戊辰戦争 榎峠の戦い・朝日山の戦い 小千谷市
長岡藩の戊辰戦争
榎峠の戦い・朝日山の戦い
榎峠の戦い榎峠は三国街道の要衝で、長岡の南方3里の位置にあり、東側は険しい山が迫り、西側は信濃川が流れ隘路となっていた。この年は、天候不順で越後では大雨が続き、信濃川は増水していた。長岡町に入るにはこの峠を越さなければならない。 長岡藩河井継之助は、新政府軍軍監岩村精一郎との会談が行われる前に、戦う意志がないことを示すため、この峠で守備していた長岡藩兵を撤収させていた。 5月3日、小千谷会談が決裂した後、軍監岩村はすかさず尾州藩の津田九郎次郎の率いる一小隊、上田藩兵一小隊等をもって、榎峠方面の要衝を扼した。 5月9日、列藩同盟側では長岡城中に、会津藩総督府越後口総督一瀬要人・佐川官兵衛など、桑名藩家老山脇十左衛門・立見勘三郎など、衝鉾隊古屋佐久衛門が集まり、榎峠を奪還し、新政府軍の進攻に先制攻撃をかける作戦案をまとめた。(☛ 佐川官兵衛) 5月10日、朝六半(7時頃)より出撃開始する。同盟軍は南境に向かって三国街道を進撃を開始した。同盟軍は長岡藩兵を先鋒にして、長岡城から進発して、摂田屋村の本陣を経て、途中、本道を進む隊と、山道を迂回し榎峠の後方に出る二隊に分かれ、榎峠を目指すことになった。本道を進む隊は長岡藩の軍事掛萩原要人が指揮し、銃士隊長本富寛之丞・斉藤轍、銃卒隊長渡辺進・田中稔の四小隊200人が本隊となり本道を進んだ。会津藩の佐川官兵衛の朱雀四番士中隊100人と砲隊は本隊の別働隊となった。 初めての本格的な戦闘となる長岡兵は、ミニエー銃を装備し、黒ラシャの詰襟服の肩に五段梯子の合印をつけて陣笠をかむり、おなじく五段梯子の藩旗をひるがえし、全員が武者震いし奮い立っていた。街道は連日の雨にぬかるみ、信濃川は、川幅が四町半(490m)内外となり、岸辺の稲田までのみ込んでいた。 迂回隊は長岡藩軍事掛川島億次郎が指揮して、銃士隊長波多謹之丞・大川市左衛門、銃卒隊長牧野八左衛門・田中文治の四小隊200人を率いて本道を迂回し東側山中を村松通りの間道から妙見村の古城址金倉山を越えて榎峠を目指した。これに会津菅野右兵衛隊200人、遊撃隊と桑名藩三隊、衝鋒隊が続いた。金倉山は小千谷と長岡の境界、信濃川右岸にそびえる標高581メートルの東山山地の一峰である。ここからは榎峠や朝日山、麓の妙見村の様子が手に取るように見下ろせる。山を駆け上るとすでに敵の姿はなく、昼頃には占領した。※ストリートビュー迂回隊は寺沢村で二手に分かれ、会津藩萱野隊・桑名隊は沢筋から浦柄村へ、長岡藩川島億次郎隊は石坂山から榎峠攻撃に向かった。 榎峠を守っていた新政府軍は、軍監の岩村に峠の重要性に対する意識が薄く、また、長岡藩が開戦を決意すれば、真っ先に要衝榎峠を奪いに来ることに対する危機感もなく、尾張藩兵1個小隊(隊長津田九朗次郎)と上田藩兵1個小隊の計2個小隊およそ100人程度だけだった。昼八ツ時(午後2時頃)から攻撃が開始された。榎峠の新政府軍も応戦した。 また新政府軍の一隊は浦柄に本営をおき少数の兵で白岩・鉄坂・浦柄・妙見古城跡等をかためて、本道を突進してくる同盟軍側に対して銃撃を加え防戦した。 新政府軍は、応援部隊を派遣しようとしたが、この年降り続いた大雨で信濃川は増水しており、銃弾が飛び交う川に舟を出してもよいという船頭をすぐに手配することができなかった。 