金谷山公園 Kanayayasan Park 上越市
🔗
会津墓地 🔗官修高田墳墓地 金谷山は、明治44年(1911年)、オーストリア・ハンガリー帝国(当時)の軍人、テオドール・フォン・レルヒ少佐によって、日本にはじめてスキー術が伝えられたスキー場です。 「大日本スキー発祥之地」記念碑、日本スキー発祥記念館のほか、レルヒ少佐の銅像が高だかとそびえ、多くのスキーヤーに親しまれています。 毎年、2月上旬頃に、レルヒ少佐の功績を顕彰する「レルヒ祭」を、この金谷山スキー場内で行っています。 山頂からの眺望も良く、高田平野の彼方には秀峰米山、はるか遠い日本海の波間には夢の佐渡ヶ島を望むことができます。 冬のスキーはもちろん、春から秋のハイキング、BMXコース、そしてスーパーボブスレーと四季を通じて、子どもから大人まで広く親しまれています。 ボブスレーは450メートルの2コースを爽快気分で満喫、BMXはアップダウンが楽しめる350メートルの公認コース。いずれも4月中旬~10月末まで利用が可能です。 金谷山公園
🔙戻る
高田藩の戊辰戦争 会津墓地 会津降人&会津墓地(会津降人)(越後移送)会津若松落城翌日(9月23日)、城中の兵士は猪苗代で謹慎、傷病者は青木村の病院に移送、婦女老幼は喜多方へ立ち退きが命じられた。また、城外にあって降伏した将兵は塩川(喜多方市)に謹慎を命じられた。明治元年(1868)12月7日、新政府は奥羽越の『朝敵諸藩』に対して一斉処分を発令した。「洪大無辺の叡慮」によって、松平容保等の大罪を許し、首謀者を誅するとした。会津藩主松平容保・喜徳親子は死刑を減じ永禁錮に処し、その領地は没収となった。一方で、会津藩士たちにくだされた処分は厳しいものであった。 12月27日になって、会津在陣の新政府軍参謀から塩川で謹慎していた家老上田学太輔(1000石)と猪苗代謹慎の家老原田対馬に出頭命令があり、軍務局で猪苗代の旧藩士は松代藩に、塩川の旧藩士は高田藩にそれぞれ幽囚が命じられた、上田と原田は統括責任者とされた。 両藩とも藩力を超えた命令として免除を強く嘆願した。松代藩(信州)は免除されたが、高田藩は塩川にいた男子(旧藩士)2500名を預かることとなった。 榊原高田藩はもともと佐幕色の強い藩であったが、戊辰の役で、越後では真っ先に新政府に恭順の意志を示した。しかし、この時交渉を担当した重役達がとった、旗幟を鮮明にしない態度が、東山道総督府の疑念を抱かせた。また、江戸藩邸の藩士80名が彰義隊に加わったり、奥州白河の高田藩領陣屋の藩士20名が会津藩に味方し若松城に籠城したことなど事情が重なって、懲罰的な措置となり、高田藩も強く抗議できなかった。 護送される会津藩士たちの間では、越後までの道中は、手縄をつけ、越後高田に着けば切腹になるという噂がまことしやかに広まっていた。 300人前後を一団として、集合場所では菅笠一つ、むしろ一枚、金一両が手渡された。降人の前後を100人程度の各藩兵が警護した。越前や高田藩兵の降人に対する態度は厳しいものではなく、思いやりのある対応がなされた。 第一便は、1月5日に会津を出発し、陸路雪深い会津街道を行き、難所諏訪峠を越えて越後に入った。途中、酒などもふるまわれたという。 幕末京都での暗闘で、薩長藩は会津藩に対して大きな怨みを持っていたが、越前藩士や高田藩士は会津藩に対して憎しみはもともとなく、朝廷からの命令で出兵し戦ったまでである。会津武士としての矜持を持って、真の尊皇を示そうと、薩長と最後まで戦い抜いた会津藩士に対して、おろそかにはできないという気持ちと、羨ましくさえあったのである。この気持ちは、のち高田藩での謹慎中の会津降人に対する対応にも見られることである。 (高田での謹慎生活)『榊原文書』で、正月17日着、263人。正月19日着、334人、正月21日着、333人。正月23日着、254人。正月25日着、233人。正月27日着、328人の計6便、1745人とある(※日や人数については諸説ある)が、越前・加賀・米沢・高田藩兵に護送され高田に到着した。高田に到着すると、高田別院※ストリートビューをはじめとする寺町の55か寺に約40数人単位で幽閉された。なお降人はこれらの寺院を「下宿」と称した。首脳部は寺町の本願寺別院に宿泊した。当初の予定人員から減ったのは、種々の事情や脱走などによるとされている。