新発田城 Shibata Castle 新発田市
新発田城 新発田藩の戊辰戦争 赤谷の戦い 榎峠の戦い 🔗赤坂山の戦い 🔗佐取の戦い ≪新発田藩と戊辰戦争≫溝口菱紋 慶応3年(1867)12月、将軍徳川慶喜による大政奉還を受け、朝廷から諸大名に上京するよう命じた。これに応じた藩は多くなかったが、新発田藩は12代藩溝口直正が幼かったため、名代として江戸詰めの家老窪田平兵衛が京へ向かった。 慶応4(1868)年1月3日にはじまった鳥羽伏見の戦いに新政府側が勝利し、京都の警護のため、新発田藩に対しても出兵要請が出された。しかし、越後の長岡藩や会津藩など有力譜代大名に囲まれ、自藩の立場を強く主張できない状況にあった。 2月1日、会津藩は、酒屋村の陣屋(※地図 ※ストリートビュー)に越後諸藩を集めて「酒屋会談」を行なったが、高田藩が欠席する中、新発田藩は出席し、会津藩に情報提供を約束する。 2月15日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使から勅書が届く。3月9日に、国家老溝口半兵衛(36歳)が出向き、鎮撫使に対して請書を提出した。 2月22日、藩主溝口直正は300人余の供と共に江戸を出立し、会津藩経由で帰国する。 3月30日、衝鋒隊50人余が新発田城下に現れ、軍資金の供出を求める。新発田藩は1000両の金を貸した。その後も、幕府新遊撃隊、水戸藩諸生党兵などが新発田城下を訪れ軍資金の提供を求めたので、1000両を与えた。 5月15日、米沢藩中老若林作兵衛、仙台藩軍務局副頭取玉虫左大夫が来訪し、新発田藩に対して強圧的に列藩同盟加入を申し入れる。 5月17日、藩内に奥羽越列藩同盟加盟を布告する。一方で新発田藩は京都、江戸に残留した藩士を通し総督府に対して、自藩の勤皇の志と立場の申し開きを行っていた。新政府も微力な藩としてはやむをえないものと理解を示していた。 5月19日、新発田城で藩兵の出陣式が行なわれる。組頭堀主計を士大将とし、兵200名余、砲 4門が出陣した。新潟警備のため、沼垂に滞陣する。新政府軍と長岡藩との戦いが激しくなっても、長岡藩への援軍を出すことに消極的であった。 一方、新発田藩家老溝口半兵衛が京都の窪田平兵衛と連絡を取り、高田の新政府軍参謀に接触し、新発田藩が新政府軍に内応する交渉が進む。 6月3日、米沢藩主上杉斉憲が自ら兵を率い米沢を出発、6日に越後下関(関川村)の渡辺家に宿営し、越後諸藩に対して盟主的立場を明らかにする。6月7日、藩主溝口直正は、家老などを同道し、城を出て、上杉斉憲と面談のため越後下関に向かった。しかし、その道を領民たちに塞がれて、断念して帰城する。 6月9日、新発田領内に米沢ら同盟諸藩の合計600人を超える兵士が続々集結し、出兵させるか、藩主一族は城を立ち退くか、返答に応じなければ、総攻撃に移る、と最後通告を突きつける。 6月11日、新発田藩では出兵に応じ、翌12日、総隊長溝口半左衛門が兵200名余、砲4門を率いて、見附方面に出兵した。 総隊長溝口半左衛門の奮戦6月19日、溝口半左衛門は、米沢藩斉藤主計から灰島、大曲戸の両村より大口村へ進撃命令が出され、大口村を薄暮に攻略した。戦死者4人、他に戦傷者が出た。この戦闘を督戦していた米沢藩斉藤主計は新発田藩隊長に、新発田藩への疑念も氷解したとの一書を届けた。7月24日、同盟軍は長岡藩兵の長岡城奪還作戦に呼応しての一斉に総攻撃を行った。新発田藩兵は大口村付近より攻撃を開始、夕刻には十二潟付近の新政府軍を追撃して26日には長岡城に入った。 しかし国元より、「新政府軍が領内太夫浜へ上陸、即日城下へ繰り込んだので、至急引き揚げよ」との急使が到着し、受け取った部隊は、見附から更に、翌日昼頃には加茂へ退却した。