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安寿と厨子王 上越市



🔗乳母嶽明神 🔗応化の橋 🔗佐渡に残る安寿と厨子王の伝承

安寿と厨子王の故郷福島県には森鴎外の「山椒太夫」の基となる「安寿と厨子王」に関する逸話が伝えられている。新潟県上越市や佐渡市に、またそのほか全国各地に所縁の伝承が残る。以下は福島県内に伝わる伝承である。
岩城判官平政氏は平将門の子孫で、康保4年(967)に賊将が朝廷に背いたときに、それを討伐した恩賞として奥州の津軽郡、岩城郡、信夫郡を賜って岩城の住吉城に着任した。政氏には2人の子があり、姉は家臣村岡重額の妻となり、弟の政道は父の後を継ぎ二代目の判官となった。この政道が、安寿と厨子王の父という。
岩城判官は、一代、二代と平和に暮らしていたが、ある時政道は、小山田での桜狩りの帰りに義兄である家臣村岡重額に殺されてしまう。安寿と厨子王の不幸はこの時から始まる。政道が暗殺されてから、重額が勢いを持ち、やがて安寿と厨子王は母と乳母、下臣らと住吉城を追われて長い旅路に出ることになった。
まず、たどり着いたのが、岩代国の信夫庄であった。ここは安寿らの母の故郷で、今の福島市にあたる。そして長和6年(1017)、朝廷からの勅令を得て岩城判官家の再興を計るために、京都を目指しまずは越後の国へと向かった。

森鴎外の小説「山椒太夫」はここから始まっている。
信夫庄を旅立ち20日あまりの苦しい旅路の末、ようやく直江津の応化の橋までたどり着いた。
その夜宿が見つからず、橋の下で夜を明かすこととなった。そこに人買いの山岡太夫が通りかかり、4人を親切ごかしに自分の家に泊めた。朝になって「陸路は親不知子不知の難所があるので、海路にした方がよい」と勧めた。山岡太夫に騙されて4人は2艘の舟に別々に乗せられる。
母を乗せた佐渡二郎の舟は佐渡へ、子供と乳母を乗せた宮崎三郎の舟は丹後へと反対の方へと向かった。騙されたと知った母は声を限りに子供たちを呼んだが、舟はだんだんと離れとうとう見えなくなってしまった。
丹後へ向かう舟で騙されたと知った乳母は舟べりに立ち、「おのれにっくきやつ、七生まで祟ってくれる」と叫ぶと海に飛び込んで命を絶った。そこは郷津沖の二子岩(夫婦岩)近くであったといわれる。

やがて舟は丹後に着き、安寿姫は山椒大夫によって遊女に売られ、厨子王丸は召使として酷使された。安寿は海で潮を汲み、厨子王は山で柴を刈り、奴隷として苦しい毎日を過ごしたとされている。

寛仁4年(1020)、安寿は厨子王を諭して山椒太夫の屋敷を脱出させ、自らは入水自殺を遂げる。厨子王は追っ手を逃れ、橋立の延命寺に逃げ込み、親智和尚の計らいで京都に入り、閑院右大臣.藤原公季に数われ文武両道に励んだ。
治安3年(1023)に平政隆と命名された厨子王は、3,000余人の兵を引き連れて奥州を目指し、塩谷城(いわき市東田町)において村岡重頼を征伐し、長年の宿願を果たしました。京都に帰つた政隆は、朝廷より丹後の国守に任命され、奴隷を解放し、人身の売買を禁するなど善政に励んだ。一方政隆は、母を探して佐渡に渡り、盲目の母との再会を果たしている。

