Vol,2 Update 2002.3.23

Good Lookings
Rare Pic.
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Click on Pictures for larger view クリス・スペディング
Chris Spedding

60年代から現在も活動を続けているギタリスト、クリス・スペディングです。

この写真はすでに「ブライアン・フェリー&フレンズ」のとき発表していますが、「ハンサム編」のトップを飾るには彼をおいていないでしょう。

クリスは60年代の終わりころ、ジャズ・ロックのスゴ腕ギタリストとして本邦でも紹介され、70年代前半はかのミュージック・ライフでも、エリック・クラプトンやジミー・ペイジに次ぐアイドル・ギタリストに仕立てようという動きがあり、表紙やカラーグラビアに何度か取り上げられたこともありました。

そのころは長髪にサングラスで、知的で憂いのあるお兄さんで、ジェフ・ベックあたりと比べると数段はカッコよかったものです。
ただそのうち、彼のいたバンド「バタード・オーナメンツ」やら「ニュークリアス」自体が自然消滅気味になり(日本でのアイドル化作戦もほぼ失敗)、クリスは「フリー」のベーシストだったアンディ・フレイザーと「シャークス」というバンドを結成します。でもそのシャークスもあまり長続きせず、今度はソロになり、その後は何をやっているんだろう?と思っていたら、ブライアン・フェリーのツアーメンバーとして日本に来るというので、一時は彼に密かにトキめいていた私などは充分騒いだのでした。

これは、その77年6月にフェリーさんと初来日したとき、コンサートに先駆けて行われたパーティーで私が撮ったもの。彼はほぼ完璧にハンサムで凛々しくて、尚かつクールで、非の打ちどころがありませんでした。但しあまりにカッコよすぎて、女の子のファンが全く近寄れなかった、イエ、それなりにアタックはあったらしいけど、彼は全然相手にしなかったというのが真相らしい。私でも、写真を一緒に・・・なんてコワクて到底言えなかったのです。コンサートでも、一人異質でニヒルに決まっており、フェリーさんご本人よりよっぽど拍手が多かったくらいでした。

彼に興味のある方は、日本人のファンの方が運営してるオフィシャル・サイトをご覧下さい。最近の渋くなった彼も、なかなか味がありますよね。

http://www.chrisspedding.com/



  
デヴィッド・ギルモア
David Gilmour
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この写真を見て、現在の彼を思い浮かべられる人は、よっぽどのマニアか奇特な人でしょう。そう言い切ってしまっても、本人も絶対怒らないくらい昔と変わってしまった一人であるデヴィッド・ギルモアは、ピンク・フロイドの長年のギタリストです。

彼の多くの写真も、すでにピンク・フロイド特集で公開してますが、これはアウトテイクで、72年3月来日の記者会見のときのものです。前年71年8月の箱根アフロディーテ・コンサートから、まだ半年足らずの2度目の来訪でした。
アルバム『おせっかい』からと、まだ未発表だった『狂気』を全曲演奏してくれ、観客の度肝を抜いてくれました。会場の東京体育館は、まだ古い建物で暖房も効かず、見ていた私たちはひたすら寒くて震え上がっていたものです。

デヴィッドは、このときは少し太りかけていましたが、まだ充分若くルックスも良く、時々ハッとするほどイロっぽい表情も見え隠れしてました。
この写真など、昔はモデルをやっていた・・・というのも充分納得できます。
ただ、けっこう長い滞在中、服装にあまりにもかまわなくて(普段着のままステージに上がるし)、終いにはファンからさえアキレられてしまいました。
ガールフレンドなのか奥さんなのか不明ながら、一緒に来ていた女性と最後にやっとツーショットで歩いていましたが、その彼女がやけにカワイらしく、かつケバいモデル風だったので、「彼らしくない」とファンはよけいなおせっかいもしたものです。
他のメンバーも全員奥さん連れで、ロジャー・ウォータースの奥さんはファンに1番人気でした。見たい方は、特集の方をどうぞ。

このデヴィッド加入前のオリジナル・メンバー、シド・バレットも伝説的な超美形でしたが、「クレイジー・ダイアモンド」と呼ばれ、アルバムのテーマにもされた75年ころにはすでに見る影もなく面変わりしていたとのこと。デヴィッドの、のちの変わりぶりも、やはりバンド内のロジャー・ウォータースの呪いでもあったのでしょうか?



