河井継之助 Tsugunosuke Kawai 長岡市
文政10年1月1日(新暦1827年1月27日)〔生〕 - 慶応4年8月16日(新暦1868年10月1日)〔没〕 🔗長岡藩執政として藩政を主導 🔗 軍事総督として北越戦争を主導 🔗地図 継之助誕生からの出世物語河井継之助は、通称は継之助、名は秋義、号を蒼竜窟という。文政10年(1827)正月元旦七つ(午前4時)に、長岡藩74000石、禄高120石の長岡藩士河井代右衛秋紀、母貞子の長男として長岡城下同心町に生れる。 河井家の祖は、もと近江膳所(7万石)の本多家に仕えていた。延宝3年(1675)に、牧野忠成が長子光成の室に本多俊次の娘を迎えた際、それに従ってきた。清右衛門・忠右衛門の兄弟が長岡藩に召し抱えられた。忠右衛門の次男で信堅が藩主の小姓として召し出され、継之助の河井家の始祖となった。通称代右衛門と言った。 父の河井代右衛は十代藩主牧野忠雅のもとで、藩財政の運営を担当していた有能な官吏で藩主の信認が厚く、5回の加増を受けて140石となり上士の下くらいの格で、郡奉行、新潟町奉行などを勤めた。また風流人で、のちに小雲と号して僧良寛とも親交があったという。明治4年(1871)に病没した。 母は同藩士の娘で、その性格は厳格な賢母で継之助は多分に母の影響を受けているといわれる。兄弟は5人で、姉3人、妹1人、男子は継之助のみであった。 継之助は生来強情我慢、気性ははげしかったという。文学、剣術、槍術、弓術、馬術を習ったというが、いずれもそのその実利のみ得ようとする態度と気性から、師範たちの教える流儀や方式に従わず手こずらせたという。 天保13年(1842)、16歳で元服すると、天保14年(1843)、朱子学と陽明学を教えた藩校の都講高野松陰の強い影響で、国家有用の人物になることを誓い、鶏を割いて王陽明を祭り、立志を誓明した。「十七(歳)天に誓って輔国(国をたすける者)に擬す(なぞらえる)」の詩文を残している。 継之助の行動は終生、おのれの思想を醇化し、すぐさま行動に移し、行動こそ唯一の思想表現の場とする陽明学的色彩が強かった。陽明学者佐藤一斎の著「言志録」を克明に写した継之助の写本が残っている。 (結婚)嘉永3年(1850)、24歳のとき、禄高250石側用人梛野嘉兵衛の妹・すが(16歳)と結婚する。梛野嘉兵衛は河井継之助に対して好意を持っていた。また河井継之助にとっても格上の家から嫁をとることで自分の人脈を広げ、改革を実行するための派閥形成にも役立ったと思われる。すがは継之助の母につかえ、留守がちな継之助に代わって家事を取り仕切った、武家の妻らしい人であった。すがは長岡城落城後、義母貞子の脚が悪く、峠を越えて逃げることができなかったので、従者を連れて古志郡の村々を転々とし、最後は濁沢村(旧山古志村濁沢)の阿弥陀寺に匿われていた。新政府軍の継之助の家族に対する追及は厳しく、捜索の手が及んできたので、住職が自首して出た。新政府軍は、すがと義母を罪人として捕らえ、小千谷の本陣に連行した。その後は、高田藩で拘禁される。この時、継之助の死を知らされたという。
8ヶ月後の明治2年(1869)4月拘束を解かれ、義父や義母と共に会津へ行き、継之助の遺骨を持ち帰り、 長岡の菩提寺の栄涼寺へ弔う。しかし、戦争犯罪人の一家に対する長岡の人たちの目は厳しいものであった。この中で義父は死亡。すがは義母とともに長岡を離れ、逃げるように北海道の江別へ移ることになる。
