山本帯刀 ( やまもとたてわき ) Tatewaki Yamamoto 長岡市



弘化2年3月7日(1845年4月13日)〔生〕~明治元年9月9日(1868年10月24日)〔没〕

山本帯刀は本名を義路(よしみち)といい、長岡藩士安田多膳の子。父多膳は山本家9代義方の末弟鋼三郎で安田家に養子入りしていた。山本家11代当主山本勘右衛門義和に子供が無かったため、藩命により8歳で上席家老連綿の筋目である山本家の養子となる。山本家は、一説によると武田信玄の伝説的軍師の山本勘助の弟を始祖とする一族と云われる。
文武両道で神童と称された。新知500石を賜り、元服して部屋住み身分のまま側用人見習いとなり、慶応3年(1867)3月、義父の没後、家督を継ぎ、家老となった。
慶応4年(1868)2月、江戸から藩主牧野忠訓室彜姫を警護して帰藩、その後は藩の兵学所に出向き、日々、武を講じた。
進んで河井継之助の藩政改革に協力、23歳と言う若さで大隊長に抜擢された。
河井継之助の藩政改革は門閥打破を狙ったものであった。帯刀の家柄は門閥勢力の代表格だったが、河井の改革に積極的に協力して自家の知行高を1300石から400石に減石する事にまで同意している。
また、戊辰戦争が始まると長岡藩は武装中立の立場をとっていた。藩内では、佐幕派と恭順派の間で、議論が沸騰していた。帯刀は佐幕派の中心として河井継之助を支持し、藩論を佐幕派有利にまとめた。

常に河井継之助とともに行動し、新政府軍が簡単に長岡を制圧できなかったのは、山本の活躍があったからといわれる。
6月1日には、河井継之助が優れた軍略家として語り継がれることになる今町の戦いが行われた。長岡城を奪還するため、新政府軍本営のある今町(現見附市)を攻撃。牽制部隊を主力に見せかけた陽動作戦を採り、敵主力をたたいた。翌2日には圧勝して今町を占領し、新政府軍は、狼狽し大きく後退したが、山本帯刀は牽制部隊の隊長を務めている。
また、7月25日の長岡城奪還作戦では、先陣となる第一陣を指揮し、八丁沖の沼を渡渉、長岡城下に侵入し、奪還を成功させている。

7月29日長岡城が再落城すると、8月1日から7日にかけて、傷ついた藩士や、年寄りや幼児を連れた家族が続々と八十里越を通って会津へ落ちのびた。
長岡軍大隊長の山本帯刀は殿軍を務め、自ら精鋭の3小隊を率いて鞍掛峠に陣を置き、8月11日から26日まで敵の侵攻を防いだ。
8月16日、河井継之助が只見で死亡し、8月23日新政府軍が会津城下に突入した後は、長岡藩主牧野忠訓が向かった米沢藩には向かわず、山本帯刀隊精鋭40数名を率いて会津領内を転戦した。(※藩主忠訓は米沢藩に入国を拒否され仙台藩に向かう)

9月5日には、会津城下西部で「材木町の戦い」(※地図 ※ストリートビュー)が行われる。長岡城の攻防戦を戦い抜いた「鬼の官兵衛」の異名をとる、佐川官兵衛の指揮下で会津軍は遂にこの戦いで大勝利をおさめ、城への補給路を確保し、新政府軍は敗退した。会津藩が城下で戦った戦闘で唯一の勝利であったが、山本帯刀隊は佐川の指揮下で戦い勝利に貢献している。
帯刀は、材木町での勝利ののち、会津城籠城のための糧道を確保するため、会津藩兵と連携して新政府軍との戦闘をつづけた。
9月8日は元号が明治と改まった日である。その未明、帯刀は糧道を確保するため阿賀川河畔の飯寺村(※地図 ※ストリートビュー)で、会津藩兵や水戸藩諸生党の一隊と協力して宇都宮藩兵を挟み撃ちにする作戦を実行した。濃霧で視界が効かない中、敗走した会津藩兵を追ってきた宇都宮藩兵を諸生党と見間違い、宇都宮藩兵の中に入り込み包囲されてしまった。宇都宮藩戸田三男隊の銃撃を受けると、味方の誤射と思い込み、十分な反撃をしないうちに9人が戦死、帯刀ら30数人が生捕りにされた。他藩との意思疎通がうまくいかない中で発生した悲劇であった。
生け捕りにされた藩士たちは、即刻斬首された。帯刀と渡辺豹吉は分離され、越後で交戦し手痛い負けを喫し、その指導力を知っていた薩摩藩の越後口軍監淵辺直右衛門を含む3人の軍監から、その人物を惜しみ、助命のため降伏を促された。帯刀は「藩主の命で戦場に望んだが、降伏せよとは命じられていない」と述べ、それに応じず、翌9日、阿賀川の河原で藩士の渡辺豹吉(ひょうきち)ともに斬首された。渡辺豹吉は越後から主人帯刀と行動を共にしてきた家僕で、帯刀の死を見届け、遺骸を埋めてから死を賜ったという。
帯刀は、死に臨み持っていた軍資金200両を宇都宮藩家老戸田三男に差し出して、長岡藩兵の追善供養に役に立てて欲しいと伝えたという。
山本帯刀・河井継之助ともに戦場で亡くなったが、両家は藩主の命を救う形で北越戦争の首謀者とされ、ともに家名断絶となった。

