斎藤実寿邸(孝順寺) Jitsuju Saito's residence (Kojunji) 阿賀野市



≪斉藤家≫

斉藤家の高祖三郎右衛門は、1643年(寛永20)、父に従って米沢から来て、安田に居住した。安田藩主堀氏の近侍として信任を得、寛永年間(1624~1644)に安田組大庄屋となった。
三郎右衛門の長男初代太右衛門は父に先だって没した。
2代弥惣兵衛はおよそ2町余の土地を持ったほか、商業に進出している。
7代弥惣兵衛のとき酒造勝手造りの許可を得て、発展の基礎を作り、土地集積も69町余りに達した。
8代弥惣兵衛の時、1863年(安政4)138町歩、慶応3年(1867)179町余の土地所有高まで発展する。
8代弥惣兵衛は新発田藩との関係も深く、軍費の上納によって、名字帯刀を許された。戊辰の役では官軍に兵糧米数百俵を献じ官軍に協力し、新政府から重用され用掛、戸長を勤めた。
9代弥惣兵衛は、明治20年代にかけて土地集積を進め、斎藤家を千町歩地主にのし上げた。明治36年(1903)の総所有地1340町歩に達した。
9代弥惣兵衛は、高利貸的な金銭貸付業を家業の主力にしていた。他の巨大地主に比較して穀代金収入に対する貸金収入(利息)比重が高かった。結果、調停事件や訴訟事件はかなり多い。特に、長浦村新井郷争議は約20年にわたる抗争として、県下の小作争議の中でも代表的なものとされる。没落した中小の地主から、貸金の担保に取った土地を集めて、その範囲は、北蒲原郡を中心として鎧潟、三潟周辺の西蒲原郡に及び、中蒲原郡を含め蒲原三郡に及んでいる。
一方、明治に入り近代産業の成長の中で、北越鉄道、岩越鉄道、日本郵船、新潟電力の諸会社をはじめ、第四銀行、新潟銀行、日本勧業銀行などの金融機関にも出資したが、本格的に事業を経営するに至らず、寄生地主的性格は変わらなかった。
1889年(明治22)安田村が発足してからは村長を長らく努め、貴族院多額納税議員互選人資格を得た。
11代彦太郎は、昭和6年(1931)、父(10代美誠)の死後斉藤家を継ぎ、安田村長にも2期就任した。この年、斎藤家邸宅が完成を見る。昭和9年(1934)の土地所有は1226町歩であった。
千町歩地主斉藤家の解体は戦時下の自作農創設による約300町歩の開放に始まる。戦後残りの950町のうち901町は財産税の為物納され、残る若干は農地改革による買収の対象となった。斎藤家は広大な邸宅、敷地までも物納する羽目となり、他の巨大地主と比較しても、あっけなく、その没落ぶりは悲惨な末路であった。

旧斉藤邸の本宅は紫檀、黒檀、タガアサン材等を多用し、離れ別館は欅材が多用された総縁側の二階建てで昭和6年(1931)、11代彦太郎の時、10年の年月をかけ完成した。
第2次大戦後の農地解放に伴って、大規模地主から転落した斉藤家が物納した建物を、現在の孝順寺が買い取り、寺院として利用したものである。瓦葺の大屋根をのせた豪邸をそのまま本堂に使い、境内前面には、池泉回遊式の日本庭園が広がっている。
しかし、寺院として使用されるようになって、かつての豪農の邸宅であったという面影は少なからず減殺されてしまった。


≪孝順寺≫

浄土真宗大谷派の寺院。渡辺姓。山号は焼栗山。
孝順寺の創建は不詳だが承元2年(1208)、親鸞の法弟専念坊によって開かれたのが始まりといわれたり、布地の六字名号(「南無阿弥陀仏」)安置の草庵とも、また、建暦2年(1212)渡辺競(きおう)の妻女の開基ともいう。競の妻女が夫の命日に、布教でこの地を訪れていた親鸞に法要を依頼した時、その教えに感化され信者になったといわれている。旧跡は同市貝喰にあり、旧跡は古くからの真宗の起点である。
渡辺競は以仁王の綸旨に呼応して平家打倒の兵を挙げた源頼政の家来で、平家に追い詰められ平等院で自刃した。新潟県には平家の追ってを逃れ、越後に隠れ住んだという以仁王伝説が各地に残る。
もと寺号を専念寺と号し、その後村上をはじめ各地に移転、願成寺・長福寺・本乗(承)寺と改号し、現地に至って孝順寺と号したという。

延宝2年(1676)に保田は大火にあい、孝順寺は八幡宮(宮町)に移転した。
戦後の農地解放で斎藤家が物納した建物を考順寺が買収し、昭和25年(1950)に宮町から現在位置に移転した。
本堂には三度栗の標本一枝だけが展示され、宝物に「南無阿弥陀仏」の六字名号などがある。
現在境内には、三度栗の木が育っている。親鸞の植えた栗の木はとうの昔に枯れ今はないが、境内にある木は、若芽から育った栗の木であるとされている。
三度栗の話はいくつか伝えられている。一説では、親鸞聖人が分田の地を訪れた際、貧しい信徒の老婆から戴いた焼き栗をこの地に植え、仏縁を説いたところ、芽が出たと伝えられている。

🔶「安田の三度栗」の伝承
親鸞は流罪が放免になった後、布教のために北蒲原郡北東部に来ていた。
あるとき、一軒の家を訪ね一夜の宿を頼んだという。ちょうどこの家では法事をしていたので親鸞を招き入れお経をあげてもらった。この家の主人渡辺源五郎は、この僧の振る舞いから高貴な僧に違いないと思い滞在を勧めたという。親鸞も急ぐ必要もなかったので、源五郎の家を宿舎にして、毎日近くの村を布教して歩いたという。
源五郎は毎日親鸞と接しているうちにすっかり帰依し、剃髪し名を専念と改め、草庵を建てた。
親鸞の出発の日がくると、専念は焼き栗をご馳走した。当時栗は珍しく、一般の人たちが口にすることはできなかった。親鸞は専念の好意を感謝しながら食べていたが、その一つをつまんで庭の土に埋め、
「阿弥陀如来の本願が繁盛すれば、この栗は、年に三度実を付ける。」
といって立ち去ったという。この時、親鸞は「南無阿弥陀仏」の六字名を与えたという。
この予言通り焼栗は翌年の春芽を出し、やがて三度花をつけ、三度実った。専念をはじめ村の人達は、いまさらながら親鸞の偉大な法力に驚き、村をあげて真宗の信者になったという。草庵は後、専念寺となった。この栗は「安田の三度栗」といって七不思議の一つである。










斎藤実寿邸   地図 ストリートビュー




















越後豪農めぐり新装改訂

越後豪農めぐり新装改訂

  • 作者:弓納持福夫/久保安夫
  • 出版社:新潟日報メディアネット
  • 発売日: 2001年12月

歴史ある 美しい街並み

歴史ある 美しい街並み

  • 作者:TAC出版編集部
  • 出版社:TAC出版
  • 発売日: 2023年04月13日頃