津川城跡(麒麟山公園) Tsugawa Castle Ruins (Kirinzan Park) 阿賀町



"あまりの険しさに、峰渡りのキツネさえも後戻りすると云われる“狐戻城”の異名を持つ津川城は、麒麟山(標高191m)の自然を利用した山城。鎌倉時代の建長4年(1252)の築城と伝えられる。
津川の地は古来越後と会津を結ぶ要衝として重視され、阿賀野・常波両河の合流点に屹立する麒麟山には鎌倉時代に会津芦名氏の一族で藤倉盛弘が築城し、その子孫はのち金上(かながみ)と名のった。
室町、戦国時代にかけて会津の豪族芦名氏が新宮氏と争う中で、津川城は山城として整備されていった。
応永27年(1420)に芦名盛政は新宮城を攻撃、城主新宮盛俊は戦死し、残党は越後国五十公野に逃れた。越後五十公野城を拠点とした新宮時康は、徐々に勢力を回復した。
永享5年(1433年)新宮時兼等の一族は再起をかけ、金上氏の津川城を攻めたが、撃退されて滅亡した。
金上氏は越後との国境で、長尾氏・上杉氏との間でもたびたび紛争がおき、戦いが行われた。
主郭は尾根の西側先端山頂部にある。全山を要塞化し、中腹以下にも大小多数の腰曲輪を設け、全域にわたって素朴な鉢巻石垣が見られる。また要所には門・櫓・縦堀・井戸・舟入などの跡も見られる。
天正6年(1578) 越後で御館の乱がおこると、城主金上盛備は上杉景虎を支援し、下越で景勝方と戦って蒲原安田城を攻め落としている。また新発田重家の乱では、芦名氏が重家を支援したため、補給路にある津川城の支城赤谷城(現新発田市)が景勝に攻められ陥落している。
天正17年(1589)、城主金上盛備が伊達政宗との摺上原の戦いで片倉景綱隊に突撃し戦死、また芦名氏も滅んで、津川城は伊達氏に没収された。 その後、会津に入封する大名が変わるたびに、津川城主も変わることとなる。
慶長3年(1598)、会津に上杉景勝が移封されると藤田信吉が城代となった。

金上氏が滅んだ後も歴代会津領主は越後方面に備えて支城として整備を重ねたが、寛永4年(1627)、伊予松山城より加藤嘉明が会津に入封。加藤氏は江戸幕府の命により津川城を破却、廃城となった。

現在はその跡だけが残り、一帯は麒麟山公園として整備された。また山中には、ユキツバキ・アカマツ・コナラ・ヒメコマツなど、千余種の植物群が見られる。
金上稲荷のある本丸跡からは、阿賀野川や津川の町並みが一望できる。 美しいせせらぎ、豊かな水量を誇る“川”に恵まれた土地を活かして、水辺を整備。川の流れを中心とした、自然に親しむスポットとして、人々の心をうるおす。
麒麟山の登山路を行くと、野口雨情の歌碑が、本丸跡には「西郷四郎之碑」がある。(案内図)


  • ❏〔所在地〕新潟県東蒲原郡阿賀町津川中川原
  • ❏〔アクセス〕
    • 🚅…JR磐越西線「津川駅」からバスで10分または徒歩で35分
    • 🚘…磐越自動車道「津川IC」より車で5分
  • ❏〔見どころ〕

    • 〔桜の種類〕 ソメイヨシノ
      〔本数〕 100本
      〔見頃〕 4月上旬~中旬
      〔ライトアップ〕 あり

    • 紅葉
      全山が色づき見事であるが、特に麒麟山展望台(白狐展望台)からの眺めは格別である。
      〔見頃〕 10月下旬~11月中旬

  • ❏〔施設〕
    • 麒麟山展望台(白狐展望台) ※ストリ-トビュ-
      高台にあり、津川の町並や大河阿賀野川が一望できる展望台。“白狐”という名前は、詩人・野口雨情がかつて津川を訪れ、キツネ伝説にまつわる童謡を創作したことに由来するものです。耳を澄ますと狐の鳴き声が聞こえてきそうな気がするのは不思議な体感です。
  • ❏〔周辺の観光施設〕

