新発田重家 Shigeya Shibata 新発田市



生誕 天文16年(1547)~ 死没 天正15年10月25日(1587年11月25日)

佐々木加地氏の裔。重家は新発田綱貞の次男で、五十公野家に養子に出された。
五十公野氏を継ぎ五十公野治長と称した。智勇に優れ、上杉謙信に仕えて川中島の戦いなどに加わり、多くの武功を打ち立てた。

重家は16歳のとき、永禄4年(1561)の上杉謙信による小田原城攻撃に従軍した。小田原城包囲が1ヶ月に及び、謙信は攻撃をあきらめ撤退することと決した。
軍議を開き、謙信は各隊の配備を武将たちに示し、これを中心に論議をすすめていた。末席でこれを聞いていた重家が、急に前に進み出てこの案に異を唱えると、謙信ははじめ重家を若輩と侮っていたが、重家の話を聞くうちに、その智略を認めほめたという。
謙信は重家に殿軍を任したところ、その大役を見事に果たし、敵味方に剛勇を轟かせた。
第四次川中島の戦いでは、重家が加わった新発田隊は、武田信玄の本陣に襲いかかり、穴山信君隊や諸角豊後守隊と激闘となり、諸角豊後守の首級を挙げている。

謙信の死後、跡目を巡って養子の景勝と景虎が争った御館の乱では景勝を助けた。
重家の兄、長敦は御館の乱の後半に亡くなり、重家が新発田氏を継いだ(五十公野氏は妹婿長沢信宗が継ぐ)。御館の乱(1578-1579)の勝利に貢献したものの、兄の家督を相続することしか褒美として認められなかった。
御館の乱の論功行賞は、景勝の旗本たちを優遇し、国人衆には冷たいものであった。
重家は、この恩賞の不満から織田信長に通じて景勝に背き7年にわたって争いは続いた。景勝を苦しめるが信長の死で後楯を失い、景勝が豊臣秀吉に忠誠を誓ったあたりから、情勢は重家に不利となっていった。
天正15(1587)年7月23日、景勝は一万騎を従え新発田城下に侵攻、田畑に放火した。
9月24日、豊臣秀吉の使者が景勝に対面、秀吉の命は「因幡守(重家)、城を出て降参すれば赦すべし」とのものだった。重家はかたくなに秀吉の仲介を拒否した。この結果,秀吉の激怒をかい、即刻重家を討ち滅ぼせとの命令が下った。
10月24日五十公野城が攻略される。
10月25日、重家は新発田城中の屋敷の障子を一面に取り払わせ、鼓太鼓を打たせて最後の酒宴をしていたが、敵の乱入を聞き、染月毛の馬に跨って七百余騎を率いて最後の突撃を行った。さんざんに斬りまくった後、数十騎に討ち減らされ、重家は今はこれまでと色部修理大夫長真の陣に駆け入り、大音声で「親戚のよしみを以って、我が首を与えるぞ。誰かある。首を取れ」と呼ばわり、甲冑を脱ぎ捨てて腹を掻き切った。ここに、足掛け7年に渡った「新発田重家の乱」はようやく終結した。

江戸時代になると新発田重家の死は、信義をないがしろにした上杉景勝に、悲憤のあまり立ち向かい敗れて散った悲劇の武将として軍記物語で扱われる様になった。江戸の庶民は判官びいきから、その剛勇を武士の鑑としてもてはやした。
新発田藩7代目藩主の溝口直温は、福勝寺にある重家の墓が朽ちて打ち捨てられたようになっているのを見て惜しみ、新しい墓を建立した。現在、福勝寺にある重家の墓※ストリートビューはこの時のものである。

墓所である福勝寺の銅像は四百回忌にあたる昭和52年(1977)に建てられた。寺内の羅漢堂史料館には、重家が筆をとった軍令書が残されている。また、毎年10月28日の命日には本堂で回忌法要が続けられている。





















 上杉景勝












新発田城 福勝寺 全昌寺 五十公野城址