しかし、溝口半左衛門には、帰順工作が秘密裡に進められていることは知らされていなかった。帰順の意が新政府軍によって受け取られたか否かなど詳細が不明であったため、米沢藩からの強硬な申し入れを受け、27日には、長岡城下に戻り、警備についた。他の方面を警備していた藩兵にはこの情報が伝わらなかった。 29日未明から新政府軍の総攻撃が開始され、新発田藩兵は米沢、会津藩兵ら同盟諸軍の支援のもとで激戦するが、末総崩れとなり、長岡城は再度新政府軍に奪取され、同盟軍の奥羽越諸藩兵に総引き揚げの命令が出された。新発田藩兵も夜に入り見附へ引き揚げた。藩兵の中には、総隊長溝口半左衛門から「新政府軍に帰順に付、総引き揚げ」の連絡がつかなかったために、多くの犠牲者を出したのであった。 8月1日には、新政府軍が大面、帯織に進軍してきたので、総隊長溝口半左衛門は謝罪嘆願書を提出し帰順した。早速、兵器を取り上げられ、溝口半左衛門は見附において謹慎を命ぜられた。8月2日には、新政府軍より、藩兵に対し、月岡口、今町口、大面口等の先鋒として戦功をたてるよう申し渡されて、兵器も返された。この方面の藩兵は、同盟軍から新政府軍となり、昨日までの友軍であった同盟軍と戦火を交えることになるのである。同盟軍からは裏切り者のそしりを受けることとなった。 8月3日には三条方面へ、4日には、加茂入口付近を防御する同盟軍を攻撃したが、激戦となり小隊長の林文左衛門は奮戦の末戦死、その他多数の戦死傷を出した。この戦功が認められ藩兵は漸く新発田への帰還が許され、12日に国元へ帰還した。この日、謹慎を命じられていた溝口半左衛門も許され国元へ帰還した。奥羽列藩同盟軍として参加した戦いで藩兵の戦死者 が29人に達した。 (帰順工作)6月16日、藩士中野磯平が家老溝口半兵衛の密命を受け、京都へ発ち、同盟軍に加わり派兵した新発田藩の立場を新政府に弁明し、その指示を仰いだ。新政府は了承し、時期が来たら勤王の実効を示せばよいと回答した。7月13日、参謀楠田十左衛門(肥前藩)が柏崎総督府に到着した。それには新発田藩の寺田総次郎・相馬作右衛門が同行し、寺田は高田より相馬は京都より来た。参謀山縣・黒田に面会し、従来勤王の決意は変わらず、同盟軍に止む無く派兵した藩の事情を申し開きした。この席で、新発田藩の協力を得て同盟軍側の兵器調達基地となっている新潟町を攻略できれば、越後の征討が進むことが話し合われた。その場で海路より薩長らの兵をもって松ヶ崎へ上陸させ、海陸から敵を攻撃する策を議決したとある。その日の内に上陸作戦の準備として、戦士800人、大砲4門、弾薬5日分として小銃40万発、大砲1000発、米5日分40石、草履1万足、明き俵1000俵、塩・味噌、機械方、小荷駄方一藩より2人ずつ、医師6~8人を用意することにも打ち合わせている。同席した総督府参謀吉井友実(薩摩藩)が、海軍と打ち合わせを行ったという。 7月20日、寺田惣次郎と相馬作右衛門が総督府参謀吉井友実の密命を受け、打ち合わせした新潟征圧作戦の内容を極秘に新発田藩の重役たちに伝える。 (新潟町征圧作戦と列藩同盟から離反)新発田藩は阿賀野川河口や沼垂地域を領地としていたので、新潟から船運で物資、兵器・弾薬を輸送していた会津藩にとって、新発田藩の帰趨が生死にかかわっていた。新発田藩が新政府軍に寝返ったたことによって、会津の落城が早まったともいわれている。この時のしこりが残り、会津の人の間では、「新発田の人間に背中を向けるな、いつ後ろから殴られるかわからない」と今もって言われることがあるという。1868年(慶応4)5月、戊辰戦争で米沢藩は、奥羽越列藩同盟の盟主として越後方面の警備を担当、色部長門は藩兵約600名を率い出陣し、米沢藩軍事総督として東北連合軍を率いて新潟の守備にあたった。