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朝日山戊辰戦場跡 Asahiyama Boshin Battlefield 小千谷市



長岡藩の戊辰戦争 榎峠の戦い・朝日山の戦い

榎峠の戦い

榎峠は三国街道の要衝で、長岡の南方3里の位置にあり、東側は険しい山が迫り、西側は信濃川が流れ隘路となっていた。この年は、天候不順で越後では大雨が続き、信濃川は増水していた。
長岡町に入るにはこの峠を越さなければならなかった。
長岡藩河井継之助は、新政府軍軍監岩村精一郎との会談が行われる前に、戦う意志がないことを示すため、この峠で守備していた長岡藩兵を撤収させていた。
5月3日、小千谷会談が決裂した後、軍監岩村はすかさず尾州藩の津田九郎次郎の率いる一小隊、上田藩兵一小隊等をもって、榎峠方面の要衝を扼した。
5月9日、列藩同盟側では長岡城中に、会津藩総督府越後口総督一瀬要人・佐川官兵衛など、桑名藩家老山脇十左衛門・立見勘三郎など、衝鉾隊古屋佐久衛門が集まり、榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案をまとめた。(☛ 佐川官兵衛)

5月10日、朝六半(7時頃)より出撃開始する。同盟軍は南境に向かって三国街道を進撃を開始した。同盟軍は長岡藩兵を先鋒にして、長岡城から進発して、摂田屋村の本陣を経て、途中、本道を進む隊と、山道を迂回し榎峠の後方に出る二隊に分かれ、榎峠を目指すことになった。本道を進む隊は長岡藩の軍事掛萩原要人が指揮し、銃士隊長本富寛之丞・斉藤轍、銃卒隊長渡辺進・田中稔の四小隊200人が本隊となり本道を進んだ。会津藩の佐川官兵衛の朱雀四番士中隊200人は本隊の別働隊となった。
迂回隊は長岡藩軍事掛川島億次郎指揮が指揮して、銃士隊長波多謹之丞・大川市左衛門、銃卒隊長牧野八左衛門・田中文治の四小隊200人を率いて本道を迂回し東側山中を村松通りの間道から妙見村の古城址金倉山を越えて榎峠を目指した。金倉山は小千谷と長岡の境界、信濃川右岸にそびえる標高581メートルの東山山地の一峰である。ここからは榎峠や朝日山、麓の妙見村の様子が手に取るように見下ろせる。山を駆け上るとすでに敵の姿はなく、昼頃には占領した。※ストリートビュー会津菅野右兵衛隊200人、桑名兵・浮撃隊が続いた。迂回隊は寺沢村で二手に分かれ、萱野隊は浦柄村へ、川島隊他は榎峠攻撃に向かった。

榎峠を守っていた新政府軍は、軍監の岩村に峠の重要性に対する意識が薄く、また、長岡藩が開戦を決意すれば、真っ先に要衝榎峠を奪いに来ることに対する危機感もなく、尾張藩兵1個小隊(隊長津田九朗次郎)と上田藩兵1個小隊の計2個小隊だけだった。午後2時頃から攻撃が開始された。新政府軍は少数の兵で白岩・鉄坂・浦柄・妙見古城跡等をかためて、本道を突進してくる同盟軍側に対して銃撃を加え防戦したが、同盟軍の兵は多勢で次々敗れて後退した。
新政府軍は、応援部隊を派遣しようとしたが、この年降り続いた大雨で信濃川は増水しており、銃弾が飛び交う川に舟を出してもよいという船頭を手配することができなかった。結果、応援の銃砲を対岸に送り込むことも、援兵も送れず、やむなく信濃川の対岸の三仏生から銃撃し同盟軍側に応戦した。本道を進む血気にはやる長岡藩兵の動きは、三仏生から丸見えであった。信濃川対岸の三仏生村に布陣していた松代兵がこれを見て対岸から狙撃し、新政府軍の的確な銃撃と砲撃によって荻原隊は苦戦に陥り多数の死傷者を出した。新政府軍の使用する新式銃は、数百m先の対岸からでも正確に銃撃ができた。
同盟側でも、会津藩の市岡守衛に率いられた砲兵隊が、三仏生の新政府軍陣地に的確に大砲を打ち込んで応戦した。

