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気配。 眠らず起きていた麻衣は、ふ、と振り返った。明かりは消しているから、部屋の中は青白い月の光で満たされている。 間を置かず、軽いノックの音がして、音もなく扉が開いた。 麻衣は小さく笑んで、密やかに、ささやくように言葉を唇にのせる。 「返事くらい待つべきじゃない?」 「寝ていると思ったからな」 抑制された声が、淡い闇をわたる。 時刻は、すでに午前一時を回っている。 いつもなら────少なくとも、ナルの知っている麻衣なら、もう眠っているはずの時間だった。 「寝てる女性の部屋に無断ではいるのが英国紳士の礼儀?ルエラが聞いたらなんて言うかな」 くすくす笑いながらベッドから滑り降りた麻衣は、ナルの後ろで開いていた扉を閉めて、ベッドに戻った。端に腰掛けて、隣をぽんぽんと叩く。 「座って」 促されるまま、漆黒の青年がベッドに腰掛けると、月の光に透ける瞳がまっすぐに白皙に向けられる。 「顔だけみて帰ろうとか思ってた?」 「眠れていないのか?」 問いに、問いを返されて、麻衣は苦笑して首を傾げた。 「眠れないわけじゃないけど」 「あの馬鹿のせいか」 皮肉めいた言葉は、わずかに苦味を帯びて、揶揄で済ますことに失敗している。それに苦笑して、麻衣は首を振った。 「違うよ。だいたい、ナルがこっちに戻ってから一度も会ってないし」 言葉を、切る。 「……………そうじゃ、なくて」 声の、透明度が、硬度が、高くなる。 それは質の良い水晶のように。 耳に、響く。 「今日は、待ってたんだよ」 「何を?」 「ナル以外に誰かいたっけ?」 「こんな時間までお前が起きて、わざわざ待っていた理由は?」 「あのさ。来るっていったの、だれだっけ?」 笑みを含んで軽くしようとした口調は、真摯な瞳の色で相殺される。 午後のこの部屋に、夜に、という言葉を残していったのは、ナル。 眠くないわけがなかったけれど、眠れるはずなどなかった。 「それに、だから、来たんでしょ?」 連日の遅い帰宅────深夜に至る発表準備で、いくら自他ともに認める研究馬鹿とはいえ、それが気乗りのしない研究発表では疲労は倍増する。疲れている上に時間もないナルが、貴重な時間を割いて麻衣の部屋を訪れたのは、自ら落としていった約束があったからに他ならない。 月明かりに透ける、瞳。 陽光よりも透明で繊細な光は、視線を細く強く張りつめて────ただ、色の違う瞳だけを絡ませていく。 「そう、だな」 低く、限界まで抑制された声が、張りつめた空気を震わせる。 少女の瞳から、花瓶の置かれた小さなテーブルに漆黒の視線が滑って、そこに置かれた瓶に止まった。 麻衣はその視線を追って、小さく笑って立ち上がると、赤い液体が揺れる小瓶を持ってナルの前に立つ。 「グラス、貰ってくれば良かったね」 「要らないだろう?」 どこか婉然と、妍麗な美貌に薄い笑みをのせて、彼は腕をのばした。ごく簡単に、彼女の手から瓶を取り上げてふたを開けると、そのまま華奢な手に押し付ける。 反射的に瓶を受け取った麻衣は、月の光に透かして血のように赤い液体を、口に含んだ。瓶をナルの手に戻して、そのままの動作で彼の肩に両手をつく。 さらり、と、柔らかな髪が頬にこぼれ落ちる。 琥珀色の瞳は一瞬強く漆黒を捕らえて、そして、まぶたを閉じた。 ぬれたくちびるが、ナルのまぶたに順に触れて、そして、探るように唇が軽く触れて────。 一瞬の間をおいて、深く重なる。 少女の体温を移して芳香を増した液体が、ゆっくりと、重なった唇を伝っていく。 ワインを飲ませる口移しのくちづけが、色合いを変えていく。 ナルが、すべてのワインを飲み干すのと同時に、キスの主導権が逆転した。 華奢な手が、肩を滑り落ちて、支えきれなくなった身体はナルの腕に受け止められる。いつの間に蓋を閉めたのか、瓶はベッドに転がして、身体を反転させてナルは麻衣をベッドに下ろした。白いリネンに栗色の髪が散って、少女の身体がマットレスに青い影をつくる。二人分の体重を受け止めても、年代物の堅牢なベッドはわずかにきしんだだけで音も立てない。 深いキスが解けて、麻衣はそっと目を開けた。 