連日の豪雨で信濃川の増水は一丈八尺(約4.4m)に達し、60年来の大洪水と言われた。濁流は怒号して、小千谷陣屋の前は肩を没するほどであった。尾州・長州・松代の各小隊は、小千谷村庄屋半左衛門らの協力を得て逃亡した舟子十余人を捕らえ、乗船を命じたが、一人もこれに応ずる者がなかった。尾州藩の隊長は、抜刀して舟子を威嚇した。夕刻にいたりわずかに河水も減少し、尾州藩も一船百両を支給すると約束したので、舟子一同が乗船を招致した。 船は湯殿川の先から漕ぎ出し、無事に薭生村の杵淵へ着いた。この日渡河を敢行したのは尾州・長州の二藩兵であった。(後日談では、実際に支払われた金額は一人3両であったため紛糾したといわれている。) やむなく信濃川の対岸の三仏生を守備していた上田藩隊と松代隊が砲撃で応戦し、危急を聞いて駆け付けた新政府軍の応援部隊が、信濃川の河原に散兵し、間断のない砲撃と銃撃をしたので、本道を進む血気にはやる長岡四隊は動きが取れず、荻原隊は銃撃で応戦したが、新政府軍が使用した最新式の銃は400~500m先の標的でも正確に射抜くことができるもので、長岡兵は苦戦に陥り多数の死傷者を出した。 同盟側でも、会津藩の市岡守衛に率いられた砲兵隊が、三仏生の新政府軍陣地に的確に大砲を打ち込んで応戦した。 浦柄村方面へ進出した桑名藩雷神隊長立見鑑三郎は朝日山(標高339m)が戦略上の重要拠点となると判断した。会津藩兵や桑名藩兵が頂上に向かいこれを占拠し、大砲を設置、兵濠をを掘って塁壁を築いた。朝日山の頂上からは、周辺の重要拠点である榎峠や対岸の三仏生村、薬師山(307m)、石坂山(265m)が一望できた。 この日の砲戦は夜四つ時(午後10時頃)まで続いた。 5月11日早朝明け六つ(午前6時)刻、山縣有朋は、信濃川を渡河した増援部隊に攻撃の開始を命じた。 しかし会津藩萱野隊が朝日山の頂上から、眼下に進撃してきた新政府軍の増援部隊を狙って砲撃や銃撃をしたので、増援軍は先に進むことができず撤退した。 本道別動隊の会津藩佐川官兵衛に率いられた朱雀士中四番隊は、街道上で動きが取れなくなっている長岡四小隊を後にして、金倉山を迂回して、榎峠の南方にある白岩・鉄坂・浦柄・妙見古城跡などから本道上の長岡隊に攻撃を加える新政府軍兵を駆逐しようと、浦柄の沢筋に進み、桑名兵、衝鋒隊などとともにこれに銃撃を加えた。少数で守備していた新政府軍兵は、耐えかねて榎峠方面へ押し返された。 迂回した川島億次郎隊が石坂山の高地から峠を攻撃したので、同盟軍の挟撃によって、峠守備の尾張兵と上田兵は劣勢となり、夜五つ過ぎ(夜9時)になって榎峠を放棄し白岩から信濃川を渡って撤退した。会津藩佐川官兵衛など同盟軍によって峠は占領された。 🔶榎峠古戦場パーク榎峠古戦場パークとして整備され、道路脇には、榎峠古戦場記念碑が立てられている。🔶遍了寺上田藩士5名の墓がある。榎峠・朝日山攻撃の前線の本営として利用された。信濃川をはさんでの銃撃戦で受けた弾痕跡が残る。
