いたかったんですよ。普通です。………好きなひとに、触れたい、と思うのは、変なことでもないと思いますが」
「変なことじゃないぞ、少年。それがふつーだ」

 好きなら。
 触れたい。
 やわらかな身体を抱き締めたい。
 そのぬくもりを、独占したい。

「………僕は、これは多分麻衣もですが、普通にそばにいるだけで良かったんですよ」
「は?」
「そばにいること。という点が満たされていれば、僕も麻衣もそれ以上求めるつもりはなかった」
「…………話が見えませんが所長。それって、つきあう前から、好きってことは知ってたってことですか」
「そういうことになりますね。………そばにいないことが不自然に思え、それが長くなれば不安につながる、目の届くところにいることでとりあえず安心する、という程度の状態には、 かなり前からなっていましたので。それを好きと称するなら」
「………………」
 母親がいないと不安な幼児か、と一瞬思ったことはおくびにも出さず、安原はつまり、と言葉を探す。
「ええとそれはつまり、目の届くところにいれば安心する、という?」
「そうですね。目の届く範囲で、不自然ではなく、いればよかった。………多分麻衣もそうです」
「麻衣もってな、ナル………」
「お互いに、気付いてたからな」
 あっさり言われた台詞に、滝川は今度こそ轟沈した。
「わざわざ言わなくても分かっていたから、それ以上進むつもりはなかった。別に距離を詰める必要性を感じなかったから」
「片思いの切ない感情とかは無縁ですね………」
「そうですね」
 ナルは、一瞬だけ、闇色の瞳に苦笑を閃かせる。
「あの馬鹿さえいなければ、多分、今でも変わっていなかったと思いますが」
「………………」
 ジーンが、何らかのきっかけを作ったのだろう。
 だが、それ以上聞く余裕精神力は、既に残されておらず、非常識に淡白なふたりの追求は打ち止めとなった。

 淡々と、ブランデーグラスを口にしたナルの瞳に、暗い翳りが走る。

 そう、あのときまでは、焦燥など感じたことはなかった。精神を圧迫するような感情を抱えたことなどなかった。
 触れたいと、麻衣の瞳も声もぬくもりも、なにもかも独占したいと思ったことはなかった。
 ただ、そばにいて、心地のよい距離にいるだけで満足していた。
 空気のように当たり前にそばにいた兄のかわりのように、麻衣を捉えていた部分があったのかもしれない。

 けれど。

 触れれば触れるほど。
 自分だけが知る特別な表情が、増えれば増えるほど。
 麻衣が、少女だと。
 兄とは全く違う、やわらかな心の襞をもつ、とても柔らかくあたたかい、けれどつよい存在なことに気付いていく。

 触れる髪の甘い香りに、抱き締めた身体の柔らかさに、思わず息をのむたびに。
 一つ間違えば爆発するような感情に、精神が浸蝕されていく。
 それは、自分でもどうにもできない、魂の変容。


 一度溺れれば、二度と救われない。
 それは、エンドルフィンという名の麻薬に囚われた、麻薬中毒。
 自分の中で作られる以上、その麻薬から解き放たれる道はない。

 どこまでも、終わりのない、連鎖。
 それなしにはいられなくなる、恋の中毒に。

 墜ちる。




ジャンキー=麻薬常用者、ってことで。←だからってどーしてこういう発想になるよ。
うーん。意図せずちょっとダーク。………バレンタインってこと忘れてたんですよね(爆)
   2006.2.14HP初掲載



 
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