河井継之助 Tsugunosuke Kawai 長岡市
文政10年1月1日(新暦1827年1月27日)〔生〕 - 慶応4年8月16日(新暦1868年10月1日)〔没〕 🔗継之助誕生からの出世物語 🔗長岡藩執政として藩政を主導 🔗地図 軍事総督として北越戦争を主導(小千谷談判)開戦の決意の発端となった事件に、「小千谷談判」の決裂がある。戊辰戦争が始まると長岡藩は武装中立の立場をとっていた。藩内では、佐幕派と恭順派の間で、議論が沸騰していた。佐幕派には河井・山本帯刀などがおり、恭順派には筆頭家老稲垣平助や小林虎三郎などがいた。藩論は次第に、佐幕派が主導権を握るに至った。 慶応4年(1868)5月1日、河井は、小千谷の北陸道軍先鋒の本営に用人の花輪彦左衛門を使者として派遣し、会談を申し入れた。花輪が小千谷の本営(小千谷陣屋)におもむいたところ新政府軍は丁重に対応し、河井の出頭も許可した。継之助は会談を前にして、新政府に対し戦う意思のないことを示すため、三国街道の要衝榎峠に配備した兵を撤退させ誠意を示している。 この継之助の対応に藩内の血気盛んな藩兵の多くは河井の挙動を怪しみ、継之助が藩士たちを前にして語った決意を一朝にして翻したと怒り、大川隊の小林寛六郎らは「鼂に出兵を命じて、今日兵を退くるは抑々何の故」と河井に迫った。河井はまた強いて言論する時は藩籍を剥奪すると怒ったという。 翌日5月2日黎明、河井継之助は麻裃をつけ、軍目付で藩随一の剣客二見虎三郎と従僕松蔵をしたがえ駕籠に乗り、摂田屋村の本営を出発した。 河井継之助らが山道軍の本営に入って程なく、会津軍の一隊が片貝村方面に進軍しているという報が入り、陣屋内は対応に混雑し、騒々しくなった。 そのため、継之助・二見らは信濃川の脇にある旅籠屋野七(野沢七郎右衛門)へ移り待機していると呼び出しがかかり、河井継之助らは会談場に指定された薩摩藩本営の慈眼寺に向かった。 慈眼寺の談判場には、北陸道先鋒総督府山道軍の軍監岩村精一郎(土佐)・杉山壮一(長州)・白井小助(長州)・淵辺直右衛門(薩摩)が列席した。これに対して長岡藩は継之助一人で、二見虎三郎は隣室に控えた。 継之助41歳、これに対して岩村精一郎は23歳の若輩で多数の兵を統率する立場とあって、いやがうえにも虚勢を張っていた。 河井は、藩内にもいままで様々な意見があり、出兵、献金に応じられなかったと率直に詫び、官軍と会津・桑名の内戦を直ちにやめて、日本国民が一和協力すべきであると説いた。中立の立場で両藩の間を斡旋する和平交渉すべく、しばらく進軍を待ってほしいと理路整然とした口調で長岡藩の立場を説明し、藩主の嘆願書を差し出し、総督府への取次ぎを願い出た。 岩村はすでに総督府から長岡進撃の命を受けており、長岡藩の内情についても探知していたので、継之助の言に従えば新政府に敵対するための戦備を整えるための時間を与えることとなり、言下にこれを拒絶した。 官軍は朝敵を討伐しにきたのであって議論しにきたのではないと、岩村にはこれ以上談判を続ける意志がなく、裾をおさえる河井の手を振り払い、「嘆願書のごときは見る必要もなく、取り次ぐ必要もない」と述べて断然これを拒絶した。 午後2時、会談は、30分余りであっけなく決裂した。 この夜は、旅籠屋「野七」に宿泊した。途中、「東忠」へ立ち寄り食事をしている。継之助ははあきらめきれず、深更まで何度も本陣の門に足を運んで再度の面会を請い、取り次いでくれるよう求めたが、ついにその志を達することができなかった。 河井の思いは、自分を軽輩から執政にまで引き上げてくれた主家の牧野家を守ること、徳川譜代としての面目を保つことであった。藩内にあった、恭順・佐幕の二論のどちら立っても、薩長や会津から攻撃を受けて、戦火に巻き込まれるのは必定であった。武装中立を主張し、できれば戦を避け牧野家を守りたいと考えていたが、やむなく交戦となっても、先制奇襲攻撃で体制の整わない新政府軍の出鼻をくじき、和平交渉に持ち込めれば有利に展開できると考えた。そのため最新式の武器を大量に購入し備えていたのである。 