金谷山公園 Kanayayasan Park 上越市



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@じゃらん
会津墓地 🔗官修高田墳墓地

金谷山は、明治44年(1911年)、オーストリア・ハンガリー帝国(当時)の軍人、テオドール・フォン・レルヒ少佐によって、日本にはじめてスキー術が伝えられたスキー場です。
「大日本スキー発祥之地」記念碑、日本スキー発祥記念館のほか、レルヒ少佐の銅像が高だかとそびえ、多くのスキーヤーに親しまれています。
毎年、2月上旬頃に、レルヒ少佐の功績を顕彰する「レルヒ祭」を、この金谷山スキー場内で行っています。

山頂からの眺望も良く、高田平野の彼方には秀峰米山、はるか遠い日本海の波間には夢の佐渡ヶ島を望むことができます。

冬のスキーはもちろん、春から秋のハイキング、BMXコース、そしてスーパーボブスレーと四季を通じて、子どもから大人まで広く親しまれています。
ボブスレーは450メートルの2コースを爽快気分で満喫、BMXはアップダウンが楽しめる350メートルの公認コース。いずれも4月中旬~10月末まで利用が可能です。


金谷山公園
  • ❏〔所在地〕 上越市大貫595-2
  • ❏〔アクセス〕
    • 🚅…トキ鉄・妙高はねうまライン「高田駅」より徒歩30分、車で10分
      🚘…上信越自動車道「上越高田IC」より5分
  • ❏〔駐車場〕 174台
  • ❏〔施設〕
    • 🔹【レルヒ像】
      日本に初めてスキー術を伝えたレルヒ少佐の銅像。伝来50年を記念して昭和35年12月に建立されたもの。
    • 🔹【スーパーボブスレー】
      自然の地形を生かして作られた延長450メートルのコースが2レーンあり、最高時速約18キロで滑ることができます。
    • 🔹【BMX場】(バイシクルモトクロス)
      元世界チャンピオン監修による世界屈指のコースで、国際大会も開催可能です。毎年、全日本クラスの大会が開催され、多くの来場者を魅了しています。
    • 🔹【日本スキー発祥記念館】
      スキー板やスキーに関する様々な文献、レルヒ少佐の遺族から寄贈された手記など
    • 🔹【「大日本スキー発祥之地」記念碑】
      ≪案内看板≫
      明治44(1911)年1月12日 オーストリア軍人デオドール・フォン・レルヒ少佐が高田(現上越市)でわが国に初めてスキー術を伝えました。 この先の男山の頂には、わが国スキー発祥の地が高田であることを記した記念碑が建っています。 (財)全日本スキー運望など6団体は、1月12日を「スキーの日」と定めました。

  • ❏〔問い合わせ先〕 025-525-4295 金谷山公園管理棟




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高田藩の戊辰戦争 会津墓地

会津降人&会津墓地

(会津降人)