朝日山の戦い朝日山の北麓の浦柄神社わきには、戊辰戦争に倒れた同盟軍兵士の墓がある。小千谷駅の北東にそびえる朝日山(341メートル)一帯で、慶応4年(1868)5月10日から5月19日まで東西両軍の激戦となった。同盟軍側が榎峠を占領すると、次の戦闘は朝日山の攻防に移った。朝日山の山頂からは、榎峠を見渡すことができ、ここから砲撃すれば、榎峠を維持することは困難であった。 5月10日夜、榎峠で戦闘が始まったと聞いた参謀の山縣狂介が、仮参謀の時山直八をともなって、柏崎本営から小千谷の本陣に入った。 この時、同盟軍との間で銃撃戦が交わされていたが、軍監の岩村は、要衝榎峠を奪われた事の重要性に思い至らず、危機感もなく山道軍の幹部らと酒を飲んでいたという。 山縣はかねて岩村の作戦の采配に不満を持っていた。山道軍の指揮権を掌握し、作戦の采配を奇兵隊仮参謀時山直八にゆだねた。時山は、なぜ山道軍が榎峠にこだわって朝日山を放置しておいたのかわからない。朝日山を取らずして勝利はありえず、と読み切った。このままでは、長岡城攻略の戦略に重大な支障をきたすことから、榎峠を見下ろすことができる朝日山を占領する必要があると考えた。 5月11日早朝、山縣自ら指揮し薩摩藩の外城隊・長州藩の奇兵隊を中心とする新政府軍の精鋭が、信濃川を渡って横渡村に上陸し街道上に堡塁を造った。山縣は榎峠を攻撃する同盟軍に対し反撃を命じた。 応援の奇兵二番小隊、長府報国隊、松代兵が陸続と渡河し攻撃に加わった。午後より大雨となり、新政府軍は、榎峠を奪い返すべくじりじりと同盟軍側陣地を圧迫した。会津藩萱野隊が朝日山の頂上から眼下街道を進撃する新政府軍を狙って砲撃と銃撃を開始したので、榎峠まで進むことができず新政府軍は撤退した。 長岡藩の河井継之助は、朝日山の頂上に陣地を整備をするため、小栗村をはじめ付近の村から大量の人足を動員し、山頂をぐるりと囲むように深さ1m50の塹壕が掘られた。また人夫として自藩の獄につながれた罪人を使って、胸壁の構築を行った。この時、桑名藩立見勘三郎が指導した西洋式の塹壕跡※ストリートビューや、砲台跡が今に残る。罪人たちは、銃弾が飛び交う中、砲弾を背負って山を登攀した。この工事は徹夜で続けられた。翌12日も雨は止まず、陣地構築は完了したので、さらに長岡藩の砲2門、桑名藩の砲1門(四斤山砲)も運び上げ、準備できると直ちに横渡り方面の敵陣地への攻撃を開始した。 5月12日、新政府軍は柏崎から砲2門と2小隊が小千谷に来援した。朝日山奪取のため、山縣と時山は密かに対岸にある横渡※ストリートビューの新政府軍陣地に行き、現地を視察し、この方面にさらに2小隊の部隊を増援することが緊要である旨を柏崎に通報した。 2人は現地で作戦を検討。征討軍中第一の強兵である長州奇兵隊および薩摩藩兵が突撃部隊にあてられた。 時山直八を指揮官として 5月13日の早朝を期して総攻撃をかけることとし、山縣が率いて戻ることを約した援兵2小隊の到着を待って攻撃をする時刻を取り決めた。 この時の2人のやり取りは、山縣の自著『越の山風』に記されているのみである。 ここからは推測であるが、時山直八が吉田松陰の松下村塾に入ったのは安政5年(1858)3月、彼が21歳の時である。時山直八は松陰も称賛したたように、単身痩躯の身体から精神力、気力が満ち溢れるような直情径行の人物であった。高杉晋作の奇兵隊にも設立時から加入し、幕末の動乱を切り抜けてきた自負があった。
