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与板藩と北越戊辰戦争 長岡市



与板城 与板藩と戊辰戦争
🔗島崎の戦い 🔗観音寺久左衛門

(藩主の上京)


丸に橘紋
越後与板藩井伊2万石の最後の藩主直安は彦根藩井伊掃部頭家で前の大老の井伊直弼の四男である。文久2年(1862年)9月23日に与板井伊家の養子となり、養父が亡くなったため同年藩主に就任している。幕末戊辰戦争時は17歳であった。余談であるが、東京都世田谷区の豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画は、直安が、後年記憶を頼りに描いたものといわれている。
当時の彦根藩主井伊直憲は直弼の次男で、直安より3歳年上の兄であった。
大政奉還後、井伊宗家の彦根藩は譜代筆頭にも関わらず新政府側に藩論を転向させ、鳥羽伏見の戦いでも勤王色を鮮明にし、東山道鎮撫総督に属した。
一方越後与板藩は、もともと、平田篤胤の「尊王国学」を領内で講じさせ、藩主が京都吉田家を通して伏見稲荷を与板城裏山におむかえして神社を創建するほど勤王思想に傾倒していた。
慶応3年(1867)9月16日、17日、会津、米沢等が主導して、新潟古町通りの料理屋鳥清で、越後中の藩の代表が集まって会議をしたが与板一藩だけが欠席した。
越後国内は会津藩の影響もあり佐幕色が強まる中、新政府軍側に就くこととなった与板藩は孤立した存在となった。こうした中、藩主直安は、慶応4年(1868)1月10日に与板を出発して、江戸藩邸を目指した。執政松下源左衛門ほか精鋭の藩士55名が同行した。
江戸の彦根藩邸で相談の上、表面上は京都へ行き朝廷に対して勤王の志を陳情し、宮家の警護に当たることとした。実は越後諸藩から攻撃を受けることが考えられ、藩主直安の身の安全を確保することが第一義であった。
一行は2月28日に江戸を出発し、東山道を京に向かった。しかし、途中東山道総督軍に遭遇し、馬に乗り武装した部隊の様子を怪しまれ、西上を止められた。
直安一行は、北陸道鎮撫総督が高田に向かったと聞き、方向を変え高田へ向かい、3月17日高倉永祜北陸道総督に謁見し、四条副総督より上京することを認められ京都に向かった。4月5日に京都に入る。
閏4月2日、新政府より、越後方面鎮撫のため新政府軍が出発するため、与板藩に対しても、対応が求められた。藩主直安以外の藩士たちに、帰国することが求められ、執政松下源左門以下藩士は与板に向かう。松下源左衛門は与板に戻ると、部隊の編成など、軍事的強化策を行った。
藩主直安の与板帰還は、7月18日京都を出て彦根で兵二小隊約100名を借り受け、戦闘も終わった8月16日であった。



(衝鋒隊乱入)

4月11日、旧幕府軍古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊の大隊長今井信郎が寺泊より来り、乗馬のまま与板城の塀の内に乗り込み、金10万両を提供するか、藩邸の明け渡しか、どちらかを選べと強要したうえ、隊士およそ400人が町に乱入した。
藩主と精鋭部隊不在の中、老臣小串半兵衛が対応したが、多勢に無勢、7000両余しか蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。
また割元宅や越後でも有数の豪商として知られた大坂屋(三輪家)や商家に押しかけて金品の強奪を繰り返し、土蔵なども壊した。隊士の中には城下の民家を襲い、押し込み強盗を働いたり、婦女子を凌辱する者がいた。その時に金を出したものは、鍋屋小左衛門が700両、中村屋定次郎が250両、大坂屋が2,500両、酒屋藤次郎が60両、扇屋が75両という風で、信濃屋、備前屋たどは乱入掠奪された。
与板藩では長岡藩に相談し、河井継之助が古屋に対して強く抗議を行ったところ、古屋は強奪した物品を返し、乱暴した隊士5人を打ち首にして地蔵堂へと退いた。
その後財政に窮した与板藩は、長岡藩河井継之助に泣きつき、7000両の借り入れを受けている。執政松下源左衛門は早くから隣藩の長岡藩家老河井継之助・山本帯刀らと接触していた。当時の長岡藩は、同盟列藩とは距離を置き、中立主義を模索していた頃であった。

(長岡藩の開戦)