見慣れた───けれど馴れない漆黒の瞳の、どこまでも深い彩。 「ナル?」 ささやくような呼びかけはかすれた声にしかならなかったけれど、二人きりの部屋では十分に大きく響いて、麻衣はびくりと身体を震わせた。 一瞬息を止めたナルは、その気配すら気取らせずに、表情も変えないまま身体を離す。 このまま、彼女の温もりに、自分の感情の流れに捕われれば、軌道修正など不可能になることは分かっていたから、これ以上は危険だと脳裡で警鐘が響いていた。それでもこのまま立ち去る事はできずに、何もかも圧し殺して怜悧な無表情のまま、転がした瓶をまた手に取った。 「ナル?」 麻衣の呼びかけに、返事はかえらない。 漆黒の青年は沈黙を保ったまま瓶のふたを開け、ワインを一口含んで蓋を閉めると、覆いかぶさるようにして麻衣の唇に唇を重ねる。 今度はナルから麻衣へ、聖別されたワインが、キスで伝わる。 月の光に透ける白い喉が動いて、彼女がワインを飲みこむと、ナルはゆっくりと唇を離した。 すべらかな彼女の喉元をつめたい指先で辿って、赤い液体で濡れた唇をなぞり、指先についたワインを舐めとるともう一度唇を重ねる。今度は軽く重ねただけで離れたナルの腕を、麻衣が捕まえた。 圧し殺された、ほとんど泣き出しそうな切ない色が、隠しきれずに琥珀色の瞳の奥に見える。 「ナル」 「……………」 「もう戻るの?」 「そう」 立ち上がろうとした気配を、察したのだろう。勘が鋭いのも考えものだと思いながら、ナルは麻衣の腕を解こうとして彼女の指に触れた。 「別に戻らなくてもいいでしょ」 「……………」 極限まで感情を抑制した囁きに、視線がまっすぐに絡まった。 数瞬、言葉を失ったナルは、息を詰めて、それから大きく息をつく。 「よくない」 「どうして」 ほんの少し強くなった語調を宥めるように、ナルは麻衣の唇を冷えた指先で辿って、まぶたに軽いキスを落とす。 「わからないか?」 「わかったら聞いてない」 聞かなくても分かる事は聞かない。心を試すような問いかけは絶対にしない。 それだけは麻衣の不文律であり誇りでもあったから。 ほとんど挑むような視線を受け止めて、ナルは言葉を口に乗せた。 「…………捕まりたいなら」 「は?」 「麻衣が捕まりたいなら、戻らないが」 このまま、ここにいれば、捕らえると言外に含ませて、美貌の青年はまっすぐに琥珀色の瞳を見下ろす。 思わず息をのんだ麻衣は、言葉に詰まって漆黒の瞳を見上げた。 彼の言葉の意味は、問わなくても明白だ。 「どうする?」 「………………」 皮肉を含む余裕すらなく問われて、まだ言葉が出てこない麻衣をしばらく見下ろして、ナルはちいさく息を吐き出して立ち上がった。 反射的に起き上がった麻衣は、それでもそれ以上手を伸ばせない。 「部屋に戻る」 感情を微塵も覗かせない、怜悧な声が響く。 冴えた月の光の中で、白皙はいつもより無機質に浮かび上がって、隙を見せない。 「……………うん。おやすみ、ナル」 ほかに言葉が見つからずに、ただそれだけを答えた麻衣を残して、部屋の扉は音も立てずに閉まって、二人を隔てた。 瓶に半分残った赤いワインが、月の光に透けて白いリネンに深紅のゆらめきを映す。 きつく握りしめていた手を開いて、見つめて、麻衣はどうする事もできずに、ただきつく膝を抱えた。 冴えた月は中天にあって。 触れられそうに近く見えるのに、どうしても手は届かない。 秋の美しい夜に。 眠れない夢が重なる。 |
えらい難産でした(滅)こんなの書くの久々ですねー(爆)うわー。ナルが別人。←自分で言うな。 ほとんどのSSで熟年夫婦状態のうちの二人がこんな状態はきわめて!信じられないほどに珍しいです(遠い目)でもほわいと。白。よし、ちゃんとシロ。(爆破) whiteの意味は「white」のほうで書いた通りなので、そのまま直訳可能ですが、「white night」は「眠れない夜」という意味もあります。←…………。 夜話をリクエストしてくださった多数の皆様、ありがとうございました。大変お待たせ致しました!(汗)
2004年10月26日 HP初掲載
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