日柳燕石



≪日柳燕石(くさなぎえんせき)≫

日柳 燕石 文化14年3月14日(1817年4月29日)〔生〕 - 慶応4年8月25日(1868年10月10日)〔没〕
讃岐国那珂郡子松郷榎井村(香川県琴平町)の加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励んだ。18歳のとき金比羅百姓一揆に参加し、松山藩に投獄される。21歳で父母に死別したのちに家督を相続して33歳頃まで遊侠したことで、金比羅一帯を中心とする賭場を取りしきる博徒の親分としても知られていた。
また勤王の志が非常に厚く、文久末年頃より長土諸藩の志士で幕吏の追跡を受けて彼の家に潜匿するものが多かった。慶応元年に(1865)、高杉晋作が幕吏に追われて榎井村に燕石を頼って亡命したのをかくまい潜匿・逃亡させたことから嫌疑を受けて、4年のあいだ高松の獄に幽せられた。慶応4年(1868)正月20日に出獄し、その後赦免の朝命に接して京都に上って書を奉った。その後、桂小五郎の推挙によって、仁和寺宮嘉彰親王が会津征討越後口総督として出征する際に、仁和寺宮御用係日誌方を命ぜられて、7月20日、軍艦攝津に乗船し、柏崎に到着した。
四年間の投獄がもとで従軍中病床に伏し、8月25日越後柏崎で病没した。墓は柏崎招魂場にある。




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