Boshin War historic spot and Museum in Niigata Prefecture |
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(公武合体から鳥羽伏見の戦いへ)慶応3年(1867)10月14日、公武合体派の中心であった前土佐藩主山内容堂の建言によって徳川慶喜は大政奉還を申し出た。新たに成立した新政府は、施策の具体的な準備がなかったので、列侯会議にはかろうと全国の諸大名に上京を命じた。しかし、全国218藩でこれに応じたものは少なく大勢は変動する政局に、各藩はその動向を見極めかね、形勢を観望していたのである。 越後では、新発田藩が幼君に変わって、家老窪田平兵衛を上京させた。窪田はその後も京都に滞在し、新政府と新発田藩をつなぐ窓口となった。 長岡藩の藩主牧野忠訓と河井継之助は藩士60名を連れて上京し、建言書を提出する機会をうかがっていたが、朝廷内の混乱もあり、ようやく提出できたが返答を得られないまま、鳥羽・伏見の戦いとなり江戸に帰った。 岩倉具視らの公家と薩長の武力討幕派は、12月9日の小御所会議で王政復古を宣言し、慶喜の辞官納地の決定を強行した。武力討幕派は、あくまでも武力で幕府崩壊に追い込もうと、関東を中心に各地で幕府に対する挑発的な行動を起こした。 慶応4年(1868)1月2日、薩摩・長州両藩の徴発に激高した慶喜は、君側の奸を除くため「討薩表」を草し、会津・桑名両藩兵を中心とする1万5千人の兵を繰り出した。 3日午後5時頃鳥羽街道で戦端が開かれた。旧幕府軍は現職老中の淀藩兵や津藩兵が寝返るなど、6日には総崩れとなって敗走した。慶喜は回復の意欲を失い、大坂城から海路江戸へ逃れた。 これを見て、日和見的だった近畿以西の諸大名は、次々と新政府支持を決めた。公議政体派に変わって武力討幕派が新政府内での主導権を握り、中央集権国家の形勢を目指す方向が明確になっていった。 新政府は、1月4日議定兼軍事総裁の仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍に任命した。また山陰・東海・東山・北陸の諸道と中国・四国・九州のそれぞれに鎮撫総督を任命し、薩長などの諸藩兵をつけて各方面へ派遣した。 また7日慶喜追討令を発し、10日には慶喜以下会津・桑名両藩主等および旧幕府属領ら27名の官位を奪い、旧幕府領を没収することを布告した。 北陸道鎮撫総督府は5日に設置され、従三位高倉永祜が総督、正五位下四条隆平が副総督に任命された。 高倉・四条は出発に先立つ1月15日、北陸道は積雪期の為、総督一行の行動が難渋することが考えられ、北陸諸藩に対して各藩の向背をただす書状を勅書として厳重な警衛のもとに順達した。 新発田藩では、京都に滞在した家老窪田平兵衛が、鳥羽・伏見の戦後の中央情勢を国元や江戸藩邸に伝え、また、新政府から藩兵の上京を求められた。藩では、江戸藩邸から200名、国元から200名余を上京させ、2月下旬京都に到着した。 北陸道鎮撫総督一行は1月20日京都を出発した。一行は、高倉総督と四条副総督と警衛にあたる芸州藩三隊108人で、小浜藩兵が先鋒を務めた。 1月25日小浜到着。2月7日敦賀へと進んだ一行は、15日福井城下へ到着し、28日まで滞在した。総督は、各藩の重臣を呼召して藩主が総督の行営に来て自ら勤王を誓うこと、重臣を上京させること、領国の図面と総高水帳を差し出す事、旧幕府の預かり地を調べ、去年の貢租納入状況を報告すること、窮民の撫育に努めることなどを命じた。 