一方軍事掛川島億次郎に率いられ迂回して山中に入った同盟軍は東方の高地から榎峠に攻撃を加えた。また会津藩萱野隊が浦柄村に至り、榎峠の後方をおさえた。同盟軍の挟撃によって、尾張兵と上田兵は劣勢となり、夜五つ過ぎ(夜9時)になって榎峠を放棄し信濃川を渡って撤退した。本道を進んだ一隊を指揮した会津藩佐川官兵衛によって峠は占領された。
砲戦は夜四つ時(午後10時頃)まで続いた。

🔶榎峠古戦場パーク

榎峠古戦場パークとして整備され、道路脇には、榎峠古戦場記念碑が立てられている。

🔶遍了寺

上田藩士5名の墓がある。榎峠・朝日山攻撃の前線の本営として利用された。信濃川をはさんでの銃撃戦で受けた弾痕跡が残る。
  • 〔所在地〕小千谷市三仏生3110
    ※地図

    遍了寺近くの信濃川堤防(対岸に榎峠や朝日山が確認できる)、ここから新政府軍は砲撃を行ったり、川を渡って攻撃を行った。 ※ストリートビュー

    同盟軍が布陣した妙見メモリアールパークから対岸の遍了寺方向を望む。 ※ストリートビュー

朝日山の戦い

朝日山の北麓の浦柄神社わきには、戊辰戦争に倒れた同盟軍兵士の墓がある。小千谷駅の北東にそびえる朝日山(341メートル)一帯で、慶応4年(1868)5月10日から5月19日まで東西両軍の激戦となった。
5月10日、同盟軍側が榎峠を占領すると、次の戦闘は朝日山の攻防に移った。朝日山の山頂からは、榎峠を見渡すことができ、ここから砲撃すれば、榎峠を維持することは困難であった。会津の佐川官兵衛と桑名の山脇十左衛門が作戦を協議して、浦柄の谷をへだてた前面の朝日山を取る作戦を計画した。
5月10日夜、参謀の山縣狂介が仮参謀の時山直八をともなって、柏崎本営から小千谷の本陣を訪れた。この時、同盟軍との間で銃撃戦が交わされていたが、軍監の岩村は、要衝榎峠を奪われた事の重要性に思い至らず、危機感もなく山道軍の幹部らと酒を飲んでいたという。山縣は山道軍の指揮権を掌握し、このままでは、長岡城攻略の戦略に重大な支障をきたすことから、榎峠を見下ろすことができる朝日山を占領する必要があると考えた。
連日の豪雨で信濃川の増水は一丈八尺(約4.4m)に達し、60年来の大洪水と言われた。濁流は怒号して、小千谷陣屋の前は肩を没するほどであった。尾州・長州・松代の各小隊は、小千谷村庄屋半左衛門らの協力を得て逃亡した舟子十余人を捕らえ、乗船を命じたが、一人もこれに応ずる者がなかった。尾州藩の隊長は、抜刀して舟子を威嚇した。夕刻にいたりわずかに河水も減少し、尾州藩も一船百両を支給すると約束したので、舟子一同が乗船を招致した。
船は湯殿川の先から漕ぎ出し、無事に薭生村の杵淵へ着いた。この日渡河を敢行したのは尾州・長州の二藩兵であった。(後日談では、実際に支払われた金額は一人3両であったため紛糾したといわれている。)
5月11日早朝、山縣自ら指揮し薩摩藩の外城隊・長州藩の奇兵隊を中心とする新政府軍の精鋭が、信濃川を渡って横渡村に上陸し街道上に堡塁をつくり、榎峠を奪った同盟軍に反撃して銃撃戦となった。応援の奇兵二番小隊、長府報国隊、松代兵が陸続と渡河し攻撃に加わった。午後より大雨となり、新政府軍は、榎峠を奪い返すべくじりじりと同盟軍側陣地を圧迫した。
午後3時頃、両軍陣地の脇にそびえる朝日山の争奪戦が始まり、大雨のなか、地理に詳しい長岡藩の安田多膳の槍隊、会津の鎮将隊、桑名の雷神隊半隊が、激しい雨を利用して榎峠を駆け下りて、対岸から銃撃を受ける中、浦柄村を横断して、西側から朝日山に登った。