4月中旬、会津藩の若年寄りで隊長西郷勇左衛門と軍事方秋月悌次郎は水原の本営に越後諸藩の代表を招き、会議を開き、列藩同盟への加入を各藩に膝詰めで決するよう求めた。与板藩では家老の松下源六郎を水原に送り、「藩主直安が京都にあり警護に当たっていることから、今すぐ奥羽列藩同盟に加入参加を表明することははできない。与板は、領内が侵犯されない限り、会津側に対して何の敵意も戦意も持たないこと」を表明した。その証として一小隊分の小銃を会津側に提供することを約して、かろうじて談判の決裂を避けることが出来た。この時は、長岡藩も、同盟への加入を留保していた。
一方で、与板藩では北陸道鎮撫総督府から要請のあった、献金と出兵についても他の越後諸藩と同様に様子見から応じていなかった。与板藩は、新政府にも会津藩にも組せず、領地が戦禍に巻き込まれないよう中立政策をとる方針であった。
与板藩は、衝鋒隊の乱入のあったのち、鎮撫総督府に応援の兵の派遣を要請したが、献金や出兵にも応じていない藩の姿勢をいぶかって応じてもらえていない。藩では、不測の事態に備えるため江戸屋敷で資金を工面して、アメリカ商人から元込め式の新式銃を百丁購入して、閏4月13日藩士松下俊之助を輸送責任者として船便で新潟に送った。

閏4月29日には佐川官兵衛に率いられた会津軍400人が新政府軍本営の小千谷攻撃の足溜まりとして与板に滞陣、宿泊し、与板城を貸せと談判してきた。与板藩では拒絶したが、突然の滞陣に、領民は夜具ふとんから枕まで大変な迷惑を蒙った。与板藩では会津兵とのトラブルを避けるため、土田柔助を水原の会津本営総督一の瀬要人を訪問させ、相互の不可侵条約を結ばしめた。

5月3日、先に松下俊之助が責任者として乗船し江戸を発った船が新潟湊に着岸した。銃と弾薬を陸揚げしようとしているところへ、情報を探知した会津兵が乗り込んできて、陸揚げを手伝う振りをして、強引に奪い取るという事件が発生した。
この事件が、京にいる藩主の耳にも届き、藩論は新政府軍に与して戦うことに決する。
この日は、長岡藩執政河井継之助と新政府軍軍監の岩村精一郎との会談が決裂し、長岡藩が列藩同盟に舵を切った日である。

5月14日には新政府軍が天領だった出雲崎に進駐すると、これに応じて与板藩は、新政府に帰順し出雲崎口に出兵した。
5月17日、長州藩三好軍太郎の率いる新政府軍は信濃川をへだてて長岡軍と対峙し、機を見て渡河しようとしたが、舟はすべて長岡軍の手におさえられていた。与板藩士の小川昌三郎が敵の狙撃を受けながら、夜陰に乗じて数十艘の舟を新政府軍に提供したので、新政府軍はこれに乗って、19日の早暁、信濃川を渡り、長岡城に迫った。この日、長岡城は落ち、長岡藩兵は見附・三条方面に退いた。

5月22日、桑名領加茂町市川邸において、奥羽越列藩同盟により、新政府軍に対抗するための加茂軍議が開かれた。そして奥羽列藩同盟の盟約に従い、奥羽各藩から応援の兵士が続々到着した。
5月25日、軍議で決定した事項に従い、会津・桑名・村上・水戸諸生党、衝鋒隊、それに観音寺久左衛門指揮の博徒隊らが三条を出発し信濃川左岸、地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由して上流の与板に向かった。会津藩の一瀬要人を総指揮官とし、約2000名の総兵力であった。


(与板戦争の攻防)