5月13日の朝は雨が上がり晴れたが濃霧が発生した。時山は山縣と援兵の到着を待ったが、打ち合わせの時刻を過ぎても来援はなかった。伝令の指示が正確に伝わらず、援兵の到着が遅れたと山縣はのちに、この時のことを振り返っている。奇兵隊の一隊を率いて山縣有朋と共に、禁門の変、長州征伐、四境戦争では少ない兵数で圧倒的に数に勝る小倉藩との不利な戦いを勝利に導いてきた。 この朝日山には、歴戦精鋭の奇兵隊を率いてきた。朝日山にこもる賊軍など、これまでの幕府軍同様に、圧倒することができると考えた。 一方、山縣有朋の性格は、慎重な性格で、逃げの桂小五郎に並び称されたほど慎重だった。奇兵隊への加入も、時山より遅れた。しかし、四境戦争などでは、時山とは同じ年齢ということもあって、車の両輪のように相手の欠点を補うように駆け抜けてきた。 朝日山の麓の横渡村に時山と連れだって来た12日は大雨だった。雨に霞む朝日山にどのくらいの数の同盟軍兵士が潜んでいるか不明である。また、山を登攀して攻撃する兵士には不利な状況があった。兵たちの履く草鞋では木々の間の下草が雨で滑りやすく、またぬかるみに足を取られることもあり、攻撃勢の威力を半減させてしまうと考えられ、350人程度の兵では心もとなかった。戦国時代の上杉謙信も山城攻めは不得手で、攻撃方は守備方の少なくとも3倍の兵が必要とされていた。このままの兵力で攻撃を開始すれば、朝日山を攻略できたとしても多くの犠牲者が出ることが予想された。 山縣は、部隊増援が可能であるか検討するとして、一旦小千谷の本営に戻ることとした。時山には、増援部隊を連れて、自分が戻るまで出撃するなと一本気な時山にくぎを刺して去った。 山縣は、本営に戻り、一人沈思黙考。軍監の岩村を首にしたばかりで、東山道軍の信州諸藩との調整もうまくいかず、薩摩の黒田は病気と称して柏崎から動かない。柏崎からの増援の到着がない中で、結局今動かせる部隊は、指示の行き違いもあり、三仏生の奇兵隊銃隊滋野謙太郎隊一小隊70人ほどしか手配できなかった。時山には二小隊を連れて戻ると約束しており、この数では、とうてい不足していることは明白であった。柏崎からの増援を得て、十分な兵数が手配増員でき、態勢が整うまで攻撃を待とうと考え、迷った挙句、時山に伝えていた時間に遅れたのではないだろうか。 時山は、この濃霧を、天が与えてくれた好機と考え、100万の援兵を得たような思いだった。霧が戦場を覆っている間に攻撃すべきだと判断し、山縣に置手紙を残し出撃した。直属の奇兵隊2番・5番・6番の三隊約200人を主力とし、薩摩藩二個小隊半(150人)と松代藩砲兵を別働隊とした。地元の案内者に先導させ朝日山山頂を目指した。長州奇兵隊兵は当時最新式の七連発スペンサー銃を装備していた。 案内者が道を間違えたため、時山らは山頂から2~300mの会津萱野右兵衛隊200人が塁壁を築き守備する前進陣地の前に出てしまった。しかし、時山は機を失することを恐れ、抜刀し突撃することを命じた。 萱野隊の見張りは、未明の濃霧の中、敵の侵入に気付くのが遅れた。敵は胸壁の直前にまで迫っていたため十分な守備態勢をとることができなかった。塁壁によって発砲するいとまがなく、塁壁に駆け上がり、あるいは発砲し、あるいは刀槍をふるい、あるいは銃をふるって激闘した。しかし陶工など下級武士からなる急ごしらえの寄合部隊の萱野右兵衛隊は、数では奇兵隊と同じで、高所に陣取っており有利であったはずであるが、幾多の戦闘を経験してきた精鋭奇兵隊の敵ではなかった。敗れて寺沢村方面に退却した。萱野隊に多くの死傷者が出た。この時、白虎隊士新国英之助(16歳)が戦死している。 