嘉永6年(1853)27歳の春、私費で江戸に遊学し、斎藤拙堂の門に入り、次いで古賀茶渓の久敬舎で学んだ。さらに佐久間象山の木挽町の邸に寄宿し砲術を学んだ。一方で、まだ部屋住みの身分であった継之助は、勉学の傍ら、『吉原細見』をもって遊郭に通い遊んでいたという。面白いことに継之助は上席家老に任じられると、藩士の遊郭遊びを禁じている。牧野家は、幕末3代続けて幕閣に参与し、実高14万石といわれながらも、藩庫は疲弊していたという。十代忠雅が老中職にあるとき、ペリー艦隊の来航があり、天下の形成や藩政について広く藩士の意見を求めた。江戸遊学中の継之助は、浦賀に人を派遣して状況を視察させる一方、時の重臣たちの無能を告発した。その献言書が藩主・牧野忠雅の目にとまり、藩政の企画などに当たる御目付格評定方随役に任じ、新知30石を与えられた。 嘉永7年(1854)1月帰国し、藩庁に出仕したが、まだ家督を継いでいない部屋住みの身に過ぎなかったため、継之助の意見は家老たちには受け入れられず、1ヶ月ほどしてその職を辞任した。 安政4年(1857)、31歳で家督を相続した。 安政5年(1858)、無役の藩士の中から、有能な人材を選んで、難事の審判を行なう外様吟味役になる。しかし宮路村(現長岡市宮路町)の騒動で思うような調停解決ができず、職を辞する。再び私費遊学の願いを出し、江戸遊学が許され、12月28日に長岡をたち、安政6年(1859)正月15日には古賀茶渓の久敬舎に再び入門した。 (備中松山山田方谷に師事する)安政6年(1859)6月7日、33歳のとき備中松山藩の財政再建を成し遂げた山田方谷を備中松山近郊の西方村長瀬里に訪うて、経国斉民の道を習得しようと藩庁の許可を得て出立した。道中の東海道筋では、各地の風俗や産物、政治の様子などを長岡と比較して、手帳の「塵壺」に書き綴っている。7月17日、継之助は方谷のもとを訪れ入門を願った。はじめ方谷は、教授の余暇がないとことわったが、継之助の真摯な言葉にうたれ、心を動かし入門を許した。 継之助は、約1ヵ年間、方谷のもとで事功者としてのその作用を体得しようとした。継之助は方谷に着き従い、方谷が松山から出府の際も同行したという。方谷もまた、継之助の凡鱗でないことを見抜き、器の大成に力を用いた。 万延元年(1860)3月29日松山出立し、4月9日 山陰道を経て品川着。三度久敬舎に入り、夏帰郷。継之助がこうして培った力は藩政の改革や戊辰戦争を発揮されることになる。 🔶備中松山藩御茶屋跡
〔所在地〕岡山県高梁市奥万田町3774−3 藩主別邸の一つ。山田方谷が城下滞在時に使用。継之助が逗留した施設。 🔶長瀬塾跡 (山田方谷旧宅) 方谷が安政6年(1859)に土着した住居跡。継之助が尋ね入門を申し入れた。 〔所在地〕岡山県高梁市中井町 山田方谷〔生〕文化2年2月21日(1805年3月21日) - 〔没〕明治10年(1877)6月26日農商、五朗吉の子として備中松山藩領西方村で生まれる。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。陽明学を学ぶ。また洋学にも深い理解を持ち、西洋文明の受容にはなみなみならぬ熱意を抱いていた。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。 備中松山藩の藩主板倉勝静は、幕府の要職を務める一方、内政は方谷の能力を高く買い藩政改革を進めた。反対意見も多かったが藩主勝静の「方谷の言う事は私の言葉。」と述べてバックアップした。 方谷が藩の元締めに就任したころは、財政的にはまったく行き詰まりみせ、石高は5万石と称するも実収はわずか2万石にすぎず、「貧乏板倉」の悪名は広く知られていた。