新政府は2月9日、東征大総督府を設置し、有栖川宮熾仁親王を大総督とし、諸道鎮撫総督を先鋒総督兼鎮撫使と改め、大総督の指揮下においた。 3月2日ようやく金沢に入っ。た総督は越後諸藩に、旧幕府脱走の徒、会津・桑名藩の藩兵らが越後に潜匿しているので、召し捕るようにと命じた。7日には、近日中に高田へ入るので、各藩は重臣を高田に出して総督を迎える事、沿道諸藩は総督の行営や宿駅を厳重に警守することなどを命じた。 鎮撫総督一行は、3月11日から13日にかけて若狭小浜藩兵392人、肥前藩兵590人、安芸藩兵165人、肥前藩兵244人が糸魚川を通った。 13日から高田へ到着し、高倉・四条両督は15日夕刻着いた。翌16日、越後11藩の重臣が呼び出され、藩主が督府および京都へ罷り出て勤王をお請けすること、領内の簿籍を提出すること、旧幕領の租税納入状況を報告することなどが言い渡された。 3月15日と決めてあった江戸城総攻撃の延期と、江戸への即時進攻命令が大総督府から届いた。 19日朝、北陸道鎮撫総督軍は高田を発って江戸へ向かった。肥前・安芸・小浜・敦賀の諸藩兵1200余のほかに、随従を命じられた越後10藩(糸魚川藩を除く)の重臣も従った。 一行は4月4日に江戸に到着し、浅草東本願寺を本陣とした。 4月14日、大総督府は薩摩・長州・加賀・富山・郡山・小浜などの諸藩に討会のため越後出兵を命じた。また、新発田・村上・与板・三根山・糸魚川・黒川・三日市の越後8藩には、薩摩藩兵に加勢するよう命じた。 4月19日、高倉永祜を北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任命し、黒田了介・山県狂介を参謀に任命して北越再攻の体制を整えた。 一方で、新政府は幕府領および帰順しない旗本領などを接収して新政府領とし、裁判所を設置して、直接支配する方式に改めた。 設置は西国から進められ、4月19日に新潟裁判所が設置され、北陸道先鋒副総督兼鎮撫使の四条隆平が、裁判所総督に任命された。、また24日には佐渡裁判所が設置され、総督に北陸道先鋒総督府参謀滋野井公寿が任命された。新政府が掌握するにはいまだ程遠い状態であった。 閏4月25日、北陸道鎮撫総督一行は北陸道再攻のために江戸を発ち、アメリカ商船で箱館(函館)を経て、5月7日直江津港に上陸、翌8日高田に入った。越後では、すでに中越方面で戦闘が展開されていた。 5月19日、長岡城の攻略がいったん成功し、占領地が拡大されると、四条は裁判所総督として、占領地の民政に努めようとした。しかし、この時期は、越後における新政府軍の主導権は戦地参謀が詰める会議所が握っていた。四条は、当面北陸道鎮撫副総督として、高倉と共に前線を補佐する軍務を中心に活動していた。 新政府軍増援のため三等陸将西園寺公望が派遣され、5月23日高田に入った。四条は西園寺と会談して、軍事は高倉と西園寺が、四条は民政に専念することとした。四条のもとで統治機関としての越後府が整備されていった。 (北陸道鎮撫総督軍の進発)閏4月17日、加賀藩兵を先鋒とし、薩長以下諸藩兵を率いた黒田・山県らは、高田へ入った。極楽寺に会所が置かれ、来迎寺は病院に充てられるなど、高田は越後口戦略の根拠地となった。閏4月21日、黒田・山県は、新井に進駐していた東山道総督軍監岩村精一郎を加えて、北越鎮定の軍議が開かれ、その結果、全軍を本隊2500人と支隊1500人の二隊に分け、本隊は黒田・山県が指揮し海道に沿って柏崎へ進み、支隊と応じて長岡城を攻撃する。