新政府軍も、奇兵隊が、山の反対南側から登攀したが、同盟軍側に先を越され撤退した。山頂は、長岡藩の二個小隊と会津・桑名藩兵が守備した。
長岡藩の河井継之助は、頂上に陣地を整備をするため、小栗村をはじめ付近の村から大量の人足を動員し、山頂をぐるりと囲むように深さ1m50の塹壕が掘られた。また人夫として自藩の獄につながれた罪人を使って、胸壁の構築を行った。この時、桑名藩立見勘三郎が指導した西洋式の塹壕跡※ストリートビューや、砲台跡が今に残る。罪人たちは、銃弾が飛び交う中、砲弾を背負って山を登攀した。この工事は徹夜で続けられた。翌12日も雨は止まず、陣地構築は完了したので、さらに長岡藩の砲2門、桑名藩の砲1門(四斤山砲)も運び上げ、準備できると直ちに横渡り方面の敵陣地への攻撃を開始した。
12日、柏崎から砲2門と2小隊が小千谷に来援した。朝日山奪取のため、山縣と時山は密かに対岸にある横渡※ストリートビューの新政府軍陣地に行き、現地を視察し、この方面にさらに2小隊の部隊を増援することが緊要である旨を柏崎に通報した。2人は現地で作戦を検討。征討軍中第一の強兵である長州奇兵隊および薩摩藩兵が突撃部隊にあてられた。 時山直八を指揮官として 5月13日の早朝を期して総攻撃をかけることとし、援兵の到着を待って攻撃をする時刻を取り決めた。この時の2人のやり取りは、山縣の自著『越の山風』に記されているのみである。
ここからは推測であるが、時山直八が吉田松陰の松下村塾に入ったのは安政5年(1858)3月、彼が21歳の時である。時山直八は松陰も称賛したたように、単身痩躯の身体から精神力、気力が満ち溢れるような直情径行の人物であった。高杉晋作の奇兵隊にも設立時から加入し、幕末の動乱を切り抜けてきた自負があった。
奇兵隊の一隊を率いて山縣有朋と共に、禁門の変、長州征伐、四境戦争では少ない兵数で圧倒的に数に勝る小倉藩との不利な戦いを勝利に導いてきた。
この朝日山には、歴戦精鋭の奇兵隊を率いてきた。朝日山にこもる賊軍など、これまでの幕府軍同様に、圧倒することができると考えた。
一方、山縣有朋の性格は、慎重な性格で、逃げの桂小五郎に並び称されたほど慎重だった。奇兵隊への加入も、時山より遅れた。しかし、四境戦争などでは、時山とは同じ年齢ということもあって、車の両輪のように相手の欠点を補うように駆け抜けてきた。
朝日山の麓の横渡村に時山と連れだって来た12日は大雨だった。雨に霞む朝日山にどのくらいの数の同盟軍兵士が潜んでいるか不明である。また、山を登攀して攻撃する兵士には不利な状況があった。兵たちの履く草鞋では木々の間の下草が雨で滑りやすく、またぬかるみに足を取られることもあり、攻撃勢の威力を半減させてしまうと考えられ、350人程度の兵では心もとなかった。戦国時代の上杉謙信も山城攻めは不得手で、攻撃方は守備方の10倍の兵が必要とされていた。このままの兵力で攻撃を開始すれば、朝日山を攻略できたとしても多くの犠牲者が出ることが予想された。
山縣は、部隊増援が可能であるか検討するとして、一旦小千谷の本営に戻ることとした。時山には、増援部隊を連れて、自分が戻るまで出撃するなと一本気な時山にくぎを刺して去った。
山縣は、本営に戻り、一人沈思黙考。軍監の岩村を首にしたばかりで、東山道軍の信州諸藩との調整もうまくいかず、薩摩の黒田は病気と称して柏崎から動かない。柏崎からの増援の到着がない中で、結局現在動かせる部隊は、三仏生の奇兵隊銃隊滋野謙太郎隊一小隊70人ほどしかいなかった。この数では、とうてい不足していることは明白であった。柏崎からの増援を得て、十分な兵数が手配増員でき、態勢が整うまで攻撃を待とうと考え、迷った挙句、時山に伝えていた時間に遅れたのではないだろうか。