一部の藩士は仙台湾寒風沢に碇泊する榎本武揚の旧幕府艦隊に合流し、箱館で会津藩遊撃隊に加わり、なおも抗戦を続けている。高田藩は善道寺※地図 ※ストリートビューに藩の会議所を置いて監督し、来迎寺※地図 ※ストリートビューに病院を設けた。 旧会津藩の責任者は、家老の上田学太輔で、若年寄の萱野右兵衛、外交方の南摩綱紀が補佐した。御用局・御勘定所など旧会津藩高田役所も設けられた。 1,745人の旧藩士たちを若年寄格として取りまとめた萱野右兵衛は越後水原奉行所に奉行として派遣される一方、萱野右兵衛隊を率いて、越後各地を転戦し、水原や、赤坂山の戦いなど、阿賀野川に沿って新政府軍と激闘を繰り広げた人物である。 また謹慎となった藩士の中には斉藤一や荒川勝茂などがいた。 斉藤一は新選組三番隊隊長で、前年9月22日に会津藩が降伏したあとも戦い続け、藩主容保が派遣した使者の説得によって投降し、捕虜となって越後高田で謹慎生活を送った。 荒川勝茂は、高田での謹慎生活を著した『荒川勝茂日記』で知られる。長岡の戦いで勇猛を誇る佐川官兵衛隊にあって血槍を振るい、戦争の悲劇を身をもって体験した人物である。 大庭恭平は、会津藩の密偵で、文久3年(1863)には足利三代木像梟首事件を引き起こした人物である。会津本営のあった水原で、住民に傍若無人な行為を成していた遊撃隊の隊長坂本平弥を斬殺している。戊辰戦争では衝鋒隊に加わり軍監として越後国内で戦った。庄内藩で終戦を迎え、高田藩に送られた。 河原田包彦(16歳)は戦国時代は南会津を領した河原田一族の出身で、戊辰戦争時、藩命で不在であった父、御蔵入奉行河原田治部信盛に代わって、旧領地である藩境檜枝岐村沼山峠の守備を命じられる。旧家臣団数百人が続々と集結し、鶴ヶ城落城まで、新政府軍の攻撃から峠を守り抜いた。病のため明治2年8月10日没し、会津墓地に葬られた。 南摩綱紀は、奥羽越列藩同盟の結成に尽力し、同盟各藩との連絡、調整に努めた人物である。また南摩は謹慎を解かれた後も高田に残り、教育の必要性を説き、横曽根に私塾正心学舎※ストリートビューを開学し、高田に大きな足跡を残している。後に東京師範学校教授を務めた。小出町の人達が小出島陣屋跡地に戊辰戦争の懐旧碑を建設しようとした際、明治29年(1896)南摩は請われて碑文を起草している。 高田藩は、越後国内や奥州まで新政府軍の一員として出兵を命じられることになり、多額の派兵費用を負担したり、また新政府軍の物資を運搬する人足・軍馬の手配や、戦地で使用する食料・わらじなど物資の徴発を負担した影響で高田藩の財政は困窮を極めた。また、戊辰の役の前には、幕府から長州遠征を要請され、すでに藩財政は困窮していた。 このような高田藩であったが、降人たちには、各配所に炊事・浴場などが新設され、炊事、食器一式、蒲団1人2枚ずつが支給され、手当として3人扶持が与えられた。 布団手配などの受入準備と当初の出費だけでも16,843両余に上っている。これに1人当たり3人扶持(1人扶持は一日に玄米5合)を支給したり、来迎寺に医療所を設置したり、高田藩にとっては大きな負担となった。 明治2年(1869)だけで会津人のために47000両負担している。台所は火の車になり、高田藩は新政府に対して、約3万石の支給や、降人の他藩への分配などを嘆願したものの受け入れられなかった。藩では、資金繰りのため藩札を発行して、できる限りでの待遇を行った。 会津藩とは遺恨があって敵対したのではなく、時勢に流されて戦ったまでのこと。相身互いの思いをもって、対応をおこなった。 降人たちは、謹慎生活中はある程度の自由な行動も認められ、時間的な余裕が与えられていたので、茶の湯とか歌の会などが頻りに催され、後には経書の講義なども始められたといわれる。 また、統括責任者上田の命で旧会津藩学問所も開設された。南摩綱紀を講師とする漢学所では、30名ほどが午前は大学、午後は詩経を学んでいたという。高田藩の儒者や和算家、文人も引きもきらず南摩を訪ねて漢詩、漢文を語り、たちまち一大学問所の様相を呈した。 それ以外は、剣術の稽古も認められず旧会津藩士は悶々とした日々を過ごす。 このような中で高田の会津人の間に脚気病あるいは腫病が流行し、70人が病死した。脚気は脚が腫れたり、くびれたり、けいれんを起こして自由に動けなくなる病で、ビタミンB1の欠乏症である。