🔗乳母嶽明神 🔗応化の橋 🔗佐渡に残る安寿と厨子王の伝承
≪佐渡に残る安寿と厨子王の伝承≫
佐渡島各地に、森鴎外の『山椒大夫』の物語とは違う言い伝えがそれぞれに残されていて、多少異なっている。
奥州54郡の太守、岩城判官正氏は罪を得て筑紫の国へ流された。その子厨子王丸と安寿姫は母と共に父を慕って筑紫の国へ行く途中、越後国直江津で山岡太夫という人買いに騙され、母と子は別々に売られて船に乗せられた。
母は佐渡二郎の手に渡って、佐渡島の鹿ノ浦につれてこられ、虐待の果て盲人になってしまった。そして「〽安寿恋しや ほうやらほ 厨子王恋しや ほうやらほ」と唄いながら粟の番をし、鳥追いをしていた。
安寿姫と厨子王丸は母と別れ丹後国の由良港の強欲な山椒太夫に売り渡されて、泣きながら酷使に耐えていたという。 父正氏が死んだ後、無実の罪であったとわかり、厨子王丸は父の後を継いで奥州54郡の太守となった。そして安寿姫と共に母を迎えるため佐渡ヶ島へ渡った。佐渡島は広いので二人は手分けして母の行方を尋ねることとした。
安寿姫は厨子王丸と別れ下男一人を連れて、鹿ノ浦にいる母を探し当てた。
しかし盲目の母はいつも村の悪童どもが来て、厨子王丸や安寿姫などと名乗って悪ふざけをし騙されていたので、本当の安寿が来ても嘘だといって聞かない。ついに杖で打って打って打ち殺してしまった。あとで本当のことを下男から聞き、母は狂わんばかりに泣き悲しんだ。そして下男と共に安寿の亡骸を葬った。
母親は安寿を弔った後、下男に頼んで二郎の元を逃げ出し、追手を逃れ、隠れながら相川の方へ向かったという。
佐渡二郎の家は、以降安寿姫のたたりで栄えなかったし、鹿ノ浦にも人が住まなくなってしまったという。
厨子王丸は、母の居場所を知って相川の町から北へ向かった。そして二人は途中で巡り会い再会を果たしたのである。その時二人は「達者で会えて良かった」と言葉を交わしたので、この地は『達者』と呼ばれるようになったという。また出あった場所は「行きあい坂」と呼ばれている。
そして、この地に湧き出す清水で目をあらったら、母の目が見えるようになったという。現在、その場所には目洗い地蔵が祀られている。
このほか佐渡には畑野にも「安寿塚」というものが残っていて、安寿姫の辞世として「みちのくに くちもはてなで すみれ咲く 畑野の露と 消えんとやする」の一首が伝承されている。
- 🔶(北片辺)安寿塚
佐渡には森鷗外の『山椒太夫』とは違う物語が伝わっており、安寿伝説が残る地がいくつかあります。母と再会しながらも安寿が息絶えた場所と伝わる外海府の鹿野浦もその一つ。
- 🔶 「安寿と厨子王」碑
「安寿恋しや ほうやれほ 厨子王恋しや ほうやれほ」と刻まれている。
≪現地案内看板≫
安寿と厨子王の碑
その昔、陸奥のくにの国守、岩城判官正氏は遠い筑紫(九州)のくにに流された 十四の安寿姫と 十二歳のあどけない厨子王丸は母とともに父を尋ねて旅に出たが 直江の浦(直江津)のみなとで人質にだまされ 母をのせた舟は佐渡の島へ 姉弟をのせた舟は遠く丹後(京都府)のくにの山椒大夫のもとへと向かった
安寿 恋しや ホーヤレホ
厨子王恋しや ホーヤレホ
佐渡で鳥追をしながら泣いてめしいになった母を尋ねて安寿姫は佐渡へ渡り 母とだきあって息がたえた のちに丹後の国守に出世した厨子王丸は佐渡へ渡り この地で母をさがしだし 母子ともども都へとかえった
- 🔶(畑野)安寿塚
畑野は、母と姉弟が再会を果たし京へ帰る途中、安寿が息を引き取ったとされる地。愛用の櫛などの遺品を埋めた跡に建てられたと伝わるのがこの塚です。
≪現地案内看板≫
安寿塚
