新発田城 Shibata Castle 新発田市



新発田藩の戊辰戦争 赤谷の戦い

《新発田氏》

鎌倉時代の初期の頃、新発田氏の居館が置かれたのが始まりといわれる。新発田氏は佐々木源氏の後裔といわれている。
戦国時代の当主家重は、御館の乱後、上杉景勝に反抗し、天正15年(1587)10月、城を攻略され自刃して果てた。

《溝口氏入封以後》

慶長3年(1598)、上杉景勝が会津に移封になると、堀秀冶が越後の国主として、春日山城に入場した。溝口秀勝は、その与力大名として、加賀国大聖寺城から蒲原郡6万石を与えられて入封した。新発田重家の居城跡に新たに縄張りを施して東南五十公野方面に正対して大きく両翼張り出した構えの平城の大城郭を建設した。縄張りは、長井清左衛門が行った。
二の丸の「古丸」と称されたところが、重家時代の本丸跡であったという。11代直溥の万延元年(1860)に高直し加増されて10万石となった。城主の交代が頻繁におこなわれた江戸時代、外様大名溝口家は、明治2年(1869)の版籍奉還まで、12代、270年間在城した。

五十嵐新五郎(菊屋新五郎)

慶長3年(1598)、豊臣政権下で大規模な転封があり、上杉氏が越後から会津へ、そして堀氏が越前から越後へ、堀家の与力大名である溝口秀勝も新発田に移動となった。
道中、溝口秀勝の一行が寺泊まで来たとき野武士二、三百人に襲われる。不意をつかれた秀勝たちはたちまち苦境に立たされた。
その時、菊屋の主の五十嵐新五郎の手のものが溝口秀勝に助力し、賊徒はほうほうの態で逃走した。秀勝は五十嵐新五郎の道案内で無事に新発田へ赴くことができた。

慶長5年(1600)関が原の合戦があった年、上杉遺民一揆が発生した。堀氏は事件後、菊屋が旧主上杉氏と通牒していたのではないかと疑い、春日山へ召し寄せた五十嵐新五郎を捕縛した。
五十嵐新五郎は溝口秀勝に助命嘆願書をしたためた。新発田入りの際に助けたもらった新五郎の窮地と知った溝口秀勝は、春日山城に赴いて主君・堀秀治に五十嵐新五郎に対するきちんとした取調べを要求するも、最初、堀秀治は与力大名の申し出など取るに足らないとはねつけた。
これに対して秀勝は「五十嵐新五郎を放免せよ。従わなければ力づくでも奪いとるぞ」と、手勢をもって牢を囲み、威嚇した。強硬姿勢に屈した堀氏がついにあきらめ、菊屋新五郎は秀勝に伴われて新発田へ向かった
その後、堀家の改易によって菊屋新五郎は寺泊へ戻ることができたという。



城跡一帯にあやめが咲いていたことから「あやめ城」とも、戦争の際、加治川の水を城下に引き入れるように築城されていることから「浮舟城(舟形城)」とも、狐が尾を引いて縄張りを教えたということから「狐の尾引き城」とも呼ばれている。新発田の地が城地に選ばれたのは、周囲が河川と沼沢に囲まれていて防御に有利であったこと、内島見潟を通って日本海に出られることから、海上輸送に便利であったことなどの理由による。

溝口秀勝は五十公野(新発田市)に仮住まいをして築城を開始した。旧新発田川本流と支流を利用して外堀とし、南北に長い地形を巧みに縄張りした。本丸は三重櫓以下4基の隅櫓で固めた変形五角形で、表門左右および裏門の升形の部分を石垣で固め、その他の部分は土塁であったが、櫓下は腰石垣を築いた。本丸の周囲に二の丸を、二の丸の南に三の丸を配した梯郭式平城であった。本丸表門から二の丸土橋門へ通じる二重の濠にはさまれた狭長な帯曲輪は馬だしの機能を果たす優れた縄張りであった。

上町口と下町口には足軽屋敷、町の東と南側には寺町を置き、また一流を掘って新しい新発田川とし、城下町の防衛線とした。城郭が完成したのは、秀勝が入封して66年後の、3代藩主宣直の承応3年(1654)であった。
しかし、それから15年後の寛文8年(1668)、火災により城内の建物は鉄砲櫓・丑寅櫓を除いて焼失しするという被害を受け、翌9年(1669)には大地震に見舞われ石垣は崩壊した。
翌年から開始された復旧工事により、辰巳櫓からいぬい櫓(現在の三階櫓)までの間がすべて切込接の石垣となり、1679(延宝7)年に、いぬい櫓があった場所に三階櫓が建てられた。城の完全復旧は30年後の元禄13年(1700)頃までまたねばならなかった。