河井にとって藩主のしたためた嘆願書を、岩村が預かることさえしなかったことは最大の屈辱であった。主君の面目が汚されたと感じたのではないか。(☛ 小千谷談判) この時、会談が決裂したと聞いた北陸道鎮撫総督軍参謀の黒田は、西郷隆盛の方針が平和裏に交渉を進めることであったことから、和平の糸口を探るため河井継之助宛に、熱心に和平を説いた手紙をしたためた。この手紙は手違いで河井の手に届かなかった。 一方、主戦論に立つ参謀の山縣は、柏崎から小千谷の本営に移動中に、河井が小千谷にくると聞いて、引き留めておくようにという指令を出したが、間に合わなかったと回想している。 山縣は、一説では河井を拘束し、長岡城を開城させようとしたといわれている。 小千谷談判の真相は明らかでないが、河井継之助の自尊心を傷つけたことは確かである。談判決裂後、継之助は小千谷の宿「野七」で一夜、呻吟した。平和に局を結ばしめんか、譜代の臣として徳川恩顧の義に生きんか。若輩とはいえ岩村を説得でなかったのは自分の責任であると感じ、中立の立場は捨てざるをえず、藩内の主流であった抗戦派に組すると決めた。 翌朝、親友の川島億次郎に打ち明け、諸隊長に開戦の決意を述べた。その後、総督河井継之助は圧倒的兵力の新政府軍に対し、奥羽越の列藩と同盟して、戦争の勝機を見いだそうと懸命の作戦を展開することになる。 (開戦)5月3日、小千谷会談が決裂し、長岡に戻った継之助は、前島村を警備していた親しい仲であった川島億次郎(後の三島億二郎)を訪れ、談判決裂の結果を伝えた。川島は開戦に反対の立場であったが、河井は「この首に、三万両を添えて官軍に差し出せば開戦を避けられる」と話したという。川島は「是非もなし。死生をともにせん」と河井と行動を共にする旨を伝えた。この時、継之助は開戦への決意を固めまたという。川島億次郎との面談ののち、野戦本陣の光福寺に諸隊長を集め、開戦の決意を告げた。4日には、会津藩の佐川官兵衛に対し、奥羽越列藩同盟への参加を申し入れた。 長岡藩の精兵1300余名を率いて、遠征の新政府軍2万名余りに敢然と立ち向かうこととなった。 5月9日、継之助は長岡城中に、会津藩総督府越後口総督一瀬要人・佐川官兵衛など、桑名藩家老山脇十左衛門・立見勘三郎など、衝鋒隊古屋佐久衛門を集め、榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案をまとめた。 5月10日、河井は、三国街道の要衝榎峠に陣をはる新政府軍に先制攻撃かけ、ここに長岡城攻防戦の火蓋がきっておとされた。長岡藩兵にとっては、初めての実戦での戦闘となった。 13日早朝には、榎峠を見下ろす朝日山を同盟軍が制しその後膠着状態となる。榎峠・朝日山の戦いは、新政府軍にとって初めての敗戦となった。この時の新政府軍の苦しい状況を、山県有朋をして「仇まもるとりでのかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風」と嘆かわせしむのである。(☛ 榎峠の戦い・朝日山の戦い) (1回目の落城)攻防戦は9日間に及び、新政府軍の援兵が増し攻撃が激しくなる中、長岡藩外同盟軍の主力は榎峠周辺にくぎ付けとなり動きがとれなくなっていた。5月19日、長州の三好軍太郎が指揮する100名の勇士が七艘の小舟に乗り込み、長岡城下の側面にある信濃川を強行渡河し、一気に長岡城をつく奇襲作戦を行った。この年の越後は、大雨が続き信濃川は濁流となっていた。この様子を視察した継之助は、水が引き新政府軍が渡河して長岡城が直接ねらわれるまで、時間の余裕があると考えた。そしてそれまでに、信濃川から押収し前島村につないだ舟を利用し、小千谷の新政府軍本陣に奇襲をかけることを考えていたという。軍事的実戦経験が少なく、危機感の薄かった継之助が、新政府軍の奇襲攻撃を許してしまったともいえる。 切れ者の継之助も開戦当初は、部隊を実際に動かし、戦闘を行った実戦経験が、まったくなかった。実際の戦闘では、まさかと思う戦術が採られることにまで思い及ばなかった。百戦錬磨の薩長が相手ではなおさらであった。