直江兼続(なおえ かねつぐ) 永禄3年(1560年)〔生〕~元和5年12月19日(新暦1620年1月23日)〔没〕 兼続は、上杉謙信亡き後の上杉家を一身に引き受け守りたて、私利私欲を棄てて忠節のかぎりをつくした人物。「長け高く。容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり。且つ文芸に暗からず・・・」(『常山紀談』)と評される。 (上田の庄時代)1560年(永禄3)坂戸城※地図主長尾政景の家臣樋口兼豊の嫡男として上田庄で誕生した(誕生月日は不明)。幼名を与六といった。父は薪炭用人を務める下級武士樋口兼豊、母は信濃の武将・泉重蔵の娘(異説もある)であった。兼豊には三男三女の子がおり、次男の与七は小国重頼の養子となって小国氏を相続。三男与八が樋口家を継いでいる。 上杉謙信の姉で、坂戸城主長尾政景に嫁ぎ、後に兼続の主となる上杉景勝の母・仙桃院は、父親の仕事を手伝う与六の聡明さにいち早く目を留め、そのの推挙によって、顕景(景勝)の小姓に取り立てられた。 顕景は長尾政景の次男で、弘治元年(1555)11月27日の生まれ、与六より5歳年長であった。 永禄7年(1564)7月、長尾政景が舟遊びをしていた最中事故死する。景勝と兼続は政景の死後、雲洞庵の通天存達のもとで共に勉学や武芸の鍛錬に励み、竹馬の友は主従にして水魚の交わりをかわした。 上杉謙信は、関東への出馬を繰り返しており、遠征の途次ごとに坂戸城へ立ち寄り景勝をの成長を見守っていたという。その折、与六(兼続)とも接し、その才能を認め、将来景勝を支える人物になるに違いないと考えたという。(👉坂戸城 👉雲洞庵) (春日山城へ)一説に天正3年(1575)、景勝は養子として仙桃院と共に、謙信に引き取られて春日山へと移った。兼続も随従した。与板城主直江景綱(実綱)が後見人となり、中城(三の丸)で暮らすこととなった。『上田衆』と呼ばれる家臣団も坂戸城から移ってきたが、その中で、若い武士の中心にいたのが兼続であった。ときに、兼続16歳、顕景21歳。天正3年(1575)1月11日、謙信は顕景に上杉景勝の名乗りと弾正少弼の官途を与えた。 謙信は若者を集め、戦場での体験談や人生訓を語った。謙信は「大将の根底とするところは、仁、義、礼、智、信の五つを規範とし、慈愛をもって衆人を憐れむことにある」と語ったという。 天正5年(1577)、謙信は七尾城を攻略し、織田信長軍を加賀手取川の戦いで粉砕した。兼続は間近に謙信の采配を見て、その戦国最強と恐れられた戦術を実地に学んだ。 青年期の兼続は、謙信から実地に戦術を学び、精神的薫陶を受けた。兼続が生涯貫き通す『義』と『愛』の精神は、謙信と共に過ごした短期間の中で、濃縮された体験として培われた。 兼続の兜の前立ての『愛』の一字は、愛宕権現や愛染明王からとったものであるといわれることがある。兼続は、謙信から教えられた『仁愛』と『愛民』の大切さを、継承し体現しようとしたものであった。(👉春日山城 👉上杉謙信) (御館の乱)天正6年(1578)3月9日、城主の上杉謙信が厠で突然昏倒した。病は重い。意識不明の状態で回復は見込めそうになかった。兼続は、謙信倒れるという報に接すると、即座に動いた。上杉景勝の後見人でもある直江信綱、本庄繁綱ら数人を密に呼び集め、対応策を話し合った。 謙信には、景勝のほかに三人の養子がいた。上条政繁、山浦景国(国清)、上杉景虎である。上条政繁、山浦景国(国清)はそれぞれ名家の跡を継がせ、春日山城にいたのは、北条氏から養子に来て、謙信が自分の諱を継がせた景虎であった。