堀直竒 Naoyori Hori 長岡市
堀 直竒 (ほり なおより)天正5年(1577)〔生〕~寛永16年6月29日(西暦1639年7月29日)〔没〕天下人に認められた武将![]() 家紋 亀甲に唐花菱 替紋(副紋) として釘抜き(くぎぬき)も使用 越後では坂戸城、蔵王堂城、飯山城、長岡城、村上城と各地の城主を務め、長岡城築城、新潟町の整備、村上茶の導入、防風林造成など、軍事だけでなく都市計画や産業振興にも大きな足跡を残した。 後世では長岡の礎を築いた武将として語られることが多いが、その功績は新潟市や村上市の発展にも深く関わっている。 幼少期と母妙泉院の悲劇直竒は堀直政の次男として生まれた。父の直政は織田信長・豊臣秀吉に仕えた名将であり、堀秀政を支えた堀家随一の実力者だった。幼名は三十郎という。母妙泉院は絶世の美女として知られていた。しかし、その幸福な幼少期は突然終わる。 天正8年(1580)4月6日。直竒が3歳の時、母妙泉院は25歳で殺害される。犯人は堀家に寄宿していた父の甥・堀藤七だった。藤七は妙泉院へ何度も恋文を送り続けたが、妙泉院は一切応じなかった。業を煮やした藤七は直接会って想いを伝えようと迫るが拒絶され、逆上して刀で刺し殺したという。知らせを受けた直政は激怒し、直ちに追手を放つ。藤七はほどなく討ち取られ、この事件は決着した。幼い直竒にとって、この事件は生涯忘れられない記憶となった。 四十年近く後の元和2年(1616)、直竒は長岡藩主となる。最初に行った事業の一つが、長岡に正覚寺を創建し、母妙泉院の墓を築くことだった。さらに東本願寺十三世・宣如上人へ依頼し、自ら記憶する母の姿をもとに肖像画を描かせている。幼児期に見た母の面影を四十年後まで忘れなかったことになる。その画像は現在も正覚寺に伝わっている。 豊臣秀吉の小姓となる直竒は4歳頃から豊臣秀吉の小姓となり、約18年間を京都・聚楽第や伏見城で過ごした。当時の小姓は単なる身の回りの世話係ではない。主君の命令を伝え、来客の応対を行い、政治や軍事を間近で学ぶ将来の幹部候補だった。秀吉のそばで育った経験は、直竒の政治感覚や度胸を育てた。後年の大胆な都市政策にも、この時代の経験が大きく影響したと考えられる。天正18年(1590)。小田原征伐の最中、堀秀政が陣中で病死する。後継者秀治はまだ若く、秀吉は北ノ庄領を没収しようと考えた。これに対し父直政は次男直竒を使者として送り、自らの書状を秀吉へ届けさせた。 > 「左衛門(秀政)は多年功績がある。跡目を認めぬなら、直接参上して申し開きをする。」 十三歳の少年が天下人へ直訴する役目を任されたのである。直政は息子の胆力を信じていた。そして秀吉も、その物怖じしない態度を高く評価し、堀秀治の相続を認めた。この出来事は直竒の将来を決定づけた。 越後入りと坂戸城主慶長3年(1598)。上杉景勝が会津へ移封されると、堀秀治が越後へ入国した。直竒も秀吉へ願い出て坂戸城一万石を与えられ、初めて一国一城の主となる。坂戸城は現在の南魚沼市にあり、上杉氏時代から越後南部の重要拠点だった。ここで若き城主として実戦と統治の経験を積む。関ヶ原前夜 ― 上杉遺民一揆との戦い慶長5年(1600)。関ヶ原合戦直前。徳川家康は会津の上杉景勝討伐を開始する。これに呼応して直江兼続は越後各地で旧上杉家臣や地侍を蜂起させた。いわゆる上杉遺民一揆である。越後は一気に戦場となった。下倉山城では城代小倉政熙が約八千石を守っていた。しかし七千人もの一揆勢に包囲される。小倉は討って出るが討死。城は陥落した。ここで直竒は即座に坂戸城から出陣する。 8月2日。直竒は下倉山城を奪還。さらに逃走する上杉勢を広神金ヶ沢まで追撃し、三百人以上を討ち取った。この迅速な行動は家康・秀忠父子から高く評価され、感状が与えられた。戦況をいち早く徳川へ報告したのも直竒だった。情報伝達の速さも武将の重要な能力だったのである。 蔵王堂五万石への飛躍慶長7年(1602)。蔵王堂城主堀親良が隠居すると、その子鶴千代の後見役に直竒が就任する。若い城主を支えながら政務を担う立場だった。やがて鶴千代が早世すると蔵王堂藩は廃藩となり、直竒は坂戸・蔵王堂合わせて五万石を領有する。