与板刃物 Yokota blade 長岡市
<起源>与板の刃物製作の歴史は古く、上杉謙信の重臣与板城主直江実綱が春日山より刀剣師を招き刀剣を作らせ、、ついで上杉景勝の家老与板城主直江兼続が出雲・播磨方面より鉄材を運び刃物や鉄砲などを製造させたといわれている。<拡大期>江戸時代には、与板藩主の井伊氏が産業に意を注ぎ、大工道具「のみ」の製造に力を入れ、与板刃物の素地がつくられた。与板地域は舟運の要所として栄えるとともに、与板の打刃物は「土肥のみ」「兵部のみ」として全国にその名を知られ、明治から、徒弟制度による伝統的な技法を受け継ぎながら、全国に優れた大工道具を供給し続けた。。 大正時代にかけて製造業者は56戸と増加し燃料は木炭よりコークスに、鍛接には硼酸を使用し、蒸気ハンマーなどの機械化がすすみ量産されるようになった。 昭和初期には龍眠斎兼行らが刀剣製造のかたわら「かんな」の製作をはじめ、会津で新技術を学び大工道具を製造する者もおり、次第に専業化してゆき、1911年(明治44)に「与板金物共励組合」が発足した。 科学技術の進歩とともに生産方式も改良を重ね、エヤハンマーをはじめ重油炉やガス炉が使用されるようになった。 <最盛期>第2次世界大戦後、復興のために大工道具の需要が増え、与板には300軒もの鍛冶業者を数えるまでになり、最盛期をを迎えた。与板打刃物の最大の特徴は、切れ味である。日本独自の鍛接といわれる技法で鋼と地鉄が接着された素材は、比較的低温でじっくりとたたき、鍛えられ、独特の粘りが与えられる。ここに与板打刃物独自の「粘りがあって切れる」という切れ味が生まれた。 また、鋼と地鉄が合わされた打刃物は、地金の粘りが研ぎに適し、その切れ味を、より鋭く、そして何度でも研いで使うことができる刃物にしている。 「かんな」「のみ」は全国製品の45%をしめ、兵庫県の三木市とともに全国の代表的な生産地であり、「まさかり」は全国生産の90%、「ちょうな」は100%と全国のほとんどを占め、学習用・家庭用道具セットも盛んに作られた。 <現況>日本の伝統建築を守る与板打刃物と自負がある一方で、日本の地場産業の継承が問題となっている。伝統工芸士の資格を持つ職人が4人となってしまったうえに最も若い職人も60歳代となり、技術継承の危機に瀕している。☯昭和61年(1986)に通商産業大臣による「伝統的工芸品」に指定された。 ☯平成23年(2011)3月、打刃物職人ら6人の有志が、ブランド「越後与板打刃物匠会」を立ち上げた。 ☯2017年6月24日、鍛冶の体験工房オープン 🔶越後与板打刃物組合
🔶与板鍛冶体験工房 「越後与板打刃物匠会」「越後与板打刃物組合」の2団体を中心に、 職人仕様の工房「鍛冶場」で、現役の鍛冶職人(与板鍛冶衆)による指導のもと、鍛接・鍛造の基本工程を学びながら、オリジナルの「切り出し」を作ります。
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