堀直竒 Naoyori Hori 長岡市



堀 直竒 (ほり なおより)天正5年(1577)〔生〕~寛永16年6月29日(西暦1639年7月29日)〔没〕

(尾張~豊臣秀吉小姓時代 1577~1598)

堀直竒は、堀家の国家老堀直政と側室の間の子として尾張で生まれる。幼名三十郎といった。直政にとって二男となる。母の妙泉院は、美しい女性であったという。
天正8年(1580)、直竒3歳のとき、母妙泉院が25歳で殺害されてしまう。
直竒は、4歳から22歳まで豊臣秀吉の小姓として聚楽第・伏見城ですごすこととなる。
天正18年(1590)直竒13歳の時、堀秀政が小田原征伐の最中に陣中で病死した。秀政の死後、子の秀治が跡継ぎにはまだ早すぎると判断した豊臣秀吉は、所領の北ノ庄を召し上げようと考え、秀治の襲封は滞った。怒った執政直政は次男の直竒を秀吉に使いに出し、書状で「左衛門(秀政)、多年の勤功あり、万一跡目たてられずんば、参りて御縁を汚さん」と訴えたため、11月6日になって、秀吉は秀治の襲封を許した。この時、書状の取次ではあるが、直政は直竒が秀吉に対して物おじしないで対応できるだけの器量を備えていると判断して任せている。また秀吉も、直竒の才能を認めて小姓として近侍させいたのではないかと思われる。
慶長3年(1598)、直竒は、堀家が越後に移る際、秀吉に願い出て、坂戸城1万石を与えられ、移り住むことになる。

妙泉院

尾張にいた頃、妙泉院は堀直政と巡り合って、側室となり、その間に出来た子が直竒であった。豊麗の美しい女性であったという。
直政の甥で、堀家に寄宿していた堀藤七が妙泉院に恋慕を抱き、書を送り続けたが、妙泉院は全く応じなかった。藤七は、らちが明かないと直談判しようと、妙泉院に迫ったが断られ逆上し刀で刺し殺したという。
天正8年(1580)4月6日、直竒3歳、妙泉院25歳の時であった。直政はすぐさま方々に追手をかけ程なく藤七を討ち取った。
元和2年(1616)、直竒が長岡藩主となったとき、長岡に正覚寺を創建し、妙泉院の墓を築いた。そして、絵をよくした東本願寺第十三世東泰院宣如上人に願って、まぶたに浮かぶ美しい母の画像を描かせている。絹本の彩色のものであり、現在も寺に伝わる。


(坂戸城主、蔵王堂城主時代 1598~1610)

慶長3年(1598)、上杉家が国替えで会津に去った後、堀秀治が春日山城に入城した。直竒の父直政は幼君である堀秀治を支え執政として越後の治政を行った。直政は豊臣秀吉からの信認も厚かった。このとき、直竒は坂戸城1万石に配された。
慶長5年(1600)の関が原合戦の前哨戦ともいえる、上杉家による遺民一揆を、駆逐した際、その第一報を直竒が徳川家康・秀忠に報告したところ、大変に喜んだという。

下倉の戦い

下倉山城(魚沼市下倉字滝沢※地図 )は春日山の堀秀治の家臣小倉政煕が城代として入城し8000石を領していた。
1600年(慶長5)関が原の合戦に先行し、徳川家康は上杉討伐の兵を挙げ会津に向かった。越後堀氏に対しても越後から会津に侵入し上杉氏を攻めるよう命じた。
会津の知将直江兼続は、これに対し堀氏の統治に不満を持つ地侍や土着の豪族を誘って各地で一揆をおこさせた。
8月1日、会津上杉氏は越後に侵入し、上杉遺民一揆を扇動する。この中でも一番熾烈を極めたのが下倉の戦いであった。
一揆勢7000人によって城は包囲され、城将小倉政熙は討って出たが、討ち死にし、城は一揆勢の手に落ちた。
堀直竒は坂戸城から援軍に駆けつけ、8月2日には城を奪還し、逃げる上杉勢を広神金ヶ沢まで追撃し300余りを討ちとっている。この働きに対して戦後に家康、秀忠父子から感状を授与されている。
中越の要衝蔵王堂城に入っていた堀秀治の弟親良が、直政との軋轢から、慶長7年(1602)隠居すると、その子鶴千代(養子で秀治二男)の後見役として直竒が政務を掌ることとなった。
慶長11年(1606)、鶴千代が早世して蔵王堂藩が廃藩になると、直竒が坂戸と蔵王堂を兼務し5万石を領有した。
直竒は、川の決壊の恐れのある蔵王堂から、南方の高地長岡への城地移転計画を進めた。

