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聖ヴァレンティヌスの祝福に寄せて



 
 外の喧噪がまるで嘘のような、静寂。
 無機質になりすぎない程度にビジネスライクなオフィスの中には、ごく低い空調の音と、キーボードを叩く乾いた音だけが、かすかな重奏低音のように、響く。

 パソコンのモニタを数値処理されたデータが流れていく。
 それを真剣な表情で追っていた安原は、数字の流れが止まったことを確認し、小さく吐息してからふと顔を上げた。
 視線を滑らせ、デスクの上に置かれたアナログ時計を、眼鏡越しに、捉える。

 文字盤は、午後四時を少し回っていた。

 その時刻は、作業に、2時間以上も没頭していたということを示す。

 これでは所長を笑えない。
 そう、内心だけでつぶやいて、彼はわずかに苦笑した。

 普段なら、途中で休憩が入るし、これほど作業だけに一点集中することはない。
 いつもはオフィスにいる麻衣がいないだけで、彼女の纏う明るくやわらかな空気がないだけでオフィスの空気がこれほど変わることに、安原はわずかにため息をついた。

 所長室の奥、彼女の不在に、おそらくは自分より遙かに大きく影響されているだろう存在を思う。

 安原は理知的な口元に微苦笑を浮かべ、立ち上がった。
 オフィスの空間を今は自分と二人で二分する所長を呼ぶために、所長室の扉を開く。

 「所長」
 声には、怜悧な闇色の瞳が返った。
 普段よりも遙かに早く反応した彼は、それでも口は開かずに強い視線で返答を促す。

 「休憩しませんか?」
 「‥‥‥麻衣は来ていませんか?」
 質問を完全に無視しているように見えるが、おそらくこの年下の上司の中では強くつながっているのであろう反問に、安原はまた内心だけで苦笑した。
 「僕に聞かれるまでもなく、ご存じでしょう」
 たっぷりと含みを持たせた「越後屋」と称する安原一流の笑顔は、しかしナルには全く影響を及ぼさない。
 白い美貌は完全な無表情のまま、漆黒の瞳だけが有能な部下に向けられる。

 「確認しただけです。‥‥5時頃には顔を出すと言っていたので」
 「なるほど。でも、まだ四時を回ったところですよ」
 「そうですか」
 あいかわらず何の感情も伺えない、声と瞳。
 柔らかな花のような彼女がいれば、それでも少しは動く表情や瞳の色は、紙一筋ほどの揺らぎも見せない。

 「お茶、飲みませんか?僕が入れたのでよければ、ですが」
 「わかりました、いただきます」
 「お付き合いありがとうございます、所長。それじゃ、支度してきますね」

 軽い会釈と笑みを残して、安原は部屋を出た。

  
  

 いつの間にか所長室を出てソファの定位置を占め、いつものようにファイルを広げたナルは、促されて顔を上げ、カップを受け取った。
  
 沈黙を保ったまま、カップから白い湯気が上がる。
 それを追うともなく目で追っていた安原が、不意にその視線を目の前の美貌に向けて苦笑した。
 「それにしてもここは静かでいいですね」
 「今度はいったい何の騒ぎですか?クリスマスのばかげた騒ぎが収まったと思えば」
 怜悧な無表情に、不快げな色がにじむ。
 安原は一瞬驚いたようにまじまじとナルの美貌を見、そして苦笑した。
 「バレンタインですよ。ご存じでしょう」
 「Saint Valentine's Day?」
 「ええ、そうです」
 「聖ヴァレンティヌスの、ですか?」
 「その通りですが?」
 「それがなぜ、あの馬鹿騒ぎになるんです?」
 わずかにあきれたような響きが、玲瓏とした声にやどった。

 「日本限定のようですが、女性が男性にチョコレートを贈る日、として定着してるんですよ。元は製菓会社の陰謀らしいですが、今やクリスマスと同じ程度には一般化しています」

 言葉の代わりにこぼれた、深いため息。
 安原は笑って問いを重ねる。
 「そちらではいかがでしょう」
 「‥‥‥‥カードの交換が一般的のようですね」
 「プレゼントも何もなく、ですか?」
 「一般的には花を添えて」
  もちろんプレゼントにはいろいろ考えられるが、基本的には。

 贈るのは、思いを記したカードとバラの花。
 家族に、恋人に、感謝と愛を込めて。



  
 なつかしい、記憶の波。
  
 「ナル!!帰ろうよってば!」
 研究に没頭しているところを邪魔されて、彼は不機嫌な顔をすぐ横に向ける。
 表情の違いを別にすれば全く同じ顔立ちの、思わずはっと息を呑まずにはいられないほど美しい双子は、三十秒ほどにらみ合い─────負けたのは弟の方だった。
 いつものように。

 「勝手に帰れ」
 特大のため息とともに、少年らしい澄んだ声が落ちる。
 「そうはいかないよ。今日は買い物してかなきゃいけないんだから」
 「買い物?」
 不機嫌さを増したナルの瞳にも全く動じず、ジーンはにっこり笑って見せた。