景虎は、景勝の姉を妻に迎え、一子・道満丸をもうけていた。 上杉謙信が死去すると、景勝と景虎の間で家督を巡る争いが起こった(御館の乱)。 謙信の家臣団は、上杉氏や長尾氏の影響力が強かったが、自立性の高い揚北など国衆とは同盟関係でつながり、自身を頂点とした絶対的権力を構築していなかった。カリスマであった謙信の没後、景勝と景虎が家督を巡って争うことになった要因は、家臣団がそれぞれの思惑で分裂し、上杉家の家臣団が一枚岩ではなかったことが露呈した。 この争いで勝利した景勝が、上杉家を継ぐこととなった。このとき、19歳の兼続は景勝の参謀として、勝利に大きな役割を果たした。兼続が一躍歴史の表舞台に躍り出ることになった。この時若干20歳の若さながら、以後、上杉家の政務、軍務、財務のすべてを実質的に宰領する執政兼軍師として景勝を支えるようになる。 3月13日、謙信は意識不明のまま危篤状態に陥った。兼続は直江景綱の未亡人に枕元に待機させ、謙信は死に際、景勝を後継者に指名したとして、城中に宣言した。 3月15日、謙信の葬儀が執り行われるや否や、兼続は、上田衆と与板衆に命じて実城(本丸)、金蔵、兵器蔵を占拠させ、景勝は実城へ移った。 この上田衆の行動に反感を持つ、武将たちの一派が景虎を支援し、対立は抜き差しならないものとなり、軍勢同士の衝突が発生した。 5月5日、身の危険を感じた景虎は春日山城を抜け出し、上杉憲当が住む御館へ逃げ込んだ。 5月16日、景虎派の軍勢が春日山城下へ押し寄せて火を放ち、3000軒を焼き払うなど、本格的戦闘状態となった。 この時点で景勝派は、上田衆、与板衆のほか、上条政繁(上条城主)、山浦景国、安田顕元(刈羽安田城主)、斎藤朝信(赤田城主)、吉江信景(吉江城主)、山吉景長(木場城主)、安田長秀(白河庄安田城主)、水原満家、竹俣慶綱、加地春綱、新発田長敦(新発田城主)・重家兄弟、中条景泰(鳥坂城主)、色部長実(平林城主)、河田長親(越中松倉城主)、岩井信能ほか。 一方景虎派は上杉景信、山本寺定長(不動山城主)、本庄秀綱(栃尾城主)、神余親綱(三条城主)、堀江宗親(鮫ヶ尾城主)、黒川清実(黒川城主)、、鮎川盛長(大葉沢城主)、、北条高広(大胡城主)・景広父子、上野家成(節黒城主)、河田重親(上野国沼田城主)ほかであった。 北条氏政は甲相同盟に従って、武田勝頼に景虎支援を要請すると、勝頼は7000余の軍勢を率いて信越国境を越え、5月末、春日山城からわずか16キロほどの小出雲に陣どった。 兼続は、武田家は同盟のため派兵してきているが、本心では景虎方が勝利し、北条の勢力が越後に伸びることを恐れていると見透かしていた。 6月6日、武田家に1万両を支払い、武田勝頼の妹を景勝の妻に迎えることで和議がなった。 9月初旬、北条氏政が2万余の軍勢を出陣させ、三国峠越えに越後へ進攻した。北条勢は、樺沢城を攻略し、近くの坂戸城などを攻めたが攻略できないまま、年末には雪のために一部将兵を残して撤退していった。 天正7年(1579)2月3日、景勝勢が樺沢城の奪還に成功し、北条勢を越後から駆逐した。また、景虎派の諸城を次々落城させていった。 3月17日、景勝自身が出陣して御館を猛襲した。上杉憲政はなおも和解の道を探るべく、景虎の子道満丸を伴って春日山城へ向かったが、斬殺されてしまう。 また、景虎は小田原城へ落ち延びようと御館から脱出し、途中、鮫ヶ尾城に立ち寄った。 3月24日、鮫ヶ尾城城主の堀江宗親は景虎派の有力武将だったが、景勝派に寝返ったため、景虎はこれまでと自害した。 