当時新潟付近の列藩同盟軍勢力は、沼垂に新発田藩兵約200名、新潟には仙台藩兵150名、会津藩兵200名、米沢藩約600名、庄内藩兵約200名がいたといわれている。新潟港警備を担当し、奥羽越列藩同盟軍の補給基地として、重要な任務を担っていた。 会津征討越後口総督府は長岡・与板周辺の膠着状態を打破するため、長州藩士の山田市之丞が起案した新潟港征圧の「衝背作戦」を採用し実行した。柏崎から新政府軍艦船に兵員を乗せ、新潟に上陸させる作戦であった。奥羽越列藩同盟の海からの補給路を完全に遮断することが目的であった。その総指揮を薩摩藩の黒田清隆にゆだねた。山田市之丞は参謀となり上陸作戦を指揮した。 7月23日午後4時、各藩から柏崎港に集められた摂津・大鵬・千別・丁卯・錫懐・万年の軍艦2艘と輸送船4艘は出向し、佐渡の小木港を経由して、新潟へ向かった。そして25日早暁、新発田藩領大夫浜上陸が敢行された。軍艦から小舟に乗り移った兵士は続々と上陸した。 上陸部隊の指揮は山田市之丞が担当した。 参謀黒田が率いた薩摩藩・長州藩・芸州藩・明石藩兵・福知山藩兵およそ430名と大砲2門で編成された一隊は、新発田城に向かうこととし、進むに先立ち、書状を送り、新発田藩の対応を打診した。これに対し、藩は重役と兵隊一小隊を差し出して政府軍を出迎え案内した。新発田城下に入ると、新発田藩家老の溝口半兵衛は、城下立売町の中村藤蔵方に宿営する参謀黒田の元に駆けつけて新政府軍への恭順を誓い開城した。その際、参謀の黒田は、「藩主は、速やかに柏崎の総督府を訪問して、忠誠を示したらよかろう」と勧めた。 この勧めに応じて、7月28日、藩主溝口直正(当時13歳)は家老溝口半兵衛、用人入江八郎左衛門らを同行し、軍監岩村精一郎の案内で、領内の島見浜から芸州軍監に乗り柏崎に向かい、翌29日に到着。8月1日に会津征討越後口軍総督仁和寺宮(当時22歳)に拝謁し帰順の旨を伝えた。直正は仁和寺宮が新発田に進駐するまで嚮導役を命ぜられた。戦況によってはまた再度寝返ることも考えられ、100%新発田藩を信頼できない総督府が人質に取ったともいえる。三条まで供奉をし、ここで暇が出て8月16日帰城した。 太夫浜に上陸した残りの薩摩藩・長州藩・芸州藩・高鍋藩兵およそ530名と砲2門の一隊はそのまま新潟に向かって進撃することとなった。 新政府軍の上陸の報を受け、米沢・仙台・会津・新発田藩兵が迎撃のため出張し、阿賀野川左岸の本所で新政府軍の先鋒の出没に伴い銃撃戦が行われた。 沼垂方面の新発田藩警備隊長堀主計は同盟軍の一員として本所の守備に就いたが、銃撃戦では空砲を撃っていたといわれる。また密使吉田斧太夫を松ケ崎の新政府軍本陣に派遣し、新政府軍は同盟軍と戦う前に斧太夫を交えて作戦会議を開いた。吉田は同盟軍側の兵の配置や人員、また新潟までの守りの手薄な道順を細かに伝えたという。 この方面での新発田藩兵は、同盟軍の一隊として米沢藩兵らと警備を分担しおり、戦闘開始の際は藩兵は新政府軍に対して空砲を撃つこと、また、新政府軍は、新発田藩の紋所に朱筋の小旗をつけた軍をみたら、心配することなく進撃することなどを申し合わせた。 翌26日夜から新政府軍の新潟攻撃は開始された。阿賀野川を渡り、新発田藩の誘導によって沼垂に入り、信濃川沿岸に至り対岸の同盟軍と銃撃戦となった。同盟軍ではこの時になって溝口家の五段菱紋の旗が新政府軍中にあるのを見てようやく新発田藩の裏切りを理解した。信濃川を挟んでの大砲や銃撃による撃ち合いが26日夜から27,28日と続き、29日早朝から新潟総攻撃が開始された。この戦いには、新発田藩兵は参加せず、ただ信濃川を渡河する政府軍を援護して、対岸の沼垂町側から砲撃を担当した。