一方、支隊は岩村が指揮し松之山口から進んで小出島を攻略して小千谷に入り、長岡城を攻撃することに決し進撃は開始された。 海道軍は、閏4月27日、桑名藩領鯨波で同盟軍と交戦しこれを破り、29日桑名藩陣屋の有った柏崎に海道軍本隊が進駐した。 山道軍は、閏4月22日、魚沼郡千手村に到着し、ここで魚沼地方の会津勢の動きを探り、二手に分かれて進撃することに決した。一隊は雪峠から小千谷へ向かい、一隊は十日町を経て六日町へ進み、小出島を攻撃することにした。 26日、雪峠に向かった一隊は衝鋒隊を主力とする同盟軍と交戦しこれを破り、27日松代・松本両藩兵が先陣となって小千谷に進駐した。 27日、小出島に向かった一隊は、会津軍と交戦しこれを破り、会津藩小出島陣屋を占領し、小千谷に向かった。 5月2日、新政府軍は会津藩小千谷陣屋に諸藩会議所を設け、軍議を披いて、長岡攻撃の体制を整えた。 5月1日、長岡藩は用人花輪彦左衛門を小千谷の新政府本営に派遣し、嘆願の為重役をうかがわせたいと申し入れて許可を得た。翌2日の早朝、長岡藩軍事総督河井継之介は藩士二見虎三郎と従僕を伴って諸藩会議所が設けられた旧会津藩小千谷陣屋に向かったが、会津軍が片貝周辺に向け移動中であり、これに対応する作戦が陣屋内で練られており、ごった返していたので、薩摩軍が宿陣屋としていた近くの慈眼寺で、東山道軍監岩村精一郎らと会見することになった。 会談の場で、河井は、藩論統一のため時間の猶予を与えて欲しいと願い、藩主忠訓の嘆願書を差し出した。 会場に臨んでいた岩村や薩摩の淵辺直右衛門、長州の白井小介らは「長岡の藩論が不統一であるからといって、進軍を中止することは到底できる話ではない、是非とも長岡領を通行する、もしこれを拒もうとするなら兵馬の上で相まみえよう」と言い切って嘆願書を却下した。 5月3日、河井は摂田屋の長岡藩本陣に赴き、諸隊長を前に、戦いのやむを得ざることを説明した。ここに長岡藩は徹底抗戦に決し、かねて会津・米沢などから強く参加を要請されていた奥羽列藩同盟に加盟し、5月4日に調印した。 次いで、米沢藩の強い呼びかけを受けて、5月6日に新発田で下越諸藩の老臣会議が開かれ、村上・黒川・三日市・村松の四藩が会津嘆願書に調印し、同盟に加わった。 新発田藩は、同盟不参加の態度を取り続けてきたが、同15日に仙台藩の玉虫左太夫・鈴木直記、米沢藩の若林作兵衛らがやってきて、重臣溝口半兵衛・同伊織らに面会し、強硬な申し入れをした。この結果、新発田藩も加盟を回答した。 5月2日夜半、小千谷本営の新政府軍は会津藩兵の進撃を知り、進軍の部署を決め、先鋒高田藩次に尾州正気隊、後陣として松代藩兵を派遣した。3日、戦闘は両軍の斥候兵が山谷村の南方で遭遇したことから始まり、次いで、両軍間の激しい激戦となったが、薩・長兵の応援で新政府軍が勝利し、同盟軍は片貝に退いた。 (北越戦争開戦)5月3日、小千谷の新政府山道軍は松代・尾張両藩兵に命じ、信濃川を渡河させ、榎峠を奇襲させた。長岡藩守備兵は片貝方面に気を取られ、不意を突かれたため輜重を捨てて敗走した。城南第一の要害である榎峠を失った。長岡藩はじめ同盟軍は、これを奪回すべく9日に榎峠峠東方の虫亀村に一隊を進めた。白岩・浦柄村、妙見古城跡を固めていた尾州・松代等の新政府軍は兵力が少なく連敗し、長岡軍は榎峠続きの山寺・妙見・浦柄村に続く谷筋まで一挙に占領した。 参謀山県有朋は柏崎の海道軍本営に増援を命じ、13日未明に朝日山を奪取する作戦を立てた。