新発田重家  新発田市



生誕 天文16年(1547年)〜 死没 天正15年10月25日(1587年11月25日)

佐々木加地氏の裔。重家は新発田綱貞の次男で、五十公野家に養子に出された。
初め五十公野氏を継ぐが、智勇に優れ、上杉謙信に仕えて川中島の戦いなどに加わり、多くの武功を打ち立てた。その死後発生した御館の乱では景勝を助けた。
重家の兄、長敦は御館の乱の後半に亡くなり、重家が新発田氏を継いだ(五十公野氏は妹婿長沢信宗が継ぐ)。御館の乱の勝利に貢献したものの、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかった。
御館の乱の論功行賞は、景勝の旗本たちを優遇し、国人衆には冷たいものであった。
重家は、この恩賞の不満から織田信長に通じて景勝に背き7年にわたって争いは続いた。景勝を苦しめるが信長の死で後楯を失い、景勝が豊臣秀吉に忠誠を誓ったあたりから、情勢は重家に不利となっていった。
天正15(1587)年7月23日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、田畑に放火した。
9月24日、豊臣秀吉の使者が景勝に対面、秀吉の命は「因幡守(重家)、城を出て降参すれば赦すべし」とのものだった。重家はかたくなに秀吉の仲介を拒否した。この結果,秀吉の激怒をかい、即刻重家を討ち滅ぼせとの命令が下った。
10月24日五十公野城が攻略される。
10月25日、重家は新発田城中の屋敷の障子を一面に取り払わせ、鼓太鼓を打たせて最後の酒宴をしていたが、敵の乱入を聞き、染月毛の馬に跨って七百余騎を率いて最後の突撃を行った。さんざんに斬りまくった後、数十騎に討ち減らされ、重家は今はこれまでと色部修理大夫長真の陣に駆け入り、大音声で「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ。誰かある。首を取れ」と呼ばわり、甲冑を脱ぎ捨てて腹を掻き切った。ここに、足掛け七年に渡った「新発田重家の乱」はようやく終結した。
墓所である福勝寺の銅像は四百回忌にあたる昭和52年に建てられた。寺内の羅漢堂史料館には、重家が筆をとった軍令書が残されている。また、毎年10月28日の命日には本堂で回忌法要が続けられている。



墓所
〔所在地〕新発田市中央町2丁目2番7号 福勝寺
〔アクセス〕
  • 電車…JR羽越本線新発田駅から0.7km 徒歩で9分



福勝寺  地図 ストリートビュー










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