島崎の戦い 長岡市



島崎の戦い

5月22日の加茂軍議後行動を起こし、同盟軍は、与板に向かう兵を3隊に兵を分け与板攻略を目指した。信濃川土手本道上に金ヶ崎へ向かったのは会津・村上藩兵で、金ヶ崎の西の入軽井から山手の間道を会津・桑名藩兵が進撃した。そして山道方面へは、出雲崎方面から与板を目指して進撃してくる新政府軍に備えるため、会津藩越後口総督の一瀬要人を指揮官とした会津と桑名兵に観音寺久左衛門の博徒隊らが、島崎でこれを撃退しようと黒坂付近の林中に潜伏した。与板本道軍に対する陽動作戦でもあった。
島崎は、出雲崎から与板方面に向かう交通の要衝であった。新政府軍は、島崎が出雲崎と与板の中間連絡地点でもあり、しかも新政府軍全体の戦線の一歩前進にもあたる地ということから、島崎の確保は極めて大きな意義をもつものと考えた。ここを新政府軍に破られれば、与板方面に展開する同盟軍は総崩れとなるのは必定であった。1ヶ月にわたり戦局が膠着したのは、島崎に展開した同盟軍の会津藩や桑名藩の功績によるところが大きい。またこの地は桑名藩領であり、地の利は同盟軍側にあった。
与板藩もこの動きを察知し、24日頃から金ケ崎方面に小野隊を、塩之入峠口方面に河西隊を派遣し、警戒するとともに出雲崎の新政府軍に急報し島崎方面に出撃を要請した。

(第一次島崎の戦い)

5月26日、会津藩兵が与板口攻めのため集結を始めたという知らせを受けて、出雲崎の新政府軍は若干の兵を島崎に進出させる。北野を守る会津・桑名を砲撃したが善戦及ばず、出雲崎に敗退する。島崎の前役の前哨戦ともいえる。
5月27日、会津藩は北野に本営を置き、塩之入峠から与板へ攻めるべく体制を整える。一方、与板藩河西隊は塩之入峠に陣を敷いた。
5月28日、御前10時、北野・荒巻の会津・桑名隊を、攻撃する目的のもとに高田二小隊(砲一門)、加賀一小隊が出雲崎から島崎に向かって出発した。そして島崎村はずれで北野に面して砲を据え布陣した。
また、新政府軍は、飯山、富山、与板兵のほかに新たに薩州、長州一隊の増援を受け塩之入峠から黒坂方面へ侵入し攻勢に出てきたので、同盟軍は挟撃される形となった。
桑名隊は部隊を島崎方面と塩之入峠口に分け、神風隊一隊と雷神隊の半隊が山中でゲリラ戦を展開し、塩之入峠を越えて攻め込んでくる新政府軍に攻撃を加えた。塩之入峠口での戦いは本与板方面での戦闘で、新政府軍側の旗色が芳しくないという報告が入ると、新政府軍兵士は退路を断たれることを恐れて撤退を始めた。
一方で、島崎を占領した高田・加賀兵に対して、北野にいた会津藩越後口総督の一瀬要人の会津藩の一隊と、桑名藩立見鑑三郎の指揮する雷神隊半隊が応戦し、激しい銃撃戦となった。
北野の攻撃が容易でないと考えた新政府軍は、北野の砲台を制圧するには小島谷を迂回して下富岡に出て、そこの台地から北野を攻撃することが必要と考え、高田一小隊を島崎に残し、迂回隊(加賀一小隊と高田一小隊)を編成して北野を攻撃した。
島崎の高田一小隊は北野攻撃中、夏戸を通って田頭・明ヶ谷方面から来た庄内藩兵と観音寺久左衛門の博徒隊、会津藩渡辺英次郎らが率いる結義隊に、突如襲われてしまった。高田藩兵は不意を衝かれ、なすところを知らず、出雲崎へ後退した。この時、会津藩に加勢して寺泊から駆け付けた侠客の大親分観音寺久左衛門こと松宮雄次郎は手下47人を率い、獅子奮迅の勢いで暴れまわり、とうとう高田隊は泥田の中へ大砲を棄てて退散したのである。
迂回隊は島崎からの急報で、優勢ぎみであった戦いを捨て、同じく出雲崎へ引き上げた。この時新政府軍迂回隊の攻撃で、荒牧55軒の内、44軒が放火で焼失した。
高田兵は戦死4名、加賀兵は戦死3名、負傷1名に対し、雷神隊1名が戦死した。同盟軍は他に大砲一門と多数の銃器弾薬を鹵獲した。

(第二次島崎の戦い)

新政府軍・同盟軍とも与板・島崎をめぐる攻防戦で戦力を消耗したので、補充に重点をおいた。
6月2日、新政府軍参謀山縣の作戦計画の下で、薩摩一隊・長州二番小隊・金沢二小隊と砲二門・富山一小隊・高田藩家老村上主殿隊所属二隊と砲一門・松代狙撃隊と二番小隊・与板一小隊、以上併せて4~500名が、未明の午前2時出雲崎を発った。
これを三隊に分け、高田・金沢の各一隊で、浜手を進撃し寺泊より来る敵に対応する。
長州・松代兵に高田・金沢の一隊は中央の地蔵堂街道を進撃し北野を攻める。薩摩・富山・高田の各一小隊の山手を進撃し荒巻の敵を攻めると言うものである。
一方同盟軍は総帥の一瀬要人の率いる会津兵をもって北野を固め、会津萱野隊と共に桑名の雷神・神風隊がこれに加わる。
塩之入大山には会津片桐隊、鷹ヶ峰には水戸藩諸生党と上ノ山藩の一隊、寺泊には庄内藩の主将石原多門隊、会津の新遊撃隊、年友には庄内藩七番銃隊等々と、盤石な布陣を固めた。
新政府軍山手の一隊は、小島谷から富岡の高地へと進み、荒巻の雷神隊を砲撃、併せて北の山手の神風隊にも激しい砲撃を加えた。
これに対して塩之入峠の会津片桐隊は北野援護に当たり、北野に各隊が集結して防衛のための砲撃戦が展開された。北野・荒巻の高地から島崎・小島谷への集中砲火はすさまじいものであり、また、北野・島崎間の四枚橋付近の戦闘では、観音寺久左衛門の奮戦が際立ったという。この時、庄内・水戸兵は夏戸・田頭から山手を通って島崎の背後に出て、新政府軍を一斉射撃した。腹背に猛攻を受けた新政府軍は支えきれず、出雲崎へと敗走を始めた。同盟軍はこれを追撃し、島崎に火を放って突撃を繰り返した。島崎村は、元来桑名藩領であったが、桑名藩を見限って新政府軍を助成する者が出たため、放火にも容赦がなかったという。
小島谷方面の新政府軍もまた、これに同調して出雲崎に退いた。
これにより同盟軍は、島崎・小島谷はもちろん、木の芽峠・日野浦までも占領した。なおこの戦闘により、新政府軍は新手の増援を待つ防御の態勢となり、主力を出雲崎に置き、久田・乙茂にも陣を敷き、同盟軍の襲撃に備えることとなり、同盟軍側の桑名藩特に立見鑑三郎率いる雷神隊の奮戦で、島崎の周辺では膠着状態が続いた。

〔主な戦死者〕

高田藩

  • 伊藤光次郎(24歳) 銃隊新兵差図役、金谷山和親会墓地

















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