(飯山藩時代 1610~1616)

慶長15年(1610)、父直政が死亡すると長男直清との間で執政職を巡って争いとなると、これを好機として、徳川家は越後堀家を改易とする。
直竒は飯山4万石城主として家康に仕えることとなる。その後、慶長16年(1611)駿府城の火災の時には一番に駆けつけ、消火に努め財宝を救ったり、慶長19年(1614)大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務め、慶長20年(1615)夏の陣では道明寺の戦い、天王寺・岡山での最終決戦で活躍した。

(長岡藩時代 1616~1618)

元和2年(1616)、松平忠輝が改易されると直竒は蔵王堂8万石城主として復帰する。そして、元和4年(1618)村上10万石城主として転じるまでの間、長岡や新潟の発展の礎を築いた。長岡城の建設および城下の整備を進める。

新潟町のまちづくり

元和2年(1616)8月27日、直竒は、新潟をなんとか港町として繁栄させたいと、堀七郎左衛門、古高市之丞の二人を奉行として新潟に派遣し、天馬や通船について示達を出した。米など物資の流通のため、信濃川の河口である新潟までの通船の組織、「長岡船道」を創設する。当時の新潟は、海沿いに漁民の寒村の浜村と、川沿いに古く天正の頃より呉服、絹布、雑貨、紙類等の店が軒を並べる本町通りのある島村からなっていた。
元和3年(1617)7月、直竒はこの本町通り(今の古町通り)に並行する形で、かた町(今の東堀通り)、新町通り(今の本町通り)、材木町(今の大川前通り)の三条の新市街を開いた。そして漁村の住民を移住させた。
後年新町通りの新市街が大いに発展し賑わって、本町通り(今の古町)の名を奪い、元の本町通りを昔の市街という意味で古町通りと呼ぶに至ったという。
元和3(1617)11月7日、覚書を発し、これまで取り立てていた沖の口の船役など諸役を免除し、楽市・楽座の自由経済制度を導入して、商人の優遇措置をとり、港湾都市として整備を進めた。また堀沿いの道路は三間以上広く取り、河ばたでの荷揚げ荷下ろしがスムーズに行えるよう町づくりを行った。(現代の東堀通り、西堀通りの道が広いのは、この直竒の政策によるものである)
現在の新潟市の発展は直竒抜きでは考えられないといえる。


(村上藩時代 1618~1639)

元和4年(1618)、直竒は村上藩に転封となる。
直竒は、特に産物のない村上の殖産をすすめた。村上茶の栽培は直竒により導入され、町の大年寄徳光屋覚左衛門がその栽培に力を入れたのが起源となっている。また領内の金銀山の開発を積極的におこなった。
直竒はまた、日本海から吹く強風と砂嵐によって、作物に害が及ぶのを防ぐため、砂丘一帯に、松やぐみ、ハマナスを植えさせた。いまも村上瀬波温泉には、その名残の松林が防風林として伝えられている

百万石のお墨付き

元和2年(1616)4月1日、堀直竒は重病の家康から寝殿に召し出され、大坂の陣、片山・道明寺の戦いでの軍功や平時の武備を称美したうえで、藤堂高虎と井伊直孝に並ぶ武将として徳川を守るようにとの遺言を受けた。その時百万石のお墨付きを拝領したと言われる。
元和4年(1618)、2万石の加増を受け、長岡藩から村上藩10万石に転封された際、このお墨付きを示して老中に百万石を請求をしたという。老中は困り果て、百万石の「石」の字に虫食いがあるのを見つけ、百万両の見間違いであろうと佐渡金山を向う3年取らすべしと下命したという。直竒はこの金で村上城を増改築し、士分の増員を行い、江戸の上屋敷に凌雲院を建て、不忍池を作った。