が、彼が財政を掌握してから安政4年(1857)1月の辞めるまでに、負債のすべてを返したほか金十万余両の余財をえ得たのである。松山藩(表高5万石)の収入は20万石に匹敵するといわれるようになった。 方谷は、改革はあくまで藩主・家臣が利益を得る政策ではなく、藩全体で利益を共有して領民にそれを最大限に還元するための手段であるとした。 軍政改革においては、旧来の刀による戦いに固執する武士に代わって農兵制を導入し、イギリス式軍隊を整えた。河井継之助は長岡藩の軍制改革においてこれを参考にしている。 継之助と違う点は、方谷は執政として、幕府重臣として武家の意地を通して官軍と戦うよりも松山の領民を救うことを決断し、朝廷に恭順の意志を表明し松山城を開城したことである。 松山藩藩主勝静は老中として大坂城の将軍・徳川慶喜の元にいたことから鳥羽・伏見の戦いで、薩長と戦うことになった。新政府は周辺の大名に、松山藩を朝敵として討伐するよう命じた。方谷は、藩主勝静を説得し隠居させ、鎮撫使に謝罪書を提出した。 🔙戻る
長岡藩執政として藩政を主導(長岡藩執政)文久3年(1863)、正月、京都所司代に任じられていた藩主・牧野忠恭の求めに応じ、継之助は京都詰となる。9月職を辞した牧野忠恭に従って江戸詰めとなる。慶応元年(1865)6月21日、長岡藩主が第二次長州征伐のため、藩士570名を率い江戸を出発し、国元で藩政を担当する人材が不足した。当時起こっていた山中村(現柏崎市高柳町山中)の庄屋と百姓の間の騒動(山中騒動)を解決するため、継之助は7月に外様吟味役、10月郡奉行に任じられ、これを解決している。この時は、庄屋・百姓双方から感謝される裁定をなしたといわれている。 翌慶応2年(1866)40歳の11月、御番頭格町奉行・郡奉行兼帯に任じて藩政改革の口火を切り、御年寄役(執政)に累進。次々と藩政改革を実施した。 (建白書の提出)慶応3年(1867)10月14日の 幕府による大政奉還がおこなわれた。朝廷は同15日と21日に、全国の大名に上京を命じた。この時、他の大藩は一様に時局の流れを見極めようとして,この命令に応じるものは少なかった。このような中、長岡藩は蕃書調所教授を勤めた鵜殿団次郎らが、時世を見て対処すべきと反対したが、河井は聞き入れなかった。11月25日、藩主忠訓は、河井をはじめ梛野嘉兵衛ら60余人を従えて、品川沖で幕府の軍艦順動丸に乗って、11月30日、大坂堂島の蔵屋敷に着いた。 朝廷は12月9日に王政復古を発し、幕府などを廃止した。12月13日、将軍慶喜は京都守護職の松平容保・所司代の松平定敬らを伴って京都を出立し、大坂城へ入った。人心は動揺し、容易ならざる形勢となり、時勢は徳川幕府の権威失墜の方向に流れていた。継之助が建白しようとした趣意も、時機既に遅いと考えられたが、継之助はこの状況に切歯しあえて京都に向かうことにした。 12月22日、 継之助は藩主の名代となり、副使の三間市之進を伴って、議場所に出頭し、長谷三位・辻小納言に謁して継之助が起草した建言書を奉呈した。 将軍が大政奉還したのはまちがいで、新政府指導者の攘夷思想の誤りを指摘し「これまで通り、万事徳川氏へ御委任あらせられ候」と建白した。尊王の名を借り攘夷を唱える姦雄、激徒が入り込んだ新政府には治政を任せることはできないと主張している。 小藩長岡藩が進んで提出した建言書は、時局の急変にあまりに愚鈍であり、新政府に一考さえされなかったばかりか、新政府に敵対するものとして討伐の対象にさえなってしまった。