| 慶長3年(1598)、加賀国大聖寺城から蒲原郡6万石を与えられて入封した溝口秀勝は、新発田重家の居城跡に大城郭を建設した。縄張りは、長井清左衛門が行った。
二の丸の「古丸」と称されたところが、重家時代の本丸跡であったという。十一代直溥の万延元年(1860)に加増されて10万石となった。城主の交代が頻繁におこなわれた江戸時代、外様大名溝口家は、明治2年の版籍奉還まで、十二代、270年間在城した。
城跡一帯に菖蒲が咲いていたことから菖蒲城とも、戦争の際、加治川の水を城下に引き入れるように築城されていることから浮舟城(舟形城)とも、狐が尾を引いて縄張りを教えたということから狐の尾引き城とも呼ばれている。新発田の地が城地に選ばれたのは、周囲が河川と沼沢に囲まれていて防御に有利であったこと、内島見潟を通って日本海に出られることから、海上輸送に便利であったことなどの理由による。
溝口秀勝は五十公野(新発田市)に仮住まいをして築城を開始した。旧新発田川本流と支流を利用して外堀とし、南北に長い地形を巧みに縄張りした。本丸大手門左右および裏門の升形の部分を石垣で固め、その他の部分は土塁であったが、櫓下は腰石垣を築いた。本丸に三層の乾櫓をおいた。その様式は、本丸の周囲に二の丸を、二の丸の南に三の丸を配した梯郭式平城であった。上町口と下町口には足軽屋敷、町の東と南側には寺町を置き、また一流を掘って新しい新発田川とし、城下町の防衛線とした。城郭が完成したのは、秀勝が入封して66年後の、三代藩主宣直の承応3年(1654)であった。
しかし、それから15年後の寛文8年(1668)、火災により全城焼失に等しい被害を受け、翌9年には大地震に見舞われた。城の完全復旧は30年後の元禄13年(1700)頃までまたねばならなかった。
明治5年城郭毀却令が出されたとき、櫓十一棟、櫓門六棟あったが、このうち本丸内の三層櫓、巽櫓、鉄砲櫓などが取り壊された。今日残っているのは、重要文化財建造物に指定されている本丸表門と隅櫓だけで、わずかに新発田藩10万石の盛時を物語るにすぎない。城内には明治17年、歩兵16連隊が入隊、こんにちは陸上自衛隊が駐屯している。
新発田城は新発田市大手町に位置する近世の典型的な平城であった。
(出展:新潟県の不思議辞典)
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