突撃隊には長州奇兵隊と薩摩藩兵が充てられ、仮参謀時山直八が指揮することになった。会津兵や雷神隊の支援を得て反撃に転じ、薩・長軍をひるませた。時山は自ら隊旗を握り、崩れかかった味方を叱咤激励している所を、雷神隊に狙い撃ちされて戦死した。薩・長兵は同盟軍の猛攻にさらされ、時山の遺体を収容することが出来ず、首級のみを携え、死傷30余人を出し、新式の銃器なども捨てて総退却した。 海道軍は柏崎から海沿いに出雲崎を目指す隊を支隊とし、本隊は長岡関原を目指した。 海道軍支隊は、5月6日に同盟軍が制圧していた椎谷陣屋を二度にわたって攻撃しこれを占拠した。さらに海道軍は曽地・赤田村等で同盟軍を撃退して石地まで進み、15日には水戸藩諸生党が本営を置いた出雲崎陣屋を制圧した。 一方本隊は関原から、16日に信濃川沿いの大島・槇下村などに砲を据え、対岸の草生津・蔵王などに向けて砲撃を開始した。 18日になって、槇下の薩摩・高田藩兵は対岸の蔵王へ猛烈な砲弾を浴びせ、そのすきに薩長兵が小舟で渡河しようとしたが、長岡兵の反撃を受けて西岸へ退いた。 19日、早朝から新政府軍の大砲が一斉に火を吐き、前日に倍する砲撃がはじめられた。 長州の三好軍太郎が長州・高田の兵を率い、煙霧に乗じてひそかに渡河を決行した。さらに薩摩兵等も槇下から渡河し、寺島の民家に放火して新町から攻め上り、神田町や家中屋敷に放火した。なおも続々と諸藩兵が渡河して猛攻を加え、城へ向かって進撃した為、渡町・大工町辺に踏みとどまって防戦していた長岡兵の一部もかなわず総敗退となった。長岡藩兵は長岡城を捨て、藩領である栃尾に向かった。藩主一行は八十里越を通って会津に落ちのびた。 5月25日、越後山道軍本営は小千谷から関原に移動し海道軍と統合し本営とした。新政府軍は主力を持って森立峠・浦瀬・見附・今町を占領し、戦線を一挙に前進させた。そのため、山手の杤尾から見附・与板・出雲崎まで、戦線の延長は約80キロメートルに及んだ。 長岡城落城後、河井継之助は、会津・桑名などの諸藩と協議の上、桑名藩預地である加茂に同盟軍の本拠を置くこととなり、22日、加茂に集結した米沢・会津・長岡・桑名・村上・村松の各藩指揮官は、同盟軍の兵力配置や兵糧の輸送等、今後の作戦について協議した。 米沢藩の甘糟参謀の提案で、兵を三分し、米沢藩は衝鋒隊と合して大面へ進軍して、見附を取ること、会津・桑名・村上・上山等の兵は会津の一ノ瀬要人が率いて三条に進み、地蔵堂を経て与板を攻略すること、河井は鹿峠口の総将として、長岡・村松兵等を率いて黒水・長沢から進軍、見附へ攻め入ることなどが決定され、24日進軍することが決定された。 6月1日、河井継之助を総指揮官とする同盟軍と、新政府軍の間で激戦が交わされた。新政府軍は、戦線が伸びて相対的に人員不足に陥っていた。薩・長の精鋭部隊は、与板方面と長沢方面で守備した為、今町を守備していたのは、高田藩と信州諸藩兵であった。正午に始まった戦闘は、はじめ同盟軍は苦戦したが、河井が兵を励まし、夕刻になって塁を奪った。 新政府軍参謀山県は、今町・中之島を失い、見附が孤立しかねない形勢もあり、戦線を川辺・浦瀬・半蔵金を結ぶ線まで後退させた。こののち、6月中は森立峠・半蔵金などでの戦闘や福井・百束などでの小競り合いはあったが、戦線は東西に長くのび、戦局は一進一退の膠着状態となった。参謀山県は「援兵の来るを待つ、真に一日千秋の感あるを招かれざしりなり」と、兵力の増強を望むこと切なるものがあった。