元和8年(1622)、天海僧上は江戸城の鬼門の方角を守護する寺院として、また天台宗の拠点となる大寺院として、新たな寺を作りたいと考えた。秀忠の支援を受け、忍岡36万坪の土地をあてて寛永寺を創建した。当時この地には伊勢津藩主藤堂高虎、弘前藩主津軽信枚、越後村上藩主堀直竒の3大名の下屋敷があったが、それらを収公して寺地にあてたものである。
天海僧上と親しかった丹後守直竒は忍岡の所有者藤堂高虎と三者会談を行って、寛永寺創立につとめた。この時直竒は、凌雲院を寄進している。また直竒は凌雲院には、建物よりもよい僧侶を迎えるのがよいと考えて、その第一世に円覚院亮運を招いた。
直竒の死後、正保元(1645)年、亮運は家光より「学頭」に定められ、寛永寺の統括と管理を一任、座主の名代を務めることとなる。

寛永4年(1627)には、沢庵宗膨が罪に問われた際、天海や柳生宗矩と共に赦免に奔走した。沢庵は直竒の駒込の別邸に2年間世話になった。
寛永10年(1633)直竒が羽黒神社を現在の場所に遷宮したことを起源として村上大祭が開催されるようになった。

寛永16年(1639)6月29日死亡。法号の鉄団は大徳寺沢庵和尚の撰である。沢庵和尚の「鉄団、磁石無転、円同大虚、能除至角、自合如如」の書が残されている。
「すいついて転がらない 円いこと天空に同じ よく角がとれた 思うことすべてうまくいく」という意味である。
寛永寺凌雲院内にあった直竒の墓は国立美術館をつくるとき移転せられ、今は渋谷の長泉寺境内にある。
墓石は、大円石を型どっている。これは、沢庵和尚の辞をもとに、直竒が生前希望していたものといわれている。

直竒が村上に移って、三代目孫の直定か7歳で夭折し、堀家は断絶する。名家である堀家が途絶えるのを惜しまれ、直定の叔父である直時(直竒の次男)が越後村松藩3万石城主として取り立てられ、明治維新まで大名家として存続した。








堀直竒公顕彰碑 ※蔵王堂城跡

堀直竒は天正5年(1577)12月26日、美濃国某郡に生まれた。父は堀直政、母は妙泉院である。直竒は豊臣秀吉に見いだされて14歳から9年間を小姓役として仕えた。慶長3年(1598)、上杉景勝越後春日山城から会津へ移され、代わって越前から堀秀治が入国した。中越の要衝蔵王堂へは秀治の弟親良、坂戸城へは又従兄弟の堀直竒が入った。直竒は親良の隠退後、その子鶴千代が蔵王堂城主になると、その後見役となり、蔵王堂・坂戸両城の領地を支配した。慶長10年(1605)、信濃川による川欠けのために城地を長岡の地へ移す決意を固め、新城の縄張りを開始した。翌11年の鶴千代の死後も直竒は蔵王に留まったが、忠俊の頚城郡福島城築城の手伝いに忙殺され、長岡の築城は中断された。
慶長15年、直竒は秀治の後を継いだ忠俊と、兄直清のざん言によって突如国外に追放された。直竒は将軍徳川秀忠と大御所家康に直訴し、その裁定によって忠俊は改易され、直竒も坂戸城から信州飯山4万石へ移された。その後直竒は駿府で家康に仕え、大阪冬・夏の陣で大功を立て、元和2年(1616)には8万石蔵王堂城主として故地へ返り咲いた。同3年、融雪を待って懸案の長岡城築城にかかり、傍ら新潟湊村を整備し、港町に作り上げ、新潟港と長岡間には信濃川通船の組織「長岡船道」をつくり配船もした。諸法制の整備中同4年に10万石村上城主に封ぜられ、代わって長岡へは牧野忠成が入部した。
直竒は村上でも城や城下町を整備し、家康死後、秀忠・家光二代の将軍に仕え、信望が厚かった。大老土井利勝、天海大僧正、沢庵禅師らと親交を重ねる中、寛永16年(1639)6月29日、63歳で没した。
上杉氏以後の中越を治め、領民を愛し、築城と町造りに秀でた武将堀直竒公の像を蔵王堂城址に建て、その信望を永く後世に伝えたい。

平成6年(1994)7月

















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