  
Click on Pictures for larger view !! グレッグ・ジェフリア
Greg Giuffria

グレッグ・ジェフリアは、前回紹介したパンキー・メドウスと共に「エンジェル」の看板スターで、パンキーと女の子の人気を二分していたキーボーディストでした。

このショットは、エンジェルののち、彼自身が結成したバンド「ジェフリア」で、85年に来日しコンサートをやったときのオフに撮りました。雨の中どこかにでかけるらしく、ホテルのエントランスでタクシーを待っているとき、ファンに囲まれてのにわか撮影会となってしまったのです。80年代の写真ですが、元々は70年代からの人なので、とくにこの特集からはずれてることもないと判断しました。

彼の、エンジェル時代からかなり(と言うより100%)キース・エマーソンを意識したプレイと、そのキーボードセットの仰々しさはまさに70年代そのもの。エンジェルは、グレッグのキーボードのおかげもあり、プログレの香りも高いクラシカルなハードロック・バンドでしたが、80年代になってグレッグがメインになって作ったその名も「ジェフリア」は、より一層キーボードを前面に出したメロディック・ハードロック・バンドでした。
他のメンバーは、いかにもLAメタル風なルックスでしたが(ちょっとオシャレ、ちょっとダサイ)、グレッグは一人凛とした王子さまで、やさしい表情をたたえ、この通り素晴らしい金髪をなびかせ、まさに少女漫画から抜け出たようなルックスでした。
一緒にガールフレンドも来てましたがデレデレすることもなく、すっきりさわやかな態度がよけい好感を誘ったものです。

私と一緒にいた何人かのファンはボーッとしてしまい、彼を取り巻くだけで何も話しかけもしないので、仕方なく私だけがいくつか彼に質問をしましたが、でもどうってことない、ごく当り前の返事しか返ってきませんでした(質問の内容も忘れた)。それで思ったのですが、彼は美しすぎて、なんとなくミュージシャンと言うより俳優かモデルのようで、私にとっては人間性にまで興味が湧く、というタイプではなかったようです。
見てる分には最高の美形で、フォトジェニックであるのは間違いありませんでしたが・・・。
これって贅沢な言い分でしょうね。



 
グレン・ティプトン
Glen Tipton
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グレン・ティプトンは、”メタル・ゴッド”ジューダス・プリーストのツインギタリストの一人です。

これは、初来日78年の7月に私が撮ったもの。
そのころ私が携わっていたロック雑誌の取材があり、そのインタビュー中のショットです。インタビューの前日がコンサートの初日で、それを見に行った私は、インタビューでもステージと同じ衣装に身を固めた彼らにストイックなものを大いに感じ、ほとほと感心した覚えがあります。

ボーカルのロブ・ハルフォードは、全身レザーとチェーンだらけになる前で、短めでしたがまだ髪もあり、そんなにおっかなくありませんでした。むしろ優しげで、それまでのイメージが狂ってしまったくらいでした。
グレンのこのコスチュームは赤のレーシングスーツで、彼の赤いギター(たしかギブソンのSG。黒のストラトも弾いてた)とよくマッチしてるな、と思ったものです。

ヘヴィメタルの権化のように言われるジューダスですが、ご覧の通りグレンはバンド内で最も物静かで、かつ知的な雰囲気の人。
髪もさほど長くなく、こんな衣装を脱ぎ普段着でいれば、なんら普通人と変わらないごく一般的なイギリス人であったようです。

80年代のある雑誌に、彼がグリーンに出てゴルフをやっている写真が載っていましたっけ。メタルゴッドがゴルフねぇ・・・。
でもグレンのその姿には、とりたてて違和感はありませんでした。つまり、とてもゴルフが似合ってました。
いかにもヘヴィメタルといった派手な仰々しさはありませんが、押さえ気味の情熱と揺るぎない冷静さとの、バランスのとれた精神を持つ彼がいるからこそ、ジューダス・プリーストは長続きしているんでしょう・・・。



 
Click on Pictures for larger view !! K.K. ダウニング
K.K.Downing

K.K.はグレンと同じ、ジューダス・プリーストのもう一人のギタリストです。
黒髪のグレンと対照的に、金髪で青い目のK.K.は、男臭さが売り物のはずのメタル・ジューダスの王子さまとして、かくれK.K.マニアの女の子たちの熱い眼差しを集めたものでした。