当時は原因が分からず、夏になると、至る所で流行した。 (斗南藩へ)容保は鳥取藩池田家の江戸屋敷、世子喜徳は久留米藩有馬家の江戸屋敷で幽閉されていた。容保のもとで、主席家老の梶原平馬、軍事総督の山川浩、重臣の広沢安任が中心となって新政府に旧会津藩事務所の開設を認めさせ、会津再興への道を画策した。明治2年(1869)6月3日、松平容保の側室田代佐久に男子、慶三郎(容大)が生まれる。 8月23日、高田では旧幕府兵、農民兵は赦免する旨の布告があり、回状がまわされた。 しかしこの頃までに高田だけで、先の見えない謹慎生活と、会津への復帰が難しいということに落胆し、脱走した者が50人以上いた。(会津資料によれば、100人以上が脱走し、多くは会津や東京に向かったが、路銀が不足し越後国内の知己を頼った者もいたという。) 10月6日には、降人全員が高田別院に召集され、「滅藩処分は避けられたものの挙藩流罪の処遇」が告げられた。 11月4日、慶三郎(容大)に家名相続が許され、陸奥国南部領内に3万石の支配を命じられた。 明治3年(1870)2月11日からは、禁止されていた剣術の稽古も解禁になった。 明治3年(1870)3月22日、若年寄萱野右兵衛名で注意事項が伝達された。謹慎が解け、大小の刀が返されるが、万が一、反乱など起こそうものなら御家再興はご破算になると注意を喚起した。また新しい藩名は斗南藩と決まり、知事は幼君慶三郎、これを機に容大と改名したことも伝えられた。 斗南藩と決定した裏には、今は北の地に向かうが、いつの日か南の地に戻るという、会津藩士たちの気持ちが込められていたという。 主席家老、大参事には山川浩、家老に当たる小参事には広沢安任、永岡久茂、倉沢平治右衛門が選ばれ斗南藩の体制が整い、旧会津藩の重臣原田対馬が、現地調査のため先発を命ぜられた。 4月16日、南部領への移住命令が下った。新政府からアメリカの蒸気船ヤンシー号、1087トンを借用、新潟から南部の地に向かうもので、第一陣は300人である。全部で5陣まであり、ヤンシ―号が往復した。 会津若松で斗南移住の準備に当たっていたのは、旧主席家老の梶原平馬であった。斗南藩の公職に就かず裏方に徹していた。会津若松から新潟まで藩士の家族婦女子の移送を手配した。 5月29日、今町湊(直江津)を出港したヤンシ―号は、第一陣の藩士たちを乗せ、新潟湊で藩士の家族と合流し、斗南に向かった。 (会津墓地)新領地の斗南藩(むつ市)に引き渡される明治3年(1970)6月まで高田で過ごした1年半の間、旧会津藩士たちの生活は苦しく、目的もなく「雪中漠たる寺院」に徒食していることに耐えられず、病死者(到着の年56人、釈放までに68人)や、苦し紛れの脱走者(53人※立ち戻ったものも含む)が相ついだ。先の見えない謹慎生活によって、心身が衰弱したり、自炊生活による白米食に偏した栄養障害によるものと考えられる。高田藩領内は天候不順により、農作物が不作であった。物価が上がり、藩の財政の最も苦しい折でもあったうえ、新政府の助成も少なく、降人に対する待遇も行き届いているとは言えない状況だった。 例えば、米1俵5両3分2朱(幕末の1両4,000円で計算すると23,125円となる。 ※参考2023年の一般コシヒカリで13,900円)にまで高騰したが、諸品の価格もこれに準ずるものであった。不作で野菜など他の食材を十分に購入できず、白米中心の食生活となった。 亡くなった68名は、金谷山麓の「会津墓地」(35坪 709.5㎡)に葬られた。墓の文字は表面に氏名、裏面に死亡年月日が刻まれている。 なお、幽閉を解かれた会津藩士の中にはそのまま高田にとどまった人々もあり、会津墓地にはこれらの人々に関係すると思われる墓30余基も存在する。 この墓地は、会津出身で高田で眼科医を開業した田村真實、その子堅幹によって守られてきた。 🔙戻る
官修高田墳墓地金谷山の登り口にある。ここに薩摩藩66名、長州藩55名、高田藩79名が祀られている。 薩摩藩では、のちに個人の墓をやめ、柏崎での戦死者14名を加え80名を合祀した。さらに明治10年(1877)の西南戦争に従軍した旧高田藩士族の死者もまつった。 戦死した薩摩藩士の中に、西郷隆盛の弟、西郷吉二郎(隆広)(36歳)の名前が記されている。🔙戻る
|
レルヒ像 日本スキー発祥記念館 大日本スキー発祥之地碑 金谷山会津墓地 官修高田墳墓地