時山はなおも頂上陣地の同盟軍に迫った。時山は一計を案じた。すでに会津兵に発見されてしまったので、このまま進めば、頂上から集中砲火を浴びることになる。兵全員に、後方の味方の兵の頭上に向けて空砲を撃ちながら、山頂に向かうよう指示した。彼我の判別も困難な濃霧の中、山頂の桑名・長岡兵は、味方の兵が、新政府軍に追われ、発砲しながら逃げてきていると勘違いした。これによって、新政府軍の兵は頂上に接近することができた。 頂上を守備したのは長岡藩安田多膳隊(槍隊)と雷神隊半隊の100人ほどで、指揮は河井継之助の要請で雷神隊立見鑑三郎が任されていた。戦闘経験のない長岡兵は、戦闘での状況判断と作戦決定の能力に劣っていると継之助は考えた。霧の中、同盟側は敵方に向け銃撃を開始し、安田隊の兵士は奮い立ち槍を持って突撃しようとしていた。しかし、幾多の戦場を潜り抜けてきた桑名藩立見鑑三郎はこの状況を冷静に判断、長岡藩兵の銃撃を制止、長州藩兵に向かって、「敵十五、六人討取り、分捕等は数知らず、最早味方十分の勝ちに候間、今一息防ぎ、一人も残さず討ち取るべし」と濃霧の中大声で叫んだ。 同盟軍陣地まで迫っていた長州藩兵は、これを聞いて時山の奇計が見破られたと思い、狼狽して混乱し、逃げ出した。その様子を見て、立見は全軍に突撃を命じ、一斉射撃を繰り返しながら、下方の敵にむかって突撃した。 長州藩兵は我先にと逃げ始めた。この中で、時山は、赤と白を斜めに染め分けた隊旗をもって必死に崩れかけた兵に激をとばし、なおも頂上を目指した。時山が塁壁を乗り越えようとしたとき、塁壁に潜んだ桑名藩雷神隊の大砲師範役三木重左衛門が至近距離から狙撃した。時山は顔面を銃撃され倒れ、斜面を転がり落ちた。即死であった。遺体をはこぶ暇もなく、時山直八の首を部下が漸く掻き切って逃走した。時山を失った隊は烏合の衆であった。 山縣狂介は後援の滋野隊を率いて、朝日山の戦場に急行したが、途中、時山の首級を抱えてくる敗兵に遭い戦機を失ったことを悟って後退した。 この戦いで長州兵の死傷者は戦死5人負傷34人であったと記されている。朝日山は長州人の血によって赤く染められたのである。東側から攻め上った薩摩藩兵は長州兵が潰走すると引き上げたので、死傷者は出なかった。 同盟軍側では会津藩戦死6人負傷2人、長岡藩負傷者6人、桑名藩は戦死3人負傷6人であった。 山縣は時山の死によって、衝撃を受けたが、それ以上に、これまでの戦いで、奇兵隊精鋭兵がこれほど完膚なきまでに敗れたことはなく、消沈する敗残兵の姿を見て大きな衝撃を受けていた。 長州藩内には、無理な作戦を強いて、時山を死なせた山縣を責める声があったという。5月13日(新暦の7月2日)から長岡落城の19日までは、雨天または曇天ばかりで、夜間は星影もなく寒冷で、「襦半綿入、羅紗くらいにて相応」という状態で、征討軍の将兵は困憊した。山県はこの時の気持ちを『あだ(賊)守る 砦のかがり影ふけて 夏も身にしむ越の山風』と一首詠んでいる。 この朝日山の戦いは新政府軍の惨敗に終わった。薩摩藩の監軍淵辺直右衛門は長州側が無謀な抜け駆けをしたことにより、多数の死傷者を出したと長州藩の作戦を非難した。このことが、薩長の間でしこりとなって、後々まで、対立の原因となった。 山縣の性格は、何事に慎重、心中謀りごとを好むタイプで、孤高で近寄りがたい雰囲気を醸し出す人物であった。