グレンも端整で充分イイ男でしたが、派手さから言えばK.K.はステージでも断然目立っていました。
UFOのマイケル・シェンカーほど有名ではありませんでしたが、彼もフライングVを愛用していて、ライヴでは充分絵になっていました。
グレンと並んでヘッドバンギングしながらのギタープレイはあまりにもカッコよく、ライヴは見てなくても、写真では誰でも知っているはずですね。

K.K.のコスチュームは、ブラックレザーの上下。赤のグレンとの対比も見事でした。
ちなみに、このときのロブの衣装は上下白で、肩から憲章みたいなものを下げており、某国のちょっと危ない皇太子の戴冠式みたいな格好でしたね。色合いだけは、赤と黒と白でステージのライトによく映えてました。

初来日のころはとりたててジューダスのファンでなかった私ですが、その後何回となく彼らを見に行っているうちに、80年代中ごろには充分メタルマニアになってました。
彼らの格好も、いよいよすさまじい全身メタルファッションになっていったのです。
のち、お笑いのネタにさえされたあのファッションの元祖は、まぎれもなく彼らジューダス・プリーストです。

私は1度、武道館だったか代々木体育館の最前列で見たのですが、終ってからほとんどデフ状態(何にも聞こえない)となり、つれとドナり合いながら会場を出たものでした。まわりも、皆ドナり合って会話してましたよ。ホント、ジューダスの音はデカかった!



 
ジョン・ウェットン
John Wetton
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ジョン・ウェットンと聞いて、キング・クリムゾンと答える人、エイジアと答える人、どちらも正解です。また「関取!」と答えた人も正解としましょう・・・。

今や最も昔の面影を残さない人となってしまいましたが、彼は70年代は間違いなく正真正銘のハンサム男でした。この写真は、79年の6月、UKの来日のときホテルのエントランスで撮ったものです。
そばには、エディ・ジョブスンもテリー・ボジオもいて、私はテリーとは会話しましたが、エディのことは全然興味なくて、しゃべるどころかしっかり無視してしまいました(今となってはもったいなかった!?)。

ジョンは、77年にブライアン・フェリーのツアーでサポートメンバーとして初来日し、そのときは少々ふっくらとしていたのですが、2年後のこの79年に来たときは、たしかに引き締まり、おまけにハンサムに戻っておりました。どうやら、リーダーとしてUKを引っ張っていくには、いろいろ気苦労もあったのでは・・・。
でも、フェリーツアーのときよりは数段機嫌もよく、いつもニコヤカだったようです。

私は、ジョンとは初来日以来ロンドンでも数回バッタリ出会って、すでに顔見知りになっていたので、大ファンだという友人に彼を紹介したりと、この時も何度か会いに行きました。
友人が問うと、クリムゾンのことはよくしゃべっていましたよ。私はユーライア・ヒープでのことを聞きたかったのですが、友人が、ヒープに入ったことは思いがけなかった、と言うと、ジョン本人も、ボクもそう思うよ、と言ってましたね。
ヒープではあまりいい思い出はなかったようです。

このUKのあと、80年代を代表するバンド、エイジアの結成となるのですが、1番人気の83年の12月の来日直前に脱退し(代わりに悪夢のグレッグ・レイクが来た!)、また90年ごろ出戻ったりといろいろありました。
その後も、何度もソロで日本に来てますが、来るたびに体型が、ああ・・・。
私は96年のスティーヴ・ハケットと来たとき以来見てません。
そのときも1度会いましたが、握手した手がすでに「いも虫」状態でした!



  
ジョン・ロード
Jon Lord

つい先日、ディープ・パープルから脱退表明したジョン・ロードは、パープルのオリジナル・メンバーとしてあまりにも有名です。

この写真は、ディープ・パープルの初来日の72年の8月、もう帰国というとき羽田飛行場のロビーで撮りました。
これは、前にも公開した「ディープ・パープル特集」のアウトテイクです。ちょっとピントが甘いのですが、表情がとても良くて、私のお気に入りです。多分パープルでの1番ハンサムは彼でした。ジョン元々は俳優志望で、演劇の勉強もしてたそうです。72年の来日公演は、「Live in Japan」の2枚組アルバムになり、彼らを世界的なライヴバンドへと導いたことは、70年代のロックファンなら誰でもご存知でしょう。