この時期、御所内は混乱していて返答を得ることはできず、12月29日、大坂へ引き返す。 慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、長岡藩は玉津橋方面の警固を命ぜられた。幕軍側の敗報がしきりに届き、そのため向背を変じた者多く、敵か味方かさらに不明であった。 1月6日、徳川慶喜は軍を捨て江戸に逃走した。このような紛擾雑踏の中で、継之助は徳川慶喜の行方を探り、その東帰を確かめ、7日大阪を去り江戸に向かった。 2月20日、継之助は、藩主忠訓が江戸に滞留して紛争の渦中にはいることを恐れ、一旦帰国して大勢の定まるを待つべしとし、忠訓もその説を入れて3月1日長岡に帰城した。 継之助はしばらく江戸にとどまり、藩邸引き払いの任を勤め、牧野家の家宝等を処分し、オランダ商人エドワード・スネルから新式の大砲若干と新式銃数百丁を購入した。当時日本に3門しかないといわれたガトリング砲2門を1万両(現在価1億円)で購入した。 継之助は3月3日江戸藩邸を引き払い、3月16日、ガトリング銃など武器弾薬を積んでスネルの汽船ユリア号をチャーターし、横浜を出港、函館経由で3月23日新潟湊に到着し、3月28日長岡に戻った。この船には長岡藩士150余名、桑名藩主松平定敬一行約100人および会津藩士等約100名が同船した。この会津藩士の中に、会津藩外交を担当した家老で、松平容保の側近として仕えていた梶原平馬がいた。継之助からスネル兄弟の紹介をうけ、780挺のライフル銃をはじめ大砲、弾薬などを大量に購入した。新潟湊で荷下ろしし、船運で酒屋陣屋から阿賀野川経由で会津へ輸送するつもりであった。 梶原は、この時23,4歳の青年で、継之助とは親子ほど年が離れていたが、梶原は、継之助が国元の人々には想像もつかない、高度で複雑多岐な戦略を有していると感銘を受けたという。 継之助は商才にもすぐれたものを有していた。江戸深川に貯蔵してあった多量の米穀を米価の高い函館で売却するため船に積み込んだ。また、江戸と新潟では銭相場が1両につき3貫文ほど差の有ることに着目し、6貫5~600文で3万両ほど買い入れ、新潟で1両につき9貫600文でさばき、多額の軍資金をこしらえている。 (総督府の出兵と3万両の献金の要請)3月15日、北陸道鎮撫使らが高田に到着し、越後11藩に対して兵士の供出と、朝廷に対する恭順の誓約書を求めた。3月16日、藩は重臣の植田十兵衛以下6名を派遣した。鎮撫総督は長岡藩に、出兵と藩主の誓約書の提出を求めた。植田十兵衛は、家老河井継之助の不在を理由に即答を避け、長岡藩庁に通知し、各藩の重臣と共に北陸道先鋒総督一行に従い江戸へ向かった。 4月1日、藩士に総登城が命じられた。本丸の大広間に藩主忠訓と前藩主忠恭が臨席し、その側に河井が着席した。河井は藩主に代わって、長岡藩は小藩ではあるが、たとえ一藩孤立しても、徳川から受けた恩に報い。義理を果たす考えである。と述べた。この継之助の発言に対して、恭順を主張する藩士たちの抗議は続いた。当時旧幕府方への忠誠を主張していたのは、河井継之助・山本帯刀・牧野市右衛門・稲垣主税・奉行格の花輪求馬・三間市之進らであった。それに対し、新政府帰順を主張したのは、稲垣平助(元家老)・安田杢・安田鉚蔵らと藩校崇徳館の教授たちであった。 4月江戸に向かった先鋒総督に同行した植田十兵衛に対して、総督府は出兵が無理であればそれにに変えて3万両の献金を要求した。植田は、昼夜兼行で帰国し、献金の対策を早急に講ずるように説いたが、藩内はまたも賛否の二派に分裂した。家老河井継之助が出した結論は、新政府軍が近くにきてから嘆願しても遅くはない。