堀直竒 長岡市



堀 直竒 (ほり なおより)天正5年(1577年)〔生〕~寛永16年6月29日(1639年7月29日)〔没〕

慶長3年(1598)、上杉家が国替えで会津に去った後、堀秀治春日山城に入城した。その際、与力大名として、村上・溝口氏が同行した。 堀直竒は、堀家の国家老堀直政と側室の間の子として尾張で生まれる。直政にとって二男となる。
4歳から22歳まで豊臣秀吉の小姓として聚楽第・伏見城ですごすが、堀家が越後に移る際、秀吉に願い出て、坂戸城1万石を与えられ、移り住むことになる。

慶長5年(1600)の関が原合戦の前哨戦ともいえる、上杉家による遺民一揆を、駆逐した際、その第一報を直竒が徳川家康・秀忠に報告したとこ、大変に喜んだという。
中越の要衝蔵王堂城に入っていた、堀秀治の弟親良が、慶長7年(1602)隠居するとその子鶴千代の後見役として直竒が政務をとることとなった。
慶長10年(1605)鶴千代が死亡し、堀親良家が廃絶すると、直竒は、代わって蔵王堂城に入城した。直竒は、川の決壊の恐れのある蔵王堂から、南方の高地長岡への城地移転計画を進めた。

慶長15年(1610)、父直政が死亡すると長男直清との間で執政職を巡って争いとなると、これを好機として、徳川家は越後堀家を改易とする。直竒は飯山四万石城主として家康に仕えることとなる。その後、駿府城の火災の時には一番に駆けつけ、消火に努め財宝を救ったり、大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務め、夏の陣では道明寺の戦い、天王寺・岡山での最終決戦で活躍した。

元和2年(1616)、松平忠輝が改易されると直竒は蔵王堂8万石城主として復帰する。そして、元和4年(1618)村上10万石城主として転じるまでの間、長岡や新潟の発展の礎を築いた。長岡城の建設および城下の整備を進める。米など物資の流通のため、信濃川の河口である新潟までの通船の組織、「長岡船道」を創設する。
また、新潟浜村は港町として栄えていたが、楽市・楽座の自由経済制度を導入して、商人の優遇措置をとり、港湾都市として、整備を進めた。現在の新潟市の発展は直竒抜きでは考えられないといえる。

1618年、直竒は村上藩に転封となるが、1633年直竒が羽黒神社を現在の場所に遷宮したことを起源として村上大祭が開催されるようになった。

1639年6月29日死亡。東京都渋谷区長泉寺に葬られた。

現在、長岡城を築く前の蔵王堂城の本丸の一部の土塁と堀が残っており、堀 直竒の銅像が土塁上に建っている。

直竒が村上に移って、三代目孫の直定か7歳で夭折し、堀家は断絶する。名家である堀家が途絶えるのを惜しまれ、直定の叔父である直時(直竒の次男)が越後村松藩3万石城主として取り立てられ、明治維新まで大名家として存続した。


墓所
〔所在地〕東京都渋谷区神宮前6丁目25−12 長泉寺

堀直竒公銅像(蔵王堂城跡)
〔所在地〕新潟県長岡市西蔵王3 安禅寺
〔アクセス〕
  • 電車…JR信越本線「長岡駅」より車で15分
  • 車…関越自動車道「長岡IC」より車で20分
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