会津若松落城翌日(9月23日)、城中の兵士は猪苗代で謹慎、傷病者は青木村の病院に移送、婦女老幼は喜多方へ立ち退きが命じられた。また、城外にあって降伏した将兵は塩川(喜多方市)に謹慎を命じられた。
明治元年(1868)12月7日、新政府は奥羽越の『朝敵諸藩』に対して一斉処分を発令した。「洪大無辺の叡慮」によって、松平容保等の大罪を許し、首謀者を誅するとした。会津藩主松平容保・喜徳親子は死刑を減じ永禁錮に処し、その領地は没収となった。一方で、会津藩士たちにくだされた処分は厳しいものであった。
12月27日になって、会津在陣の新政府軍参謀から塩川で謹慎していた家老上田学太輔(1000石)と猪苗代謹慎の家老原田対馬に出頭命令があり、軍務局で猪苗代の旧藩士は松代藩に、塩川の旧藩士は高田藩にそれぞれ幽囚が命じられた、上田と原田は統括責任者とされた。
両藩とも藩力を超えた命令として免除を強く嘆願した。松代藩(信州)は免除されたが、高田藩は塩川にいた男子(旧藩士)2500名を預かることとなった。
榊原高田藩は戊辰の役で、越後では真っ先に新政府に恭順の意志を示した。しかし、この時交渉を担当した重役達がとった、旗幟を鮮明にしない態度が、東山道総督府の疑念を抱かせた。特に総督府軍監岩村精一郎を若輩と侮るような態度であったことが総督府の印象を悪くし、会津藩兵を預かることにつながったといわれる。
1月5日を初回に265人、最終11日の328人、合計6回で1,745人(※日や人数については諸説ある)が、越前・加賀・米沢・高田藩兵に護送され高田に到着した。高田に到着すると、高田別院
※ストリートビューをはじめとする寺町の55か寺に約40数人単位で幽閉された。なお降人はこれらの寺院を「下宿」と称した。当初の予定人員から減ったのは、種々の事情や脱走などによるとされている。高田藩は善道寺※地図 ※ストリートビューに藩の会議所を置いて監督し、来迎寺※地図 ※ストリートビューに病院を設けた。

1,745人の旧藩士たちを若年寄格として取りまとめたのは、萱野右兵衛であった。萱野右兵衛は越後水原奉行所に奉行として派遣される一方、萱野右兵衛隊を率いて、越後各地を転戦し、水原や、赤坂山の戦いなど、阿賀野川に沿って新政府軍と激闘を繰り広げた人物である。
また謹慎となった藩士の中には斉藤一や荒川勝茂などがいた。
斉藤一は新選組三番隊隊長で、前年9月22日に会津藩が降伏したあとも戦い続け、藩主容保が派遣した使者の説得によって投降し、捕虜となって越後高田で謹慎生活を送った。
荒川勝茂は、高田での謹慎生活を著した『荒川勝茂日記』で知られる。長岡の戦いで勇猛を誇る佐川官兵衛隊にあって血槍を振るい、戦争の悲劇を身をもって体験した人物である。
大庭恭平は、会津藩の密偵で、文久3年(1863)には足利三代木像梟首事件を引き起こした人物である。会津本営のあった水原で、住民に傍若無人な行為を成していた遊撃隊の隊長坂本平弥を斬殺している。戊辰戦争では衝鋒隊に加わり軍監として越後国内で戦った。庄内藩で終戦を迎え、高田藩に送られた。
河原田包彦(16歳)は戦国時代は南会津を領した河原田一族の出身で、戊辰戦争時、藩命で不在であった父、御蔵入奉行河原田治部信盛に代わって、旧領地である藩境檜枝岐村沼山峠の守備を命じられる。旧家臣団数百人が続々と集結し、鶴ヶ城落城まで、新政府軍の攻撃から峠を守り抜いた。病のため明治2年8月10日没し、会津墓地に葬られた。
南摩綱紀は、奥羽越列藩同盟の結成に尽力し、同盟各藩との連絡、調整に努めた人物である。また南摩は謹慎を解かれた後も高田に残り、教育の必要性を説き、横曽根に私塾正心学舎※ストリートビューを開学し、高田に大きな足跡を残している。後に東京師範学校教授を務めた。小出町の人達が小出島陣屋跡地に戊辰戦争の懐旧碑を建設しようとした際、明治29年(1896)南摩は請われて碑文を起草している。