(👉新潟町制圧作戦) (新政府軍の一員として)新発田藩の恭順を受け入れた参謀の黒田は、その時々で風を見て態度を決める変わり身の早い新発田藩に対して、あまり良い感情を持たず、返り忠として徹底的に利用してやろうと考えていた。新発田藩が実質的に新政府軍として働いたのは7月25日から、藩は帰順が認められると直ちに、藩境の島潟村や長畑村に、新潟方面から退却してくる同盟軍兵士に備えて兵を派兵した。8月早々藩は、会津口と村上、米沢、庄内藩鎮撫の先鋒となり進撃を開始するため、諸隊の総隊長には、家老らを宛て各方面軍の編成を行った。 新政府軍は攻撃隊を会津口、米沢口、庄内口の三つに分け、新発田藩にはそれぞれの部隊で過酷な先鋒が命じられた。8月11日には、西郷隆盛が藩兵をともなって松ヶ崎(松浜)の坂井家に宿営した。新政府軍の参謀たちは西郷のもとを訪れ、部隊の配置を決めている。(👉西郷隆盛)会津口は長州藩山縣が主導し、米沢・庄内口は薩摩藩黒田が主導することとなった。新発田藩では会津口に一番多くの兵力をさき、826人が従軍した。 藩内の庄屋やその子弟によって、正気隊という部隊が自主的に編成され、藩兵と共に戦いに参加した。 新発田藩は会津、庄内藩が降伏する9月下旬までのおよそ2か月間にわたって、戦場では常に先鋒を命じられ、藩士、農兵、力夫を合わせ63人にも及ぶ戦死者を出した(他に同盟軍として見附方面で戦死した者が29人いる。4月から新政府軍として戦った高田藩が70人ほどの戦死者だったのに比較して非常に多い人数である)。 新政府軍兵士たちの間における新発田藩に対する見方は厳しかった。「大恩を忘れて、会津藩に使われていたのに、今度はこれを裏切り会津征伐に向かうとは片腹いたい。新発田の腰抜け侍。」と前線で戦う兵士の間では、密に嫌悪されていた。新発田藩兵はこれらの偏見を払拭するためにも、率先して戦いに臨まなければならなかった。 (会津口の戦い)参謀黒田は、7月25日新発田城を開城させると、間を置かず諸藩に指令を出し、新発田周辺にいる会津藩の勢力を掃討するため、会津藩の拠点となっている水原村や笹岡村に会津口進撃の別動隊として次々に兵を送り出した。新発田藩家老溝口半兵衛は、勤王の志を著すために、先鋒として兵を送り、また兵站として兵糧、弾丸、草鞋等雑貨品の物資を供出した。 7月27日、新発田藩兵を先鋒に新政府軍は会津藩の水原陣屋に迫った。水原奉行を兼ねて配属された萱野右兵衛は一隊を市島家別邸継志園※地図に布陣し、新政府軍に備えた。継志園には防護の施設は備わっておらず、圧倒的兵力差で攻撃が始まると、会津藩兵は太刀打ちできず、建物を焼き払い、弾薬・糧食を放棄し、民家に火を放ちながら保田方面に敗走した。新政府軍はやすやすと水原村に入り、水原陣屋(水原代官所)を指揮所とした。 笹岡村に向かった一隊は、光円寺※地図 に布陣した30名ほどの会津藩兵と交戦し敗走させている。この戦いで光円寺は焼失した。会津藩兵の多くは、赤坂・津川方面へ逃走したが、一部は出湯村の五頭山などに籠って抵抗する者もいた。これに対しては、新発田藩兵が攻撃し敗走させている。(👉水原陣屋) 28日、新津方面から撤退してきた会津藩兵が、三国街道宿場町で船着場のあった分田宿※地図対岸新郷屋村に陣を敷いた。阿賀野川を挟んで新政府軍と銃撃戦となるが、敗れて赤坂・草水方面に撤退した。このあと新政府軍は、阿賀野川沿いの保田攻撃に向かい、反撃らしい反撃も受けず制圧した。会津藩兵は赤坂方面に敗走。津川から下る阿賀野川ルートは会津藩の物資の輸送経路であった。その補給路に在る集落の保田は重要な戦略拠点だった。 8月1日には赤坂・草水に陣地を築き、激しく抵抗する会津藩兵を駆逐した。 8月4日、水原村の新政府軍は、阿賀野川左岸に出没する会津兵を掃討するため、分田宿の渡場から川を渡って進軍した。