🔗鯨波戦争 🔗立見鑑三郎 🔗日柳燕石 御野立公園は、戊辰の役(1868)の鯨波戦争において激戦が行われた古戦場で、明治11年(1878)に明治天皇が北陸御巡幸の際、ここからの眺めを楽しまれたことから御野立公園と名付けられた。 公園内には日本海を一望できる展望台があり、左手には鯨波海水浴場が、右手には「柏崎マリーナ」を見下ろすことができ、日本海に沈む夕日を眺めることができる。 公園を少し下った所に、激戦地となった「嫁入り坂」がある。戦いとは不似合いな地名であるが、地元では、この場所が他郷に嫁入りする娘をここまで見送ったことから、またこの辺りは狐の棲み家で雨の夜など青い狐火の行列がよく見えたという話から「嫁入り坂」と名付けられたと伝わる。 (☛ 米山福浦八景) 鯨波戦争 桑名藩の戊辰戦争 ≪鯨波戦争≫(開戦前)桑名藩主松平定敬の一行は、慶応4年(1868)3月30日桑名領柏崎の勝願寺に到着。会津藩が主戦派に転ずると定敬も同調。主戦派に藩論を統一した後、勝願寺を野戦本陣とした。その兵力はおよそ300名ほどで、兵を一番隊(のち雷神隊)・二番隊(のち致人隊)・三番隊(のち神風隊)・大砲隊の各隊に分けた。恭順派であった家老服部半蔵が、藩論が抗戦に収斂したことをうけ、軍事総裁職についた。また上席の軍事奉行として、山脇十左衛門が服部半蔵を補佐することとなった。 勝願寺にあった藩主定敬は、供のものを従えて桑名藩預領となっていた加茂に出立した。 北国街道を柏崎の南2㎞先に鯨波の要地がある。柏崎の町に入るには必ず通らなければならない場所であった。 新政府軍本隊(薩摩、長州、加賀、高田など6藩)約2、500人は黒田・山県両参謀の指揮で、閏4月21日に高田を進発して海道を進んだ。 そのうち先鋒として進撃してきたのは軍監三好軍太郎が指揮する一隊で、編成は薩摩藩外城四番隊、二番砲中隊(砲三門)、長州藩二小隊(奇隊と報国)と砲二門、加賀藩二小隊(砲三門)、富山藩二小隊、高田兵(家老竹田十左衛門以下約380人)、およそ1000人、途中で藩境の黒岩口、谷根口へ向かう部隊と兵を二手に分けた。主力は閏4月23日に藩境である鉢崎と青海川まで達して宿陣した。 一方同盟軍は水原陣屋から会津藩木村大作の指揮する浮撃隊が100人、小千谷から衝鉾隊半大隊の200人、出雲崎から市川勢が60(実際には戦いに参加しなかったという説がある)、そして桑名諸隊が4隊で300人、合わせて600の軍勢がイサザ川(前川)の手前に布陣し、さらに砲三門を向山と小河内山に据え、南北に西洋式散兵壕を掘りぬいて新政府軍の来襲に備えた。 現在国道8号線が通り開削されたが、鯨波駅の南側は当時丘陵地で向山と呼ばれた。 同盟軍側は、軍議を開き、桑名藩が本道・鯨波方面を守備すること。衝鋒隊は支道北条方面を守備すること。また浮撃隊は柏崎にあって遊軍とすると決した。一説では、衝鋒隊が支道北条方面の黒岩口を守備し、高根口を水戸諸生党と浮撃隊が守備したとされている。 閏4月24日から25日にかけて桑名藩隊は鯨波方面へ進出し、布陣した。 向山を背に雷神隊は鯨波の嫁入坂、松浦秀八の致人隊は鬼穴の上、町田老之丞の神風隊は向山(小河内山) 北国街道の山側の小高い丘で、北条への間道入口に堡塁を築いた。この丘から鯨波の村が俯瞰できた。鬼穴の上部左右に大砲一門ずつ計二門を、小河内山の丘に大砲一門を据えた。 