立見鑑三郎



≪立見鑑三郎≫

弘化2年7月19日(1845年8月21日)〔生〕 - 明治40年(1907)3月6日〔没〕

激しい風雨の中、口火が切られた鯨波の戦いで、一躍名をあげたのが桑名藩一番隊・雷神隊隊長立見鑑三郎、若干22歳だ。
鑑三郎は弘化2年(1845)7月19日、桑名藩の江戸藩邸内の藩士町田伝太夫静臥(江戸在府御馬廻 100石)の三男として生まれている。町田老之丞は実の兄で、神風隊長となって越後でともに戦っている。また末弟に致人隊軍監で寒河江にて戦死する町田鎌五郎がいる。
5歳のとき町田家から伯父で同藩士立見場兵衛(御馬廻 210石)の養子にり入伊勢桑名へと戻った。
8歳で藩校立教館に入り学問を修め、11歳で「春秋左氏伝」の素読に合格し、15歳で甲州流軍学にも入門して極めて優れていた。武芸は風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られ、17歳で別伝「三拍子の事」をも伝授された。
安政6年(1859)美濃高須藩主松平義達の七男定敬が伊勢桑名藩(11万石)を継いだ。定敬は弘化3年(1846)生まれで鑑三郎より1歳年下である。鑑三郎は、藩主松平定敬の御小姓となり、以後定敬から最も厚い信任を受ける。
文久元年(1861)江戸に出府した定敬に鑑三郎も同行することになった。これを機会に許嫁であった立見家の一歳年下の一人娘おみの(美濃)と祝言をあげる。
出府後の鑑三郎は特に許されて昌平坂学問所に入学し諸国の俊英と交わることになる。

文久3年(1863)3月4日、14代将軍徳川家茂が朝廷の攘夷実施の求めに応じて上洛した際、主君定敬は京都警護を勤めるために随行したが、鑑三郎もこれに同行した。そして「8月18日の政変」が起こると密偵となり長州に隠密に入っている。
元治元年(1864)4月11日、定敬は京都所司代を拝命した。鑑三郎は、外交掛となって、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通と交わっている。
6月池田屋事変、7月禁門の変、第一次長州征伐と続く争乱の渦中に鑑三郎は巻き込まれていく。
長州征伐の戦後処理のため派遣された幕府大目付永井主水正に随行した桑名藩士12名の中に鑑三郎は入っている。11月14日広島に到着し、長州三家老の首級を受け取る任務を果たした。
ここで永井の勧めに従い、九州長崎まで足を延ばし、各地を視察し翌年になって帰郷している。
その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス人教官が舌を巻く程の軍事の異才を発揮した。

慶応4年(1868)1月、京都郊外鳥羽伏見で勃発した戦いで敗れた桑名藩兵は行き場を失い、おおよその者が主君松平定敬とともに、関東・江戸方面に脱走した。藩主松平定敬が江戸にもどり深川霊厳寺で謹慎すると、佐幕急進派の立見鑑三郎は密かに定敬と接触していた。定敬が徳川将軍家の意向で柏崎に移ると、大鳥圭介の伝習隊に加わり、宇都宮戦争などで活躍した。
慶応4年(1868)4月19日、大鳥圭介を総督とする旧幕府脱走軍の前軍は宇都宮城に迫っていた。
先鋒は立見鑑三郎率いる桑名士官隊の70余名。続くは土方歳三率いる伝習半隊であり、秋月登之助の残り半隊が中陣、回転隊が後陣である。
鑑三郎はすでに京都時代に歳三とは面識があった。この頃の歳三は新選組にあって「鬼」の副長として眼光鋭く、若い鑑三郎には近寄りがたい一種の威圧感があった。
が、江戸で再び会った歳三は万事控えめで穏やかな人物に代わっていたいたので、鑑三郎は親近感を覚えた。
宇都宮城は、歳三、鑑三郎ら旧幕府脱藩兵の猛攻によって一日足らずで脆くも落城した。この戦いの最中、怖気づいて逃げ出そうとした伝習隊の一兵士を歳三が平然と切り捨てた。この様子を見て、鑑三郎は指揮官の持つべき覚悟を教えられた。僅かな出会いであったが歳三が鑑三郎にあたえた影響は大きいものがあったと思われる。