出兵・献金問題はすべて自分の責任で棚上げにすると述べ、態度を明らかにしないまま、鎮撫府総督からの要求を黙殺した。 (軍事総督)閏4月26日には、河井継之助は家老上席、軍事総督になる。奉行職に任ぜられてからわずか2年という早さであった。継之助は、諸隊士を兵学所に招集し、忠恭・忠訓臨席のもと、事態の容易ならぬことを説き、誠心誠意領民を保護し、民心の動揺を抑え、朝廷の意志に反しないよう、しかも徳川家への義理を尽くすことが長岡藩のとるべき道であると論じ、非常の決意をもって努力するよう激励した。藩境に藩兵を派遣して警護に努めた。特に、新政府軍が小千谷方面に進出しており、長岡軍の本営を城南約4kmの地にある摂田屋村の光福寺に定め、家老山本帯刀の率いる1大隊(280余人)を派遣した。多くの藩士が、継之助が開戦を決意したと考えた。 しかし、河井は27日山道軍が小千谷を占領し、海道軍も28日柏崎を占領すると、南方警備に派遣した部隊に撤退を命じた。この優柔不断ともとれる決定は、長岡藩士の中ですら、その真意がわからず疑惑を持つ者すらいた。 閏4月29日、銃士加藤一作は、巡視中の継之助に藩の方向がいまだに定まらないことを嘆き、質問したところ、継之助は「意にみたざれば速やかに帰れ」と答えたので、加藤一作は怒って自刃しようとし、周囲がこれをおさえ、河井も謝してようやく事なきを得た。藩中でさえこのような状態であったから長岡藩の向背は全く不明と言ってもよかった。 継之助はこれまで執政として藩体制を機能的な軍備体制するために、藩政改革を断行し、藩を再建した。禄高改制、軍制改革、新兵器の購入等を行い、防衛意識の高い武装藩を目指していた。長岡藩兵は銃士・卒合わせて1300余名が三大隊・23小隊に編成された。連発式のガトリング砲など最新型の兵器を導入し、軍制の近代化を図ってきた。この結果、長岡藩は表高7万4000石の小藩ながら、10万両の剰余金と洋式軍隊を持つ屈強な藩となり、継之助は、長岡藩の『武装中立』を考えるようになっていた。 (洋式武器の導入)
☯継之助は、兵制改革の一環として、最新式の洋式武器の導入をすすめ、兵学所を設けて、藩士たちに槍刀から銃による戦闘の形態への移行を徹底させようとしていた。 武器購入の資金として、江戸藩邸や家財を売却して資金を捻出し、当時日本に3門しかなかったガトリング砲の内2門を横浜にいたアメリカ人の武器商人のスミスから購入した。1門の値段は1門5000両とも6000両ともいわれる。1分間に300発発射できることから、先込め銃が主流だった当時、1門で100人の小銃隊に匹敵するといわれた。ガトリング砲は1862年にアメリカ人のガトリングが発明した機関砲で、まだ珍しい武器であった。 ☯スネル兄弟は死の商人として奥羽列藩同盟の武器の調達元となり軍事顧問となった。弟のエドワードは会津生まれの妻と共に、エドワルド・スネル商会を新潟で設立する。河井は数百挺の元込め銃をエドワルドから購入している。 (衝鋒隊古屋と継之助)衝鋒隊は旧幕府の歩兵連隊を歩兵差図役古屋佐久左衛門が結成した部隊である。4月1日に600人の隊士が新潟町に乗り込んできた。衝鋒隊士たちは商家に乗り込んで強請り、たかりを働いた。震えあがった町民たちは、町役人たちに至急対応をするように要望した。町役人は、この時新潟奉行が江戸にいて不在であったため、前の領主の長岡藩に頼み込んだ。 河井継之助は従僕のみを連れ、単騎新潟町に乗り込むと、櫛屋旅館に入り、古屋と今井を招いて、酒を酌み交わした。