北陸道よりやや海岸寄りにある法華塔に軍事総裁服部半蔵と付随する39人が陣を敷き、ここを本陣司令部とした。 閏4月26日深夜、桑名藩町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎、富永太平衛の4名は、雨を冒し小河内山を越えて谷根の部落へ物見に出た。谷根方面に進出していた新政府軍に奇襲をかける相談であった。小河内山に登り鉢崎の方角を遠望すると、前夜までは決して見ることができなかった盛んな篝火が、漆黒の闇の中に提灯行列のように連なっていた。 同じく26日夜、新政府軍は主力部隊が鯨波の手前のイサザ川にまで達し布陣した。 前川(イサザ川)の対岸、現在の龍泉寺あたりに北(左翼)から加賀藩、薩摩藩、高田藩、富山藩、長州藩という並びで布陣し、その背後、妙智寺の境内を挟むように大砲5門を設置した。薩長軍事方から「明日早朝鯨波進撃」の命が各藩陣所へ伝えられた。 (戦闘の開始)閏4月27日は早朝から激しく雨が降っていた。朝四時頃、新政府軍の攻撃は、イサザ川西岸南寄りの高地岩の原(標高60m)に引きあげられた4ポンド山砲の砲撃から始まった。鯨波方面でにわかに喊声があがり敵兵が襲撃してきたことを知った立見鑑三郎らは元来た道を引き返すが、早くも鯨波の集落から激しい銃砲声が沸き起こった。新政府軍は、高田藩兵や加賀藩兵の攻撃態勢が整わないうちに、薩長の兵が先鋒となり致人隊が守備する鯨波集落方面に攻撃をかけてきたのである。この攻撃で致人隊隊長の松浦秀八が左大腿部に貫通銃創を負い後送された。ようやく雷神隊立見鑑三郎と致人隊馬場三九郎が自隊に立ち戻る。 戦いは銃撃戦と砲撃が中心だった。銃火器で優勢な新政府軍は雨霰のように銃弾と砲弾を撃ち込んだ。 新政府軍の使用する銃は新式のミニエー銃であるのに対して、桑名隊の使用する銃は旧式のヤーゲル銃で、大雨の中紙製の雷管が湿り、銃撃戦では不利な状況であった。桑名隊は地理的な優位性を生かし山上から大砲を的確に撃ち込んだ。立見は山砲が一発砲弾を発射するごとに村人たちに鬨の声を上げさせ、敵が同盟軍の勢力を過大に読み違えるように仕向けた。 新政府軍の左翼で桑名軍と対峙したのは加賀藩兵であった。西洋式軍備を整えたが、実戦での使用経験のない加賀藩兵は恐怖にかられミニエー銃をやみくもに撃ちまくった。銃の捜査に不慣れであったため、一発撃った瞬間、銃の台尻の反動を胸にうけ、気絶する者も出る始末だった。 また、北国街道の本道方面に陣替えになった加賀兵が先鋒として先を進む薩長兵の背後を銃撃してしまい、参謀が激怒する場面もあったという。 銃弾を無駄うちしてしまい、その補給が続かなくなった隙をついて、致人隊副長馬場三九郎が吶喊して加賀兵に斬り込みをかけた。加賀兵は多くのけが人と5人の死者を出した。桑名兵は、深追いすることを避け、敵の首級を挙げ退却した。 立見鑑三郎率いる雷神隊は、致人隊に負けじとイサザ川(前川)の浅瀬を渡り、薩長軍・高田藩兵を吶喊して急襲した。薩長の武士出身でない兵士たちは浮足立ったが、高田藩兵が薩長兵を応援し踏みとどまった。雷神隊は敵中に突出することを避けて撤退した。 数に勝る新政府軍は態勢を立て直し、新手の兵を繰り出しての大反撃が始まった。神風隊の陣地に相対する山手から、長州藩が新型大砲(仏式施条四斤砲)で砲撃を開始した。新政府軍長州藩報国隊と薩摩兵が、同盟軍側守備を突破し進出した。