新発田重家 Shigeya Shibata 新発田市
天文16年(1547)〔生〕~ 天正15年(1587)10月25日〔没〕(上杉謙信時代以前)源頼朝が鎌倉に政権を打ち立てると、阿賀野川以北の加地荘の地頭に有力御家人の佐々木三郎盛綱を任じた。盛綱の嫡子信実も父の跡を継ぎ、加地荘を領有して加地氏を名乗った。信実には8人ないし9人の子息があり、これらの兄弟は領内に分散して居館を構え、惣領に協力した、といわれる。新発田市や五十公野氏もその末である。新発田氏は、後に惣領支配から離れ、国人領主・大名へと勢力を拡大していく。重家の兄長敦(天文7年(1538)~天正8年(1580))は、綱貞の長男として生まれ、新発田氏を継いだ。他の阿賀北国人衆と同様に上杉謙信に臣従し、謙信に従って関東・信州・越中方面へ遠征するようになる。謙信麾下の武将として枢要な地歩を占めていく。 重家は新発田綱貞の次男で、五十公野弘家の養子に出された。五十公野氏を継ぎ五十公野治長と称した。妻を、会津芦名氏の武将小田切三河守から迎えた。小田切氏は赤谷に居館を構え、景勝との戦いでは重家を支えた。 重家は幼い時から豪胆で知られ、多くの武勇伝を残している。智勇に優れ、上杉謙信に仕えて川中島の戦いなどに加わり、多くの武功を打ち立てた。 重家は16歳のとき、永禄4年(1561)の上杉謙信による小田原城攻撃に従軍した。小田原城包囲が1ヶ月に及び、謙信は攻撃をあきらめ撤退することと決した。 軍議を開き、謙信は各隊の配備を武将たちに示し、これを中心に論議をすすめていた。末席でこれを聞いていた重家が、急に前に進み出てこの案に異を唱えると、謙信ははじめ重家を若輩と侮っていたが、重家の話を聞くうちに、その智略を認めほめたという。 謙信は重家に殿軍を任したところ、その大役を見事に果たし、敵味方に剛勇を轟かせた。 第四次川中島の戦いでは、重家が加わった新発田隊は、武田信玄の本陣に襲いかかり、穴山信君隊や諸角豊後守隊と激闘となり、諸角豊後守の首級を挙げている。 (御館の乱)天正6年(1578)3月13日に亡くなった謙信の死後、跡目を巡って養子の景勝と景虎が争った御館の乱では景勝を助けた。景勝方の武将安田(毛利)顕元から、景勝方に加われば、報償は望み次第という誘いに応じ、新発田長敦、五十公野重家や、上杉謙信の寵臣で、後に重家の妹の婿となり五十公野城主となった三条道寿斎信宗も景勝方に参戦した。 長敦は上杉領に進撃してきた武田勝頼との和平交渉を、中心となって進めるなど、景勝方では重要な地位を占めていた。 天正6年(1578)9月26日、景虎は自軍の形勢不利を一挙に挽回しようと、自ら兵を率いて御館城 ※GOOGLE 画像を出て、大手大場口で激戦となった。重家が先頭を切り、敵陣へ乗り込んで奮戦した結果、勝利に結びついたことは、景勝も認めたので、重家の武名は大いに高まった。 天正8年(1580)閏3月28日、景勝は景虎の残党討伐に出馬したが、新発田重家に参陣を命じている。この直前に、長敦が死亡したので、重家が跡を継いでいたものと思われる。 御館の乱の論功行賞が行われ、軍奉行の安田顕元は、新発田氏を味方に引き入れる際に、報償を約束した手前、厚く遇するよう進言した。 然し、旗本山崎秀仙、直江信綱らが、これに反対し、行賞は、景勝のもとで最初から身命を賭して働いた旗本を中心にすべしとした。結局、重家は、御館の乱(1578-1579)の勝利に貢献したものの、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかった。景勝の旗本たちを優遇し、国人衆には冷たいものであった。重家はこの行賞に不満を募らせ、いつしか謀反に移行した。安田顕元は、重家に約束したことが反故にされた事から、面目をつぶされたと自害している。 (上杉景勝との戦い)重家の景勝との争いは、途中、天下平定を目指す、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、佐々成政などの介入によって、その都度情勢に変化をもたらし、終結まで7年もの年月を経過している。景勝は、織田信長の軍勢と、越中、越前、信濃、上野などで交戦していた。重家は、織田信長に通じ、越後国内で後方攪乱戦をおこなった。景勝方の拠点となっていた篠岡城(笹岡城) ※GOOGLE 画像や木場城 ※GOOGLE 画像を攻撃した。 天正10年(1582)6月2日景勝を苦しめる信長が明智光秀の謀反で横死した。