13日の朝は雨が上がり晴れたが濃霧が発生した。時山は山縣と援兵の到着を待ったが、打ち合わせの時刻を過ぎても来援はなかった。伝令の指示が正確に伝わらず、援兵の到着が遅れたと山縣はのちに、この時のことを振り返っている。
時山は、この濃霧を、天が与えてくれた好機と考え、100万の援兵を得たような思いだった。霧が戦場を覆っている間に攻撃すべきだと判断し、山縣に置手紙を残し出撃した。直属の奇兵隊2番・5番・6番の三隊約200人を主力とし、薩摩藩二個小隊半(150人)と松代藩砲兵を別働隊とした。地元の案内者に先導させ朝日山山頂を目指した。
案内者が道を間違えたため、時山らは山頂から2~300mの会津萱野右兵衛隊200人が塁壁を築き守備する前進陣地の前に出てしまった。しかし、時山は機を失することを恐れ、抜刀し突撃することを命じた。
萱野隊の見張りは、未明の濃霧の中、敵の侵入に気付くのが遅れた。敵は胸壁の直前にまで迫っていたため十分な守備態勢をとることができなかった。塁壁によって発砲するいとまがなく、塁壁に駆け上がり、あるいは発砲し、あるいは刀槍をふるい、あるいは銃をふるって激闘した。しかし陶工など下級武士からなる急ごしらえの寄合部隊の萱野右兵衛隊は、数では奇兵隊と同じで、高所に陣取っており有利であったはずであるが、幾多の戦闘を経験してきた精鋭奇兵隊の敵ではなかった。敗れて寺沢村方面に退却した。萱野隊に多くの死傷者が出た。この時、白虎隊士新国英之助(16歳)が戦死している。
時山はなおも頂上陣地の同盟軍に迫った。時山は一計を案じた。すでに会津兵に発見されてしまったので、このまま進めば、頂上から集中砲火を浴びることになる。兵全員に、後方の味方の兵の頭上に向けて空砲を撃ちながら、山頂に向かうよう指示した。彼我の判別も困難な濃霧の中、山頂の桑名・長岡兵は、味方の兵が、新政府軍に追われ、発砲しながら逃げてきていると勘違いした。これによって、新政府軍の兵は頂上に接近することができた。
頂上を守備したのは長岡藩安田多膳隊(槍隊)と雷神隊半隊の100人ほどで、指揮は雷神隊立見鑑三郎が任されていた。霧の中、同盟側は敵方に向け銃撃を開始し、戦闘経験のない安田隊の兵士は奮い立ち槍を持って突撃しようとしていた。しかし、幾多の戦場を潜り抜けてきた桑名藩立見鑑三郎はこの状況を冷静に判断、長岡藩兵の銃撃を制止、長州藩兵に向かって、「敵十五、六人討取り、分捕等は数知らず、最早味方十分の勝ちに候間、今一息防ぎ、一人も残さず討ち取るべし」と濃霧の中大声で叫んだ。
同盟軍陣地まで迫っていた長州藩兵は、これを聞いて時山の奇計が見破られたと思い、狼狽して混乱し、逃げ出した。その様子を見て、立見は全軍に突撃を命じ、一斉射撃を繰り返しながら、下方の敵にむかって突撃した。
長州藩兵は我先にと逃げ始めた。この中で、桑名藩雷神隊の大砲師範役三木重左衛門が、奇兵隊旗をもって必死に態勢を立て直そうと檄を飛ばす時山を至近距離から狙撃した。時山は顔面を銃撃され倒れた。即死であった。遺体をはこぶ暇もなく、時山直八の首を部下が漸く掻き切って逃走した。
山縣狂介は後援の滋野隊を率いて、朝日山の戦場に急行したが、途中、時山の首級を抱えてくる敗兵に遭い戦機を失ったことを悟って後退した。