五泉の沼津藩陣屋を制圧し、五泉町の庄屋吉田家に本陣(官軍会議所)を置いた。間を置かず、村松城に向かい、会津・村松藩兵と交戦し敗走させている。五泉は会津への物資・兵站や人足供給の重要拠点となった。 こののち、小松・石間の戦闘や阿賀野川対岸の佐取山での戦闘を経て、阿賀野川に沿って会津藩の残兵を掃討していった。8月26日、新発田藩隊は津川で会津街道を進軍した本隊に合流した。(👉赤坂山の戦い👉佐取の戦い) 一方、会津街道を進軍する会津口攻撃の参謀山縣指揮する本隊は、8月14日新発田領中山村周辺で、会津藩兵と戦闘となった。新発田藩兵は先鋒を勤め多くの犠牲者を出したが、新政府軍はこれを撃破し、8月27日には、新発田藩総隊長溝口内匠隊も津川へ入った。(👉赤谷の戦い) こののち各地の山岳戦で会津軍を破り、下野尻、塔寺、坂下等を経て、新発田藩兵は会津城下南方福永村の小高い丘に布陣した。会津藩各部隊と新政府軍は一ノ堰村近辺で、最後ともいえる激戦となった。9月17日、新発田藩は西郷刑部に率いられた朱雀寄合二番隊の攻撃を受け、銃撃の中、身を挺して必死の突撃をかける会津藩兵によって、死傷者を出している。 9月18日、新政府軍は若松城下に至った。この日藩主容保は、降伏と決して、恭順の書状を持った使者を派遣している。新発田藩は他諸藩と若松近辺の高田に入り、若松街道の警備にあたった。9月22日会津藩は、城を開いて降伏し、9月29日には総隊長溝口内匠、副長湯浅権左衛門、仙石九郎兵衛以下は新発田へ帰陣した。 (中条・黒川方面の戦い)7月25日黒田清隆率いる海上別働隊が新発田藩領太夫浜に上陸し、新発田藩を恭順させると、新発田藩を通じて近隣の下越地方の藩に恭順を求める書状を送る。新発田藩兵を中軍とする新政府軍は7月28日、三日市藩館村に進出し、三日市藩の帰順を斡旋した。三日市藩はこれに応じて恭順の意志を表明した。 新発田藩と芸州藩から組織される先発隊は黒川方面、中条方面の2つに分かれて進軍した。米沢藩では長岡城落城の報が届いていなかったので、裏切った新発田藩を攻撃するため、また荒川口の湊と下関を死守するため、庄内藩、村上藩と共に進撃した。下関には、豪商渡辺家があり、米沢藩の越後での3か月間にわたる戦いを全面的にバックアップしており、また米沢藩の最新式の装備を導入する際には武器商と交渉するなど便宜を図っていたため、下関を失うことは米沢藩にとって大きな痛手となった。米沢藩は精鋭部隊が長岡周辺で戦っていたため、藩境を守備していた部隊を送り出した。戦闘経験がなく、装備も前時代的・旧式な火器を携えて出陣した。 黒川口から進出した新発田藩と芸州藩兵は坪穴から鼓岡まで進撃したが、同盟軍の反撃にあい撤退し下中山に陣地を作って滞陣した。 一方中条口は新発田藩は芸州藩と共に中条まで進出したが、8月7日夜襲を受け、激しい戦いとなり、新発田藩兵が後退を始め、中条で孤軍奮闘した芸州藩兵も半小隊長の川村常之進が戦死して三日市まで後退した。 この戦いで新発田藩側で藩士佐治儀八ほか8人の戦死者が出た。新発田藩の戦死者の多くは新潟県護国神社に葬られている。8日新発田より芸州、高鍋の諸藩兵もおいおい加わり、翌9日下関村進軍の命令を受けた。 同盟軍側も、新潟町・長岡城陥落を知って、中条の町に火を放って撤収した。米沢藩兵は坪穴方面に、庄内・村上の両藩兵は、平林方面に撤退した。 8月10日、、新政府軍は本道中条口をはじめ各方面より総攻撃を開始した。中条の本道より進撃した新発田藩兵は下関で、間道を進撃して来た薩兵と合流した。 8月11日、榎木峠の米沢軍陣地の攻撃が開始されたが、これは米沢軍の奮戦によって膠着状態となり、対峙したまま二週間余を経た。(👉榎峠の戦い) 8月29日、米沢藩の斉藤主計等は沼村の新政府軍を訪ねて米沢藩の降伏を申し入れ、藩主もしくは世子を新発田本営に謝罪訪問させることで降伏が認められた。 9月11日、米沢藩世子茂憲は新発田本営の総督宮に謝罪のため訪問、清水谷御殿に宿泊した。 新発田藩兵は、米沢城下に入城後の9月14日、会津口へ向かう隊と庄内口に向かう隊に部隊を編成した。米沢に残る藩兵は、同盟軍として米沢に退去した村松藩士の武装解除を行い、村松藩国元へ護送をおこなった。(👉村松藩の戊辰戦争) 〔戦死者〕
