恵信尼 上越市



 恵信尼(1184-1260)の出自には諸説あるが、は京都の貴族「三善為教(為則)」の娘という説や、越後の豪族、現在の上越市板倉区にあった三善という豪族という説がある。

  親鸞は承元元年(1207)2月、専修念仏停止により越後国府に遠流となった。親鸞が越後に流されてまもなく、親鸞35歳、恵信尼26,7歳の時結ばれたという説がある。恵信尼には越後に所領があり、流罪地、越後での生活はそれほど経済的に困窮することはなかったかとも考えられる。
親鸞にとってこの時期は法然の教えを総点検し、師亡き後の親鸞独自の考えを深める、沈潜の時代といえよう。

親鸞が越後に流されて5年後、その罪を許すという知らせが届くが、親鸞は都へ戻ろうとせず、それから3年間、越後の各地を念仏を広めるために歩きまわる。

  建保2年(1214)、親鸞42歳、恵信尼33歳で、一家は関東に移住する。この移住の理由もまた諸説あるが、おそらく親鸞の流罪勅免後、翌年に法然が没し、京都に戻る理由がなくなったこと、関東に法然の根本の弟子がいたこと、なかでも鎌倉時代に入り関東が新たな布教場所として注目されたことなどが上げられる。


  門人は農民や下級武士、漁民や猟師等で、その多くは20代前後の血気盛んな若者が中心であったと考えられる。説法には恵信尼も加わり、よく親鸞の教えを体得したものと思われる。
  関東での20年余に及ぶ生活は「稲田草庵」「小島草庵」「大山草庵」など転々と所を移し、その中で子を産み育て、また門人に接した恵信尼にとっては、苦労の多いものであった。しかし、そうした中で親鸞の布教活動で、門人が増えて行くことは、恵信尼にとっての喜びであったろう。


  嘉禎元年(1235)親鸞60歳の頃、親鸞一家は京都に戻る。その後、恵信尼はすえ娘を残し京都の親鸞の元を離れ、越後の板倉に生活の場を移す。板倉周辺には恵信尼の子である小黒女房、信蓮房、益方入道らが住んでいたことから、板倉への転居は主に生活面での経済的理由が考えられる。

恵信尼は87歳まで生きたが、その最後の地は「といたのまき」だといわれる。

恵信尼が京都にいる娘の覚信尼へ書き送った消息10通が、大正10年(1921)、鷲尾享受によって京都西本願寺の宝庫から発見され、うち文久4年(1267)7月9日のものに「といのたまきより」と住所が記されてあった。
「といのたまき」については、恵信尼廟所北東の町内長塚飛田とするのが通説である。
 
上越市板倉区米増には、恵信尼廟所があり、恵信尼の墓といわれる五輪の塔がまつられている。


ゑしんの里記念館
〔所在地〕新潟県上越市板倉区米増27番地4
〔アクセス〕
〔特徴〕ゑしんミュージアム、観光情報コーナー、特産品販売コーナー、多目的ホール、和室、食堂などがあり、恵信尼に関する資料展示や、地域のコミュニケーションの場、上越市の観光拠点
〔HP〕http://www.eshin.org/index.shtm


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