継之助は主戦場はあくまで榎峠方面であり、長岡藩精鋭をここに集中し、時期を見て信濃川を渡河し小千谷を攻略しようと、大隊規模の兵を温存し、中島や蔵王方面には6小隊と村松藩1小隊合わせて300人程度しか配備していなかった。中には銃卒隊長谷川健左衛門のように、新政府軍が激流をおして渡河を試みる可能性を指摘した者もいたが、継之助には届かなかった。この継之助の思惑違いが、新政府軍に渡河を簡単に許してしまうことにつながった。 またこの当時、同盟軍側で総合的に戦術を策定する指揮官が不在で、各藩の隊長は横目で他藩の様子を見ながらの戦いであった。継之助の思考も、長岡藩兵をいかに効果的に動かすかに注力されていた。 朝日山の戦いの敗戦で新政府軍側は浮足だっていた。また薩長間で軋轢があり混沌としていた。京都や江戸で薩長と戦ってきた会津や桑名藩と連携を深め、効果的な兵の配置など調整できていれば、長州による渡河作戦の成功はなかったし、一時なりとも長岡から撃退していた可能性すらあった。 城下を守備していた老兵や少年兵を主力とする長岡藩兵は不意をつかれ、長州藩の精兵の攻撃に押され、城に追い詰められ、城を捨て東山方面へ逃走し、結果長岡城は落城した。この時継之助は摂田屋村の野戦本陣から急いで一隊を率いて戻り、ガトリング銃を大手口門に据え、自ら操作して銃撃したという。 藩主はあらかじめ栖吉の普済寺に避難していて、落城の知らせが入ると、栃尾方面に落ち延びていった。継之助は城に火を放ち、城下の民家に放火しながら東山方面に撤退した。退却した継之助は東山にある悠久山に仮本営を置き、敗走して来る人々を待ち、夜に入って、森立峠を越え、栃尾へ落ち延びた。継之助は、森立峠で黒煙を上げている長岡城を見て涙を流し、必ず城の奪還をすると宣言した。大隊長山本帯刀の生母で安田弓子は、開戦しても負けることはないと言ったではないかと、継之助を責めたとされる。 5月21日、継之助は栃尾、葎谷にいた長岡藩諸隊を率いて、態勢を立て直すため桑名藩領加茂に移動した。河井は加茂町の庄屋皆川邸に宿営し、ここを長岡藩の本営とした。(☛ 長岡城落城) (加茂軍議)5月22日の正午過ぎに、加茂の大庄屋市川邸におかれた加茂会議所で軍議が開かれ、米沢藩・会津藩・長岡藩・桑名藩・上ノ山藩・村上藩・村松藩の各藩が出席した。しかし各藩それぞれ、列藩同盟に参加した主旨や目的が微妙に異なっていた。長岡藩は軍事総督の河井継之助が出席し、長岡城奪還を強く主張した。しかし他藩では、長岡城を奪還できても、その後、総合的な戦略を見通せないことから意志統一できなかった。また、米沢藩が断ったことから同盟軍の総督が決まらず、各藩それぞれ、意見を持つ烏合の衆となっていた。 この日の会合で、河井継之助は、見附を攻略し、長岡城奪還は可能であると雄弁に主張した。また、長岡城落城の際には、村松藩に裏切りの疑いがあったと咎めたてた。継之助に疑いをかけられた村松藩用人田中勘解由は会議の場で自刃を図っている。このことがかえって、会議の流れを、反薩長で列藩同盟内の求心力を高める結果となった。 結局、継之助が主張した案に沿って列藩同盟軍を三軍に分け、見附を攻略し、長岡城奪還を目指しすこととなった。 (村松藩裏切りの流言)5月19日、長州藩による信濃川が行われたが、上陸してきた長州藩兵と、内川橋をはさんで、長岡藩少年兵との間で銃撃戦が行われていた。この時内川橋北方の安善寺に宿陣していた村松藩兵が敵兵と誤って、少年兵たちを背後から銃撃したので、少年兵たちは村松藩が裏切ったと慌てて潰走した。村松藩が裏切ったという流言が、長岡藩兵の敗走を早め、しいては落城を早めてしまったと継之助は考えていた。また一旦栃尾に兵を撤退したのも、北方の村松藩から攻撃を受けると、新政府軍との間で挟み撃ちになることを恐れたからである。 継之助が加茂軍議の席上、このことを持ち出し村松藩を責めた。村松藩から出席していた用人の田中勘解由は、疑いをかけられた主家の汚名をそそぐため、その場で自刃を図った。また軍監の近藤貢は帰藩途中の黒水宿で自刃した。 (同盟軍の攻勢)加茂で体制を立て直し、6月2日には、交通の要衝で新政府軍が本営を設置した今町(現見附市)を、同盟軍を三軍に分け攻撃した。山本帯刀率いる牽制部隊が坂井口に進軍し敵の注意を引き付け、主力と見せかける陽動作戦を実行した。河井継之助はは中央部隊を直接指揮し、安田口に攻撃をかけた。北越戦争屈指の激戦となったが、同盟軍が勝利を得て、今町を占領した。新政府軍は、狼狽し大きく後退した。(☛今町の戦い)6月6日、米沢藩主上杉斉憲が越後国内における盟主的立場を明らかにした。 河井継之助と会津の佐川官兵衛などが6月13日の軍議の席上、米沢藩の千坂太郎左衛門、当時若干28歳を越後口同盟軍の総督に指名し、漸く、同盟軍の組織が形となった。 6月22日、四ツ屋を仮本陣とした河井継之助は八丁沖渡渉作戦の前哨戦となる夜襲を敢行した。その進路を八丁沖に取り、時刻は暁闇に決めた。八丁沖は折からの洪水に際し、水を満々とたたえ、村際まで水が迫っていた。暗闇の奇襲で優勢であったが、薩長の部隊が救援に駆け付けて攻撃したので敗色が濃くなり長岡兵は撤収している。 河井継之助は、自身の作戦の誤りを認めた。 7月3日、見附に赴いた継之助は、百束、福井、押切、四ツ屋等の守備を米沢兵にゆだね、長岡城恢復の策を決行するために長岡勢を栃尾に引き揚げさせた。杤尾には、富川家に仮本営を置き、長岡城奪回作戦の本部とした。 (長岡城奪還と2回目の落城)7月24日夜半、690名の藩兵を引き連れ、本営のある見附を出発した。そして、7月25日には広大な沼地である、八丁沖を渡るという、奇襲作戦を決行した。午前4時ごろ夜陰にまぎれて新政府軍主力の背後に回り、喊声(かんせい)をあげて長岡に突入した。同盟軍は一斉に大砲や鉄砲を乱射したので、新政府軍は大混乱に陥った。長岡城を奪還することに成功する。この作戦で、長岡城に入った河井は前線視察に向かい、城下の新町で左ひざ下に銃弾を受け負傷して野戦病院に担ぎ込まれた。(☛ 八丁沖の戦い)河井を欠き、次々に後続が送り込まれてくる新政府軍の攻撃で同盟軍は浮足立ち、7月29日には、再度長岡城は落城し、長岡の町は焦土となる。 (継之助の死)7月29日長岡城が再落城すると、河井継之助は、新政府軍が占拠した栃尾の森立峠を避け、急ごしらえの担架に乗せられ、見附から八十里越を通って会津を目指した。(☛八十里越)他の同盟軍の兵士は8月1日から続々、吉ヶ平から八十里越を通って会津に落ちていった。長岡藩兵は敗戦の混乱の中、家族も伴っており、集結するのに時間がかかったことから、葎谷と遅場に陣を置き吉ヶ平に3日間とどまり、敗走してくる人たちを待って出発したという。 継之助は8月3日に吉ヶ平に入って、庄屋の椿家で1泊した。翌4日、吉ヶ平を出立する。当初、継之助は、長岡の地で戦って死にたいと出立を拒んだが、従臣たちが説得し漸く出立することとなった。実際、継之助は、脚を銃弾によって打ち砕かれており、立ち上がることすらままならない状態だった。 満足な治療を受けられず、破傷風が悪化、高熱のため、しばしば継之助を載せた担架は山中にとどまった。この時、継之助は越後の方を振り仰いで「八十里腰抜け武士の越す峠」と詠んだという。自嘲のような句だが、一方で継之助の無念さがひしひしと伝わってくる句でもある。4日は山中で1泊した。峠を越える間、継之助はうめき声一つ上げなかったという。 河井継之助一行は、8月5日会津藩領只見村に入り、6日から11日までは目明し清吉宅に匿われた。この間に継之助を師と慕った外山脩造に「お前は商人になれ」と告げたという。 12日には会津塩沢の医師矢沢宗益宅に移った。先の藩主雪堂公(牧野忠恭)は、会津城下にいた将軍家茂の侍医であった名医松本良順に治療を依頼した。良順は矢沢宗益宅に駆けつけ、診察したが、破傷風が悪化していて手の施しようがなく、包帯を替えただけだったという。 継之助の意識ははっきりしており、新たな時代を迎えたときの、藩主一家の進む道や、家臣たちの行末を話していたという。 15日に、死を覚悟した継之助は、従僕松蔵を呼び「我れ死なば、之を火せよ」と命じた。 