また、木戸孝允も「北越の事、実に大事、何分にも今日の急務は大に相勝候事が第一」と述べて、戦局の停滞を憂慮した。 7月に入って、新政府軍は北越戦線の膠着状態を打破するため、中国地方の諸藩や越前藩などに越後出兵を命じ、兵力の大動員をおこなった。越前兵3~400余名は与板・出雲崎口へ派遣され、加賀・富山藩兵は弾薬・兵糧の輸送を命じられた。さらに11日、諸藩会議所を関原村から長岡城へ移した。 一方、同盟軍側でも一進一退の戦局から抜け出すべく、長岡城の奪回作戦が進められていた。 7月24日、河井は長岡城恢復のための作戦を実行に移した。八丁沖を渡渉し、新政府軍の虚を突く作戦であった。午後7時頃前哨兵を先発させ、長岡軍全軍行動を起こした。やがて午後10時頃八丁沖に差し掛かった。午前3時頃ようやく富島村に辿り着き、近くの宮下村の新政府軍前線基地を襲撃して占領し、そこで軍を四手に分け、長岡城目指して猛進撃に移った。兼ての手はず通り、烽火を合図に他の同盟軍も長岡へ向かって進撃した。不意を突かれた新政府軍は必死に防戦したが劣勢は覆い難く、同盟軍は歩一歩と長岡城へ迫った。昼過ぎには勝敗は明らかとなり、新政府軍は信濃川を越えて敗走した。西園寺参謀は漸く関原へ逃れ、山県有朋らも小千谷方面へ退いて行った。 (新政府軍による長岡・新潟の制圧)7月25日、新政府軍新潟攻略を敢行した。新たに増援された増加兵力の一部約1000名を持って新たに海上機動部隊を編成し、新発田領太夫浜へ上陸させ、同盟軍の背後を突こうとするものであった。新政府軍上陸の報を受けた新発田藩では直ちに迎えの使者を出すとともに、宿営、食料などの準備を整えた。この日、新発田藩は列藩同盟を離脱し、新政府軍の案内役として会津藩水原陣屋の攻撃や新潟への進撃に加わった。 29日早朝から新政府軍の新潟総攻撃が開始された。新潟町を守備していた米沢藩兵を主力とする同盟軍は、必死に抗戦したが敗退し、加茂方面に向かい撤退した。 長岡城から敗退した山県参謀は、直ちに新政府軍の立て直しをはかった。大反撃が開始されたのは、同盟軍による長岡城恢復の4日後の29日早朝であった。 妙見口からは薩・長浜8小隊が、山寺からは薩長を始め諸藩兵が進撃。信濃川左岸からも加賀・上田等の兵が渡河して市中に放火しながら進み、まさに「三面合撃」の状態であった。これに対し同盟軍も必死に防戦に努めたが、各方面で次つぎと破られ、多数の死傷者を出し、城に火を放って栃尾・見附方面に総退却した。 同盟軍は見附本陣で緊急の打ち合わせを行い、総引き揚げと決し、まず傷病兵を送り、吉ヶ平から八十里越を通って会津・米沢方面へ退いた。長岡藩士たちの家族たち多数も野宿しながら同じ道を通って会津へ落ち延びた。 新潟占領の翌8月1日、大野方面に向かう隊と、三根山方面に向かう隊の二隊に分かれて同盟軍を追撃した。同盟軍の姿は見られず、三根山に向かった一隊は、赤塚で三根山藩の降伏帰順の使者に出会い、前進を中止した。降伏後は、新政府軍の先鋒となることと藩主牧野忠泰の新潟出頭を命じた。 同盟軍の総退却に伴って、同2日には三条が、4日には加茂と新津がそれぞれ新政府軍に占領され、海岸方面から山手まで、中越地方の全域にわたって新政府軍が支配するところとなった。 同盟軍が総引き揚げと決定し、米沢軍が本国へ帰還と決定すると、これまで越後諸藩の後ろ盾がいなくなってしまった。 新政府軍の一員となった新発田藩が、同盟軍を追って7月28日、三日市藩陣屋に進撃してくると、三日市藩は新政府に帰順を表明し、新発田藩兵に属して出動した。 