(村上・鼠ケ関方面の戦い)村上・庄内両藩の鎮圧軍は8月8日、新発田藩が中軍となって進撃した。藩兵は塩谷、岩船辺で村上藩兵・庄内藩兵連合軍と戦い村上城下に入った。村上藩は主戦派(家老鳥居三十郎ら)が城を出て庄内へ走り、城内に残った100余は降伏した。(👉鳥居三十郎)8月27日まで村上城下に滞陣した藩兵はついで山通りを二小隊と砲一門、浜通りを二小隊と砲一門が新政府軍の中軍として進撃した。 9月1日、浜通りを進む薩州、加州、上州と新発田藩の藩兵は、鼠ヶ関付近で庄内、村上軍から山上より攻撃をうけ、また、山道も同様に進撃を阻止され、この方面で約20日間も激戦が展開されたが勝敗がつかなかった。 しかし、9月26日、庄内藩の降伏申し入れによって、この方面の戦いも終わった。同27日に山道の軍は鶴岡城に入り、浜通りの軍は29日鶴岡城下に入った。 10月5日には引き揚げの命令が出て、藩兵は鶴岡城下を出発し、10月10日に新発田に帰った。 (総督府本営の設営)8月11日、仁和寺宮が柏崎を出発し、直正も同行することとなった。江戸にいた新発田兵400人余もこの日帰藩を許され、江戸を発った。8月13日、仁和寺宮が三条に到着。ここで溝口直正は帰藩を許される。 8月16日、越後口総督府参謀壬生基修が新発田城に入城し、次いでは22日には総督の仁和寺宮が総人数300人程を率いて新発田に入った。 9月2日、新発田城を会津征討越後口の本営と定めた。 9月11日、列藩同盟の盟主だった米沢藩世子上杉茂憲が総督府で、謝罪し降伏を申し入れる。仁和寺宮がこれを認めたことで、米沢藩の降伏が正式なものとなった。 9月13日、越後口総督仁和寺宮嘉彰親王は参謀壬生基修らを従えて新発田を出て津川宿に到着、15日には若松城の北西気多宮(会津坂下町)まで進軍し、21日に新政府軍の勝利を見定め、塔寺会議所を出発して9月24日新発田に帰っている。西園寺公望が9月25日若松に入って検分し、戦争の終結と検分した結果を、新発田に戻って仁和寺宮に報告している。(👉西園寺公望) 10月9日、南部氏の盛岡城が接収され、東北の戦争が終結した。なおも旧幕府兵などが箱館に籠って新政府軍と対峙していたものの、戊辰戦争は東北諸藩の降伏によって事実上終結した。 10月13日、新発田城の本営に於いて越後口戊辰戦争戦死者の招魂祭が執行され、仁和寺宮総督宮、公卿、参謀、各藩隊長、司令らが参列して戦死者の霊を祀り慰めた。 10月15日には、総督宮は参謀壬生基修らを率いて新発田城を出発し、信州経由で11月4日東京に凱旋し、諸藩兵も徐々に帰国の途についた。 明治2年(1869)1月7日、参謀西園寺公望は、越後に残留し任命されていた新潟府知事を1月5日に辞職し、新発田藩士に見送られ、山内村経由で東京に向かう。 同年4月1日新発田本営は越後府に合併、「新発田引き払いに相成り候事」で北越戦争の一切は終わった。 ところで、総督府が新発田に進駐してから、越後府に権限が引き渡されるまでのおよそ、8か月は新潟県の新時代を迎えるための揺籃期であり、様々な指令が、新発田からなされていた。 新潟県の夜明けは新発田から発せられたのに、現在新政府に関して顕彰するものがほとんど残されておらず、痕跡を探すのも苦労する。 参謀として、奥州鎮撫の指示を出していた黒田清隆が宿営していた立売町の中村藤蔵方には、新潟から西郷隆盛が訪ねて来て、会合を持ったといわれているが、その宿舎の正確な場所もはっきりしなくなってしまったのは残念である。 🔙戻る
