高田城 Takada Castle Ruins 上越市
高田城 高田藩と戊辰戦争 会津降人と会津墓地高田藩と戊辰戦争(第二次長州征伐)榊原源氏車紋 全軍4500人は、慶応元年(1865)5月30日に大阪に着き、12月9日海田市(広島県)に到着した。ここで翌2年(1866)の6月まで在陣し、14日未明から戦闘を開始した。小瀬川口大竹村から攻め、一挙に岩国城を落とそうとしたが、長州藩の逆襲にあって敗北し、大砲隊長加藤金平を失った。 7月30日に宮内で戦い、8月2日もよく奮戦しえ長州軍を敗走させたが、7日に逆襲されて無残な負けを示した。全軍が帰国したのは10月20日で、戦死者は原田帯刀ら23人と軍夫12人で、合計35人であった。長州の火力と組織だった部隊による攻勢を目の当たりにして、刀と槍の時代がとっくに終わったことを知った。しかし高田藩では、長州征伐への出費が重なったことなどから、その後も、抜本的な軍制改革が進まなかった。 (戊辰前夜)慶応3年(1867)春、緊張する内外の諸情勢にどう対処すべきか、越後の各藩とも態度を決めかねていた。越後に20万石の藩領を有していた会津藩は藩士土屋鉄之進らを派遣し、会議の開催を呼びかけた。はじめ、村上・新発田・村松に遊説させ、同年6月には長岡藩と談合して、不慮の事態が発生した場合に備えるため、北越諸藩が相互に連絡し合い、一致した方向を定める必要があるので、会合を開くことを取り決めた。次いで桑名(柏崎陣屋)・高田・与板藩などの諸藩の賛同を得て、9月18日新潟町古町通り六の町(現古町9番町)の料亭鳥清で会合した(新潟会議という)。与板藩は欠席した。高田藩からは前田助作、松本太平衛、白井門左衛門が参加した。会談の結果、各領内の取り締まりを厳しくし、各地探索の様子を知らせ合うこと。毎年5月15日に会談を開くこと。事変の有無にかかわりなく、毎年9月1日に糸魚川、村上両藩から回状を出して、各藩とも領内の情勢を知らせ合うことなどが約束され調印された。 (幕府の大政奉還~鳥羽伏見の戦い~藩の方針の決定)慶応3年10月14日、公武合体派の中心であった前土佐藩主山内容堂の建言によって慶喜は大政奉還を申し出た。大政奉還によって成立した新政府は、施政の具体的な準備がなかったので、列公会議にはかろうと全国の諸大名に上京を命じた。全国218藩のうち朝命に従って上京した諸侯は17藩のみで、他の多くの諸藩は変動する政局に、その動向を見極めかね、形勢を様子見していたのである。藩主榊原政敬は病気を理由に家老伊藤正温をまず上京させ、藩主榊原政敬は12月29日ようやく上京の途についた。 ところが加賀の小松で鳥羽伏見の戦いと慶喜が江戸に逃げ帰ったことを聞いて、上洛を中止して翌慶応4年(1868)1月23日、高田城に帰り、1月24日重臣会議を開いた。しかし藩論は分裂し、統一されなかった。1月25日、全藩士総登城を命じて、広く意見を求め、妥協策として、「君臣の道はおのずからはっきりしていて、踏み外すことは許さない。しかも現今、日本は外交の危機にひんし、日本の存亡にかかわる時で国内で無駄な時をおくるべきではない。将軍がすでに大政を奉還したのもこの事を察したからで伏見・鳥羽の変のごときは末のことである。徳川氏と高田藩とは三百年間の誼があり、俄かに捨て去るべきものではない。国家の危機に処する一方、徳川氏をして朝敵の名を蒙らず国家の安全を図るためには、本藩の立場として天朝に哀訴し、速やかに慶喜の罪を許されることを乞うて一日も早く内乱の根を断ち、また慶喜をいさめて恭順謹慎させ、兵を率いて入京しようとした罪を詫びさせるより道がない。」というもので、川上直本が中心になって「藩の決意書」を起草した。藩主もこれを承諾し、1月27日藩是として発表された。 