その後の政隆は、家督を嫡男の民部大輔政保に譲って岩城に帰り、総本家にあたる相馬家繁栄の地に御所を設け、その地で余生を送ったとされている。




安寿と厨子王の供養塔の現地案内看板

由来
今から約九百二十年前、陸奥岩城の国信夫郡の国守岩城判官正氏は悪人の讒言により筑紫(九州)に流されました。
左遷されていた時、妻と召使いの姥竹は安寿姫(十四才)と厨子王丸(十二才)の二子を連れて岩城(福島)からはるばると父を尋ねて行く途中、この直江の津の應化の橋の袂で山椒太夫にだまされて母親と姥竹は佐渡の二郎に、安寿姫と厨子王丸は越中の人買、宮津の三郎に売られました。
知らずにいた四人も港を出ると北と西とに漕ぎ別れていく舟にそれと気付き、子を呼ぶ母、母を呼ぶ子、その悲鳴のうちに身を投げた姥竹を土地の人々が厚く弔ってここに塔を建てました。
その後、安寿姫は悲しみの余り沼に身を投げ死んでしまいました。
そこで姥竹の塔の脇に又、小さな塔を建てて弔いました。
厨子王丸が関白師寛に用いられ丹後の国守となって佐渡にいた母を迎えてこの津を上った時、土地の人々は温情に感泣し二人の塔に供養したと言われ、それから人々の手向ける香華が今も絶えないのであります。

上越市

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(乳母嶽明神)

安寿と厨子王の乳母が海に飛び込んで命を絶ってから、丹後から直江津へ来る舟は、郷津の二子岩(夫婦岩)まで来ると必ず天候が急に荒れ難破したという。丁度日本海の海流が複雑に絡み合う場所であり、どんな天気の良い時でも、海は荒れたという。
人々は舟から海へ飛び込んで死んだ乳母の亡霊が、丹後の舟に取り付いて恨みを晴らすのだろうと噂した。そこで村人たちは乳母の霊を慰めるため、三輪山の上に祠を建て供養した。すると二子岩の遭難がなくなり、再び平和な海に戻ったという。
直江津にある乳母嶽明神は、この乳母を祀ったもので、乳不足の人が願をかければ乳が出るといわれ、現在でも参詣者で賑わっている。


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《応化の橋》

応化の橋は、現在は存在しないが、五智国分寺裏から続く大ノ手道が関川と交差する付近にあったものと想像される。応化の橋が広く知られるようになったのは、森鴎外が「山椒太夫」という小説を書いて紹介してから広く知られるようになった。
「直江の浦(津)」は現在の上越市直江津である。「直江の浦」は朝廷が越後を支配するためにおいた政庁「国衙」の管理する「国府津」として栄え、京都から多くの文人や高僧が訪ねてきて府中に文化の花が開いた。湊のあった関川に架けられた「応化橋」付近も商人や旅人で賑わっていた。
筑紫に流された岩城判官正氏の妻と乳母の姥竹は、安寿姫と厨子王丸を連れ、岩城からはるばる父を尋ねて行く途中、応化橋に辿り着き、橋の下で夜を明かそうとした。
そこに通りがかった人買いの山岡太夫の甘言に乗って、温かい食事を出してもらい、屋敷に泊めてもらった。
翌朝「親不知子不知があるから陸路ではなく、海路で京へ上るとよい」と小舟に乗せられる。
しかしそれは罠であり、母と姥竹を乗せた舟は佐渡へ、安寿と厨子王を乗せた船は丹後へ、それぞれ人買いに売られ離ればなれになる。・・・・
上杉謙信は府中の応化の橋に通行税を課したが、僧侶・無職人・盲人・乞食らは橋銭を免じた。御館の乱の戦火で燃え落ちたが、景勝がこれを修復している。
その後、松平忠輝が入封し高田へ移城した際、この応化の橋は廃された。以後1872年(明治5)まで渡し舟によって、近隣の農耕または火急の用のみに許され、旅人は高田城下へと回らねばならなかった。
現在の直江津橋には、高欄に安寿と厨子王の物語のレリーフがはめ込まれており、当時の応化の橋を思い起こさせる。
この歴史ある直江津橋は、新潟県では萬代橋とともに「日本百名橋」に選定されている。

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