≪赤坂山の戦い≫7月30日、笹岡・水原の戦いで敗れた会津藩萱野右兵衛隊約150名は赤坂山に台場を築き布陣した。赤坂山は、かつての城址で、眼下は阿賀野川を望む断崖となっており、まさに要害であった。ここには既に、寺泊の海戦で沈没した幕船『神童丸(順動丸)』の清水七郎以下船手が20人程で障壁を築き防御の備えをしていた。萱野は、これら幕臣を合わせ本営とした。 8月1日早暁、新発田藩を先鋒として新政府軍が進攻し、壮絶な戦いとなった。間断なく銃弾が飛び交う中で、両軍合わせて、死傷者40数名を出した。この戦いで、陸での戦闘経験が少なく戦い慣れしていないためか、船手たちは手持ちの銃弾を使い果たした後、抜刀して戦い、20余名の内、1名の負傷者を残して全員戦死するという凄惨な戦いとなった。この戦いで萱野も腕に負傷している。会津藩兵は阿賀野川に沿って小松方面へ退却した。 またこの戦いで亡くなった同盟軍側の戦死者は、徴用で集められた草水村の村民によって、弔われることなく阿賀野川に投げ込まれ流されており、その正確な氏名は判明していない。草水村は会津藩兵によってことごとく焼かれており、いずれにしても痛ましい戦いであった。
≪現地案内看板≫
赤坂山古戦場 慶応三年(一八六七)十月、将軍徳川慶喜が朝廷に大政を奉還したが、同四年(一八六八)一月鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が始まった。 県内では、閏四月から各地で新政府軍と会津藩などの同盟軍との戦闘が行われた。 七月二十五日(九月十一日)早朝、新潟太夫浜に新政府軍が上陸、二十七日(十三日)笹岡、水原で激戦が行われ、後退した同盟軍(隊長 水原奉行・萱野右兵衛)は赤坂山に台場を築き布陣した。 八月一日(九月十六日)早曉、新政府軍(新発田、芸州、長州、薩摩、越前。明石等)が進攻し、壮絶な戦いとなり、両軍合わせて戦死傷四十数名、同盟軍は小松に引いた。後方の赤坂山の台場(室町時代の砦跡)には会津藩清水七郎、順動丸(順導丸、神童丸の記載もある)の船手等二十五人で戦ったが、傷者一名を残して戦死した。戦場は宝珠山、小松、東蒲原へと移動したが、戦場となった六野瀬(九月十四日)、草水(十六日)、小松(二十六日)は兵火で家財を失い、村人は会津まで人足として動員された。 明治維新を迎えるに当って、この地で尊い生命を散らせた戦いがあったことを記し、霊の安らかならんことを祈るものである。 平成十一年九月十六日建立 安田町教育委員会 🔙戻る
≪佐取の戦い≫会津藩が火急を要する越後口に白虎寄合一番隊と二番隊併せて160名をを派兵したのは7月15日である。15歳から17歳の若者で、次世代の会津藩を担う人材で本来出したくはなかったが、それが許されるる状況ではなかった。白虎隊の寄合一番隊は赤谷口へ二番隊は佐取へ出陣した。慶応4年(1868)8月7日、白虎寄合二番隊を含む会津兵は、会津領最北端の佐取に陣を構えた。佐取山(大久保山)と陣ヶ峰に布陣し、白虎寄合二番隊は1㎞離れた佐取集落(現咲花温泉)に待機した。10日阿賀野川対岸の小松・石間で激しい戦闘が開始され、新政府軍は、馬下上手から渡河、佐取山の下手に約80名が上陸。激烈な戦闘が開始された。白虎寄合二番隊では星勇八ほか2名が戦死し、会津藩兵は多くの死傷者を出し潰走した。長徳寺に星勇八の墓がある。勇八は16歳であった。
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