2月1日、会津藩が、酒屋村の陣屋に越後諸藩を集めて反薩長で求心力を高めようと「酒屋会談」を行なったが、高田藩は、独自に朝廷と徳川家の間を取り持とうと考えており、抗戦色を強める会津藩の方針は徳川家存続のためにならないと参加しなかった。 この日、旧幕府は越後の旧幕領を悉く会津・米沢・高田・桑名の四藩に預けることとし頸城郡内にある川浦代官所が支配していた村々37,000石は高田藩の預かり地とすると伝えた。 2月3日、勅書が糸魚川藩より到着した。 また朝廷は江戸の慶喜を討伐するため、高田藩に出陣の準備を命じた。5日には藩主榊原政敬が恭順の意志を伝えている。 高田藩では、先に決定した藩の方針に基づき、朝廷に対し弓を引いた慶喜に大罪はあるが、家康以来の徳川の勲功に免じて寛大な処置を願う哀訴状と、慶喜に対して朝廷に謝罪を勧める諫状を作成した。 2月8日、家老竹田勘太郎が慶喜に諌状を提出した。2月23日、家老中根善次郎・中老清水大内蔵が京都に向かい、新政府に哀訴状を提出したが、これは3月11日になって却下されている。 高田藩榊原家は15万石の譜代大名で、徳川四天王の一人榊原康政直系の家柄であり、代々先陣を務める家として、幕府内でも別格の扱いを受けてきた。慶応2年(1866)6月14日、幕府の命令で第二次長州征伐に参加し、芸州口で、長州藩および岩国藩と戦い、彦根藩と共に先鋒を務めたが、小瀬川であっけなく壊滅し、開幕以来の徳川家先鋒の面目を失っていた。長州の火力と組織だった部隊による攻勢を目の当たりにして、軍制の改革の必要性が認識された。しかし高田藩ではその後も抜本的な軍制改革は進まなかった。門閥から能力重視の人事に刷新し軍制改革に本腰を入れたのは、新井会談で改めて新政府軍の一員として働くことを表明した時以降である。 河井継之助のもとで藩政改革や軍制改革をすすめた長岡藩に対し、高田藩は長州征伐など出費があり、藩財政も苦しい状況であり、家老などの反対で軍制改革に手がつかないままであった。また高田藩には河井に比肩できるほどの有能な人材もあらわれず、藩の方針も門閥出身の家老たちによって決められていた。 このように藩中枢の家老たちの抵抗がある中で、側用人川上直本が藩主榊原直本の後ろ盾を得て、「哀訴諫諍(あいそ かんそう)」への藩論統一や後の衝鋒隊への対応、新政府との交渉を主導していった。 北陸鎮撫の使命をもった総督兼鎮撫高倉永祐・副総督四条隆平らは安芸・小浜藩兵など250人を率いて3月15日、高田に到着した。 翌日、総督は越後11藩の重臣を高田に呼び集めて、朝敵を除くほかは、一切大赦するが、賞罰は厳重にする旨を伝えた。 ところが、3月18日、北陸鎮撫総督は江戸城総攻撃の連絡を受けて、江戸に向かうこととなった (衝鋒隊と交戦)4月16日、幕府陸軍の歩兵指図役頭取古屋佐久左衛門と、直心影流免許皆伝の今井信郎が指揮する衝鋒隊570余人が桑名藩領柏崎を通り高田藩領に入り、高田城下を武装して通行することを認めるよう要求した。4月17日、高田藩の家老竹田勘太郎と側用人川上直本が宿舎を訪ね、古屋の意向を聞いた。古屋は新政府に帰順し東山道軍に派兵している信州諸藩を武力征圧し、会津藩や奥羽方面に向かう新政府軍を分断する作戦であり、まずは飯山に進駐するつもりであると話した。高田藩は新政府に対して恭順の意思を表していたが、抗戦的な会津藩や旧幕府脱藩浪士たちに対する態度は決めかねていた。古屋たちからの強硬な要求に対しては、強く拒絶せず、自藩に迷惑の及ばない限りで新井にとどまることを許した。古屋から城下にはとどまらない、粗暴な振る舞いは一切しないという請書をとったうえでの通行許可を行った。この時、竹田と川上は列藩同盟加入を口約束し、徳川家再興を熱心に語ったという。古屋は高田藩の対応に感謝し、軍資金の無心はしなかった。