立見ら桑名藩兵は鯨波から本道方面に一旦兵を後退させ、雷神隊・浮撃隊と共に、小河内山・嫁入坂を拠点に築いた堡塁に身を潜ませた。服部半蔵も司令部を山上に上げ、山頂から銃撃をおこなった。 次々と突撃をかける薩長藩兵の先鋒は暴風雨の中、本道を一旦東の輪まで進み番神堂に肉薄した。立見ら桑名藩兵は深く入り込んで進撃してきた薩長軍を横射した。雨足が強まる中、激戦となったが、白兵戦となると長州や薩摩の農民や商人上がりの兵士は、武士の振う刀に恐れをなし、到底太刀打ちできなかった。同盟軍側が優勢を維持していた。 新政府軍の後続部隊の高田兵・加賀兵は鯨波の浜より鬼穴の前まで進出したが、高所に陣取った桑名兵の銃撃に苦しめられ、先鋒に続き進むことができなかった。薩長藩兵は不利な状況を知り、兵の疲労が大きく、七つ刻(午後4時頃)になり、長州の軍監三好軍太郎が青海川以西までの撤退を命じた。 海道軍の本隊と別れて高田藩の伊藤弥惣隊は黒岩口に進み、会津藩浮撃隊・衝鋒隊の一隊と戦い、激戦の結果これを破り同盟軍の侵入を許さず、桑名藩との藩境黒岩口を固めた。 また谷根口へ進んだ村上修礼が指揮する高田藩の一隊は、谷根岡に砲列を敷いて海道軍の本隊の援護砲撃を行った。 (戦闘の終了)鯨波の緒戦は最初桑名藩兵が苦戦したが、弱冠22歳の立見鑑三郎の指揮で新政府軍を撃退し、夕刻となって同盟軍は番神堂に退いた。このときの様子を山県有朋が広沢真臣に宛てた書簡では高田兵を褒め、加賀兵を臆病と罵っている。 高田藩榊原家はかつて徳川四天王と言われ、井伊、本多、酒井と先陣を競った武勇の誉れ高い家柄であった。その気風は江戸時代を通して藩風となって引き継がれていた。いざ、戦いとなれば、先鋒となって戦う気構えがあった。 他方、加賀前田家は立藩以来、様子見の、自己本位の中立主義が藩風であった。鯨波に派遣されてきた部隊は精鋭部隊ではなく、藩境を守る守備隊で弱兵であった。加賀藩としては、とりあえず守備隊を送り戦いの帰趨を見ていたと思われる。 参謀山縣はそれぞれの藩の戦いぶりを見て、藩に備わる気風を見て語ったのではないだろうか。 この戦闘で、長州が戦死2人・負傷7人、高田藩が戦死3人・負傷8人、加賀藩が戦死5人・負傷24人を出した。一方同盟軍では桑名藩が戦死1人・負傷8人を出している。(記録により人数が異なる)。 この戦争でなくなった新政府軍側戦死者は、柏崎招魂所に葬られている。加賀藩の戦死者5人の墓は柏崎多門寺にある。 新政府山道軍が雪峠で旧幕府軍を破り小千谷に進駐、また別働隊が会津預領の小出島陣屋を攻略した報が伝わると、旧幕府軍は退路をふさがれることを恐れ、妙法寺村の超願寺に向けて撤退を始めた。桑名軍は超願寺で態勢を整えた後、5月9日に長岡へ入る。 新政府海道軍は28日、柏崎の妙行寺に本営をおいた。海道軍は町に入る際に民家に向かっていっせい射撃をくりかえしたので、住民に死傷するものがいたという。 鯨波の戦いでは、戦闘での的確な状況判断と指揮をおこなった、弱冠22歳の雷神隊隊長立見艦三郎の名を、一躍世間に知らしめることとなった。
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新潟県内の戊辰戦争(北越戊辰戦争)史跡
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