山本家は1883年(明治16)に河井家と共に家名再興を許可され、1916年(大正5)、後の連合艦隊司令長官山本五十六が養子として山本家を継いでいる。
山本家は明治16年(1883)2月に河井家と共に家名再興を許可された。明治2年(1869)、帯刀の妻千代子が藩士の陶山万衛に嫁して富士家をたてていたため、帯刀の長女たまじをもって相続することになった。
明治22年(1889)明治憲法発布の際、大赦令によって山本帯刀の罪名が消滅した。
たまじは結婚しなかったため、跡継ぎがいなかった。名門の山本家の断絶を恐れた渡辺廉吉等の計らいにより、大正5年(1916)に長岡士族高野家(高野貞吉)から後の連合艦隊司令長官山本五十六が養子に入った。

🔶墓所

山本帯刀墓所
〔所在地〕長岡市稽古町1636番地 長興寺

長岡悠久山 招魂社(※地図 ※ストリートビュー ※ストリートビュー)
飯寺の戦いで散った藩士たちが祀られている
山本帯刀ほか
雨宮敬一郎・阿部弥亀太・新与源次・稲垣喜助・大宮平太・岡本甚十郎・勝沼留吉・川越辰次・神戸菊五郎・篠崎繁右衛門・篠田愛作・佐藤伊野七・佐藤正吉・千本木林吉(銃卒隊長)・高橋辰蔵・高橋彦右衛門・田島十次郎・寺田善右衛門・鳥居留五郎・内藤作之助・中川音三郎・長沢金太郎(崇徳館教授)・中沢虎市・中島富弥・長島平八・永戸九郎左衛門・永相亀太郎・能勢彦太郎・増井弥平・松井松五郎・丸山菊五郎・室橋政七・八木藤太・安田大太郎・山口辰次郎・山本慶山・吉田充太郎・渡辺豹吉・渡部三平


🔶記念碑

🔹越後長岡藩士殉節の碑
〔所在地〕福島県会津若松市門田町大字飯寺村西674 本光寺墓所
≪会津若松市現地案内板≫

旬節越後長岡藩士の碑

明治元年戊辰戦役の際越後長岡藩士山本帯刀隊長外に四十三名が八十里越の難関を越えて会津鶴ヶ城下に至り9月8日未明に会津藩士四百余人と協力力戦苦闘一旦西軍を潰走させたが濃霧の為飯寺河原に於て孤立敵の重囲に陥り遂に全員戦死されたのである後日飯寺村民の手により供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた
昭和三十一年十月会津史談会並に有志の篤志により新に殉節の碑が建立され昭和三十四年九月長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し爾来毎年法要が営まれている。

昭和三十八年九月二十三日 長岡藩士殉説顕彰会

🔹山本帯刀碑
〔所在地〕新潟県長岡市御山町80-5 悠久山公園
≪現地案内看板≫

山本帯刀・渡辺廉吉の碑

山本帯刀は、長岡藩士安田家に生まれ、長岡藩家老山本家の名跡を嗣いだ。幼い頃から読書を好み号を竹塘と称した。
豪気英邁・槍刀弓馬いずれも練達の武士であった。戊辰の役においては河伊継之助にしたがい、常に先陣をつとめ、また殿軍の大隊長として奮戦した。
会津飯寺で濃霧により判断を誤り西軍に捕らえられたが降伏を拒み、家臣渡辺豹吉とともに斬首された。時に明治元年九月九日、帯刀二十四歳、豹吉二十七歳であった。
篆額は榎本武揚、撰文は三島中州である。
渡辺廉吉は、豹吉の弟で苦学ののち外務省書記から累進して行政裁判所評定官となり、貴族院議員に勅撰されてその職を辞するまで法理の研究に努め、大正十四年二月十四日没した。享年七十二歳。
篆額は徳川家定公爵・撰文は牧野忠篤子爵・碑陰は長岡市出身の鋳金家田中後次である。

長岡市教育委員会

🔹戊辰役戦士の碑
処刑の直前に山本から宇都宮藩に提供された 長岡藩軍用金を用いて、戸田三男ら旧・宇都宮藩士や地域住民によって、旧幕府、同盟兵を弔うために明治7年(1874)に建立された。
〔所在地〕 栃木県宇都宮市西原1丁目5-23

🔶遺品

  • 山本帯刀の佩刀
    処刑の直前に山本から軍用金とともに宇都宮藩に提供されたもので、栃木県護国神社が所有し 長岡市郷土史料館に寄託された。
    〔所在地〕 長岡市郷土史料館

















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