  • 月期間 期間 桜→

  • ❏〔交通情報〕



≪現地案内看板≫
麒麟山狐戻城の由来

建長四年(一二五二)会津芦名の一族藤倉盛弘が麒麟山の天嶮を利用して築いたこの城は山が険阻のため狐も戻ると言うのでこの名がつけられた。
その子孫である金上氏が永い間城主として越後国の備えを堅くした。
一五世の盛備は特に文武の道に秀で芦名家使者として京に上った際豊臣秀吉と和歌の問答をして名を挙げ従五位下遠江守に任せられた。
天正十七年(一五八九)六月芦名義弘は米沢から侵入した伊達政宗と磐梯山麓に戦って敗れた。
急を聞くや盛備は手勢を従え摺上原に馳せつけ奮斗し壮烈な戦死をとげた。
寛永四年(一六二七)に三百七十七年の歴史を誇るこの城も幕命によって廃城となった。
以後津川に代官が置かれた。

麒麟山

阿賀野川と常浪川の合流点に近く、険しい姿で聳え立つ独立丘で標高194.8m、石英粗面岩からできている。一日千里を翔る天馬『麒麟』に山容が似ているので名付けられたという。山の中腹に山城の跡がある。春は新緑、秋は紅葉の名所としても有名であり、多くの人達から親しまれ、県立阿賀野川ライン自然公園のシンボルとなっている。
麒麟山には、アカマツ、コナラ、エゾタイヤ、ユキツバキなど600種類以上の植物が10.5haの面積に渡って群生し、貴重な植生の資料を提供している。
早春には、カラ類(シジュウカラヒガラコガラヤマガラ)のさえずりが頻繁に聞かれる。4月下旬~5月の連休を挟んで夏鳥のセンダイムシクイオオルリキビタキヤブサメなどが渡って来る。6月に入るとコメボソムシクイの群れが観察できる。
紅葉が始まることともなると、南下するヒヨドリの群れやイカルの群れ、混群となって移動するカラ類が目立つようになってくる。
11月に入ると、落葉期を迎え、冬鳥のカシラダカアトリジョウビタキなどが観察される。




西郷四郎の碑

西郷四郎〔慶応2年(1866)2月4日 - 大正11年(1922)12月22日〕は、明治の中期、講道館四天王の一人として、特技『山嵐』で一世を風靡した柔道家である。会津藩士志田貞二郎の三男に生まれる。3歳のときに戊辰戦争を逃れるため家族で津川町角島に移住。明治17年(1884)会津藩家老西郷頼母の養子となった。同町のシンボルの名峰麒麟山の中腹、本丸跡に碑が建っている。

千畳岩

麒麟山の北壁の真下、阿賀野川の右岸に連なる千畳岩は、奇岩怪岩の岩原である。今では下流のダム建設によってその半分を水中に没し、昔の面影は残っていない。この岩原にたたずむと北東に飯豊連峰が望まれ、太陽が西山に傾く夕映えは、古城麒麟山や清流阿賀野川を真っ赤に染めて、私達を夢の世界に誘っている。


津川城の歴代の城主

金上盛備 ( かながみ もりはる ) 1526~1589

芦名氏 城主 天文11年(1542)? ~天正17年(1589)
陸奥国会津地方を治めた戦国大名芦名氏の一族で、最も上席であり、芦名盛氏から芦名義広まで5人の当主に仕えた。その政治手腕の高さから「芦名の執権」の異名をもつ。
天正6年(1578)の御館の乱の際には、上杉景虎方として参戦した芦名盛氏に従い、蒲原安田城を攻め落としている。天正9年(1581)に越後で発生した新発田重家の乱においても、芦名盛隆に従い重家方として上杉景勝軍と戦い赤谷城救援に向かったが、藤田信能に敗退し津川城に撤退、新発田重家は敗れ滅亡している。
芦名家の後継問題が起こった時、盛備は、水戸の佐竹から義広を迎えることを主張し、一方猪苗代盛国は米沢の伊達政宗の弟を迎えるべく主張した。
豊臣秀吉と通じた金上盛備が辣腕を振るい佐竹氏から芦名義広を養子に迎え入れることとなった。しかし藩主となった義広の専横により、猪苗代盛国ら反対派は粛清され芦名家中の大分裂を引き起こしてしまう。
猪苗代盛国は、伊達政宗と内通し、伊達政宗は、天正17年(1589)6月4日の摺上原の戦いで、芦名氏を滅ぼした。盛備は津川にいたため、激戦には間に合わなかったが、急ぎ駆け付け、大勢が決した後、芦名氏に殉じようと奮戦して死んだ。

