🔗越後山古志 牛の角突き 山古志の各集落では、昔から小正月に「さいの神」を行っていました。昭和63年(1988)、旧山古志村種苧原の雪原を舞台に行われたのが始まりです。このイベント最大の見所は日本一の巨大なさいの神です。村民がひとり一束を刈った「かや」を持ち寄るをことで、高さ25m級の日本一の「さいの神」を作って、小さな村でも力を合わせれば日本一になれることを目標にして「古志の火まつり」を始めました。 闘牛太鼓の鳴り響く中、点火されると、凄まじい炎が天を焦がして、まつりの興奮は最高潮に達します。真っ白な雪原に舞い昇る50mにも届く火柱と、それを彩る雪中花火は幻想的な世界を映し出します。 その他、日本で唯一の「雪中闘牛大会」の開催や、臨時アルパカ牧場、特産品テント村、ステージショーなど多彩なイベントや、雪と親しむアトラクションが盛りだくさんです
![]() ![]() 【国指定重要無形民俗文化財 越後山古志 牛の角突き】牛の角を合わせて押し合い、力競べをする競技で、全国では島根県(隠岐の島)、愛媛県(宇和島)、岩手県(久慈市山形町)、沖縄県(うるま市)と本県で行われている。本県では古志郡山間部の二十村郷(現長岡市山古志・小千谷)で、村祭りの奉納事業としてなされてきた。明治初年には竹沢・塩谷・虫亀・荷頃・小栗山・木沢・濁沢・池谷・小松倉・中野の10ヵ村の鎮守の境内で行われていた。 山古志の「牛の角突き」の歴史は古く、千年前とも言われ、祭事から起ったものであろうといわれている。江戸時代滝沢馬琴が、塩沢宿の鈴木牧之から山古志の角突きを聞き「南総里見八犬伝」に書いていることはよく知られている。足腰が強く、寒さや粗食に耐える牛は、昔から運搬や農耕に貴重な働き手であった。飼い主との密接な関係の中で「牛の角突き」は山古志の人々の娯楽として根付いていった。 戦前にはこの地方で100頭以上の角突き専門の牛がおり、春から秋まで月3回ほど鎮守や広場で角突きが行われていた。
当日は近郷からたくさんの牛の飼い主が牛を引き連れて集まる。牛には紅白の色どりの美しい面綱や鼻綱、引き綱がかけられている。
大勢の村人が重詰めを携えて見物にやってくる。取り組みが決まると、飼い主は股引きにシャツ、鉢巻姿の牛取りの青年に神酒を飲ませ、牛を引き渡す。牛取りは2頭の牛を引いて芝の中を一巡し、中央で向かい合わせ、ついで面綱、引綱を取り払い、呼吸をはかってから鼻綱を抜いて空高くほうりあげ、掛け声勇ましく突き合わす。戦いが続き、牛が疲労をみせると引き分ける。飼い主が大樽の鏡を抜いて若衆とねぎらう。 戦後は過疎現象やニシキゴイブームで角突き牛は2頭まで減少し1966年(昭和41)を最後に姿を消したが、山古志村観光協会が発足したのをきっかけに、角突きで村起こしをしようという気運が高まり、12頭の闘牛が導入された。 そして翌1973年(昭和48)角突きは再び復活、住人の熱意により闘牛場の整備も進み、飼育頭数も増えた。1978年(昭和53)5月22日、古くから行なわれている習俗がよく保たれ伝承されているとして国の重要無形民俗文化財に指定された。 2004年(平成16)の新潟県中越地震前によって甚大な被害を被った。避難していた人々が戻り、2008年(平成20)伝統の牛の角突きが地元で再開された。震災前に約70頭だった牛は、一時期30頭以下にまで落ち込んだが、現在は51頭に回復。約50人だったオーナーは30人程度に減っている。 また、闘牛場内への立ち入りは長らく女人禁制であったが、2018年(平成30)5月に取組後の牛の「引き回し」のため立ち入りが認められた。 海外や国内数か所にそれぞれ独自の闘牛文化が残っているが、山古志の「牛の角突き」は牛が傷つかないように引き分けにするのが特徴。
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古志の火まつりまで
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