この御館の乱を通して、景勝の兼続に対する信頼は深まり、以後、政務と軍務のすべてを託したので、兼続は執政兼軍師として全権を掌握していく。 (直江家の家督相続)景勝が家督を継いで間もない天正9年(1581)9月1日、乱後の論功行賞のもつれから、景勝の後見人だった与板城※地図主直江信綱が、刃傷沙汰に巻き込まれて死亡する。御館の乱の論功行賞に不満を抱く毛利秀広が、直江信綱と話し込んでいた景勝側近の儒者・山崎秀仙を斬殺。制止しようとした信綱も殺害したのである。直江家は「上杉軍役帳」によると山吉豊守、上杉景勝に次ぐ305人の軍役を負担していた。 直江家は藤原の鎌足の孫の末裔で直江荘(上越市直江津地区)を賜って姓としたという。越後の名家直江家の断絶を惜しんだ景勝は、信綱の未亡人おせんに兼続を嫁し、直江家を継がせた。兼続22才、おせん25才の時のことであった。 お船の方
弘治3年(1557年)〔生〕 - 寛永14年1月4日(1637年1月29日)〔没〕 越後国与板城主である直江景綱の娘として生まれる。景綱には男児が無かったため、信綱を養子として迎えていたが、刃傷沙汰で殺害される。 兼続は未亡人で年上のおせんと婚姻し二人の間には病弱な景明という男子がいたが、彼は22歳で病没した。 兼続は愛妻家であり生涯側室を持たなかった。ほかに子供をつくらず、養子もとらず直江家はのちに無嗣断絶となった。おせんの方は上杉景勝唯一の子・定勝の養育を担当し、上杉家の中で影響力を持ち、北条政子と称せられたるほどの女傑であった。 これによって、上田以来の景勝側近という有利な立場があった上に、有力な直江家を相続したことで兼続の力は上杉家内で一段と強化された。(👉与板城) (上杉家絶体絶命の危機)天下統一を目指す織田信長が、目の上のコブの謙信が無くなったことから、北陸に再侵攻を開始した。天正8年(1580)から北進を再開し、11月には織田軍は加賀を平定した。越前に柴田勝家、加賀に佐久間盛政、能登に前田利家を配した。 天正9年(1581)、には柴田勝家は勢いに乗じて、配下の佐々成正に出陣を命じ越中へ進攻し、常願寺川(新川)以西を制圧する。 天正9年(1581)6月16日、御館の乱の論功行賞に不満を抱く新発田重家が信長の調略に乗って謀反を起こし新潟や沼垂を占領した。これに対して、兼続は織田軍の対応に手いっぱいで、新発田勢に対しては鎮圧軍を派遣できない状態であった。 天正10年(1582)3月11日、富山城を抜いた北陸方面軍1万5000が魚津城を囲んだ。 3月11日、景勝の義兄武田勝頼が織田・徳川に攻められ、天目山で自害し、武田家が滅亡する。武田家が滅亡したのち、信長は、北信濃の川中島四郡(高井、水内、更科、埴科)を森長可に与え、長可は海津城へ入城する。また上野一国を滝川一益に与え、一益は厩橋城へ入った。 4月5日、森長可が北陸方面軍から5000の兵を率いて、信濃における上杉方の拠点・飯山城を攻略し、信越国境を越えて春日山城に近い関山に滞陣した。 4月23日、魚津城で籠城する武将たちは、景勝に救援を要請し、これに応えて、景勝・兼続は15日に3000の兵を従えて出兵し、天神山城に着陣した。しかし、春日山城が手薄となったことを見透かしたように、関山の森長可の軍勢が春日山城下近くまで押し寄せ放火などを行った。5月23日になって、景勝・兼続主従は少ない軍勢で二方面を守備することはできないと、陣払いして春日山城へ軍を返した。 6月3日、本能寺の変の発生を知らない、織田軍は魚津城に総攻撃をかけた。城中にいた将兵は降伏を潔しとせず、全員玉砕した。