与板城跡 Yoita Castle Ruins 長岡市



与板城 与板藩と戊辰戦争

≪本与板城≫

本与板城は築城時期は不明だが、建武元年(1334)に新田氏一族の籠沢入道が築城したと伝えられている。その後、越後国守護上杉氏の重臣飯沼氏が居城とした。しかし、永正4年(1507)、越後守護代長尾為景と守護上杉房能が戦った「永正の乱」で、 飯沼氏は永正11年(1514)為景に攻められ滅んだため、長尾氏の家臣直江実網(景綱)が城主となった。直江景綱は与板城に居城を移した。本与板城は支城として機能したとも言われる。


≪与板城≫

与板市街の南西〝城山〟と呼ばれる、海抜104㍍の山上に残る山城跡。北東麓の八坂神社脇から頂上まで歩いて15分ほどで、山頂の郭跡からは与板市街地、信濃川、守門岳、粟ヶ岳、そして越後平野を一望に収める。
天正年間(年数は不明)の直江景綱の時代に築城、本与板城から移転した。
直江氏は、与板に景綱・信綱・兼続と三代居城し、中でも兼続は上杉景勝の謀将として有名で、常に景勝を補佐して功があった。
兼続はもとは越後坂戸城主長尾政景の家臣樋口惣右衛門兼豊の子で、もとは与六と名乗り、上杉景勝(当時は長尾喜平次)の小姓であった。やがて彼は越後の名家・直江氏を継ぐこととなった。御館の乱では上杉景勝擁立に中心となって活躍した。
豊臣秀吉に「天下の政治を安心して預けられるのは、兼続など数人にすぎない」と言わしめるほどの人物であったという。
また、文禄5年(1596)から慶長2(1597)にわたり、越後・佐渡の検地を実施して、景勝の領国支配体制を完成させた。「定納員数目録」によると、兼続の旗下は120名にのぼり「与板衆」と呼ばれた。
与板在城時代は、鉄砲製造などの手工業や市の開催などの商業策も進め、与板の開発にも意を注いだ。
慶長3年(1598)、直江兼続は景勝が会津へ移ると同時に米沢へ移り、以後、与板城は廃された。
現在城跡には、ほぼ南北に伸びる尾根上に、深い堀で仕切られた本丸・ニノ丸・三ノ丸跡が遺存し、その南側に、大きな空堀を隔てて千人武者溜が残存して、戦国時代の旧状をしのぶことができる。また本丸跡には、城山稲荷神社、兼続の手紙の中から「所望事信一字 慶長二年二月六日 直江山城守兼続押印」※ストリートビューと海音寺潮五郎書の「直江山城守旧城跡本丸」の碑※ストリートビューが立っている。県指定の城跡である。
遊歩道の脇には、現在でも水が湧き出している「おせん清水」※ストリートビューがあるが、その名は兼続の妻おせんから取ったものである。

  • ・天正年間(年数は不明)直江景綱が築城
  • ・天正5年(1577)3月5日 直江景綱が死去し、直江景綱の娘・船と結婚し、婿養子となっていた信綱が、名跡を継ぎ城主となる
  • ・天正9年(1581)、直江信綱が、毛利秀広に殺害される事件が起き、兼続が船の婿養子となり、与板城主となる。
  • ・慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴って、兼続も同行し、与板城は廃城となった。


≪現地案内看板≫
与板城跡(直江城跡)
新潟県指定文化財第十六号

通称「城山」と称し、上杉景勝の家老直江山城守兼続の居城である。全山すべて自然に城郭の型をなし、さらに人工を加えた豪壮な山城である。
大手口を登ると一〇四メートルの山頂が本丸で、二の丸、三の丸、大空壕、千人溜から烽火台、弓場、射撃場などの跡があり搦手口に通じている。
中越を一望に収め、千体川を内壕に信濃川を外壕とした雄大な一大山城である。
城主 直江兼続は城下の開墾に力を入れ農業の発達や鉄砲や刀剣の製作、市場の開設など産業の発展に尽くし、与板を城下町としての繁栄の基礎をつくった。また、越後の惣奉行などの要職にあって越後の統一と発展に尽力した第一人者である。

与板町教育委員会


≪与板陣屋(のち与板城)≫

寛永11年(1634)、越後長岡藩主牧野忠成の次男、康成が1万石を分知されて与板藩を立藩し、直江兼続の居城として知られ、廃城となった与板城址の麓に陣屋を築造する。
元禄15年(1702)、天領となる。
宝永2年(1705)、遠江国掛川藩より、井伊直矩が移封
文化元年(1804)、井伊直朗の時に城主格となり、与板城築城を始める。
文政6年(1823)、与板城が完成。

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