黒鳥兵衛 Kurotori Hyoe 新潟市



前九年の役(1054~1062)で陸奥守源頼義・義家親子に討伐された奥州の阿倍貞任の一族や遺臣たちは各地に散った。
越後にも、安倍氏の一族や、遺臣たちが逃げてきて、各地に隠れ住んだという話しが伝わっている。その中でも有名なのが黒鳥兵衛(乙兵衛ともいう)詮任であった。
黒鳥は、応徳元年(1084)?横越軍治、鳥屋野悪五郎、笹川越平、真島一郎政任、弟亀田光任等をはじめ、数百人の部下を引き連れて越後に乱入し、加治の佐藤一族を滅して財宝を奪い、五十公野(現新発田市)に城※地図を構えた。

黒鳥は身の丈八尺(2.4m)、怪力の上に、鳥海山の天狗から得た魔術を使って真夏に雪を降らせたり、急に大風を吹かせたりしたという。
一味は民家を荒らして食料を盗み、婦女を連れ去り山野にこもり、時には里に出て神社・仏閣を打ち毀して乱暴の限りを尽くした。
黒鳥は菅沢城(護摩堂城)主羽生田周防守を降し、弥彦の庄司桜井宗方を攻めた。敗れた周防守は庄司桜井宗方とともに、出雲崎城主山本次郎左衛門のもとに落ち延びた。
三将は合議の上、朝廷に黒鳥討伐を願い出ると、朝廷は北畠中納言時定卿を大将として大軍を送り戦ったが、三日三晩、激しい戦いの後、中納言時定は弥彦の黒瀧城で戦死した。
北畠卿は、亡くなる前、当時罪をえて佐渡に流されていた名将源(後の加茂と名乗る)次郎義綱を迎え黒鳥を撃つよう言い残した。
この頼みに応えて、源義綱は佐渡から越後に渡り、寺泊に陣を構え、黒鳥を討つ機会をまった。時は永長元年(1096)のことである。この間、護摩堂城に向かう途中の周防守が黒鳥の家来鳥屋野悪五郎・横越軍治に襲われ討たれるという事件があったりした。
寺泊の義綱軍に5万人近い軍兵が集まり、船で新潟に入り、蒲原浦(現新潟市沼垂付近)に陣を張った。その後義綱は周防守の後を継いだ護摩堂城主古井川左近の先導で、信濃川を遡り、青海川(加茂川)との合流地点加茂に移動した。
源義綱は加茂を本拠として、納所(現新潟市秋葉区能代川付近)の真島次郎の城を攻め、これを落とした。五十公野城にいた黒鳥は、この知らせを受けると、直ちに出陣、激しい合戦を展開した。黒鳥は妖術を使って大風を起こし、八寒地獄のような寒さにしたため、源義綱はほうほうの呈で加茂へ退却した。
勝利した黒鳥が、五十公野城に引き上げると、留守中に間瀬入道の謀略で居城が焼き払われていたため、亀田三郎の鰺潟城(現在の新潟市南区味方あるいは西区的場にあったといわれる)に移った。
加茂の源義綱は、長治2年(1105)、間瀬入道、三条左ヱ門、五十嵐小文治らの諸将を従えて出陣、鰺潟城を攻撃した、しかし信濃川と湿地に囲まれ泥沼の中の城は、難攻不落、歩くことも困難な場所であった。
そのため義綱は兵糧攻めに切りかえた。黒鳥は、ここでも妖術を使って雪を降らせたりして応戦した。
源義綱は、何度となく攻めかかり合戦が行われたが、決着がつかず攻めあぐねていた。しかし、ある日、一つがいの鶴が木の枝を足に掴んで沼の上を歩くのを見た源義綱は、「これこそ神のご加護」と、かんじきを作り、兵に履かせて一気に攻め込んだ。また鯵潟城内から内通するものが出て、城は放火により炎上した。

長治2年(1105) 6月?、ついに黒鳥軍は崩壊し、黒鳥兵衛は、残った数人の家来を引き連れて撃って出た。
これを見た義綱は、加茂・弥彦の神に念じつつ矢を放つと、黒鳥の脇腹から胸板へ貫通した。しかし黒鳥もまた最後の力を振り絞って放った矢は、義綱の脇腹に当たった。黒鳥は「わが最後を見よ」と刀を抜き、自分の首を切り落とした。するとその首は天高く飛び上がり、黒鳥(現在新潟市西区)の地に落下した。その後、黒鳥の首は緒立の土中深く埋められ、その地に霊を鎮めるため八幡宮が建てられた。
地元では、秋の季節の変わり目に、八幡宮の森から雷鳴に似た音が聞こえてくるという。これは、黒鳥の首が別々に埋められた胴を求めて鳴る「胴鳴き」だと言い伝えられている。