この席でどんな話が交わされたかつまびらかでないが、河井が立ち退きを要求すると、古屋はすなおに応じたという。 古屋(35歳)は、文久2年(1863)には、神奈川奉行所通訳となり、横浜に駐屯していたイギリスの軍隊に用兵術を学び、英語の兵書を翻訳するほど英語が堪能で、痩身で青白い顔のインテリ風官僚の様であった。河井は、新潟町で暴れまわる部隊を率いる人物であるから、武骨な人物像を考えていたようである。 副隊長の今井信郎(26歳)は、直心影流剣術の免許皆伝の剣術使いで、慶応3年(1867)5月、京都見廻組へ入隊し、坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋事件にかかわったことを後に告白している。この時は、古屋の警護のため同行したと思われる。衝鋒隊の中では、古屋が頭脳で、今井が手足となって働いた。 河井は、大局を見て理路整然と話す古屋のようなタイプの人間を好んだ。一方で会津藩の佐川官兵衛のように行動しながら考えるようなタイプの人間とは最後まで打ち解けなかった。古屋も、継之助の話を聞き、信頼に足る人物と確信した。 頭脳明晰な話をする古屋は、日本のあるべき姿を描き、薩長による国政の私物化を防がなければならない理由を述べたと思われる。また、600人の部隊を維持するためには資金が必要で、献金を求めるのはやむを得ないことだと理解を求めた。当時、尊王派や佐幕派にかかわらず、集団で移動する部隊は普通に資金を求めて略奪まがいのことを行っていたという。一方、継之助は越後国内の諸藩の情勢と自藩の立場や新政府軍の進軍の状況を話している。 衝鋒隊が4月9日に新潟町を出た後の行動を見ると、3人で今後の衝鋒隊の活動の方向を話し合ったのではないかと思われる。まず、越後国内で積極的に帰順の意志を表明している与板藩に脅しをかけること。その後、越後国内に進撃してくる新政府軍の進路を妨害するため、高田藩が旧幕府よりである疑念を抱かせるよう仕向ける事。また越後国境の飯山藩など帰順を表明している信州諸藩を寝返らせ、少しでも新政府軍の進撃を鈍らせ時間稼ぎをすることであったと思われる。 実際、衝鋒隊は4月11日、与板藩に直行し、藩の蓄え7000両を奪い取っている。その後、与板藩は、藩の資金が底をつき長岡藩に泣きつき、継之助から7000両の借り入れを受けている。将来与板藩が長岡藩に敵対しないよう、その行動を縛ろうと継之助か深謀遠慮で策をめぐらしたとも考えられる。 この後、高田城下を武装して通行し、高田藩領新井に宿営して信州飯山藩に攻撃を加えるが敗走している。 衝鋒隊は北越戦争では、長岡藩の開戦から長岡城が再落城するまで、継之助に協力し、同盟軍の一翼を担った。新政府軍からは桑名藩雷神隊、会津藩佐川官兵衛隊とともに恐れられる存在であった。 (奥羽越列藩同盟)慶応4年(1868)閏4月28日、会津藩は佐川官兵衛を指揮官として、400名の会津藩兵を派遣し、長岡藩領渡町妙念寺へ到着し滞陣した。佐川は長岡藩に会談を申し込み長岡藩野戦本営光福寺を訪ね河井継之助と会談した。佐川は奥羽列藩同盟への加盟を強く申し入れた。一方継之助は、大きな視点から見る戦略、施策もなく、朝廷を利用する薩長憎しの怨恨から、会津弁で奥羽越藩同盟に加盟するようまくしたてる武骨そのものの佐川が苦手であった。継之助は自藩の中立政策を説明し、同盟加入を拒否した。また会津軍が長岡藩領から立ち退かなければ攻撃する旨忠告した。佐川は隣接する与板藩領に移動した。 🔙戻る
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