8月16日の昼頃、「ひとねむりしたい」と眼を閉じた。昏睡状態に陥り、再び目を覚ますことのないまま、午後8時、矢沢宗益宅で波乱にとんだ生涯を閉じた。享年42。 継之助が息を引き取った矢沢家は、その後も存続したが、昭和39年(1964)滝ダムの建設により水没し今はない。終焉の間が河井記念館に移され保存されている。 継之助の葬式は、只見村塩沢で遺言により、河原で火葬された後、8月21日、遺骨は藩主の牧野忠訓が宿泊していた会津城下建福寺に安置された。 河井記念館の近くには医王寺※地図 ※ストリートビューという古刹があり、そこに継之助の墓がひっそりと建っている。荼毘に付された継之助の残灰を只見の人達が集めて弔った墓だ。毎年、継之助の命日には墓前祭が開かれる。平時であれば何もない静かな只見の村々にとって、多くの兵や避難民が逃れてきたことは衝撃的な出来事であった。また武士としての意地を通して、非業の死を迎えた継之助の生きざまが、只見の人達にいかに感銘を与えたかがうかがい知れる。 翌日の8月22日に建福寺で葬儀が執り行われ、長岡藩主牧野忠訓の他に雪堂公(忠恭)、会津藩主松平容保や重臣も出席したという。 遺骨は新政府軍が会津浸入をした際にあばかれることを恐れ、従僕松蔵が建福寺の裏山の松の木の下に埋めて探索を逃れたという。明治3年(1870)10月、妻すがと父母が訪れ遺骨を引き取り、河井家の墓がある栄凉寺に埋葬された。 その後、継之助の墓石は、長岡を荒廃させた張本人として継之助を恨む者たちによって、何度も倒されている。 (継之助の功罪)新政府軍は会津征伐を目的としており、直接、長岡藩を征伐の対象とはしていなかった。長岡藩は戦死者340人を出し、100人近い領民が犠牲になった。同盟軍では会津藩、仙台藩、二本松藩に次ぐ戦死者数だが、小藩であることを考えると極めて大きい犠牲である。長岡は焦土と化し、住民は塗炭の苦しみを味わうなど継之助の開戦決意には疑問な点が多い。 継之助は、明晰な分析で時局の趨勢を見ていたのだろうが、結局は藩内佐幕強硬派の大勢に逆らえず、悲劇を招いてしまった。これは、確固とした自分の考えをもちながら、最後は主流の意見に妥協し折り合いをつける長岡人の脈々と受け継がれたDNAを継之助も持っていたものと思われる。(時代は降るが軍神と言われた山本五十六もこのDNAの影響を受けた1人といわれている) 結果は長岡藩の敗戦と継之助の死で戦いが終息する。しかし、当時日本に3門しかなかったガトリング・ガンという機関砲を縦横に駆使したり、落城して奪われていた長岡城を取り返したり、大胆な作戦展開は河井継之助の采配によるものであった。 司馬遼太郎が河井を主人公にした小説『峠』を書くまでは、長岡藩の戦いや、河井継之助に光が当たることはなかった。この小藩長岡藩に手こずり、3カ月にも及ぶ戦いで新政府軍は900人以上という戊辰戦争最大の犠牲を払ったことは、新しい時代を迎えた明治維新を語る上で誇るべき事績ではなかった。特にこの戦いを指揮した長州の山縣や薩摩の黒田はその後政府の元勲となっているが、長岡藩を重要視せず、戦いに突き進んでしまった作戦はあまりにも稚拙で、その責任をうやむやにしたかったのではないか。 ✢長岡藩家老の河井継之助を描いた映画「峠 最後のサムライ」(監督 小泉堯史 主演 役所広司)が完成し、2020年秋に公開される。 🔙戻る
🔶墓所
墓には「秋恒建之」と刻み込まれてある。秋恒は当家三代目で、新潟奉行を務め、おそらく文政の頃建てたものであろう。正面に向かって右側に、温良院(総督の妻)・忠良院(河井総督)・峰寿院(総督の母)、その他の二面に褁珠院(初代代右衛門信堅)・宝真院(二代同秋高)・瑞麟院(三代同秋恒)・千寿院(四代同秋紀)のほか内室など4人を含む計11人の戒名が明記されている。 〔所在地〕新潟県長岡市東神田3丁目 浄土宗 栄涼寺 ※只見町塩沢の医王寺に村人が荼毘で残った細骨を葬った墓がある 🔶記念碑
🔶関連の地
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