3月中に与板藩江戸藩邸詰めの藩士たちに、国元与板へ向かうよう指示が出された。江戸には80名ほど詰めていたといわれている。また藩主に同行した執政松下源左衛門以下藩士も京都から帰国している。
松下源左衛門は武装した百姓・町人の有志を容れて部隊の編成を行った。兵士として動員出来た数は、総数443人で、うち藩士は208人、軍夫が235人であった。
松下源左衛門は、新政府に帰順した与板城を攻撃するため、同盟軍が兵を進めているという情報を得たが、与板藩だけでは防戦しきれないことは明白であったので、一日も早く援兵を送るよう関原の新政府軍本営に使者を送った。使者は、源左衛門の長男相馬と外一人であった。
新政府軍は兵を回す余力がなかったとも、また与板藩を完全に信頼しきれず様子を伺っていたともいわれる。与板藩の誠意は行動をもって示せと迫られ、すぐに援兵の派兵には至らなかった。
5月26日までに、与板藩では、長岡藩領の要衝金ヶ崎へ笹本努・松下相馬隊56人と塩之入峠に小野八郎左衛門隊55人を派遣し警備した。
夜半から翌朝にかけて、脇野方面から飯山藩2小隊の141名と関原から長州兵が城下に入った。
5月27日、信濃川を渡り、大河津村を経て進撃してきた同盟軍400人は町軽井で二手に分かれた。信濃川土手上に金ヶ崎へ向かったのは、会津・村上藩兵・上ノ山藩兵で与板城正面に向かって進軍した。金ヶ崎の西の山手の間道を会津萱野隊・桑名藩兵・諸生党が進撃し与板城の背後を押さえようとした。
与板藩の松下源左衛門率いる偵察隊40数人が岩方村で同盟軍の一隊と出会い、ここに与板戦争が始まった。この時は、与板側は少人数でもあり、勇戦すれどもかなわず、馬越村まで敗走した。その際、与板藩士の加藤長左衛門が銃弾に当たって負傷した。
この後ようやく新政府軍の応援部隊が続々到着し、交戦地に向かった。
間道を進んだ会津・桑名藩兵・水戸藩諸生党は、各要地に籠る与板藩の警備陣地を次々と突破していった。桑名藩の雷神隊は山を越えて桑名藩領寺泊黒坂村に進撃した。
救援に来た長州藩報国隊隊長勝原国介は第一高所の陣地「雷塚」で、敗走してくる与板藩兵を叱咤激励していたが、これを見た桑名藩致人隊副長の馬場三九郎が名乗りをあげながら勝原に向かって猛進した。勝原は蓮根弾倉六連発のコルトで3発狙撃したが、弾は躰に当たらず、馬場は大喝して斬り下げた。勝原は身をひねって、拳銃で受けようとした右手首は切り落とされた。よろめいた勝原の白熊の被り物をした頭上に第二撃が落ちた。
会津萱野隊、桑名藩致人隊・神風隊はなおも敵陣に迫った。
急遽応援に駆け付けた長州・薩摩・富山・飯山藩兵は防戦しつつ後退して、本与板まで退き、日没になり戦いがやんだ。
この日の戦いで長州藩報国隊に隊長勝原国助他5人の戦死者と、傷者2名、与板藩は傷者2名を出した。
5月28日払暁、同盟軍本道隊は村上藩兵を先鋒に、会津・上ノ山兵が与板城をとろうと攻撃を開始した。新政府軍は午前5時を期して、与板藩兵を先鋒とし長州藩奇兵一番隊、薩摩藩二番遊撃隊という順に出撃した。信濃川上手沿いの本道岩方村で、両先鋒は激突した。長州・薩摩藩が砲4門で撃ちかけ、一斉射撃をしたので、村上藩兵はたまらず敗走した。新政府軍は同盟軍の3倍以上の兵力を持って攻撃したため後続の同盟軍も総崩れとり、いったん金ケ崎まで後退した。しかし、戦闘地が障害物のない平坦地であったため、新政府軍は被害の増加を恐れて、本与板まで後退してしまった。
一方山道方面では、新政府軍が飯山、富山、与板兵のほかに新たに薩州、長州一隊の増援を受け圧倒的人数で塩入峠を越え、桑名隊が陣を置く黒坂方面へ侵入すると、桑名藩兵は山中でゲリラ戦で抵抗した。が、本道方面で新政府軍が後退中という情報が入ると、出雲崎方面からの高田・加賀藩兵は島崎で敗れて逃げ帰っていたため、山中で孤立し、退路を断たれることを恐れて退却に移った。
この時、桑名藩雷神隊士20名が退却する新政府軍を峠を駆け下るように追撃した。本与板に達し新政府軍の背後に出ると、後方の新政府軍の詰所に火を放ち攪乱したため新政府軍は大混乱となり総崩れとなった。申の刻(夕方5時過ぎ)であったという。
敗走する新政府軍は与板城(与板陣屋)の手前、兜巾口(とっきんぐち)に踏みとどまり必死に防戦した。与板城落城寸前となった。この時、突然、与板城に火がかかった。火をかけた人物はいまもってわからないが、落城間近と判断した与板藩士が、自ら火をかけたといわれている。この火災で大手門・切手門以外が焼失した。焼けた城中から、新潟湊で会津藩に武器弾薬を奪われた松下俊之助が自決した姿で見つかっている。この火災で城周辺の家屋20軒ほどが焼けた。
あらたに応援の松代・高田・加賀藩兵が駆け付け、城や市街など自焼により発生させた火災を消火をするという醜態を演じる一方で、同盟軍に対し反撃に出た。桑名隊は塩入峠から南の陣ヶ峰、大坂山の敵陣地を奪取し、与板攻略を目前にしたが、敵の応戦も必死となり夜もせまり、引き上げる。
関原の会議所で総指揮を執っていた参謀山縣狂介(有朋)は、岩村精一郎を状況を把握するため与板へ派遣するとともに、信濃川右岸から須坂・飯山・尾張藩などの増援部隊を投入し与板城(与板陣屋)を死守した。
この戦いで本与板地区が主戦場となり約130軒の大半が焼失し、残ったのは3軒だけだった。与板藩は落城寸前まで追い込まれたが、新政府軍からの援軍、長州・尾張・加賀などの諸藩が到着し、危機を逃れた。この戦いで与板藩は戦死者5名、負傷者20名を出した。
5月29日、本道方面は同盟軍が再度原村(元与板手前)まで進軍、新政府軍も陣地を守備し攻撃には出ず、小競り合いのみであった。山道方面でも両軍対峙し大きな動きはなかった。
岩村精一郎は関原に戻り、山縣に報告をすると、山縣は30日に与板に赴き、状況把握をおこなった。

