山本帯刀(やまもと たてわき) 長岡市



弘化2年3月7日(1845年4月13日)〔生〕~明治元年9月9日(1868年10月24日)〔没〕
山本帯刀は本名を義路(よしみち)といい、越後長岡藩士の安田家の出身だが、上席家老として知られる山本家の養子に入った。進んで河井継之助の改革に協力、二十四歳と言う若さで大隊長に抜擢された。
2度目の長岡城陥落後、重傷を負った河井継之助が会津に向かう途中で死去した後。山本帯刀隊精鋭四十数名は会津領内を転戦。1868年9月8日未明、飯寺で新政府軍の襲撃を受けたが、濃霧の中で味方の誤射と思い込み、十分な反撃をしないうちに9人が戦死、帯刀ら三十数人が生捕りにされた。
慈眼寺の会談で面識のあった薩摩藩の淵辺直右衛門を含む3人の軍監は、帯刀の人物を惜しみ助命のため降伏を促したが、帯刀は「藩主の命で戦場に望んだが、降伏せよとは命じられていない」と述べ、翌9日、阿賀川の河原で藩士の渡辺豹吉(ひょうきち)ともに斬首された。渡辺豹吉は越後から主人帯刀と行動を共にしてきた家僕で、帯刀の死を見届け、遺骸を埋めてから死を賜ったという。
山本帯刀・河合継之助ともに戦場で亡くなったが、両家は藩主の命を救う形で北越戦争の首謀者とされ、ともに家名断絶となった。

墓所
〔所在地〕長岡市稽古町1636番地 長興寺
 
記念碑
  • 越後長岡藩士殉節の碑
    〔所在地〕福島県会津若松市門田町大字飯寺村西674 本光寺
  • 山本帯刀碑
    〔所在地〕新潟県長岡市御山町80-5 悠久山公園
会津若松市現地案内板

旬節越後長岡藩士の碑

明治元年戊辰戦役の際越後長岡藩士山本帯刀隊長外に四十三名が八十里越の難関を越えて会津鶴ヶ城下に至り9月8日未明に会津藩士四百余人と協力力戦苦闘一旦西軍を潰走させたが濃霧の為飯寺河原に於て孤立敵の重囲に陥り遂に全員戦死されたのである後日飯寺村民の手により供養の碑が建てられ厚い法要が営まれた
昭和三十一年十月会津史談会並に有志の篤志により新に殉節の碑が建立され昭和三十四年九月長岡藩士弔霊会(昭和三十八年八月長岡藩士殉節顕彰会と改名)を設立し爾来毎年法要が営まれている。

昭和三十八年九月二十三日 長岡藩士殉説顕彰会




  • ①長興寺
  • ②山本帯刀碑
  • ③越後長岡藩士殉節の碑







長岡駅周辺のホテル・旅館情報

北越戊辰戦争の検索結果












FUJIFILMネットプリントサービス(フジフイルムネットプリントサービス)