安寿姫は弟の厨子王と共に丹後国で山椒大夫に酷使されていたが、厨子王を京へ逃がした後、附近の池に入水したと言われているが発見されてその後も凡ゆる迫害に耐えている中、厨子王が丹後守となった時救い出され、風説をたよりに母を探すため、姉弟して佐渡へ渡った。手分けして方々探す中、安寿姫と姥竹の子の宮城の小八(後の胎空法印)の一団が、海府の鹿之浦で母を探し出し茲に安寿姫、厨子王は母との再会を果たし親子喜びながら帰途についた。しかし安寿姫は長い間の苦労から衰弱甚だしく畑野で息を引き取ったと言われている。
その 辞世の歌に
『陸奥に住みもはてなで菫咲く 畑野の里に果てなんとする』
その時一行に親切を盡した村人の願いを容れて安寿姫の櫛と笄を残して行ったので、その火葬場所に村人により塚が作られ塚の中には之等の遺品が埋め尽くされていると伝えられている。
この塚に生える木は安寿姫の霊がこもって真直に育たず二股に分かれている。古くよりこの塚は、豊作祈願・縁結び・眼病平癒の霊験ありとして尊崇を受けたと言ふことが佐渡の古文書にも見えています。
安寿奉讃会 佐渡市観光協会
- 🔶目洗い地蔵
佐渡に売られた母親の宇和竹は佐渡二郎の酷使に耐えかねて逃げ出し、途中苦労を重ねるうちにとうとう目が見えなくなってしまった。宇和竹が隠れた場所は四十二曲がりの難所で「戸中隠れ坂」と呼ばれている。宇和竹はその後、達者にある延命地蔵に参詣し、毎日その清水で目を洗ったところ、二十一日の満願の日に目が見えるようになったという。
それからこの地蔵を「目洗い地蔵」と呼ぶようになった。この清水で目を洗うと目の病が治るといわれ、大勢の参詣者が訪れ、清水で洗ったり、水筒に入れて持ち帰ったりいている。
この目洗い地蔵の坂の上に大きな石があり、これが「化粧石」で、宇和竹が目が明いた後、この石に腰を掛けて着物を繕い、化粧したといわれている。また、姿を写した「鏡池」や着物を着替えた「きや坂」など、多くの遺跡が残っている。
≪現地案内看板≫ 目洗地蔵尊の由来
今から千三十年前、村上天皇の永保元年九月丹後の国由良の庄、山椒大夫は、領主岩城判官政氏の妻、宇和竹を佐渡の雑太郎鹿ノ浦の鹿野大夫平三郎と云う塩焼き荘司に売り飛ばした。そのことを聞いた姉の安寿の姫は、弟厨子王丸とともに母を尋ねてはるばる佐渡に渡った。安寿恋しやほーられほい厨子王恋しやほーやれほい、と粟にむらがる雀の番をしていた母は、近くに流れる中の川の水を飲んだり顔を洗ったりしているうちに目がみえなくなった。その川の上流には鉛の出る鉱山があったという。
「片辺鹿ノ浦中の川の水は飲むな
毒が流れる日に三度」
とはやされていたと、それでも母は我が子恋しさに名前を呼びながら雀の番をしていた。母にめぐり逢い夜道をかけてのがれ、この地に至り延命地蔵尊に参詣し、お祈りしながら湧き出る清水で喉をうるほし目を洗ったところ我が子の姿が目に写り、親子だき合いお互い達者でいたから逢えたんだなあと云うて喜びあったと、ここで着ている物を着替えて先を急いだ。田馳高地に弘法大師の井戸があり(弘法大師が錫杖をついて水を出したと云う古井戸)その井戸で顔を映した。はっきり見える目が見えるようになったと喜んだと、それからその井戸を姿見の井戸と云うようになった。現在もその井戸は残って居ります。その後親子は小川の極楽寺へ寄って泊めてもらったらしく・・・以後この部落を達者と云う。この坂を着替坂を「キヤ坂」と云い、この地蔵尊を目洗地蔵尊とも安寿地蔵尊とも呼ぶようになったと云う。
昭和五十四年八月十五日 檀信徒
寄贈者 浜辺輝
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