現在、交通公園となっている安田城の遺構は、堀氏時代のものの一部です。本丸、二ノ丸からなり城の西南を通る街道に面して城下町が構成されていました。 中世の安田町周辺は、『白河荘』と呼ばれる荘園で摂関家の領地であった。鎌倉幕府が創設されると、関東御家人伊豆の大見氏で白河荘の地頭となった大見家秀の末裔が安田に入って安田城を築城し、土地の地名安田を名のったとされる。 源頼朝時代には有力御家人であったが、鎌倉中央で北条氏の権勢が強まる中、越後に逃避してきたともいえる。 戦国時代には、掲北の有力国人衆となり、安田長秀は禄4年(1561)の川中島の戦いにおいては上杉謙信に従って勇戦し、同じ揚北衆の色部勝長・中条藤資らと共に謙信から「血染めの感状」を賜った。 御館の乱では上杉景勝を支持し、上杉景虎を支援する蘆名氏による攻撃を受けている。 慶長3年(1598)安田氏が上杉氏に従って会津に移ると、村上藩(村上頼勝)の重心吉竹右近が在籍した。 元和4年(1618)村上氏改易により堀直竒の支配下となったが、一国一城令により同8年(1622)破却された。 寛永16年(1639)藩主直竒の次男堀直時(のち直重と改む)が3万石を分与され安田藩が創設されたが、正保元年(1644)子直吉が領地替えで村松に居を構え村松藩を立藩したため、安田藩は消滅した。 昭和48年(1973)、新潟県の指定文化財(史跡)に指定された。
≪現地案内看板≫
新潟県指定文化財(史跡)安田城跡 中世の安田町周辺は、「白河庄」と呼ばれる荘園で摂関家の領地であった。鎌倉幕府が創設されると、この地に関東御家人伊豆の大見氏が地頭職として着任し、のちに地名の安田氏を名のった。 この城は、大見安田氏の居城となり、慶長三年(一五九八)安田氏が上杉氏に従って会津に移ると、村上藩(村上頼勝)の重臣吉竹右近が在番した。 元和四年(一六一八)村上氏改易により堀直竒の支配となったが、一国一城令により同八年(一六二二)破却された。 寛永十六年(一六三九)藩主直竒の次男堀直時(のち直重と改む)が三万石を分与され安田藩が創設されたが、正保元年(一六四四)子直吉が領地替えで村松に居を構え、安田藩は終わった。 昭和四八年三月二八日指定 阿賀野市教育委員会 安田城跡 地図 ストリートビュー |