柏崎で、恭順派と抗戦派藩士の間で対立が激しくなり、抗戦派藩士が暴発する恐れがあると聞き、陸路津川から阿賀野川を舟で下り、閏4月12日に柏崎に入る。
抗戦派藩士が大挙柏崎に入り、藩論は抗戦に統一された。部隊の編成替えが行われ、立見鑑三郎は兵の信望が厚く、実績を買われて投票で雷神隊隊長に選ばれた。

(鯨波の戦い)🔗

名藩兵は北国街道を見おろす鯨波の北に位置する丘陵に、フランス様式塹壕を掘り抜き布陣した。これは立見鑑三郎が江戸で幕府陸軍に出向し、歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学んだことによって習得した戦法であった。国内の戦場で、初めて実戦で用いられたとされる。

大砲・銃器の数と兵力数において圧倒的有利な薩長・加賀藩兵の新政府軍が戦国時代と変わらない戦法で攻撃してくるのに対して、5分の1の兵数の旧幕府軍は地形を生かし、塹壕を利用してゲリラ戦で戦った。未明に始まった戦いは新政府軍が夕方撤退し終止符が打たれた。この戦いで、雷神隊とそれを指揮する立見鑑三郎の名前が広く知られることとなった。

(榎峠・朝日山の戦い)🔗

立見鑑三郎は鯨波の戦いの後、長岡方面に転じた。
5月9日、長岡藩執政河井継之助が、奥羽越列藩同盟に参加し、長岡城中で新政府軍に対する作戦の検討をおこなったが、立見は桑名藩家老の山脇十左衛門と共に出席した。ここで榎峠を奪還する作戦が立てられ、5月10日、奪還に成功する。
5月11日からは朝日山に攻防が移った。大雨のなか、長岡藩兵、会津藩兵、桑名の雷神隊が榎峠を駆け下りて、対岸から銃撃を受ける中、浦柄村を横断して、朝日山に登り陣地を設置した。立見はフランス式塹壕を造り銃撃を行ったが、その時の塹壕跡が今に残る。
長州騎兵隊仮参謀時山直八が奇策をめぐらして、頂上の同盟軍の陣地に迫ると、立見はこれを見破り、全軍に突撃を命じた。長州の時山が戦死すると、新政府軍は総崩れとなった。
しかし、5月19日、長岡城が落城すると、退路を断たれる恐れから、朝日山を放棄し栃尾に撤退した。5月22日には、桑名藩領の加茂にもどり、立見は小寺、松浦とともに奥羽越列藩同盟に参加できない桑名藩ながら長岡藩河井継之助や、会津藩佐川官兵衛らの出席する加茂軍議に参加した。

