坂戸城跡 Sakado Castle Ruins 南魚沼市
六日町(旧上田)は古来魚野川流域の中心地で経済・軍事上の要衝として重視された。ここに城を築いたのは、南北朝期に越後を領国としていた新田氏の一族が築いたとされる。その後、上杉憲顕が越後守護となり、新田氏を駆逐し、その家臣の長尾氏(上田長尾氏)をこの坂戸城に配置し、上田庄一帯と関越国境を守らせた。上田長尾氏は、室町後期には房長・政景が出て、府中の守護代長尾氏と対立するに至った。そしてこの頃現在の六日町としての形態が整えられたと言われている。 守護代長尾家は長尾為景の死後家督を嗣いだ晴景が病弱で、揚北衆をはじめとした国人領主は晴景に叛いた。栃尾城、三条城などでこれを鎮圧した晴景の弟、景虎(のちの上杉謙信)が国人領主たちの信望を集め、守護代家は晴景派と景虎派に分かれて争った。上田長尾房長、政景は晴景に味方したが、天文17年(1548)、守護・上杉定実の仲介で長尾景虎が兄・晴景から守護代の座を譲り受けることで混乱は収拾した。 しかし政景らは従わず、景虎方の諸将と小競り合いを繰り返したが、天文20年(1551)8月、政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明すると、房長・政景父子は降伏した。この時、景虎の姉仙桃院を政景が娶ることで和睦が成立した。以後、政景は景虎の重臣として仕える。 政景が急死すると景虎はその遺子(後の景勝)を養子とし、坂戸城を掌中にした。 天正6年(1578)3月、上杉謙信の死によって「御館の乱」が勃発、長尾政景の子で謙信の養子となった景勝と、小田原城の北条氏康の子でやはり謙信の養子となった上杉三郎景虎をそれぞれ擁立する派に分かれ内乱となった。この乱では樋口与六(のちの直江兼続ら)上田衆は景勝に味方して戦った。景虎を支援するため荒戸城・樺野沢城を占拠し坂戸城に来襲した北条氏を撃退した。 その後天正10年(1582)には上州厩橋城から越後に乱入した織田軍の滝川一益とも交戦しているが陥ちず不落の堅塁ぶりを発揮した。 慶長3年(1598)、上杉景勝は会津へ転封となり、坂戸城には堀直竒が入城した。直竒は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修し、魚野川の東岸坂戸部落東方の杉林中に城主の居館や家臣の屋敷跡がいまも歴然と残る。 慶長15年(1610)、直竒が信州飯山城へ転封となり坂戸城は廃城となった。 現在は山頂の本丸屋敷はじめ中屋敷、のろし台、曲輪跡など、堅固な山城遺構が認められる。また麓の屋敷跡は方100m、西正面には石垣、ほかは土塁をめぐらし内部は数区画に分かれている。 「中屋敷」には500×40mの2区画をなす屋敷跡と枡形風の虎口がある。 山麓には上杉景勝および直江兼続の生誕碑がある。下坂戸には城主長尾政景の墓が保存されている。さらに家臣屋敷などもあり、坂戸城跡として国の指定史跡となっている。(案内図) (北陸の城) http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Sakado/
現地案内看板 国指定史跡 坂戸城跡 昭和五十四年三月十二日指定 坂戸城の始まりは定かではないが、南北朝時代(十四世紀)、越後守護上杉氏の長尾氏の一族がここ上田荘に入り、領国支配を始めたと伝えられている。 以後、上田長尾氏は守護代長尾氏と並んで越後の国に重きをなし、坂戸城は越後と関東を結ぶ交通路の抑えとして重要な位置を占めるに至った。 上杉謙信の父守護代長尾為景と上杉氏が争った永正の騒乱期(十六世紀初頭)、長尾房長によって山頂部から山麓部にかけ本格的な山城が造られた。その後も上田長尾氏は守護代長尾氏と強調しつつも独自性を保っていたが、一五五一年(天文二十)、房長の子政景(謙信の義兄)は謙信と盟約を結び、臣従するに至った。謙信の養子となって春日山にいた政景の子景勝は、謙信の死後、御館(おたて)の乱(一五七八~一五七九)で景虎(北条氏からの養子)を破って越後国主となり、坂戸城は景勝によって大改修が行われている。 一五九八年(慶長三)、豊臣秀吉による景勝の会津への国替えに伴い、堀直竒(なおより)が入城したが、一六一〇年(慶長十五)信濃国飯山に移り、坂戸城は廃城となった。 山頂部一帯の郭を実城(みじょう)と呼び、山頂から派生する尾根には主水郭(もんどくるわ)・大城・小城・寺が鼻郭、実城から北へ下った桃之木平には広大な郭がある。山麓には石垣をもつ居館跡の御館(おたて)・家臣屋敷跡、御館の南方、薬師尾根の北側中腹には御居間屋敷(おんまやしき)と呼ばれる屋敷跡がある。家臣屋敷跡と魚野川の間には内堀跡があり、理田と呼ばれている。御館などの石垣は堀氏時代に築かれたといわれている。 平成十年十一月三日 六日町教育委員会 坂戸山坂戸山の標高634mは、県内でいえば弥彦山、また東京都の東京スカイツリーと同じ高さである。山全体が大規模な山城の城跡で、遺構が各所に残り国指定の文化財となっている。毎年6月30日~7月1日に山開きが開催されるが、これに合わせて町内にほら貝を轟かせ山の安全を願って神事を行い、夜には薬師尾根にローソクを灯す「坂戸山百八灯」が行われ、山頂にかがり火が点火される。六日町駅から頂上までのトレッキングコースは、春のカタクリが咲くころは特に人気で、登山道も整備されている。 🔶「薬師尾根コース」鳥坂神社前に駐車場がある。駐車場から一段高くなったところに薬師堂があり、その右が「薬師尾根コース」登山道となっている。10分ほどで「御居間屋敷」の標柱がある。ここから左に行くと、「城坂コース」で頂上に向かうが、途中カタクリの大群落がある。 30分くらいは階段状の道が続き、途中、「寺ヶ鼻コース」との分岐がある。花崗岩の露出した岩混じりの道となり、短いが急登二段で、二等三角点と薬師堂のある山頂台地に出る。 視界は360度。北東に八海山、その右に中之岳、南西には遠く苗場山、平標山、谷川岳など上越国境の山々、真西には魚沼スカイライン丘陵が望まれる。 《カタクリ》の群生 坂戸山の登山道には、城坂コースと薬師尾根コースがあるが、カタクリの群生を巡るには、城坂コースがよい。家臣屋敷跡から出発して、桃の木平を経て山頂に至る。一面のカタクリの花は無数にも思えて圧巻である。この花を、上杉景勝や中江兼続も見たのだろうか。 カタクリは百合(ゆり)科の植物で主に山地に生える(場所によっては群生する)。 ピンク色の花が下向きに咲く。 樹冠が緑の葉に覆われる前の(3、4月の)わずかな 日光を利用して地下の鱗茎を太らせて花を咲かせ、 花のあと、5月頃に葉も枯れたあとはずっと次年の3月まで、1年のうちの10ヶ月の間は地中で 球根のまま休眠する(地面からは消える)。 坂戸山では4月初旬から5月上旬が花の見どころである。
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