重家は後楯を失い、これを好機と、景勝方が攻勢に転じた。 天正10年(1582)8月、景勝は、自ら出陣し阿賀野川を渡り三国街道を通りを進撃し、新発田城に攻勢をかけた。しかし、景勝勢は、長期にわたる信濃地方での戦闘などで兵に疲弊が見えたので、9月30日、新発田城・五十公野城 ※GOOGLE 画像の囲みを解いて、帰国の途についた。これを見た新発田重家は、自ら馬にまたがり、追撃に移った。 放正寺橋で、景勝の殿軍と交戦が行われ、景勝自身も負傷し篠岡城に逃げ込んでいる。重家軍を押し戻すことができた景勝勢ではあったが、この戦いで水原城主水原満家が戦死している。(放正寺橋の戦い) 信長死後の柴田勝家と秀吉との間での戦の際、天正11年(1583)景勝は秀吉に誓詞を送り、秀吉から、富山の佐々成政を攻撃するよう依頼があった。しかし、関東国境が定まらなかった景勝は派兵しなかった。秀吉は激怒し、後に恭順した佐々成政に越後を平定するよう命じるが、その際、成政は重家に連携を要請している。重家の浮沈は、中央の武将の離合集散の影響を受けるのであった。 天正11年(1583)7月9日、景勝は、佐々勢の侵入に備えるとともに、新発田重家攻撃の為出陣した。8月18日、景勝勢が三国街道を八幡付近に差し掛かった時、新発田重家、五十公野道寿斎が自ら迎撃し、数時間にわたって抗戦するも、新発田勢は城に撤退した。景勝勢は城攻めをせず春日山に引き上げた。豊臣と徳川の間の緊張が高まっていたのである。(八幡の戦い) 天正13年(1585)入ると、秀吉は関東地方の情勢が不安定であることから、これを征討するためには越後国内の情勢が安定していることが必要であると考えた。9月、側近の木村吉清が秀吉から命をうけ、景勝と、重家の和議を促すため、越後へ下ってきた。 重家は、秀吉からの和議の要請ではあるが、武士の面目をつぶされ、どうしても応じられないと回答した。重家の胸中には、勇将の意地から、もはや勝敗を度外視して景勝と戦うことを決意していた。 天正14年(1586)6月、景勝が上洛し豊臣秀吉に忠誠をっ誓っていたが、11月4日、秀吉は新発田城を一日も早く落とし、重家の首をはねてしまえと命じた。この頃、関東地方は安定し、越後国内で争いがあっても支障がない状況であった。 景勝は、秀吉からの下命であることから、新発田重家討伐に一刻の猶予も許されなかった。 天正15(1587)年7月23日、景勝は一万騎を従え、三国街道を新発田城下に侵攻、田畑に放火した。 8月25日、五十公野城下に迫った景勝勢は、9月1日には新発田城を攻撃、7日に加地城 ※GOOGLE 画像を落とし、次いで城将小田切三河守率いる会津兵を討って赤谷城を落とし、会津からの補給ルートを制した。勢いに乗った景勝は再び五十公野城を攻め、10月24日に落城、さらに翌25日からは、重家の居城新発田城に総攻撃をかけた。 10月25日、重家は新発田城中の屋敷の障子を一面に取り払わせ、鼓太鼓を打たせて最後の酒宴をしていたが、敵の乱入を聞き、備前長光の太刀3尺3寸(約1m)を帯て、謙信から許された朱柄の采配をとり、白地に『馗』の字の指物を負い月毛の馬に乗り、柿色に三団子の旗を持たせ、700余騎を率いて最後の突撃を行った。さんざんに斬りまくった後、数十騎に討ち減らされ、重家は今はこれまでと色部修理大夫長真の陣に駆け入り、大音声で「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ。誰かある。首を取れ」と呼ばわり、甲冑を脱ぎ捨てて腹を掻き切った。色部家家臣嶺岸佐久左衛門が走り寄り、重家の首を打ち落としたという。ここに、足掛け7年に渡った「新発田重家の乱」はようやく終結した。 江戸時代になると新発田重家の死は、信義をないがしろにした上杉景勝に、悲憤のあまり立ち向かい敗れて散った悲劇の武将として軍記物語で扱われる様になった。江戸の庶民は判官びいきから、その剛勇を武士の鑑としてもてはやした。 新発田藩7代目藩主の溝口直温は、福勝寺にある重家の墓が朽ちて打ち捨てられたようになっているのを見て惜しみ、新しい墓を建立した。現在、福勝寺にある重家の墓はこの時のものである。 墓所である福勝寺の銅像は四百回忌にあたる昭和52年(1977)に建てられた。寺内の羅漢堂史料館には、重家が筆をとった軍令書が残されている。また、毎年10月28日の命日には本堂で回忌法要が続けられている。
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