村松藩兵は8月4日、防戦しきれず、城中・城下に火を放って藩主直賀一行は米沢へ落ちのびた。同藩勤王派は近藤安五郎・小川平次右衛門らを中心に奥田貞次郎を擁立し、藩の存続を図るため新政府軍との接触を求めていた。5日に新政府軍の五泉会議所へ赴き降伏を申し入れ、そこに保護された。 8月11日、新政府軍は中条・岩船方面から村上城下へ攻め寄せた。佐幕強硬派の家老鳥居三十郎は越前・加賀・高田などの藩兵が城下に迫るのを見て、城の守り難いことを知り、二の丸に火を放ち庄内を頼って敗走した。これに対し、江坂ら恭順派は新政府軍に降伏帰順した。帰順派は、庄内藩征討の先鋒を申し付けられた。 8月12日、黒川藩主柳沢光昭は、下関の新政府軍会議所密に訪れ降伏を申し出た。藩士15名が新発田藩兵に属して行動するよう命じられた。 こうして、約3か月半にわたる越後国内の戦闘は終結した。この戦争で多くの死傷者を出した。新政府軍の戦死者数は1040名で、戦争の中心となった薩摩長州両藩兵が飛びぬけて多く、合わせて3割に達している。列藩同盟軍の戦死者数は正確には不明であるが、1180名を超えると推定され、長岡・会津・米沢の三藩兵がそれぞれ200名を超えて抜きんでている。 (朝敵処分)明治元(1868)12月7日、新政府は奥羽越の”朝敵諸藩”に対して一斉処分を発令した。越後では長岡藩が最も厳しい処分を受け、所領すべてを一旦没収されたが、のち所領5万石を没収されて2万4千石で忠恭の第四子忠毅に家督相続が許され、支藩三根山藩に対しては、所替えが命じられ、村松藩に対しては藩主堀直賀を隠居させ、前藩主直休の弟貞次郎に家督を相続させた。また、村上では前藩主内藤信思に謹慎を命じ、養子信美に家督が認められたのである。各藩の戦争責任者の処分は厳しく、村上藩家老鳥居三十郎、村松藩家老堀右衛門三郎らは死刑に処せられた。長岡藩では総督河井継之助・大隊長山本帯刀はすでに死亡していたが、斬首したことにして家名断絶が命じられ、2名に次ぐ者として軍事掛三間市之進は永謹慎に処せられた。 (参考:新潟県史)
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戊辰戦争時活躍した人物
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戊辰戦争時越後11藩の石高と藩主名北越戊辰戦争歴譜
※1868(明治元)年9月12日に、総督府は「賊の遺体をきちんと葬り、残虐の行いを為すことを禁ずる」という命令を出した。それまで同盟軍戦死者は、打ち捨てられ、朽ちるままにされていた。また遺体を冒涜するような行為がなされ、一部では敵兵戦死者の人肉を食べる行為がなされていたという。特に会津藩兵士に対しては目を覆いたくなるような状態であった。幕末までは、降伏した者に対して捕虜という概念が薄く、捕らえられると即刻斬首がなされた。その遺体に対しても丁重な扱いがなされることはなかった。特に薩摩藩兵の中には、古来から敵の生き胆を食らうことで、己の勇猛を鼓舞していたという話が伝わる。 命令では「討ち取った賊の死体の腹を屠り、肉を刻み、残酷の振る舞い、或いはそのような内容が聞こえてきている。もっての外のことで、賊といえども皇国の人民である。これ等の粗暴な処置がなされないよう、兵隊の末端まで申し渡すよう沙汰するものである」とある。命令が出されたのは、大勢が決した後で、遅きに失していた。 |
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