ここに城を築いたのは、南北朝期に越後を領国としていた新田氏の一族城資長が養和元年(1181)に築いたとされる。その後、上杉憲顕が越後守護となり、その家臣の長尾氏をこの坂戸城に配置し、上田庄一帯と関越国境を守らせた。そしてこの頃現在の六日町としての形態が整えられたと言われている。
守護代長尾家は長尾為景の死後家督を嗣いだ晴景が病弱で、揚北衆をはじめとした国人領主は晴景に叛いた。栃尾城、三条城などでこれを鎮圧した晴景の弟、景虎(のちの上杉謙信)が国人領主たちの信望を集め、守護代家は晴景派と景虎派に分かれて争った。上田長尾房長、政景は晴景に味方したが、天文17(1548)年、守護・上杉定実の仲介で長尾景虎が兄・晴景から守護代の座を譲り受けることで混乱は収集した。しかし政景らは従わず、景虎方の諸将と小競り合いを繰り返したが、天文20(1551)年8月、政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明すると、房長・政景父子は降伏した。この時、景虎の姉仙桃院を政景が娶ることで和睦が成立した。以後、政景は景虎の重臣として仕える。
天正6(1578)年3月、上杉謙信の死によって「御館の乱」が勃発、長尾政景の子で謙信の養子となった景勝と、小田原城の北条氏康の子でやはり謙信の養子となった上杉三郎景虎をそれぞれ擁立する派に分かれ内乱となった。この乱では樋口与六(のちの直江兼続ら)上田衆は景勝を味方して戦った。慶長3(1598)年、上杉景勝は会津へ転封となり、坂戸城には堀直竒が入城した。直竒は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修したが、慶長15(1610)年、直竒は信州飯山城へ転封となり廃城となった。
現在は山頂の本丸屋敷はじめ中屋敷、のろし台、曲輪跡などが残っている。また東の麓の下坂戸部落には城主の居館跡に大手門石垣が数百メートルに渡って残されている。下坂戸には城主長尾政景の墓が保存されている。さらに家臣屋敷などもあり、坂戸城跡として国の指定史跡となっている。
(北陸の城)
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Sakado/
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《カタクリ》の群生 坂戸山の登山道には、城坂コースと薬師尾根コースがあるが、カタクリの群生を巡るには、城坂コースがよい。家臣屋敷跡から出発して、桃の木平を経て山頂に至る。一面のカタクリの花は無数にも思えて圧巻である。この花を、上杉景勝や中江兼続も見たのだろうか。
カタクリは百合(ゆり)科の植物で主に山地に生える(場所によっては群生する)。 ピンク色の花が下向きに咲く。
樹冠が緑の葉に覆われる前の(3、4月の)わずかな 日光を利用して地下の鱗茎を太らせて花を咲かせ、 花のあと、5月頃に葉も枯れたあとはずっと次年の3月まで、1年のうちの10ヶ月の間は地中で 球根のまま休眠する(地面からは消える)。
坂戸山では4月初旬から5月上旬が花の見どころである。 |
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