城は、寛文8年(1668)と享保4年(1719)の2度の火災で焼けたがその都度再建された。享保4年の火事は与茂七火事と言われている。

明治5年(1872)、城郭毀却令が出されたとき、櫓11棟、櫓門6棟あったが、このうち本丸内の三階櫓、辰巳櫓、鉄砲櫓などが取り壊された。城内には明治17年、歩兵16連隊が入隊、今日は陸上自衛隊が駐屯している。
隅櫓はもと二の丸にあったが、昭和34年(1959)に解体修理が行われたとき、本丸鉄砲櫓跡である今の場所に移された。
現在は表門と旧二の丸隅隅櫓、本丸石垣と堀の約半分、旧土橋門付近の土居が残っている。平成16年(2004)に三階櫓、辰巳櫓が復元された。

三重櫓は屋根が丁字型で、棟上に他に例のない三つのしゃちほこが載る。二の丸隅櫓は1668年(寛文8)の大火後に再建され、1959(昭和34)年からの解体修理後に移築された。表門は本丸の玄関となる櫓門で、2階の格子窓からのぞくと門前を見下ろすことができ、床下には石落としが設けられて攻撃できるようになっている。
切込接の石垣は成形された石が整然と積まれ、独特の雰囲気を生み出している。

新発田城は新発田市大手町に位置する近世の典型的な平城で、平成18年(2016)、日本100名城に選定に選定された。
平成16年(2004)、城のシンボルとして三階櫓が復元されて、桜が堀端に植えられコントラストが見事だ。水堀をはさんだ新発田城址公園にはお花見期間中はぼんぼりが設置され、出店も出てとてもにぎわう。(案内図)

  • ❏〔所在地〕新潟県新発田市大手町6
  • ❏〔問い合わせ先〕 0254-22-9534 新発田市役所生涯学習課
  • ❏〔アクセス〕
  • ❏〔周辺の観光施設〕
    • 🔹足軽長屋
      江戸時代末期における新発田藩の足軽長屋で、藩政当時のままの姿で現存する。当時の下級武士が住んでいた、歴史的にも貴重な存在です。 桁行24間、梁間3間半、屋根寄棟造り、カヤ葺。この内部を8戸に区切り、間取りは玄関に3畳、6畳の2間と台所、床の間等はなく質素な造りで、当時の足軽たちの暮らしぶりを感じさせてくれます。
    • 🔹清水園
      旧新発田藩溝口侯の下屋敷である。江戸時代前期の万治元年(1658)、新発田藩三代藩主溝口宣直の時代、藩の下屋敷の造営をはじめ。寛文6年(1666)遠州流の茶人で幕府の庭方だった縣宗知(あがたそうち)を招き、近江八景を取り入れた大名式回遊庭園を構築した。中央には草書体の「水」の字をかたどった池が配置されており、池の周囲には五つの茶室が点在する。もとは清水谷御殿と呼ばれた。 1891年、大地主の伊藤文吉に買収された後、1946年より北方文化博物館の分館となり、「清水園」と名づけられた。
    • 🔹宝光寺
      新発田藩溝口氏の菩提寺。宝光寺の開基は、新発田藩祖溝口秀勝公です。
    • 🔹堀部安兵衛武庸銅像
      • 〔所在地〕大手町4
    • 🔹月岡温泉
    • 🔹五十公野公園
    • 🔹蕗谷虹児記念館
    • 🔹諏訪神社
  • ❏〔交通情報〕
  • ❏〔新発田城を紹介しているサイト〕







新発田城址公園

現在の新発田城は、お堀、国の重要文化財に指定されている「表門」「旧二ノ丸隅櫓」などが江戸時代の姿を今に残す。
また、実質的な天守とされる「三階櫓」のほか「辰巳櫓」が復元され、日本100名城のひとつに選ばれた。
表門前には新発田出身の赤穂義士堀部安兵衛の銅像があり、その脇には安兵衛茶屋がある。
春には260本の桜の花見、秋には紅葉、冬には一面の雪景色が美しい憩いの公園で新発田市を代表する花見スポットとなっている。
桜の開花時期には、ぼんぼりが設置され、夜桜も楽しめる。お堀に映える夜桜とライトアップされたお城のコラボレーションが美しい。

  • 〔桜の種類〕 ソメイヨシノ、ヤエザクラ
  • 〔本数〕 ソメイヨシノ 260本 ヤエザクラ 60本
  • 〔開花時期〕4月上旬

  • 新発田の春まつり

    新発田市内の桜の名所、各所で「新発田の春まつり」を開催!「新発田城址公園桜まつり」では新発田城のライトアップ、ぼんぼりの点灯を実施。

    「加治川桜まつり」でも、同時刻にライトアップを実施。また、4月29日には大峰山ハイキングを開催。

    〔開催日〕 2022年4月1日(金曜日)~4月10日(日曜日)
    〔開催場所〕 新発田城址公園 加治川治水記念公園







新発田城の平面図👉



≪新発田藩の戊辰戦争≫















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  • 出版社:西東社
  • 発売日: 2016年03月



















新発田城 足軽長屋 清水園 宝光寺