織田軍は、次に松倉城を囲んだ。 6月7日、本能寺の変が織田軍の陣中に届くと、柴田勝家以下の織田勢は帰国し、森長可や滝川一益も信濃と上野から早々に去った。一夜にして、織田軍の悪夢が越後から潮が引くように消えていった。 信長が構築した万全の上杉包囲網の前に、上杉家は絶体絶命の窮地に陥るが、本能寺の変が起こり、景勝、兼続主従は九死に一生の危機を脱することができた。 6月13日,景勝・兼続は織田軍の去った信州に討ち入り、川中島四郡をほぼ平定する。景勝・兼続主従は海津城に籠る春日信達は降伏し、景勝の軍門に降る。 北条氏直が織田家の去った信州で領土拡大を目指して、4万の兵を率いて上野から碓氷峠を越えて信濃へ進攻。川中島へ進出してきた。これに対して、上杉軍は降伏した信州の兵を合わせても7000の兵しかおらず、戦闘となれば圧倒的に不利な状況であった。 しかも、北条方には、謀略家の真田正幸がおり、同じ旧武田家家臣の春日信達に対して、ひそかに北条方につき戦闘が始まったら上杉方を攻撃することを打ち合わせた。 7月12日、兼続がこれを見破り、春日一族を処刑し、信達の首を北条氏直のもとに届けた。氏直は驚き、上杉との交戦をあきらめ撤兵したので、兼続は苦しい状況を見事に切り抜けることができた。(👉新発田重家) (豊臣政権下)北信濃の仕置を終えた上杉景勝・直江兼続主従は帰国し、信長の死後も屈せずに抵抗をつづける新発田重家の討伐に乗り出す。正13年(1585)になると織田信長の横死後、信長の一武将だった羽柴秀吉が天下をほぼ掌中に収め、関白に任ぜられて豊臣姓を賜った。 天正13年(1585)の秋、8月、羽柴秀吉は越中富山城に籠城した佐々成政討伐のため、6万の軍勢を率いて城を包囲していたが、30数人のわずかな兵を率いて越後領落水城(勝山城に改名)に現れ、景勝との会見を申し入れた。当時の城将は須賀修理亮盛能であったが、春日山城に知らせを入れ、景勝、兼続が駆けつけ秀吉、三成の4人だけでふた時密談が行われた。 景勝は秀吉に臣従し上洛する旨を定めた『落水の盟約』が成立した。このとき、家中には秀吉を殺害する好機と意見する者もある中、近く秀吉による国内統一がなされると強く説得する執政兼続の意見を入れ、景勝は盟約を締結したという。この時、外交交渉の事前折衝をしたのが兼続と三成であり、二人は同年齢の26歳で、軽輩の出身から、その才智を認められ引き揚げられるという点でも似た経歴を歩んできた。二人は、あたかも兄弟のように意気投合したという。 こののち、上杉家は、豊臣政権下でその重要な役割を担っていくこととなり、その交渉のほとんどは兼続と三成の間でなされた。 天正14年(1586)5月20日、兼続は、主君景勝と越後を出立し、6月7日、はじめて上洛する。兼続27歳のときである。6月14日秀吉と会見の後、同年中に帰国する。その後も何度か上洛し、秀吉と交誼を結ぶ。 天正14年(1586)、上条政繁は上条上杉家を相続して、上杉家でも重臣として寓されていたが、景勝や兼続と対立し、この年秀吉をたより京都へ出奔した。結果、兼続の上杉家内での力が強くなった。 天正15年(1587)10月、新発田重家の反乱が鎮圧され、重家は自刃した。 天正16(1588)8月17日、秀吉の奏請によって景勝は従三位・参議、兼続は従五位下・山城守に叙任される。兼続は秀吉から豊臣氏を授けられた。兼続は上洛するたびに石田三成との友情を深めていった。 天正16年(1588)、景勝のもと重用され、内政外交全般の取次ぎ役を担当し、兼続と2人の執政体制を敷いていた狩納秀治が病没した。兼続は名実とも上杉家の中心的な役割をになうこととなった。 天正17年(1589)の佐渡征伐、天正18年(1590)の小田原征伐、文禄元年(1592)からの朝鮮出兵においても、景勝と共に参陣して武功を挙げた。(👉落水城)