時山直八

天保9年1月1日(1838年1月26日)〔生〕 - 慶応4年5月13日(1868年7月2日))〔没〕

天保(1838)元旦、萩城外の奥玉江にて藩士(無給通士)の家(※地図 ※ストリートビュー)に生まれ、少年時代、岡部半蔵から宝蔵院流の槍術を学ぶ。そのころ同い年の山縣有朋と知り合い、竹馬の友となる。
安政5年(1858)3月、吉田松陰の松下村塾に学んだ。高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に参加するが、攘夷の不可能を悟ると討幕運動に邁進した。京都ではで各地の志士・浪士と交わり倒幕運動にも参加する。
文久3年(1863)8月、三条小橋の宿屋豊後屋へ土方歳三率いる新選組が筑前の浪士・平野国臣の捕縛に向かった際、時山も長州藩士3人と同宿しており、土方歳三の御用改めを受けた。この時は、長州藩士ということで難を逃れた。
京都の長州藩邸で諸藩応接掛を務め、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件では、尊王攘夷派志士の会合に参加予定であったが、時間に遅れ難を逃れた。7月19日に起きた禁門の変で長州へ敗走した。
帰国後、高杉晋作が奇兵隊を設立すると創設メンバーとして参加し、4カ国連合艦隊と下関で戦うなど、奇兵隊の参謀として活躍した。
時山は、人を引き付ける不思議な魅力を持つ人間であり、その単身痩躯の身体からは精神力、気力が満ち溢れ、直情径行で一本気であった。
一方の山縣は権力志向の強い人間であり、行動は周りの状況を見て決定するほど慎重であった。2人は同じ年齢ということもあり、お互いの長所・短所を補い合いながら幕府による長州征伐など数々の戦場を車の両輪のように切り抜けてきた。
朝日山の攻撃に際しても、応援を待たず攻撃をかけたのは、功を焦ったからではなく、自らの過去の戦闘の経験や状況を判断して開始したものと思われる。幾多の戦場を、持ち前の直観と突破力で切り抜けてきた時山も、相手の指揮官が立見であったことが誤算であった。立見は、状況を客観的に掌握して戦略を立てる人物である。賊軍でありながら後の明治政府で大将にまで昇進した人物であった。単に時山の運が尽きたのではなく、戦略家としての差が出たように思われる。
時山直八は、他の戦死者とともに船岡山西軍墓地に埋葬された。また残された遺体を葬った墓が、浦柄神社にある。
山縣狂介は後援の滋野隊を率いて、朝日山の戦場に急行したが、途中、時山の首級を抱えてくる敗兵に遭い戦機を失ったことを悟って後退した。

この戦いで長州兵の死傷者は戦死5人負傷34人であったと記されている。朝日山は長州人の血によって赤く染められたのである。東側から攻め上った薩摩藩兵は長州兵が潰走すると引き上げたので、死傷者は出なかった。
同盟軍側では会津藩戦死6人負傷2人、長岡藩負傷者6人、桑名藩は戦死3人負傷6人であった。
山縣は時山の死によって、衝撃を受けたが、それ以上に、これまでの戦いで、奇兵隊精鋭兵がこれほど完膚なきまでに敗れたことはなく、消沈する敗残兵の姿を見て大きな衝撃を受けていた。
長州藩内には、無理な作戦を強いて、時山を死なせた山縣を責める声があったという。5月13日(新暦の7月2日)から長岡落城の19日までは、雨天または曇天ばかりで、夜間は星影もなく寒冷で、「襦半綿入、羅紗くらいにて相応」という状態で、征討軍の将兵は困憊した。山県はこの時の気持ちを『あだ(賊)守る 砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風』と一首詠んでいる。
この朝日山の戦いは新政府軍の惨敗に終わった。薩摩藩の監軍淵辺直右衛門は長州側が無謀な抜け駆けをしたことにより、多数の死傷者を出したと長州藩の作戦を非難した。このことが、薩長の間でしこりとなって、後々まで、対立の原因となった。
山縣の性格は、何事に慎重、心中謀りごとを好むタイプで、孤高で近寄りがたい雰囲気を醸し出す人物であった。一旦わかりあえば、とことん面倒見がよく、取り巻きができたという。しかし、反発する薩摩藩兵にとっては、近寄りがたく理解しずらい人物に映った。また、岩村から山縣の指揮下に入った信州諸藩の諸隊長との連携もスムーズにいっておらず、この敗戦は新政府軍内に同盟軍以上の混沌をもたらした。
新政府軍は朝日山を取り囲むように高所に陣を構え、5月13日から19日まで両軍の大砲・小銃の響きが昼夜間断なく、新政府軍は長、薩だけで40万発程打ち尽くし、大砲一門で1日150発を放つことさえあったという。

新政府軍は膠着状態を打開するため5月19日、信濃川から上陸し城下に侵入する奇襲作戦をおこなった。朝五つ時(午前8時頃)長岡城の方面に黒煙があがった。同盟軍は主力が朝日山の攻撃に当たっていたため、手薄となった長岡城が落城したという知らせが入った。
同盟軍では大砲・小銃・弾薬をはじめ、陣小屋・雑具等までとりまとめ、日暮れを待って退却することにした。敵の追撃を避けるため、陽に陣地を堅持する態度を示し、陰に退却の準備を整えた。夜に至ると、おのおの要地を固守していた諸隊に命じ、交互に敵陣に発砲させ、五つ時(午後8時頃)から暫時村松通り等から栃尾に向かって撤退した。新政府軍側では、山道軍と海道軍の間での連絡調整うまくいかず、また山道軍内での薩長間の軋轢もあり、迅速な追撃態勢に移ることができなかった。同盟軍にほとんど無傷での撤退を許してしまい、後の同盟軍の反撃の芽を造ってしまった。