この頃には実質的に中越地方の中心人物となっていた。蔵王堂城最大の問題は信濃川だった。洪水が頻発し、城下町も被害を受けやすい。直竒はこれを根本的に解決するため、高台にある長岡への移転を決断する。これは単なる築城ではない。町全体を移す大規模都市計画だった。後に長岡城が完成し近代まで続く城下町が形成されるが、その構想を最初に描いたのは直竒だった。 堀家改易という試練慶長15年(1610)。父直政が死去すると、堀家内部で執政職を巡る争いが起きる。兄直清との対立は激化し、幕府はこれを理由として越後堀家を改易した。家康は堀家全体を処分したものの、直竒個人の能力は高く評価していた。そのため完全に見捨てられることはなかった。直竒は信州飯山四万石へ移封される。失脚ではあったが、大名としての地位は維持された。むしろここから徳川家への忠誠をさらに示すことになる。慶長16年(1611)の駿府城火災では誰より早く駆け付け、財宝の搬出と消火活動に尽力した。さらに大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務め、夏の陣では道明寺・天王寺岡山の激戦で功績を挙げる。家康の信頼は、この頃決定的なものとなっていった。 長岡藩復帰と新潟・長岡のまちづくり越後への返り咲き元和2年(1616)、徳川家康が死去した年、越後では大きな政変が起こる。高田藩主松平忠輝が幕府への不服従や家中統制の乱れなどを理由に改易となり、その旧領の一部である蔵王堂八万石が直竒に与えられた。わずか六年前に越後を追われた武将が、故地へ堂々と戻ったのである。家康は生前、直竒を藤堂高虎や井伊直孝に並ぶ武将として評価していたと伝わる。大坂の陣での働きもあり、幕府は越後経営を任せるに足る人物と判断した。しかし直竒が戻った蔵王堂には、以前から気になっていた大きな問題が残っていた。それが信濃川による洪水だった。長岡城築城という大事業蔵王堂城は信濃川沿いの交通の要衝だったが、水害の危険が極めて大きかった。豪雨のたびに川岸が削られ、城下町も浸水する。直竒は早くから「城そのものを移すしかない」と考えていた。候補地となったのが現在の長岡だった。ここは信濃川西岸の微高地にあり、洪水に比較的強い地形だった。軍事面でも優れていた。 * 信濃川を天然の防御線にできる * 中越各地への街道を押さえられる * 城下町を計画的に整備できる戦国時代の城移転は珍しくないが、城と町を一体で設計する構想は当時としても先進的だった。 直竒は蔵王堂復帰後すぐ、新城の縄張りを開始する。縄張りとは城郭全体の設計図を描く作業であり、堀や石垣、曲輪、城門、武家屋敷、町人町まで含めて配置を決める重要な仕事だった。長岡城は平城でありながら、水堀を巧みに利用した防御構造を持つ城として設計された。後に牧野忠成が城主となって完成へ導くことになるが、その基本構想は直竒が築いたものである。 現在、長岡城そのものは戊辰戦争で焼失したものの、市街地の道路配置には当時の城下町の面影が今も残っている。 信濃川を生かした「長岡船道」直竒が最も力を注いだ事業の一つが信濃川の水運整備だった。当時、米や塩、木材などの大量輸送は陸路より舟の方が圧倒的に効率が良かった。しかし船の運航は統一されておらず、物流は不安定だった。そこで元和2年(1616)8月27日、直竒は堀七郎左衛門・古高市之丞を奉行として新潟へ派遣し、水運制度を整えるよう命じた。こうして誕生したのが「長岡船道」である。 長岡船道は長岡と新潟を結ぶ公認の通船組織だった。信濃川を利用し、 * 米 * 酒 * 木材 * 布 * 紙 * 日用品などが効率よく運ばれるようになった。これは単なる交通政策ではない。長岡を内陸物流拠点とし、新潟を日本海交易の玄関口とする経済圏づくりだった。現代で言えば港湾物流ネットワークを整備したようなものである。 新潟町大改造当時の新潟は現在とは大きく姿が違っていた。海沿いには漁民が暮らす浜村。川沿いには古くから商店が並ぶ本町通り。二つの集落が別々に存在していた。直竒はこれでは港町として発展できないと判断する。元和3年(1617)7月。大胆な都市改造を実施した。