直江兼続 南魚沼市



直江兼続(なおえ かねつぐ) 永禄3年(1560年)〔生〕~元和5年12月19日(新暦1620年1月23日)〔没〕

兼続は、1560年(永禄3年)坂戸城主長尾政景の家臣樋口兼豊の嫡男として誕生した。幼名を与六といった。
上杉謙信の姉で、坂戸城主長尾政景に嫁ぎ、後に兼続の主となる上杉景勝の母・仙桃院は与六の聡明さにいち早く目を留め、そのの推挙によって、景勝の近習に取り立てられた。
1578年、上杉謙信が死去すると、景勝と景虎の間で家督を巡る争いが起こった。(御館の乱)。この争いで勝利した景勝が、上杉家を継ぐこととなった。このとき、19歳の兼続は景勝の参謀として、勝利に大きな役割を果たした。

景勝が家督を継いで間もない1581年、与板城主直江信綱が、刃傷沙汰に巻き込まれて死亡する。越後の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の未亡人おせんに兼続を嫁し、直江家を継がせた。兼続22才、おせん25才の時のことであった。
直江家は藤原の鎌足の孫の末裔で直江荘(上越市直江津地区)を賜って姓としたという。

1586年(天正14年)5月20日、兼続は、主君景勝と共に初めて上洛する。兼続27歳のときである。6月14日秀吉と会見の後、同年中に帰国する。その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。

天正15年(1587年)、新発田重家討伐で武功を挙げ、天正16年8月17日(10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣氏を授けられ、あらためて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵においても、景勝と共に参陣して武功を挙げた。

秀吉は、兼続をとても高く評価していたようで、「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人にすぎない」というようなことを言っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。


秀吉の死後、徳川家康は景勝の上洛を促すが、景勝は領国経営を理由にこれを拒否。兼続の知己である僧承兌の書状に対する兼続の返書(「直江状」)に激怒した家康は、会津討伐を決意。家康は上杉を討つべく会津へ向かう。

小山に到着した家康は、石田三成挙兵の報を受け、息子の結城秀康を宇都宮に残し、上方へ向かう。
家康が西上すると、上杉家では四方に軍事行動を開始した。山形城主最上義光を攻めた。しかしまもなく関ヶ原での西軍の敗北の報を受け、撤退をする。このとき、2万余騎の自軍の殿軍を、兼続がみごとに務めたという。



慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。

その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日(1608年2月19日)に重光に改名する。そして米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど、米沢藩の藩政の基礎を築いた。その一方で上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期がある。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても、徳川方として参戦し、武功を挙げた。

1619年(元和5年)12月19日、江戸鱗屋敷で死去。60才。米沢徳昌寺に埋葬、後に米沢林泉寺に改葬された。

□記念碑
①直江兼続生誕の碑
新潟県南魚沼市坂戸
②直江兼続像
新潟県長岡市与板

□墓所
曹洞宗 林泉寺
山形県米沢市林泉寺1-2-3

□史跡・資料館
  • 兼続お船ミュージアム(長岡市与板歴史民俗資料館)
    〔所在地〕 新潟県長岡市与板町与板乙4356
  • 直江兼続公伝世館
    〔所在地〕新潟県南魚沼市坂戸393−2
    〔アクセス〕
    • 車…関越自動車道六日町ICから車で約10分
    • 電車…JR上越線六日町駅から徒歩で約25分
    〔特徴〕直江兼続公伝世館は直江兼続の生家をイメージして作られた歴史資料館
  • 雲洞庵
    〔所在地〕新潟県南魚沼市雲洞660
  • 春日山城
    〔所在地〕上越市中屋敷字春日山1357-1
  • 御館(おたて)公園
    〔所在地〕上越市五智1丁目23−11
  • 与板城
    〔所在地〕長岡市与板町与板 



略歴
天正8年(1580年)、景勝印判状の奏者を勤める
天正9年(1581年)、景勝の命により、直江景綱の娘で信綱の妻であった船の婿養子となる
天正10年(1582年)、武田遺領を巡って信濃勢の窓口となる
天正11年(1583年)、山城守を称する
天正12年(1584年)、狩野秀治が病に倒れ、単独執政となる
天正14年6月22日(1586年8月7日)、、従五位下に叙せられる
天正11年(1583年)、中ノ口川の開削を行う
天正13年11月20日(1586年1月9日)、新潟城と沼垂城から新発田勢を駆逐
天正15年10月23日、新発田城の支城の五十公野城を陥落させる
天正15年10月28日、新発田城落城させる
天正16年8月17日(1588年10月7日)、景勝に従って上京し豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられる
天正17年(1589年)、佐渡征伐に景勝と共に従軍。功により佐渡の支配を命じられる
天正18年(1590年)、小田原征伐で景勝と共に従軍
文禄元年(1592年)、文禄・慶長の役においては景勝と共に参陣して熊川倭城を築城
慶長3年(1598年)、景勝が越後から会津120万石に移封された際、兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領が与えられる
慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪
慶長13年1月4日(1608年2月19日)、重光に改名
慶長19年(1614年)正月、松平忠輝の居城高田城築城の際、伊達政宗の下に、景勝とともに天下普請を行なう
元和5年12月19日(1620年1月23日)、江戸鱗屋敷(現:東京都千代田区霞が関2-1-1警視庁)で病死し。享年60




  • ①直江兼続生誕の碑
  • ②直江兼続像
  • ③兼続お船ミュージアム(長岡市与板歴史民俗資料館)
  • ④直江兼続公伝世館
  • ⑤林泉寺(米沢)
  • ⑥雲洞庵
  • ⑦春日山城跡
  • ⑧御館(おたて)公園
  • ⑨与板城跡






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