この高田藩の措置はのちに新政府に大きな疑惑を持たせることになった。4月19日、衝鋒隊(古屋隊)570余人は高田を通過して高田藩領新井に入り東本願寺新井別院に宿営した。 4月22日、衝鋒隊は軍備を整え高田藩に対して事前通告をしないで、信州飯山藩に向けて行動を始めていた。飯山藩は本多2万石の小藩で他の信州諸藩と同じくすでに新政府支持の方針だった。飯山藩士が富倉峠で談判したが折り合うことなく、衝鋒隊は飯山領へ進撃し城下へ入った。飯山藩は衝鋒隊に対しては多勢に無勢で、徳川家再興の約束をするなど玉虫色の態度をとった。 高田藩は、無断で新井を出た衝鋒隊を追って目付を派遣し、請書違反を責め、すぐに新井へ引き返すよう申し入れた。(☛衝鋒隊と飯山の戦い) 4月24日、衝鋒隊古屋は隊の3分の1程度の一大隊を新井に引き返させた。 当時、信州の旧幕府領は尾張藩が預り支配しており、同藩は領内各所を固め、松代藩もこれに連合して、飯山藩応援のために古屋隊攻撃の体制をとった。 4月25日、衝鋒隊と、新政府軍の松代・尾張藩兵との間に戦闘が始まると飯山藩が、衝鋒隊に対して城中から突然発砲、衝鋒隊は総崩れになり、500余人が高田藩領新井に逃げ込んできた。高田藩は衝鋒隊が勝手に民家に泊ることを許さず、新井別院を宿所とさせた。また、藩兵は、新井周辺の要所に砲列を敷いて固めた。 4月26日、高田藩主榊原政敬は、中根・原田の家老が500余人の藩兵を率いて赴き、衝鋒隊を高田藩の預領となっていた旧幕領の川浦陣屋(上越市三和)に駐屯させた。 尾張、松代、飯山の各藩が東山道軍総督軍として衝鋒隊を追って新井に迫ってきていた。ここに至って高田藩はようやく衝鋒隊の追撃に踏み切った。総奉行竹田十左衛門は藩兵を3隊に分け、飯田川の対岸に大砲を据え、夕刻になってから攻撃を始めた。 不意を突かれて衝鋒隊は高田藩の態度を怒りつつ安塚から会津領の小千谷方面へ敗走。古屋は敗残兵をまとめて小千谷から船で信濃川を下り、会津藩酒屋陣屋へ撤退した。 衝鋒隊が逃げ去ったあと、同じ日の夜に松代と尾張の藩兵が新井に侵攻してきた。高田藩は領内侵入を抗議しようと、中老と側用人を派遣したが、逆に衝鋒隊への曖昧な態度を糾問される事態になった。 高田藩は新政府軍から朝敵藩と強く疑われ、報告を受けた北陸道先鋒総督は、高田藩の態度に不審な点があるとして、総督軍に従属していた高田藩兵の帰藩を命じた。 高田藩では弁明に努め、北陸道総督府へ3回にわたって衝鋒隊の城下通行を認めた理由書を提出した。また、松代・加賀藩に取り成しを依頼するなど、疑惑を取り除こうとはかった。 (☛ 川浦陣屋) (新井談判と恭順での藩論統一)閏4月7日、東山道総督府大監軍は新井宿総軍本部に到着すると、軍監岩村精一郎は衝鋒隊(古屋隊)の領内通過を許し、敗走してきた古屋隊を領内に留めおくなど、旗幟を鮮明にしない高田藩の態度について詳細に聴取した。閏4月8日、岩村は列藩代表の会議を開き、高田藩が非を認めて謝罪しない場合は武力で討伐することを決めた。高田藩の家老竹田勘太郎らを召喚して、岩村自らが直接尋問し、高田藩が謝罪しない場合は武力討伐することを伝えた。 高田藩重臣らは、新政府軍へ恭順の意志を示す一方で、朝廷に対して徳川家の存続を願い、将軍慶喜に対して朝廷に謝罪するよう斡旋することによって、戦争回避するという自藩の立場を説明し、申しひらきをおこなった。岩村は、新政府か旧幕府かどちらに立つかはっきりするよう踏み絵を迫った。どちらを選んでも戦争は回避できず、新政府軍と戦うか、逆賊と戦うかどちらか選ぶよう求めた。 閏4月9日、再び高田藩の幹部を招致して、再度審問する。 閏4月11日、高田藩の幹部も官軍側の決意を察し、ついに軍監岩村精一郎ら東山道軍列藩の居並ぶ席上で謝罪、新政府へ嘆願の申し出を行いその態度を改めた。 