 「その通りだよ」
 「なぜ僕がそんなことにつきあわなければならない?」
 「やっぱり分かってない」
 「分かったと言った覚えはない」

 ジーンはわざとらしくため息をついて見せ、口調を変えた。

 「じゃあ聞くけどね。今日は何日?ナル」
 「14日」
 「それじゃ、何月?」
 「二月だな」

 単語だけで答え、再び本の上に落とされていた闇色の瞳が、ゆっくりと兄の瞳に向けられる。

 「何が言いたい?ジーン」
 「二月十四日。今日は何の日?」

 にっこり笑ったままの、闇色の瞳。
 こうなった兄に逆らっても無意味なことを知っている────不本意ながら誰よりも熟知しているナルは、ため息をつく。
 「聖ヴァレンティヌスの祝日だな」

 ナルから答えを引き出して、ジーンは満足げに笑った。
 「そうだよ。だから買い物」
 「何を?」
 「カードと花に決まってるよ」
 「‥‥‥‥‥」

 養母であるルエラに贈るための、カードと、バラの花。

 「もちろん、そうしたらルエラが喜ぶことを分かってて、嫌だなんて言わないよね?もちろん」
 「‥‥‥‥‥‥」
 「その時間が無駄だとか言うつもりでいるなら、僕は君を軽蔑するよ」

 語調はやや強まったが、ジーンの瞳は笑ったままで、ナルはため息をついた。

  
  

 「ジーン」
 「何?ナル」

 兄が弟の部屋に入り浸るのはいつものことだ。

 そばにいることはごく自然で、よほど邪魔をしない限りはナルもそれを拒まない。
 それでも、ナルの方から声をかけることはまれなことで、ジーンは黒い瞳を瞬いた。

 同じ声質の、けれど明らかに硬い声。
 「ルエラよりもおまえの方が嬉しそうだな」
 「ああ‥‥‥‥」
 柔らかい声。頷いて、笑う。
 「うん。喜ぶ顔見るの、嬉しいからね」

 ナルがいい加減うんざりするまで吟味を尽くしたカードと花は、優しい養母に驚きと喜びで受け入れられた。
 喜ぶ顔が、嬉しい。
 喜んでくれる顔を思って贈り物を選ぶから、その時間は大切で、楽しい。

 綺麗な笑顔に、しかし笑みは返らなかった。

 「そうか?」
 まったく同じ美貌に浮かぶのは、対照的な硬質の光。
 「うん。わからない?」
 「分からないな」

 さらりと返されて、ジーンは苦笑する。
 「‥‥‥それじゃプレゼントの意味、ないね」
 ため息混じりの兄の慨嘆に、弟はその漆黒の視線を分厚い本に向けたまま秀麗な口元にかすかな微苦笑をかすませた。

  
 「いつか分かるといいね」
 いつか、分かればいいと思う。
 喜ぶ顔を見ることのうれしさを。
 喜んでくれる幸せを。

  そして、何よりも、大切な人の存在という奇跡のような歓びを。

 届くか届かないか、ごく小さくつぶやいて、ジーンは僅かに微笑んだまま目を伏せた。

  


  
 一瞬でフラッシュバックした記憶に、凄絶なまでの美貌がほんの僅かにゆがむ。
 安原はそれに気づいたのか気づかないのか、唇を開いた。
 「カードですか。所長は、渡されないんですか?」
 「‥‥‥何故です?」
 相変わらず無表情のまま動かない白皙の美貌────それでも、闇色の瞳がほんの僅か、色を増した。
 「喜ぶでしょうから」
 きっと、輝くような笑顔が返るだろう。

 その笑顔は、よろこびだろうか?
 奇跡のようなあなたの存在のように?

 経験のない感情の色を予測することはできない。
 予測ができないというあまりなじみのない状態に対する苛立ちは、精神に確実に蓄積した。





 オールセントラルヒーティングのマンションの部屋の中は、24時間快適な気温に保たれている。
 たとえ真冬の夜に帰宅しても、エントランスロビーから空調は完璧で、寒さに凍えることはありえない。
  
 羽織っていたコートをクローゼットに掛け、ナルはリビングのソファに座った。
 ガラスのセンターテーブルの上に置いたままのPCに手を伸ばそうとした瞬間───。
 軽く組んだ膝に柔らかなぬくもりを感じて、彼は漆黒の瞳を僅かに見開く。

 いつもなら何も言わずにキッチンに向かう麻衣が、ナルの足元、冷たいフローリングにぺたりと座り込んだ。
 華奢な手は彼の膝にごく軽く、けれど縋るように触れて、淡い色彩の瞳はまっすぐに、そして何か訴えるように、彼の漆黒の美貌を見上げる。

「麻衣?」
 静寂に、抑制された声が響いた。
 呼ばれた少女は、答えない。
 ただ、縋る手と、瞳の色だけが強くなる。

「麻衣?」
 もう一度呼んだ、声。
 玲瓏と響く声に苛立ちが混じる前に、綺麗に澄んだ声が返った。
「ごめんね」
 ごく、かすかな謝罪。

「何か謝る必要があるのか?」
 怜悧な瞳と声は、何の表情も表してはいない。
 それでも麻衣はゆっくりと彼の膝に頬を寄せ、それをとらえるように彼の手が伸びた。
 しなやかな指先が柔らかな栗色の髪を掬い、撫でる。
 それはまるで幼い子供にするように、優しい仕草。

