河井継之助 長岡市



文政10年1月1日(新暦1827年1月27日)〔生〕 - 慶応4年8月16日(新暦1868年10月1日)〔没〕

北越戊辰戦争のなかで最大の激戦は、長岡城の攻防戦であったといえよう。その戦いの中心人物は、長岡藩家老上席・軍事総督河井継之助であった。
河井継之助は文政10年(1827)正月元旦長岡藩士の軽輩の子として生まれた。天保13年(1842)16歳で元服、安政4年(1857)31歳で家督を相続した。陽明学を学び、33歳のとき彼は備中松山藩の財政再建を成し遂げた山田方谷について経国斉民の道を習得しようと入門した。
河井は慶応元年10月郡奉行に抜擢されてから、上席家老に上り詰めるまで、わずか2年という早さであった。これは、河井が藩財政整備、兵制改革、門閥の均等化など数々の藩政改革を成し遂げ、藩主牧野忠恭の信任を得たからであった。
また、たびたびの遊学や藩主に随行して京都詰・江戸詰をつとめ、幕末の世情や西洋文化を知悉し、幕末の政治情勢を的確に判断できる教養人でもあった。
徳川慶喜の大政奉還の報に接すると河井は直ちに藩主を擁して上京し薩長の倒幕論の無謀を説いて、決死の建白を行ったが容れられなかった。さらに大阪におもむいて慶喜に帯兵上京を止めるよう説いたがもちいれられなかった。

開戦の決意の発端となった事件に、「小千谷談判」の決裂がある。
戊辰戦争が始まると長岡藩は武装中立の立場をとっていた。藩内では、佐幕派と恭順派の間で、議論が沸騰していた。佐幕派には河井・山本帯刀などがおり、恭順派には筆頭家老稲垣平助などがいた。藩論は次第に、佐幕派が主導権を握るに至った。

慶応4年5月2日、越後の小千谷街の慈眼寺で行われた談判で、河井は官軍と会津・桑名の両藩の間を斡旋する和平交渉すべく長岡藩の立場を説明したが、新政府軍に従属か抗戦かを迫る東山道軍監岩村精一郎との真っ向の対決となった。継之助41歳、これに対して岩村は22歳の若輩であった。このとき、「武装中立と会津救解」を主張し、しばらく進軍を待ってほしいと嘆願したが、継之助の舌鋒は鋭く、嘆願の態度でなかったことが、岩村の怒りをかったとも言われる。
岩村はすでに総督府から長岡進撃の命を受けており、長岡藩の内情についても探知していたので、継之助の言に従えば新政府に敵対するための戦備を整えるための時間を与えることとなり、言下にこれを拒絶した。
継之助は必死にねばったが、岩村にはこれ以上談判を続ける意志がなく、裾をおさえる河井の手を振り払った。

小千谷談判の真相は明らかでないが、河井継之助の自尊心を傷つけたことは確かである。談判決裂後、継之助は宿で一夜、呻吟した。平和に局を結ばしめんか、譜代の臣として徳川恩顧の義に生きんか。翌朝、親友の川島億次郎にうちあけ、諸隊長に開戦の決意を述べた。その後、総督河井継之助は圧倒的兵力の新政府軍に対し、奥羽越の列藩と同盟して、戦争の勝機を見いだそうと懸命の作戦を展開することになる。

長岡藩の精兵1300余名を率いて、遠征の新政府軍2万名余りに敢然と立ち向かうこととなった。5月10日、河井は榎峠に陣をはる、新政府軍に先制攻撃かけ、ここに長岡城攻防戦の火蓋がきっておとされた。
攻防戦は9日間に及んだが、5月19日、薩摩・長州の100名の勇士が信濃川を強行突破し、奇襲作戦を行った。不意をつかれた、長岡藩兵は、東山方面へ逃走し、長岡城は落城した。
河井は、加茂で体制を立て直し、7月24日夜半、690名の藩兵を引き連れ、本営のある見附を出発した。そして、広大な沼地である、八丁沖を渡るという、奇襲作戦で、7月25日には、長岡城を奪還することに成功する。この作戦で、河井は負傷する。

しかし、兵力に勝る新政府軍の攻撃で、7月29日には、再度長岡城は落城し、長岡の町は焦土となる。

結果は長岡藩の敗戦と継之助の死で戦いが終息する。しかし、当時日本に3門しかなかったガトリング・ガンという機関砲を縦横に駆使したり、落城して奪われていた長岡城を取り返したり、大胆な作戦展開は河井継之助の采配によるものであった。

しかし、この長岡城奪還の際銃弾にあたり八十里峠(地図)を越えて会津へ退却する途中、8月16日(新暦10月1日)の昼頃、危篤状態に陥り、再び目を覚ますことのないまま、同日午後8時頃、只見・塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去した。享年42。
継之助の葬式は只見町塩沢で荼毘に付された後、会津城下にて行われた。遺骨は、新政府軍によって暴かれるのを恐れた継之助の従僕によって、戊辰戦後、河井家の墓がある栄凉寺に埋葬された。しかしその後、継之助の墓石は長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒された。

新政府軍は会津征伐を目的としており、直接、長岡藩を征伐の対象とはしていなかった。長岡は焦土と化し、住民は塗炭の苦しみを味わうなど継之助の開戦決意には疑問な点が多い。

墓所
〔所在地〕新潟県長岡市東神田3丁目 浄土宗 栄涼寺
※只見町塩沢の医王寺に村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある

記念碑
  • 河井継之助の碑
    〔所在地〕新潟県長岡市御山町の悠久山公園内
  • 河井継之助開戦決意の地記念碑
    〔所在地〕新潟県長岡市前島町の前島神社
  • 長岡城趾
    〔所在地〕長岡市大手通1丁目(アオーレ長岡隣)
記念館
  • 河井継之助記念館
    〔所在地〕新潟県長岡市長町1丁目甲1675-1
    〔アクセス〕電車…JR上越線長岡駅から900m 徒歩11分
  • 河井継之助終焉の地(河井記念館)
    〔所在地〕福島県南会津郡只見町塩沢字上ノ台850-5

〔河井継之助を紹介しているサイト〕






《河井継之助関連地図》
・河井継之助の碑 ※地図 ※ストリートビュー
・河井継之助開戦決意の地記念碑 ※地図 ※ストリートビュー
・長岡城址 ※地図 ※ストリートビュー
・河井継之助記念館 ※地図 ※ストリートビュー
・墓所 栄涼寺 ※地図 ※ストリートビュー
・河井記念館(只見町) ※地図 ※ストリートビュー
《北越戊辰戦争関連地図》
・慈眼寺 ※地図 ※ストリートビュー
・榎峠古戦場パーク ※地図 ※ストリートビュー
・新政府軍上陸の地の碑 ※地図 ※ストリートビュー
・八丁沖古戦場 ※地図 ※ストリートビュー
・八十里越 ※地図 ※ストリートビュー






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