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新潟県内の戊辰戦争(北越戊辰戦争)史跡
Boshin War historic spot and Museum in Niigata Prefecture




戊辰戦争時活躍した人物

長岡藩 河井継之助 山本帯刀 小林虎三郎
高田藩 川上直本
村上藩 鳥居三十郎
会津藩 佐川官兵衛 萱野右兵衛 伴百悦 町野源之助 高津仲三郎
桑名藩 立見鑑三郎
水戸藩 佐藤図書
米沢藩 色部長門
薩摩藩 西郷隆盛 富山弥兵衛
長州藩 時山直八
土佐藩 岩村精一郎
草莽隊 観音寺久左衛門
朝廷ほか 日柳燕石 西園寺公望 村山半牧 田中廉太郎 松長長三郎
久保村文四郎 中山信安

戊辰戦争時越後11藩の石高と藩主名

新政府側藩
高田藩(15万石 榊原政敬) ・与板藩(2万石 井伊直安)・椎谷藩(1万石 堀之美)・糸魚川藩(1万石 松平直静)
列藩同盟側藩
新発田藩(10万石 溝口直正) ・長岡藩(7万4千石 牧野忠訓) ・村上藩(5万9千石 内藤信民) ・村松藩(3万石 堀直賀) ・三根山藩(1万1千石 牧野忠泰) ・三日市藩(1万石 柳沢徳忠) ・黒川藩(1万石 柳沢光邦)

北越戊辰戦争歴譜

慶応3年(1867) 9月18日 ・新潟会議
10月14日 ・大政奉還
慶応4年(1868) 1月3日 ・鳥羽伏見の戦いが始まり、戊辰戦争の戦端が開かれる。
1月5日 ・朝廷は北陸道鎮撫総督を置き、高倉永祐を総督とした
2月1日 ・酒屋会議
3月15日 ・北陸鎮撫総督兼鎮撫高倉永祐・副総督四条隆平らが高田に到着する
3月18日 ・北陸鎮撫総督兼鎮撫高倉永祐一行は江戸に向かう
4月11日 ・江戸城無血開城
4月14日 ・新政府は、北陸道鎮撫の為、薩摩・長州両藩に出兵を命じ、加賀、富山、府中(長門)の各藩にも出兵を命じる。
4月19日 ・新政府は、新潟奉行所を廃し新潟裁判所とする命令を発する
・新政府は、高倉を「北陸道鎮撫総督兼会津征討総督」、四条を「新潟裁判所総督兼北陸道鎮撫副総督」と改めるとともに、薩摩の黒田清隆、長州の山県有朋を参謀にすえる。
4月25日 ・新政府は、新発田、村上、村松、与板、三根山、糸魚川、黒川、三日市の越後八藩に対して会津藩討伐の命令を出す。
衝鋒隊、飯山藩での戦いで高田に敗走
4月26日 高田藩、川浦陣屋に滞陣した衝鋒隊を攻撃し敗走させる
閏4月19日 ・参謀黒田清隆、山県有朋高田着陣
閏4月21日 三国峠の戦い
・新政府軍、海道軍と山道軍の2隊に分け、高田を出発する
閏4月23日 ・白石において奥羽二五藩による奥羽列藩同盟成立する
閏4月26日 雪峠の戦い
閏4月27日 鯨波の戦い
小出島の戦い
5月2日 小千谷会談
5月3日 片貝の戦い
5月6日 ・奥羽越列藩同盟成立する
5月8日 ・北陸道先鋒総督の高倉永祜が再び高田に入る
5月10日 榎峠の戦い
5月14日 灰爪の戦い
5月17日 ・新発田藩、奥羽越列藩同盟に加盟
5月19日 長岡城落城
・高倉総督の職名を「北陸道鎮撫総督兼会津征討総督」から「奥羽征討越後口総督」と改める
5月22日 ・加茂軍議
西園寺公房が、病気の高倉永祜に変わって奥羽征討越後口総督として高田着
5月25日 杉沢の戦い
5月27日 与板金ケ崎の戦い
5月28日 島崎の戦い
6月1日 新潟奉行所の管轄が米沢藩の色部総督に引き継がれる
6月2日 今町の戦い 新政府軍敗れて戦線を後退させる
6月14日 長岡口大黒近辺で、北越戦争最大の激戦となる
・軍務官知事仁和寺宮嘉彰親王を、新たに「会津征討越後口総督」に起用し、三等陸軍将の壬生基修をも参謀に任命し、越後に向かわせた。肥前藩士楠田英世を副参謀に、越前藩士松平正直ほか2人を軍監につけ、新たに明石・福知山以下七藩に越後への出兵を命令した。
7月10日 ・仁和寺宮高田に入る
7月14日 ・仁和寺宮柏崎に入る
7月25日 新政府軍新潟太夫浜に上陸
新政府軍により新発田城開城
列藩同盟軍長岡城奪還
7月29日 ・新政府軍が新潟町を制圧
・長岡城が再び落城する
・列藩同盟総督千坂太郎左衛門高雅が各藩に見附への退却を命じ、米沢藩兵に対し越後からの撤兵を命じる。
8月2日 ・三条五十嵐川の戦い
8月4日 村松城落城
8月5日 ・村松藩の堀貞次郎が、米沢に逃亡した藩主堀直賀に変わって降伏を申し入れる。
8月11日 村上藩降伏
西郷隆盛、新潟に上陸し滞陣する
8月14日 赤谷の戦い
8月16日 河井継之助、会津藩只見で死亡
8月22日 ・仁和寺宮が新発田城下に入る
9月5日 ・米沢藩、新政府軍に降伏の申し入れ(正式には9月11日)
明治元年(1868) 9月8日 ・元号が慶応から明治に改められる
9月22日 ・会津藩降伏
・長岡藩藩主牧野忠訓が米沢の総督府に出向き、降伏を申し入れる。
9月26日 ・庄内藩降伏
10月15日 ・仁和寺宮が新発田を出発し、東京に向かう。
12月7日 ・朝敵諸藩に対する処分が発表される。長岡藩は領地没収、三根山藩は国替え、その他の藩の領地は安堵された。



※1868(明治元)年9月12日に、総督府は「賊の遺体をきちんと葬り、残虐の行いを為すことを禁ずる」という命令を出した。それまで同盟軍戦死者は、打ち捨てられ、朽ちるままにされていた。また遺体を冒涜するような行為がなされ、一部では敵兵戦死者の人肉を食べる行為がなされていたという。特に会津藩兵士に対しては目を覆いたくなるような状態であった。幕末までは、降伏した者に対して捕虜という概念が薄く、捕らえられると即刻斬首がなされた。その遺体に対しても丁重な扱いがなされることはなかった。特に薩摩藩兵の中には、古来から敵の生き胆を食らうことで、己の勇猛を鼓舞していたという話が伝わる。
命令では「討ち取った賊の死体の腹を屠り、肉を刻み、残酷の振る舞い、或いはそのような内容が聞こえてきている。もっての外のことで、賊といえども皇国の人民である。これ等の粗暴な処置がなされないよう、兵隊の末端まで申し渡すよう沙汰するものである」とある。命令が出されたのは、大勢が決した後で、遅きに失していた。