越後に流された親鸞 Shinran who was ousted to Echigo 上越市


🔗越後の七不思議

親鸞は承安3年(1173)、日野有範の子として京都で生まれた。日野家は藤原家の 流れを汲む下級貴族であった。有範の朝廷での地位は皇太后宮大進で、恵まれた家庭で はなかった。4歳の安元2年(1176)に父を、8歳の治承4年(1180)に母を 失ったといわれている。
養和元年(1181)、9歳の春、青蓮院の慈円の門に入って得度し、比叡山延暦寺に 登った。以後、建仁元年(1201)、29歳で山を下るまでの20年間、常行三昧堂 で不断念仏を行った。
当時の社会は、平安時代の終わりにあたり、自然の災害や、平氏と源氏の戦いが続き、この世の終わりが近づいたと人々の目に映っていました。

建仁元年、京都の六角堂にこもり、百日の願をかけ、そして、この95日目に彼は夢を 見ます。彼の夢記にはこう書かれています。
六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白柄の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信(親鸞の当時の名前)に告命して言はく。行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。
この夢が後の親鸞の性に関する思想のベースになったとされます。
彼はこの年、法然の門をたたいた。親鸞29歳。法然により念仏によってのみ人間は救われることを 教わった。元久元年(1204)、法然は延暦寺の宗徒と対立し「七箇条起請分」を延 暦寺に送った。この中に親鸞の名前「綽空(しゃくくう)も見える。
承元元年(1207)1月24日、念仏禁止令が出され、法然が土佐に流された。親鸞 も流罪で最も重い遠流になり、越後国の国府に流された。ときに35歳であった。

親鸞は3月16日に京都を出発し、越中国と越後国の国境を経て、市振を通り、親不知に差し掛かった。
この日は非常に海が荒れ、波が高く無理に行こうとすれば、命が危険なほどの状態で、親鸞は思わず立ち竦んでしまった。このとき、どこからか一人の年老いた立竦という漁師が親鸞に近づき、声をかけて背中を差し出した。親鸞は非常に喜んで背中に乗ると漁師はたちまち安全なところまで届け、煙のように姿を消したという。
親鸞はそれから外波村の庄司大文字屋右近の軒下に立ち、丁寧に一夜の宿を頼むと、家の中から、「お断りします。」という声が聞こえた。親鸞は野宿と覚悟を決め、そこにあった石を枕にして寝たが、日本海の波風は冷たくなかなか寝付かれなかったという。
その頃家の中では夫婦が、夕方浜辺で旅僧を背負って親不知を渡った不思議な漁師の話をしていて、ふと見ると、妻が日頃信仰している弘法大師作といわれる如来様の腰から下が濡れており、足に砂がついていて、仏像が後ろ向きになっていた。これを見た二人は、「旅僧を背負って難所を渡ったのは、この如来様に違いない。」とさっそく表へ出て、坊さんに詫び、中へ招き入れ接待ししたという。そしてすっかり親鸞に帰依し、髪を剃って仏門に入り、門弟となり宗雲と名乗り、如来様を本尊として草庵を建てた。その子孫宗誓の時に大雲寺となったと伝えられている。真宗大谷派大雲寺には、親不知と親鸞にまつわる宝物がある。如来様は「立竦如来」といわれ、その後参詣する善男善女で賑わったという。
また、今も旧外波村西口に「親鸞草枕碑」が建っている。
親鸞は親不知子不知を越え、能生の木浦から舟に乗って、国府居多ヶ浜(上越市五智6丁目)に上陸した。現在親鸞上人上陸の地の記念碑が建てられている。
居多神社(五智6丁目1番11号) に参拝し、
--- すゑ遠く方を守らせ居多の神
弥陀と衆生のあらん限りは ---

と詠み、神前に祈願したところ、一夜にして居多神社境内の蘆(あし)が片葉になった という。今日も居多神社境内に「片葉の蘆」が群生している。居多神社には、親鸞自筆 の「日の丸の御名号」も所蔵されている。

越後での親鸞は、追放された流人として、国府の代官荻原敏景に預けられ、現在の五智国分寺にあたるところに小さな庵竹ノ内草庵を建てて住んだ。一年後に、そこから南の竹ヶ前草庵(現在の小丸山草庵にあたる)に移った。
親鸞は、念仏の教えをひろめることも禁じられ、僧の身分さへ許されず、「藤井善信(よしざね)」という俗名を名乗り、「僧に非ず俗に非ず」という生活を送る。
赦免まで5年、その後の2年間の越後で過ごした。そのうち遅くても承元4年には恵信尼と結婚し 、信蓮房が生まれる。
建暦元年(1211)に流罪は赦免になりますが、法然がまもなく亡くなったこともあり、建保2年(1214)、親鸞上人は京都には戻らず、常陸国(茨城県)へと旅立ち、、常陸の 国の稲田を本拠地にして、関東方面で布教につとめる一方、教行信証・唯信鈔文意・愚 禿鈔などの多くの著作を書き浄土真宗を開く。弘長2年(1262)、京都で90歳で 没する。



❏〔親鸞ゆかりの史跡〕

❏〔関連観光施設〕

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☆ 越後七不思議 ☆

親鸞の伝説にかかわる次の七つが特に有名。越後国は親鸞の流刑地であり、浄土真宗が 盛んであったため、動植物の珍種を親鸞の起こした奇瑞として伝えたものである。
逆さ竹(さかさダケ) 新潟市 西方寺、天然記念物
親鸞が竹杖を地面に刺して教えを説いたところ、不思議にも芽を出した。しかも枝が地 面に向かって生えているという。
焼鮒(やきフナ) 新潟市山田
親鸞聖人が、祓免を受けて見送りの信徒と共にこの場所で宴を催した。信徒が焼いた鮒を献じたところ、聖人が、この焼鮒を山王神社境内の池に放したら鮒は生きかえって泳ぎ出したという。
八房の梅(やつふさのウメ) 阿賀野市 梅護寺
親鸞が梅干の種を庭に植えて教えを説いたところ、芽が出て一つの花に八つの実がなっ たという。
数珠掛桜(じゅずかけザクラ) 同上、天然記念物
親鸞が桜の枝に数珠を掛けて教えを説いたところ、毎年、数珠のように花がつながって 咲くようになった。
三度栗(さんどグリ) 阿賀野市 孝順寺
一年に三度花が咲き、実がなるというクリ。親鸞が植えた焼栗から育ったと伝える。
繋ぎ榧(つなぎガヤ) 南蒲原郡田上町 了玄寺、天然記念物
糸を通したような穴のある実のなるカヤの木。親鸞が護摩堂城主の招きで説法を行った際、茶菓子として一粒づつ糸でつないだ焼ガヤの実が出された。親鸞がこの実を取り上げ、『わが教え釈迦諸仏の教えにかなわば、この実ただちに実を生ぜん』と庭先に投げた。するとそれが一晩のうちに芽を出し、伸び育って枝を茂らせ、実を結んだ。 このカヤの実を農民が年貢の変わりに糸につないで城 主に献上したという。
片葉の芦(かたはのアシ) 上越市 居多神社
葉が片側一方向にだけ伸びるアシ。親鸞が神社に参詣し念じたところ、池に生えるアシ が一夜にして「片葉」になったと伝える。

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