藤田信能 1558~1616

上杉氏 城主 慶長3年(1598)~慶長5年(1600)
上杉景勝の家臣。慶長3年(1598)、秀吉の命により景勝が春日山から会津へ移封された時、従って来て、津川城主となり1万1千石を領し、家中10位の地位まで登った。春日山時代は武蔵衆という、割合新しい家臣であった。藤田氏はもともと関東武蔵地方の出身で、初めは関東管領に仕え、北条家、武田家と主家を変えて来た。藤田家におきた内紛から、信能は上杉家に仕えることとなった。武略・智略に優れた武将であった。
景勝は、秀吉の死後、石田三成と組んで、徳川家康を除こうとした。それに備えて、直江兼続の献言によって、会津盆地の中央に広大な神指城をきずいた。
これに対して、信能は家康と結んだ方が上杉家の利は大きいと主張し、家康に接近していった。
信能は利より義を重んじて西軍に味方する直江兼続と対立し、家康に上杉家が大規模な城を築城し戦争に備えていると密告したことで、これが家康の会津征伐の口実となった。信能は家来200人ばかりを引き連れて江戸へ出奔した。
藤田能登はのち家康に用いられ、小田原城番などになったが、後下野西方1万5千石を与えられ、元和2年(1616)59歳で没し、子が無いため絶家となった。

岡半兵衛重政 1568 - 1613

蒲生氏 城主 慶長6年(1601)~慶長18年(1613)
元亀4年(1573)、蒲生氏郷に仕官する。
慶長3年(1598)、蒲生氏郷死亡後子の蒲生秀行が跡を継いだが、幼少のため減移封された。重政は会津を離れず一時上杉家に仕える。
慶長6年(1601)、上杉家が米沢藩に減移封され、蒲生秀行が再び会津藩に復帰すると、重政は蒲生家に帰参し、津川城主となる。
重政は、智略にすぐれ、行政手腕に秀でていた。
慶長17年(1610)に起きた津川大火の復興の際に、津川城主岡半兵衛重政は家々の玄関先の土間にひさしをかけて雁木がつくるなどと、復興と街づくりに意を注いだ。現在の津川町の基礎は。岡半兵衛重政によるところが大きい。
慶長17年(1612)藩主秀行が30歳で急死する。その後継者に秀行と正室振姫の嫡子である忠郷が家督を継承するが、忠郷は相続時わずか10歳のため、母親の振姫が後見人となって藩政を見ることとした。しかし仕置奉行の岡半兵衛重政とが、ことあるごとに衝突し、抗争が始まった。
振姫は徳川家康の娘で、忠郷は孫に当たった。家康は会津藩の藩政の混乱に心を痛めていた。
慶長18年(1613)徳川家康は、岡半兵衛重政を駿府(静岡)に呼びだし、藩政を私物化し混乱させたとして死罪とした。振姫は和歌山藩主の浅野長晟と再婚することとなり、子を置いて蒲生家を去ることとなった。

蒲生忠知 1605~1634

 蒲生氏 城主 慶長19年(1614)~寛永3年(1626)
藩主蒲生忠郷の弟である。父秀行が豊臣秀吉の命令によって徳川家康の娘振姫と結婚し二男として生まれた。家康の孫である。
慶長18年(1613)頃に元服すると、岡重政が処刑されたあと、慶長19年(1614)津川城主になったと伝えられている。この時から津川は町と称することとなった。小川庄(東蒲原郡)ならびに河沼三郷を入れて5万石を領した。
寛永3年(1626)羽州(山形県)上の山4万石に任ぜられた。翌寛永4年(1627)、会津藩蒲生忠郷が死亡し、子供がいなかったことから、本来ならば蒲生氏は断絶するところ、母正清院(振姫)が徳川家康の娘であることから、江戸幕府の計らいにより忠知の家督相続が許された。ただし、会津60万石から伊予松山24万石に減移封されている。代わって、伊予の加藤嘉明が会津に入封すると津川城は破却された。
















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