〇兼続のおもな権限や諸施策
検地惣奉行として越後佐渡に渡る検地(上杉検地・河村検地)を実施 知行宛行奉行、佐渡庄内代官として直江家とつながりの深い与板衆の面々を直臣にしつつ、景勝直轄地や遠方を管理し、実父樋口惣右衛門伊豆守を直峯城に、実弟樋口与七を小国家に入嗣させ(大国但馬守と名のる)、小国城・本条城に配置し、血縁者を重要な位置につけていった。 〇文禄の役後参陣に際しては朝鮮古活字本などを蒐集し持ち帰り、翻刻した「文選」「論語」などは日本における銅活字本の始まりとなった。 (伏見城普請)文禄3年(1594)、豊臣秀吉は、天下普請で伏見城の築城を朝鮮に出兵していない東国諸大名に命じた。上杉家に対しては中でも難工事と目された舟入場の普請が命じられた。越後の上杉家にも1月20日 「4000人を召し連れ、上洛すべし」という朱印状が届いた。 直江兼続は、伏見城総奉行の1人に任じられ、2月25日、越後人夫4000人を引き連れ春日山城を進発した。「上杉の意地と誇りを天下に示せる絶好の機会だ」と直江兼続自ら監督する。完成後秀吉より普請場御殿を賜る。 秀吉は、兼続をとても高く評価していたようで、「天下の政治を安心して任せられるのは、直江兼続など数人にすぎない」というようなことを言っている。 (伊達政宗との逸話)兼続は政宗より7歳ほど年配である。🌌正宗が、聚楽第の一室に集まった諸大名の前で、懐中から天正大判を取り出して自慢げに披露したことがある。金貨の鋳造が始まったばかりのことであり、諸侯は次々に手に取って珍しがった。 天正大判はやがて兼続のところに回されてきた。兼続は手では受けずに扇の上にすくい、彼は扇の上にその金銭を置いて、打ち返し打ち返し女子供が羽根つきでもするようにしてみていた。 正宗は諸大名が集まる中、兼続が陪臣であるため遠慮しているのだと思って、「手に取ってこれをみられよ」とわざわざ声をかけた。 「それがしは謙信公以来、上杉家の先陣を承る身。その麾(さい)を執る手でこのような賤しきものに触れては手が汚れるので、扇に載せたのでござる」 兼続はそう応じるなり、扇を跳ね上げて大判を正宗の膝元に投げ返したので、正宗は大いに赤面したという。 🌌あるとき、兼続は江戸城内で伊達政宗とすれ違ったが、素知らぬふりで挨拶せずに通り過ぎようとした。 「直江殿ではないか。挨拶もないとは無礼であろう」 正宗が怒った。 正宗は60万石近い大大名だ。兼続は30万石の上杉家の家臣でしかない。正宗には、兼続のほうから先に挨拶して当然という意識がある。 兼続が振り返って言った。 「これは失礼。なるほど、後から見るとたしかに伊達殿でござるな。政宗公とは戦場では幾度もお目にかかっておりましたが、いつも(負けて逃げる)後ろ姿しか拝見したことがなかったため、一向に気がつきませんでした」と答えたという。 🔶記念碑
🔶墓所 🔶史跡・資料館 🔶そのほかの施設 (没後) ☯2009年(平成21)、直江兼続を主人公としたNHK大河ドラマ『天地人』が放送される ☯2019年(令和元)、文禄3年(1594年)4月2日付で、兼続が景勝の従者宛に送った手紙が発見される。直江兼続は伏見城普請に派遣されていたが、豊臣秀吉が居城とした伏見城築城の工事現場に自ら赴き、現場の労働者一人一人に声をかけた様子を記した内容であった 次のページへ |