この戦いで亡くなった同盟軍側兵士の遺体は、明治政府が放置を命じたので朽ちるままとなっていた。墓が作られたのは1953年(昭和28)で、小栗山村の人々が建立したもので、同盟軍の戦死者の墓が22基ある。新政府軍側戦死者の墓は、船岡公園西軍墓地にある。
いまだ山頂には砲台跡、長岡藩士によって築かれたフランス式塹壕や野営跡が残されている。また、 昭和16年(1941)には、地元の方々の寄附により山頂に朝日山古戦場の碑が建立されている。
朝日山での戦いは、長岡藩家老河井継之助が小千谷に本陣を構える西軍の軍監岩村高俊(精一郎)との会談決裂により始まった長岡戦争の緒戦、榎木峠の戦いに続き東軍が勝利した戦いである。


❏〔所在地〕新潟県小千谷市浦柄  
❏〔アクセス〕
  • 🚅…JR上越線「小千谷駅」よりバスで10分、下車後、徒歩で30分
  • 🚘…関越自動車道「小千谷IC」より車で15分、下車後、徒歩で約20分

❏〔周辺の観光施設〕

🔹慈眼寺
〔所在地〕小千谷市平成2-3-35

🔹浦柄神社
朝日山で戦死し朽ち果てるままになっていた東軍兵士の22基の墓は昭和28年(1953)に福王寺住職や浦柄村の人々によって建立された。
会津藩士新国英之助と、東軍兵士の墓碑に混ざって、西軍として唯一墓碑が建てられている長州藩士時山直八以外の墓は氏名が不明のため戒名のみが刻まれている。
会津藩白虎隊士新国英之助は、当時16歳で父親とともに同盟軍に参加していたが、敵兵の奇襲によって無念の最期を遂げた。英之助の墓碑は、戊辰戦争後二十数年を経て、父親がその遺体を探し当てて建立したものである。
〔所在地〕 小千谷市大字浦柄660
朝日山殉難者墓碑

慶応四年(一八六八)五月十一日から、ここ朝日山をめぐる攻防戦が始まった。前日、浦柄村(小千谷市大字浦柄村)をはさんだ榎峠で、東軍と西軍の戦いがあった。その榎峠を長岡藩兵等の東軍が占領すると、戦いは榎峠を見おろす朝日山に移った。
朝日山を奪取した会津・桑名・長岡の各藩兵、それに衝鋒隊は、大砲を山頂にあげ、西軍陣地を砲撃した。
西軍は朝日山をとろうと、たびたび攻撃した。とりわけ、五月十三日早朝の長州藩奇兵隊を忠臣とした攻撃は、激しい戦いだった。参謀時山直八など多くの西軍兵士が命を落とした。その遺体は、小千谷に送られ、のちに船岡山の墓地に改葬された。
朝日山の戦場は、五月十九日、信濃川を強行渡河した西軍が、長岡落城に成功すると、にわかに戦いの要衝としての位置を失った。西軍兵士たちは、朝日山の陣地から離れ、戦いの場は、蒲原の地へ移っていった。残されたのは、戦死した東軍兵士の遺体だった。
戊辰戦争が終わり、西軍が勝利すると、明治政府は遺体のとりかたずけを禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を禁じた。なかでも旧会津藩兵にはきびしい放置を命じた。遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになった。これを見た小栗山(小千谷市大字小栗山)の福生寺住職や浦柄村の人びとが、昭和二十八年に墓標をたて、遺体を手厚く葬るとともに、この地に二十二基の石碑を建立し英霊を祀った。今も浦柄町には史跡朝日山を守る史跡朝日山を守る史跡保存会があり墓地や史跡を大切に守り伝えている。
なお、戦死したなかに、会津藩白虎隊士新国英之助(十六歳)がいる。この墓標は、戦後二十数年を経て、父がその遺体を探しあてて建立したものである。