高田藩は、越後国内や奥州まで新政府軍の一員として出兵を命じられることになり、多額の派兵費用を負担したり、また新政府軍の物資を運搬する人足・軍馬の手配や、戦地で使用する食料・わらじなど物資の徴発を負担した影響で高田藩の財政は困窮を極めた。また、戊辰の役の前には、幕府から長州遠征を要請され、すでに藩財政は困窮していた。
このような高田藩であったが、降人たちには、各配所に炊事・浴場などが新設され、炊事、食器一式、蒲団1人2枚ずつが支給され、手当として3人扶持が与えられた。
布団手配などの受入準備と当初の出費だけでも16,843両余に上っている。これに1人当たり3人扶持(1人扶持は一日に玄米5合)を支給したり、来迎寺に医療所を設置したり、高田藩にとっては大きな負担となった。
高田藩は新政府に対して、約3万石の支給や、降人の他藩への分配などを嘆願したものの受け入れられなかった。よって藩では、資金繰りのため藩札を発行して、できる限りでの待遇を行った。
会津藩とは遺恨があって敵対したのではなく、時勢に流されて戦ったまでのこと。相身互いの思いをもって、対応をおこなった。
降人たちは、謹慎生活中はある程度の自由な行動も認められ、時間的な余裕が与えられていたので、茶の湯とか歌の会などが頻りに催され、後には経書の講義なども始められたといわれる。
また、統括責任者上田の命で旧会津藩学問所も開設された。南摩綱紀を講師とする漢学所では、30名ほどが午前は大学、午後は詩経を学んでいたという。

明治2年(1869)6月3日、松平容保に実子、慶三郎(容大)が生まれる。
10月6日には、降人全員が高田別院に召集され、「滅藩処分は避けられたものの挙藩流罪の処遇」が告げられた。
11月4日、容大に家名相続が許され、陸奥国(斗南藩)3万石の支配を命じられた。
明治3年(1870)5月、高田にあった会津降人は、およそ1年半に及ぶ謹慎生活が解かれ、政府手配の船に今町(直江津)から乗船し、新潟港で家族を乗船させ、会津に立ち寄ることは許されず、新天地の斗南の地に直行した。

(会津墓地)

新領地の斗南藩(むつ市)に引き渡される明治3年(1970)6月まで高田で過ごした1年半の間、旧会津藩士たちの生活は苦しく、目的もなく「雪中漠たる寺院」に徒食していることに耐えられず、病死者(到着の年56人、釈放までに68人)や、苦し紛れの脱走者(53人※立ち戻ったものも含む)が相ついだ。先の見えない謹慎生活によって、心身が衰弱したり、自炊生活による白米食に偏した栄養障害によるものと考えられる。
高田藩領内は天候不順により、農作物が不作であった。物価が上がり、藩の財政の最も苦しい折でもあったうえ、新政府の助成も少なく、降人に対する待遇も行き届いているとは言えない状況だった。
例えば、米1俵5両3分2朱(幕末の1両4,000円で計算すると23,125円となる。 ※参考2023年の一般コシヒカリで13,900円)にまで高騰したが、諸品の価格もこれに準ずるものであった。不作で野菜など他の食材を十分に購入できず、白米中心の食生活となった。
亡くなった68名は、金谷山麓の「会津墓地」(35坪 709.5㎡)に葬られた。墓の文字は表面に氏名、裏面に死亡年月日が刻まれている。

なお、幽閉を解かれた会津藩士の中にはそのまま高田にとどまった人々もあり、会津墓地にはこれらの人々に関係すると思われる墓30余基も存在する。
この墓地は、会津出身で高田で眼科医を開業した田村真實、その子堅幹によって守られてきた。


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官修高田墳墓地

金谷山の登り口にある。ここに薩摩藩66名、長州藩55名、高田藩79名が祀られている。 薩摩藩では、のちに個人の墓をやめ、柏崎での戦死者14名を加え80名を合祀した。さらに明治10年(1877)の西南戦争に従軍した旧高田藩士族の死者もまつった。 戦死した薩摩藩士の中に、西郷隆盛の弟、西郷吉二郎(隆広)(36歳)の名前が記されている。



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会津藩は朝敵にあらず

会津藩は朝敵にあらず

  • 作者:星亮一
  • 出版社:イースト・プレス
  • 発売日: 2018年07月18日頃
斎藤一

斎藤一

  • 作者:菊池道人
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 2003年11月



レルヒ像 日本スキー発祥記念館 大日本スキー発祥之地碑 金谷山会津墓地 官修高田墳墓地