一方、義綱も黒鳥の矢を受けたため、加茂の西光院で伏ていたが、ついに天仁元年(1108)8月に亡くなった。行年63歳であった。

黒鳥兵衛の話は史実を交えた伝説で、年代や戦いの場所、登場人物など、いろいろな説がある。黒鳥兵衛を征伐したのは源義綱ではなく、その兄の八幡太郎義家が後三年の役の後、帰途の途中越後で乱暴を働く黒鳥一味を征伐したという話や、源義綱が黒鳥を征伐したのは鯵潟ではなく新発田市の赤沼谷地であるという話が伝わる。

(源義綱と加茂市の伝承)

加茂次郎義綱は源頼義の二男として長久3年(1042)?に生まれ、兄に源義家、弟には源義光(酒呑童子の成敗で知られている)がいた。京都の加茂神社で元服した事から加茂次郎などと称した。
前九年合戦に従軍し大功を挙げ右衛門尉に列し陸奥守となり寛治7年(1093)に出羽守平師妙・師季の乱を鎮めた事から従四位下に列し美濃守とる。源氏では、兄義家にも勝る権勢を誇った。源氏ではよくあることだが、義綱と義家とは兄弟間で険悪の仲であったといわれている。
天仁2年(1109)、嫡流である義家の後継者と目された4男義忠が殺害されるという事件が発生したが、首謀者が不明のまま犯人探しが行われた。義家は白河法皇の後ろ盾を得て、義綱が首謀者であると追及した。義綱は無実を主張し甲賀山に籠って戦ったが、各所で敗退し、行動を共にした6人の子供たちも潔白を主張し次々自害し果てた。
義綱は逃亡の末源為義に捕縛され、佐渡島に島流しとなった。嫌疑を晴らす事が出来ないまま、長承元年(1132)佐渡島内で、自害に追い込まれたとされている。

加茂市内には加茂義綱にかかわる伝承が残され、その墓が存在している。
黒鳥兵衛の悪事に苦しむ住民たちは、相談の上佐渡へ行き、義綱に黒鳥退治を依頼した。承知した義綱は直ちに越後に渡り激戦の末、遂に黒鳥を討ち取った。

しかし、義綱も数多くの矢を自ら受けた為、その傷が元になり加茂の地に没したと伝えられている。
西光寺で死亡して、小貫山の麓の丘の狭口に葬られたとされている。小貫集落には現在共同墓地があり、その中に義綱のものとされる墓がある。
また西光寺は承徳元年(1097)に義綱によって菩提寺として開かれたとされ、天仁元年(1108)に義綱が死去すると亡骸が葬られたと伝えられており、寺院内に五輪塔の廟所がある。


🔶〔黒谷兵衛にゆかりの地〕
🔶〔源義家にまつわるゆかりの地〕
  • 🔹鎧潟
    八幡太郎義家が黒川兵衛を征伐し泥の ついた鎧をこの潟で洗ったことからこの名がついたという。今では干拓が行われ、潟のあった面影はない。
    〔所在地〕新潟市西蒲区鎧潟
  • 🔹切畑の乳銀杏
    源義家が黒鳥兵衛を攻めたとき、急に暴風雨が吹き荒れ、軍旗がちぎれて飛んで、切畑の大銀杏の梢に引っかかり翻ったという。戦では義家が観音の加護によって黒鳥を討ち破った。切畑の地名はこの故事の「切旗」から出たという。
    〔所在地〕五泉市切畑字前田18
  • 🔹飯塚
    八幡太郎義家が「後三年の役」の帰途、黒鳥兵衛を征伐し、内藤清兵衛方に休息した。清兵衛一家はご飯とお汁を差し上げた。光栄に思った清兵衛はそのお椀を埋め、塚を築いて記念にしたという。これが「飯塚」の地名の起こりという。
    〔所在地〕長岡市飯塚

🔶〔新発田市内の黒鳥兵衛ゆかりの地〕
  • 🔹鬼塚
    宮内八幡宮境内に鬼塚と呼ばれる直径四間位の塚があるが、源義綱によって赤沼谷地で征伐された黒鳥兵衛の首を祭ってあると伝えられる。
    〔所在地〕新発田市西宮内763 八幡宮

🔶〔羽生田周防守吉豊ゆかりの地〕
  • 🔹周防杉
    護摩堂城主羽生田周防守が黒鳥兵衛との合戦に敗れ周防守は討たれてしまう。妻は夫の首を奪い返してこの地に逃れ、その首を村人が羽黒神社境内の八幡社に納めたという。
    〔所在地〕五泉市長橋乙800 羽黒神社内

🔶〔源義綱の墓所〕

🔶〔周辺の観光施設〕

🔶〔新潟県内で伝承されるその他の人物〕

























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