小千谷市教育委員会

🔹戊辰戦蹟記念碑
揮毫は山本五十六。長岡市出身の山本五十六が海軍中将の時に、浦柄神社境内に戦跡記念碑を建てたもの。

🔹朝日山古戦場の碑
朝日山山頂に建つ

❏〔交通情報〕

≪現地案内看板≫
朝日山古戦場の由来

明治戊辰の五月二日、小千谷。寺町の慈眼寺に、本陣を置いた。征討軍軍監岩村精一郎と、長岡藩家老河井継之助の会見、いわゆる「小千谷談判」の決裂に端を発し、征討軍と同盟軍の死闘の舞台となったのがこの朝日山古戦場である。
当時、征討軍軍監岩村精一郎は弱冠二十四歳、長岡藩家老河井継之助は四十二歳であった。談判決裂となるや、この山頂に砲台を構えて守備していた長岡藩安田隊並びに会、桑二藩兵に対し、征討軍は時山直八の率いる長州奇兵隊二百人を以て五月十三日夜明けの濃霧に乗じ奇襲攻撃をかけた。時に主力の長岡藩安田隊は夜間の事とて、若干防備を手抜いていたところを不意を突かれ、俄かの喊声、銃声にあわてて戦備を整え応戦した。闘、数刻やがて濃霧が薄れるや西軍指揮官時山直八は桑名藩三木重左ヱ門の狙撃にあい遂に戦死し、その他多数の死傷者を出し、全軍退却己むなきに至り、この奇襲作戦は完全に失敗した。以後両軍とも譲らず持久戦となった。
時にこの方面における東軍の軍勢五千に対し、西軍は一万余、しかもその主力薩長は最新式の七連発スペンサー銃、これに対し東軍のそれはまことに火器旧式のものであったが、死を決した防戦の結果、なかなか終結に至らず、五月十三日から十九日までの朝日山、榎峠、妙見方面の戦には両軍の大砲小銃の響きに昼夜間断なく、両軍とも死人怪我人多く言語に絶する惨状であった。
時あたかも信濃川は歴史的の大洪水で、雨天曇天続き夜間星影もなく、寒冷のために征討軍の困憊はその極に達した。北陸道先鋒総督府の参謀山縣狂介が次の和歌を詠んだのは実にこの時の戦いであった。
「あだ守るとりでのかがり影ふけて
夏も身にしむ越の山風」
攻撃に難を感じた征討軍は作戦を変え、直接長岡城をめざし信濃川西岸を進攻した。
激戦の末、やがて西軍による長岡城の炎上攻略を察知した東軍は悲運の退却となり、敵の追撃を避けるために、日暮れを待って秘かに後退し、会津方面に逃れたと伝えられる。
今なおこの山上には当時を偲ぶ塹壕の跡も遺っている。

小千谷市

















河井継之助

時山直八

立見鑑三郎

山縣有朋

岩村精一郎

三島億次郎

佐川官兵衛






  

  



会津のこころ

会津のこころ

  • 作者:中村彰彦
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 2013年02月

戊辰戦争を歩く

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  • 作者:星亮一/戊辰戦争研究会
  • 出版社:潮書房光人社
  • 発売日: 2010年03月

戊辰戦争年表帖

戊辰戦争年表帖

  • 作者:
  • 出版社:ユニプラン
  • 発売日: 2013年11月

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吉田松陰の実学

  • 作者:木村幸比古
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  • 発売日: 2005年06月

幕末を読み直す

幕末を読み直す

  • 作者:中村彰彦
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 2003年11月

イケメン幕末史

イケメン幕末史

  • 作者:小日向えり
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 2010年06月

薩長史観の正体

薩長史観の正体

  • 作者:武田 鏡村
  • 出版社:東洋経済新報社
  • 発売日: 2017年09月08日頃

時代を拓いた師弟

時代を拓いた師弟

  • 作者:一坂太郎
  • 出版社:第三文明社
  • 発売日: 2009年03月

山県有朋の「奇兵隊戦記」

山県有朋の「奇兵隊戦記」

  • 作者:一坂太郎
  • 出版社:洋泉社
  • 発売日: 2013年01月

闘将伝

闘将伝

  • 作者:中村彰彦
  • 出版社:角川書店
  • 発売日: 1998年01月



東忠 とうちゅう 小千谷店
寛ぎの和空間。ランチも 慶事・法事など特別な時
[住所]新潟県小千谷市元町11-11
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