初めて会ったときから、ジョンは充分大人で、いつ出会ってもやさしくてファンをとても大事にしてくれました。ほんの小さなプレゼントをあげたら、ホントにボクにくれるの?とひっくり返らんばかりに驚いて喜ぶのです。外国のファンは、どうやらミュージシャンにプレゼントなど全くあげないらしい・・・。
それに味を占め、リッチーにも接近するため、彼の奥さんにまずプレゼントをあげたら、コワかった彼女の態度がコロッと変わり、それ以来リハーサルには誘ってくれるわ、コンサートにも招待してくれるわ・・・と、娘のようにカワイがってもらいました。リッチーはどう思っていたか、よくわからないままでしたが・・・。

ジョンは、その後も73年、75年にパープルとして来日。
76年に1度ディープ・パープルは解散しましたが、その後80年から3回ホワイトスネイクのメンバーとして再来日。84年に再結成したパープルになってからも、もう何度となく来日してます。オフで来たのも含めると、14回くらい日本に来てるんですよ。私も何回会ったことやら・・・。

去年の来日では、オーケストラと競演して、彼の作曲の「バンドとオーケストラのためのコンチェルト」を披露しました。
93年ころから髪は真っ白ですが、最近はなかなかカッコいいジイさん、イヤイヤ、ステキなバンマスぶりを発揮してたものです。

今はショーン・コネリーに雰囲気がそっくりだと思うのですが、本人曰く、「あっちの方がハンサムだよ。でも髪はボクの方が多いね」・・・・・なるほど。
パープルは脱退しても、音楽活動はぜひ続けていって欲しいものです。



 
キース・エマーソン
Keith Emerson
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プログレといえば、その名をはずすことの出来ないエマーソン・レイク&パーマーは、未だにマニアの人気を集めているそうです。そのELPのキース・エマーソンとなると、キーボード・プレーヤーの神様的存在・・・と言っても、もう90年代のバンドマンには通用しないようですね。

でも、キースがロックのキーボードの存在を変えてしまったことには、誰も異存はないでしょう。彼がムーグシンセサイザーを初めてロックに導入したと言ってもいいかもしれない。それくらい、それまで電子音楽としてしか知られていなかったシンセサイザーに真っ向から挑戦し(まさに挑戦というのがピッタリ)、ギターを排除したバンドのリード楽器として使うなんて、発明者のムーグ氏だって考えもしなかったのでは・・・?

キースが、ELPの初期に使っていたシンセは、当時セットで2000万円もしたそうです。まさか、それが20万円も切り、小学生でも使えるような日がくるなんてねぇ・・・。

この写真は、ELPの来日、72年の7月、記者会見のときのものです。すでに公開したキースの特集のアウトテイクです。
ELPで来日したときのキースは、文句ナシにハンサムで、ため息が出るほどカッコいいオトコでした。

私も追っかけの最前線にいて、東京の後楽園はもちろん、大阪は甲子園までELPを見に行きました。
そのあと東京に戻って来たキースにまた会いに行き、彼の日本での最後の晩、ラッキーにもキースと一緒にいた山本寛斎さんの好意で、浅草までファン4人同行させてもらったのです。
浅草での彼は、当時3歳だった息子へのおみやげを探して、その辺のお店をのぞいたり、急に何か飲もう、と言い出して、喫茶店ではなく純日本風の「大衆食堂」に入ったり・・・。
そこでは一人で日本酒を飲んで終始ニコニコしてました。意外と庶民的なんだね、とファン一同よけい彼を見直したものです。ホントに気さくな人で、全然気取っておらず、有名になったことをひけらかすようなことも一切ありませんでした。

ELPとしては、もう70年代には来日せず、のち80年代にはキーボードメーカーのモニターとして何度か来日してたそうですが、久々に観客の前で演奏したのは、90年の9月「ザ・ベスト」という有名ミュージシャンの寄せ集めバンドで来日したときでした。
演奏する彼を見て、また追っかけの血が騒いだ私は、コンサート後キースに会いに行ってしまいました。18年ぶりのちょっと照れくさい再会で、お互い大笑いとなりました。

その後、またELPが再結成されて何度か来日してますが、さすがの彼もだいぶオジさん度が進んでしまったかな・・・。でも、まだとても元気ですよ。



 
Click on Pictures for larger view !! ロバート・プラント
Robert Plant

もう説明は不要ですね、レッド・ツェッペリンのお獅子・・・、あ〜イヤイヤ、ボーカリストのロバート・プラントです。

この写真はすでに公開済みですが(そう簡単にアウトテイクは公開しません!)、最近このときの写真のネガが見つかり、ダメで元々とプリントしてみたところ、なんと昔よりキレイな写真に焼きあがりました。コダックさんはエライ! それを改めてスキャンしましたので、前に公開したときよりはズッと鮮明なはずです。目が青いのまで分かりますね。ン〜、このころは本当にハンサム!