本町通りと並行して、 * かた町(現在の東堀通り) * 新町通り(現在の本町通り) * 材木町(現在の大川前通り)の三本の新しい町筋を開いた。さらに浜村の漁民を移住させ、市街地を一体化した。この町割りは現在の新潟中心市街地の骨格となっている。 面白い逸話が残る。新町通りが大いに繁栄すると、人々はそこを「本町」と呼ぶようになった。すると元々の本町通りは、「昔の本町」という意味で「古町」と呼ばれるようになった。現在の古町という地名は、この町づくりに由来すると伝わっている。 楽市・楽座で商人を呼び込む元和3年(1617)11月7日。直竒は港町発展の決定打となる政策を打ち出す。沖の口で徴収していた船役などの諸税を免除したのである。さらに楽市・楽座を導入した。これは織田信長以来の自由経済政策で、* 誰でも商売できる * 商人を保護する * 流通を活発にするという画期的な制度だった。さらに直竒は荷揚げ作業を考え、堀沿いの道路を三間以上の広さで整備した。舟から荷物を下ろし、そのまま荷車へ積み替えられるよう設計したのである。現在でも東堀通りや西堀通りが比較的広い理由の一つとして、この政策が語られている。都市計画を軍事だけでなく物流まで含めて考えていたことがよく分かる。 家康最期の言葉元和2年(1616)4月1日。家康は死期を悟っていた。その病床へ直竒が呼ばれる。家康は大坂の陣での働きを改めて称え、> 「藤堂高虎・井伊直孝とともに徳川を支えよ」 と語ったという。この場面は直竒の生涯を象徴する逸話として語り継がれている。真偽には議論もあるものの、家康から特別な信頼を受けていたことを示す伝承として知られる。 この時授けられたというのが有名な「百万石のお墨付き」である。二年後、村上十万石へ転封となった際、直竒はその文書を持って老中へ「百万石」を請求したという。老中たちは大騒ぎになる。ところが文書を見ると、「石」の字が虫食いで判読しづらく、「百万両」と読むべきではないかという話になった。そこで幕府は代わりに佐渡金山の収益を三年間与えたという。この資金で村上城の改修や江戸屋敷の整備を進めたと伝えられる。この逸話は史実として断定はできないものの、直竒の豪胆さを物語る話として広く知られている。 わずか二年で残した大きな遺産直竒が長岡八万石を治めた期間は、元和2年から元和4年までの約二年間しかなかった。しかし、その短い期間に、 * 長岡城築城の着手 * 城下町の基本設計 * 長岡船道の創設 * 新潟町の再編 * 楽市・楽座の導入 * 港湾物流の整備という後世まで続く事業を次々と実現した。その成果は、後に牧野家が長岡藩を治める基盤となり、新潟が日本海有数の港町へ発展する土台にもなった。武勇だけでなく、都市経営者としても卓越した才能を発揮した時代だったのである。村上十万石と晩年 ― 茶・城・寛永寺に刻まれた遺産村上十万石への転封元和4年(1618)、直竒は村上十万石へ移る。村上は出羽街道の入口に位置し、日本海交易の要衝でもあった。しかし長岡ほど都市基盤は整っておらず、農業や産業も決して豊かではなかった。直竒は、この土地を「守る城」ではなく「育てる城下町」として発展させようと考えた。まず着手したのが村上城の整備だった。村上城は朝日連峰を背にした山城である。直竒は石垣や曲輪を整備し、城下町との一体化を進めた。防御力を高めるだけでなく、行政の中心として機能する城へ改修したのである。現在残る石垣の一部には、この時代の改修の面影が残るとされている。 村上茶の始まり現在、村上といえば全国最北級の茶産地として知られる。その始まりに深く関わったのが直竒だった。領内には目立った特産品が少なかったため、新たな産業を育てようと考えたのである。京都などから茶の栽培法を導入し、その普及を町の有力商人・徳光屋覚左衛門へ託した。覚左衛門は村上町の大年寄であり、町政にも携わる人物だった。直竒の命を受けて茶の栽培に取り組み、試行錯誤を重ねながら村上茶の基礎を築いた。寒冷な越後で茶を育てることは容易ではない。冬の雪や冷たい風に耐えられる栽培法を工夫し、次第に品質の高い茶として定着していった。今日まで四百年近く続く村上茶の歴史は、この二人の挑戦から始まったのである。 