一旦わかりあえば、とことん面倒見がよく、取り巻きができたという。しかし、反発する薩摩藩兵にとっては、近寄りがたく理解しずらい人物に映った。また、岩村から山縣の指揮下に入った信州諸藩の諸隊長との連携もスムーズにいっておらず、この敗戦は新政府軍内に同盟軍以上の混沌をもたらした。 新政府軍は朝日山を取り囲むように高所に陣を構え、5月13日から19日まで両軍の大砲・小銃の響きが昼夜間断なく、新政府軍は長、薩だけで40万発程打ち尽くし、大砲一門で1日150発を放つことさえあったという。 新政府軍は膠着状態を打開するため5月19日、信濃川から上陸し城下に侵入する奇襲作戦をおこなった。朝五つ時(午前8時頃)長岡城の方面に黒煙があがった。同盟軍は主力が朝日山の攻撃に当たっていたため、手薄となった長岡城が落城したという知らせが入った。 同盟軍では大砲・小銃・弾薬をはじめ、陣小屋・雑具等までとりまとめ、日暮れを待って退却することにした。敵の追撃を避けるため、陽に陣地を堅持する態度を示し、陰に退却の準備を整えた。夜に至ると、おのおの要地を固守していた諸隊に命じ、交互に敵陣に発砲させ、五つ時(午後8時頃)から暫時村松通り等から栃尾に向かって撤退した。新政府軍側では、山道軍と海道軍の間での連絡調整うまくいかず、また山道軍内での薩長間の軋轢もあり、迅速な追撃態勢に移ることができなかった。同盟軍にほとんど無傷での撤退を許してしまい、後の同盟軍の反撃の芽を造ってしまった。 この戦いで亡くなった同盟軍側兵士の遺体は、明治政府が放置を命じたので朽ちるままとなっていた。墓が作られたのは1953年(昭和28)で、小栗山村の人々が建立したもので、同盟軍の戦死者の墓が22基ある。新政府軍側戦死者の墓は、船岡公園西軍墓地にある。 いまだ山頂には砲台跡、長岡藩士によって築かれたフランス式塹壕や野営跡が残されている。また、 昭和16年(1941)には、地元の方々の寄附により山頂に朝日山古戦場の碑が建立されている。 朝日山での戦いは、長岡藩家老河井継之助が小千谷に本陣を構える新政府軍の軍監岩村高俊(精一郎)との会談決裂により始まった長岡戦争の緒戦、榎木峠の戦いに続き同盟軍が勝利した戦いである。 ❏〔所在地〕新潟県小千谷市浦柄
❏〔アクセス〕 ❏〔周辺の観光施設〕 🔹慈眼寺 〔所在地〕小千谷市平成2-3-35 🔹浦柄神社 朝日山で戦死し朽ち果てるままになっていた東軍兵士の22基の墓は昭和28年(1953)に福王寺住職や浦柄村の人々によって建立された。 会津藩士新国英之助と、東軍兵士の墓碑に混ざって、西軍として唯一墓碑が建てられている長州藩士時山直八以外の墓は氏名が不明のため戒名のみが刻まれている。 会津藩白虎隊士新国英之助は、当時16歳で父親とともに同盟軍に参加していたが、敵兵の奇襲によって無念の最期を遂げた。英之助の墓碑は、戊辰戦争後二十数年を経て、父親がその遺体を探し当てて建立したものである。 〔所在地〕 小千谷市大字浦柄660
🔹戊辰戦蹟記念碑 揮毫は山本五十六。長岡市出身の山本五十六が海軍中将の時に、浦柄神社境内に戦跡記念碑を建てたもの。 🔹朝日山古戦場の碑 朝日山山頂に建つ ❏〔交通情報〕
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朝日山古戦場 浦柄神社 榎峠 光福寺 小千谷陣屋跡 遍了寺