以降は与板城外の山地(西山連峰)でも戦いが始まった。周辺の陣地で新政府軍の善戦は続き、与板城下は新政府側が維持することができた。
以後、戦争は膠着状態が続き、与板藩兵は諸藩と現在の出雲崎や和島村方面で戦闘を繰り返した。また、与板でも本与板や原村、陣ケ峰などで戦闘がなされた。

6月11日、米沢藩二小隊(隊頭芋川大膳)が見附より与板本道方面に出兵し、会津藩萱野右兵衛はじめ諸隊の隊長が、桑名藩の陣営がある塩入峠に会合、戦略を話し合い前線を視察した際、致人隊副隊長馬場三九郎の横面を流れ弾が撃ち抜き即死した。

新政府軍は与板に、関原会議所から薩摩藩西徳次郎や長州藩品川省吾などを会議所参謀に任命して、与板町三輪権平(大坂屋)宅を新政府軍会議所とした。物資調達や運搬をまかなう大小荷駄方は山田四郎左衛門宅に置かれた。

6月27日になって、同盟軍側で会津藩に転陣の命令があり、萱野右兵衛隊が水原に戻ることとなり、佐川官兵衛の朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊が交代の為、与板方面に移動を開始した。
佐川官兵衛は大山に本陣を置き、各所に胸壁を築いた。朱雀四番士中隊、砲兵隊、青龍三番士中隊、水戸兵がこれに拠った。
陣ケ峰方面は桑名藩致人隊と水戸藩朝比奈隊が守備した。
7月22日、同盟軍は、見附にある本営が遠いことから島崎村に新たに軍議所を設け、会津藩一ノ瀬要人を与板方面の総督とした。
7月25日には、河井継之助が、八丁沖の渡渉作戦で、長岡城に奇襲をかけた際、同盟軍は陽動作戦で与板城に攻撃をかけたが、奪取するに至らなかった。
7月29日、長岡方面の戦いで長岡城が新政府軍の総攻撃によって落城し、新潟湊が陥落したことが伝わると、同盟軍総督米沢藩千坂は、新政府軍による両方面からの攻撃を避けるため、本営のある見附への総退却を命じた。
8月1日、与板方面では、同盟軍が攻勢をかけ善戦していたが、与板方面指揮官会津藩佐川官兵衛は同盟軍各隊に撤退の指示を出した。各隊が撤退を開始したので、与板・出雲崎方面での戦闘は終息した。こののちは、撤退を急ぐ同盟軍に対して、新政府軍の追撃による戦闘が各地で発生し、越後での戦局は新政府軍有利に一挙に転換した。
この後与板藩兵は新潟、村上、庄内へと転戦し、与板帰還は10月15日であった。

与板藩は、もともと武器や金品が不足していたので、政府に大量の拝借を願い出ている。6月5日には小銃100挺と金3000両を、7月8日には、弾薬1万発を、戦闘の終わった8月13日に、弾薬10万発と大砲弾薬150貫、金の拝借も8月中におよそ2万8000両の拝借願いを出している。この拝借によって、軍事の強化と、水害や戦地での被害復興などの救済に充てられた。
8月16日に与板に帰還した藩主直安は、城郭が灰塵となったため、住むところがなく、家老松下源左衛門宅を仮御殿とした。


〔祈念碑〕
  • 松下無毀(俊之助)碑
    江戸で手配した武器の輸送責任者だった、炎上する城中で自刃した。
    〔所在地〕長岡市与板町与板6044 都野神社

〔主な戦死者〕

長州藩

村上藩
  • 中島大蔵 小隊長
与板藩
  • 松下俊之助(33歳) 松下源左衛門隊軍事方 長岡市与板町徳昌寺
桑名藩
  • 馬場三九郎 致人隊副隊長




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島崎の戦い


観音寺久左衛門












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