瀬波の防風林を造る村上沿岸は日本海から強い季節風が吹きつける。砂丘地帯では砂が畑へ飛び込み、作物に大きな被害を与えていた。直竒は、この自然災害にも手を打った。## 松・グミ・ハマナスを植える 砂丘一帯へ * 松 * グミ * ハマナス などを植えさせ、防風林を造成した。松は潮風に強く、根が砂を固定する。グミやハマナスも砂地で育ちやすく、風除けとして効果を発揮した。現在の瀬波温泉周辺に残る松林は、その名残と伝えられている。戦国武将が植えた木々が四百年後まで地域を守り続けているのである。 天海との深い友情元和8年(1622)。天海大僧正は江戸城鬼門鎮護の寺として巨大寺院の創建を計画する。それが寛永寺だった。建設予定地の忍岡には、 * 藤堂高虎 * 津軽信枚 * 堀直竒三大名の屋敷があった。直竒は親交の深かった天海や藤堂高虎と協議を重ね、寺院創建へ協力した。直竒は江戸屋敷「凌雲院」を寺へ寄進する。しかし彼が重視したのは建物ではなかった。「良い寺は良い僧がいてこそ成り立つ。」そう考えた直竒は、第一世住職として円覚院亮運を迎えた。この人選は見事だった。後に亮運は徳川家光から寛永寺の学頭に任命され、寺全体を統括する立場となる。人を見る目の確かさは政治でも宗教でも変わらなかった。 沢庵和尚を救う寛永4年(1627)。名僧沢庵宗彭が紫衣事件によって幕府から処罰を受ける。当時、多くの人が距離を置く中、直竒は天海や柳生宗矩とともに沢庵の赦免に奔走した。沢庵は直竒の駒込別邸で約二年間暮らした。二人は禅や政治について語り合ったという。沢庵は単なる禅僧ではない。剣豪柳生宗矩とも交流し、後には宮本武蔵にも影響を与えた人物である。直竒は武と禅を兼ね備えた人物を深く敬っていた。 村上大祭の始まり寛永10年(1633)。直竒は羽黒神社を現在地へ遷宮する。この遷宮を契機として始まったのが村上大祭だった。山車が城下町を巡る祭礼は、町人と武士が一体となる町づくりの象徴でもあった。現在まで続く村上大祭は、新潟県を代表する祭礼の一つとなっている。最後まで慕われた藩主直竒は厳しい武将だったが、人材を大切にした。功績があれば身分に関係なく取り立て、町人にも役割を与えた。徳光屋覚左衛門を重用したことも、その姿勢をよく表している。また領民の暮らしを守るため、 * 河川整備 * 産業育成 * 港湾整備 * 防風林造成を積極的に進めた。戦だけでは領国は豊かにならないという考えを実践した武将だった。鉄団という法号寛永16年(1639)6月29日。直竒は63歳で死去する。法号は「鉄団」。これは沢庵和尚が贈ったものである。沢庵は次のような偈を書いた。> 「鉄団、磁石無転、円同大虚、能除至角、自合如如。」 現代語では、 「鉄の玉は磁石にも引かれて転ぶことなく、円満で大空のように広く、角を取り去り、すべて自然のままに調和する。」という意味になる。生涯を通じて揺るがぬ信念を持ちながら、人との調和も忘れなかった直竒を象徴する言葉といえる。 墓と受け継がれた堀家直竒の墓は当初、寛永寺凌雲院に築かれた。明治以降、東京国立博物館建設に伴って移転し、現在は東京都渋谷区神宮前の長泉寺にある。墓石は丸い大円石を模した珍しい形をしている。これは沢庵の「鉄団」の教えを形にしたものと伝わる。直竒の死後、孫の直定が七歳で早世し、本家は断絶した。しかし名門堀家を惜しんだ幕府は、次男直時を越後村松三万石へ取り立てる。村松堀家は幕末まで続き、堀家の名は明治維新まで受け継がれた。 堀直竒が残したもの堀直竒は豊臣秀吉に育てられ、徳川三代に信任された数少ない武将だった。その功績は戦場だけにとどまらない。長岡では城下町の礎を築き、新潟では港町への大改造を進め、村上では茶の栽培、防風林、祭礼、城下町整備を行った。さらに天海・沢庵・柳生宗矩ら文化人とも交流し、寛永寺創建にも貢献した。彼の歩みをたどると、一人の武将の生涯でありながら、長岡・新潟・村上という三つの都市の原点が見えてくる。戦国の武勇と江戸初期の都市経営を兼ね備えた稀有な人物――それが堀直竒だった。 |
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