これを撮ったのは、72年に2度目来日の、もう帰国するという日の羽田です。
前の日に京都で最終公演があり、でも東京のディスコで彼らのお別れパーティーがあるというので、最終の新幹線に乗って東京に急遽戻ってきた彼らでした。
その新幹線に乗るために、なんとアンコールを端折ったという不届き者でもありました。
どうやらそのパーティーは朝方まで続いたようで、彼らはほとんど寝てない状態で、帰りの飛行機に乗るため羽田に現われたのです。
だから当然ZEPのメンバーたちの機嫌はサイテーの状態で、とくにロバートは見るからにコワそうでした。
私たちだって、彼らと共に京都から同じ新幹線で立ったまま東京へ戻ったので、もうバテバテのヘロヘロでしたが、律儀にも羽田へ見送りに行ったのです。
ロバートは、まだ洗った髪が乾いてもいない状態で、一番機嫌が悪そうでしたが、それにもめげずにそばに行くと「おはよう!」と言ってくれ、プレゼント(手に持ってる)をあげると、ちょっと表情が優しくなったので、そこを写真に撮らせてもらいました。私とのツーショットは、やけに密着してるんだな・・・。

その後、ツェッペリンとしては、ついに3度目の来日はありませんでしたが、どうやらロバートは77年にオフで来日したそうです。時期としては、息子のカラックをなくしたあとだと思いますが・・・。彼の性格が、だんだん辛らつ度を増して来たのは、そんなころからでしょう。
親友のボンゾもその後亡くなったのですから、しばらくZEPには一切触れたくなかった彼の気持ちはわかるような気もします。

ごく最近の彼は、ジミーとともに全くの別人か、というくらいルックスが変わってしまいました。もし来日があるとしても、なるべく遠目で見るようにしましょう!



 
ロス・スタッグ
Ross Stagg
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最後を飾るのは、まさに貴公子の見本のようなロス・スタッグです。
彼のことを覚えている人はエライと誉めてあげます。

ロスは70年代後半に、イギリスから出てきてちょっと話題になった「ストラップス」(Strapps)というバンドのボーカルでした。
おわかりのように、少々SMがかったアブナいバンド名で、初期のころはロスも体になにやらグルグルとひも(ストラップ)を巻いている写真があったりして・・・。
でも、音の方はいたってストレートな、ちょっと硬派気味のハードロックでした。
メンバーには、のちイアン・ギラン・バンドに加入するミック・アンダーウッド(ドラム)とか、音楽とは全然関係ないけど、少女漫画の「エロイカより愛をこめて」の少佐のモデルとなったというノエル・スコット(キーボード)とかがいまして、ミック以外はけっこう美形ぞろいのバンドでした。

このころは、似たような扱いのバンドにスターズ、あとレックスなんてのもおりました。どれもボーカリストが「売り」だったっけ・・・。

バンドとしては来ませんでしたが、ロスは77年の秋にプロモーションのため、1人で来日しました。
私は音楽業界のある先生のお供で彼の取材に行き、そこでカメラマンとして写真を撮ったのです(福田一郎先生ではありません)。

記者会見のときから、なんてイイ男なんだぁ・・・、と見とれてしまいましたが、そばで見ると一段とハンサムでカッコよく、もう仕事で行ったのがクヤシイくらいでした。
スラリとして足は長く、スタイルも抜群。女の子なら、まず10人中9人はメロメロになってしまうような甘いマスクで、これぞレディキラーという感じでしたね。
取材した先生は男性だったので、インタビュー中はロスも少しは遠慮してたようですが、帰る間際、私の着てたジャケットをしきりと引っ張り、「これいいね。どこで買ったの?」
あぁぁ〜、これってナンパの常套句じゃん! 私はなんでこんなセンセイと来たのよ!もったいな〜い、と地団太を踏んだのでした。先生の目もコワかったし、そのころは私も業界人でしたので、あとで会いに行くなんてしてないしてない、マジにホントです!

でも残念ながら、その後ストラップスの来日もなく、ロスもいつの間にか名前も聞かなくなってしまいました。
彼こそ、その後どうしたか知ってる方いたら、どうぞ教えて!




 夏川 翠 2002.3.23

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