(与板の戦い)🔗

5月25日、加茂軍議で決定した事項に従い、会津・桑名・村上・水戸諸生党、衝鋒隊、それに観音寺久左衛門指揮の博徒隊らが三条を出発し信濃川左岸から上流の与板に向かった。
5月27日、与板城を攻撃するため、大河津村を経て本道を進撃してきた同盟軍は三手に分かれた。信濃川土手本道上に金ヶ崎へ向かったのは会津・村上藩兵で、金ヶ崎の西の入軽井から山手の間道を会津・桑名藩致人隊が進撃した。
山道方面へは、出雲崎方面から与板を目指して進撃してくる新政府軍に備えるため、桑名兵を主力として、雷神隊と神風隊それに観音寺久左衛門の博徒隊らは、島崎でこれを撃退しようと黒坂付近の林中に潜伏した。
5月28日、塩入峠から黒坂方面へ飯山、富山、与板兵のほかに新たに薩州、長州一隊の増援を受け新政府軍が攻勢に出て、黒坂へも侵入してきた。一方、高田藩の二小隊、加賀藩一小隊と砲一門が与板への応援部隊として出雲崎から進撃してきて、要衝島崎を占領した。結果、桑名藩兵は三方向から包囲される形で攻撃を受け劣勢となった。
桑名隊は部隊を分け、雷神隊半隊とほかの同盟軍が島崎の新政府軍を攻撃することとした。観音寺久左衛門とその配下47名、会津藩渡辺英次郎らが率いる結義隊、そして庄内藩兵らの迂回隊が背後から高田藩一小隊に攻撃をかけると、高田・加賀藩兵は総崩れとなり大砲を捨てて、一目散で出雲崎方向に逃走した。
他方、神風隊と雷神隊半隊は山中でゲリラ戦を展開し、峠を越えて攻め込んでくる圧倒的多数の新政府軍に攻撃を加えた。本与板方面での戦闘で、新政府軍側の旗色が芳しくないという報告が入ると、新政府軍兵士は退路を断たれることを恐れて撤退を始めた。
この時、桑名藩雷神隊士20名が退却する新政府軍を峠を駆け下るように追撃した。本与板に達し、新政府軍の背後に出ると、後方の新政府軍の詰所に火を放ち攪乱したため、新政府軍は大混乱となり総崩れとなった。申の刻(夕方5時過ぎ)であったという。
敗走する新政府軍は与板城(与板陣屋)の手前、兜巾口に踏みとどまり必死に防戦した。与板城落城寸前となったが、新政府軍側に増援部隊が続々到着したことから膠着状態となった。
与板での戦いでは、桑名藩、なかんずく雷神隊の勇名が敵味方に響き渡った。

こののち2か月間、立見鑑三郎は、雷神隊を率いて与板周辺で戦闘を続けた。7月29日、長岡城が再度落城し、米沢藩が越後から撤退すると同盟軍は瓦解する。しかし桑名藩各隊はその後も越後国内を転戦し戦いを続けた。立見は同盟軍にあって兵力、軍備の劣る桑名藩の前線を指揮したが、その戦争指導にはだれもが敬服し、兵は立見を軍神のように慕った。立見が得意としたのは夜襲戦、奇襲戦であったが、戊辰戦争を通して立見もその用兵の才能を研ぎ澄ましていった。圧倒的な武力兵力差から、敗北死が濃厚な戦いを指揮し、一戦一戦が死に場所だと決めて戦い抜いた。

8月2日には、西郷吉二郎が負傷し、後死亡した五十嵐川の戦いで、会津藩町野源之助とともに三条に布陣し、西郷吉二郎率いる薩摩藩番兵二番隊を撃退し新政府軍精鋭部隊の侵攻を防いでいる。

後、8月4日、同盟軍本陣のあった加茂で越後最後の戦いをしたのち、桑名藩兵をまとめて会津若松城に赴き、城下の戦いで敗走。庄内藩預領寒河江の長岡山(※地図 ※ストリートビュー)で最後の抵抗をするが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏したため、明治政府軍に降伏した。

(戊辰戦争後)

降伏後、謹慎していたが、その指揮能力を評価され、請われて明治陸軍入りする。名前を立見尚文に改名し、西南戦争、日清戦争、日露戦争でも軍功を挙げる。特に日露戦争では第8師団を率いて黒溝台、沙河という激戦を勝ち抜き、戦争の勝利に大いに貢献した。これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら陸軍大将にまで昇進し63歳で病没した。
後に内閣総理大臣となった山縣有朋は、海道軍参謀として鯨波戦争を指揮したが、立見に翻弄され、また朝日山の戦いで奇兵隊を率いた友人の時山直八を立見に討ち取られるなど、散々煮え湯を飲まされたことから、立見を何かと避けていたという。
❏墓所
〔所在地〕東京都港区南青山2-32-2 都営青山霊園




















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