「うん。だって、オフィスでの馬鹿騒ぎ、嫌でしょ?それなのに、分かってるのにやったから」
 レギュラー、イレギュラーすべてのメンバーに招集をかけた上に、甘い甘いチョコレートケーキである。
 仕事場であるオフィスで騒がれることをナルは嫌う。
 チョコレートの甘い匂いも好きではないはずで。
「だから、ごめんね」
 麻衣は謝罪を繰り返した。 
  
 秀麗な美貌に苦笑がよぎる。
 艶やかな髪を撫でていた手を滑らせて華奢な顎を捉え、軽く顔を上げさせる。
 そのまま彼女の白い額に軽いキスを一つ落とした。
「別に、気にしなくていい」
「ナル?」
「少なくとも、麻衣は楽しかったんだろう?」
 苦笑混じりの問いかけに、麻衣は軽く瞬いて────頷いた。

 楽しかったのは、事実。
 ナルの不機嫌な表情が気にならなかったわけではないけれど、久しぶりに全員が集まってのバレンタインティーパーティは本当に楽しかったのだ。
 白皙の美貌ににじむ苦笑の色が、強くなる。
 嬉しそうな、幸せそうな彼女の顔を見ているだけでよかったことは、永遠に口に出さない、真実。

「それならいい」
  
 麻衣は軽く目を瞬き、確かめるようにナルの瞳を見つめた。
 いつものように怜悧な、けれどいつもよりも深い色をした、漆黒の瞳。
 真摯な、強い視線が絡み合い────闇色の瞳に何を見つけたのか、麻衣はやわらかく微笑んだ。

「ありがと」
 澄んだ言葉の響きとともに、細い栗色の髪が空気を孕んでふわりと広がる。
 不意に立ち上がった華奢な体は、するりと寄り添うように、ナルの隣に沈んだ。
  

 空気が、変わる。
 それを変えるのは、瞳と微笑みの、色彩─────。


「ナル」
 麻衣は抑えた声で名前を呼んで、ポケットから小さな包みを取り出し、差し出した。
 漆黒の瞳を見つめる澄んだ瞳が、不安定に揺れていることにはおそらく本人は気づいていないだろう。

「麻衣?」
 再び名を呼ぶ声の、そして彼女を見つめる瞳の、深さ。

 強く、深い、瞳の色。
 見たこともないほど綺麗な闇色の、瞳。
 それは麻衣にしか見せない、彼の最も美しい表情。

 鼓動が跳ね上がるのを意識して、麻衣は一瞬だけ目を閉じた。
 よほど注意しなければ声がうわずってしまいそうで、それを意識するだけで更に鼓動が煽られる。
 麻衣は躊躇いがちにゆっくりと手をさしのべた。

 控えめの間接照明を映して不思議な色を宿した淡い色彩の瞳は、強い引力を宿す。

「バレンタインのプレゼント。受け取ってくれる?」
 問いかけに、答えは返らなかった。
 言葉の代わりのように、しなやかな指が小さな包みの包装を、解く。
 簡単な包装はすぐにほどかれ、小さな箱からは銀製のペーパーウェイトが現れた。

「それくらいの大きさなら邪魔にならないかと思ったんだけど」
 半ば言い訳めいた呟きが静寂に落ちて。
 ナルはくすりと笑って不安げな瞳の端に軽い口づけでふれる。
 麻衣は腕を回してナルの首に抱きつき、囁いた。
「ナルが好きだから」
 一瞬だけ目を見開いて、ナルは苦笑する。

 メッセージカードではなく、直接伝えられた言葉。
 わずかに震えた声の不自然な抑揚さえ、心を絡め取る。

 抱きついてくる華奢な体を抱きしめて、彼は今だけは自分のプライドを忘れることにした。

 漆黒の髪と、柔らかな栗色の髪が、少女の耳元で混ざり合う。
 聞こえるか聞こえないか、まるで聞き取られることをおそれるかのように、限界まで抑えた声。
 それでも耳元で囁いた言葉は確実に彼女に伝わった。

 喜ぶだろうと分かっていて、用意しなかったカードに託すべき言葉を、直接に贈る。

 目を見開いた麻衣のこめかみに、そして額に柔らかな口づけを降らせる。
 かすめる吐息、触れる唇の柔らかさと、熱。
 柔らかなぬくもりと、微笑みに、そして澄んだ瞳に捕らわれる。


 捕らわれた甘い檻は、恋人たちを守護し祝福する聖ヴァレンティヌスのせいにして、感情の波に身を任せた。





 なんなんでしょう、これ(滝汗)そのうちこっそり書き直してたら笑って許してやってください(爆)
14日夜、ちょっとだけ改稿しました。(乾笑)‥‥‥‥‥やっぱり私に甘い話は無理なのか‥‥‥‥‥(自滅)
2001.2.14 HP初掲載
 
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