この時に取った官軍に対する傲岸な態度により、高田藩は東山道総督府大監軍の印象を極めて悪くした。この影響があったのか、高田藩はこの後、北越戦の戦闘では常に先鋒を務めることとなる。また戊辰戦後、会津藩士を預ることにもつながった。 (☛ 岩村精一郎) (北陸道先鋒総督府の一員として)江戸にいた北陸道先鋒総督の高倉永祜は、新たに北陸道鎮撫総督兼会津征討総督に任じられ、薩摩の黒田了介と長州の山県狂介が参謀に任じられた。閏4月17日、黒田了介(清隆)と山県狂介(有朋)は品川を出航、直江津から高田に入った。山県は高田へ入ると直ちに、桑名藩との藩境を守るべく高田藩に命じ、青海川へ出兵させている。 こののち、長州、薩摩をはじめ加賀・富山・信州諸藩の新政府軍は長岡藩攻撃のためぞくぞく高田に進駐した。その数4000人といわれ、高田町民は、これまで見たこともないような軍服姿の兵が多数集まったので、圧倒されていたという。 後に柏崎に移るまで高田は新政府軍の本営が極楽寺(現高田駅裏樹徳寺※地図 )に置かれ、兵の出入りでごった返した。また戦場となった地域から離れていたこともあり、6月10日には、寺町の来迎寺に新政府軍の傷病兵を収容する病院が設置され、戦死した薩長などの兵士は金谷山麓南東部の「官軍墓地」に葬られた。 閏4月19日、軍議が開かれ、まず山県・黒田両参謀の要請で、東山道軍軍監・岩村精一郎が指揮する信州の諸藩兵を北陸道軍に吸収した。 北陸道軍は、支隊として山道軍1500人(高田藩と薩摩・長州・尾張・加賀・信濃諸藩)と本隊として海道軍2500人(高田藩と薩摩・長州・加賀)の二軍に分け、長岡城を挟撃し越後を攻略するという戦術をとった。 閏4月21日、海道軍は黒田了介(清隆)と山県狂介(有朋)が指揮して柏崎方面へむかい、山道軍は岩村精一郎が指揮して小千谷方面へむかった。高田藩兵は道案内を兼ね先鋒を命じられた。 高田藩は2万両を軍資金として差し出し、家老竹田十左衛門の大隊が海道軍の、榊原若狭の大隊が山道軍の先鋒を務めた。他に伊藤弥惣が黒岩(現柿崎区黒岩)口から村上彦太郎が谷根(現柏崎市)口から進んでそれぞれ海道軍に合流した。 高田藩は衝鋒隊の領内通過を認めたばかりに同盟軍寄りと疑われ、信州からやってきた東山道軍の軍監岩村精一郎に恭順か否かの踏み絵を踏まされて、漸く恭順の意を示した。他藩の兵士からは、状況次第では突然後ろから撃ってくるかもしれないと疑われ、先鋒の役目を担わされた。 閏4月27日、海道軍は鯨波に守備した桑名藩隊を総攻撃した。この戦いで高田藩は3人の戦死者を出したが、その力戦ぶりは参謀山県有朋を感嘆させた。(☛鯨波の戦い) 5月2日に長岡藩の河井継之助が小千谷の本営に軍監岩村精一郎を訪ねて会談したが、岩村は河井の平和策を取り上げなかったため、長岡藩も戦意を固め4日に奥羽諸藩の同盟に参加した。これと同時に、村上、村松、三根山、黒川の諸藩もこの同盟に参加して、新政府軍と交戦状態となった。 同盟軍は5月10日に榎峠を新政府軍から奪還し、三国街道の要衝を占拠した。(☛榎峠の戦い) 三国峠方面で同盟軍側が優勢のうちに膠着した為、新政府軍は濁流渦巻く信濃川を渡河する奇襲攻撃をおこなった。5月19日の朝、長岡の対岸にいた高田藩の一部隊およそ200余人は大砲一門を以って長州藩の兵二小隊とともに暁霧に乗じ、増水中の信濃川を渡って長岡城攻略に功をたてた。(☛長岡城落城) その後、6月1日には尾州、松代、上田の四小隊の守っていた今町が同盟軍に占領された。この後、約2ヶ月間中越戦線は膠着状態となった。(☛今町の戦い) しかし、戦争が長引くことによって、徴兵された藩兵の中には、薩長に強制され戦っているだけで、自藩にとっては大義なき戦いを強いられているという厭戦気分が広まっていた。戦場で手柄を立て、新政府で出世できるのは薩長の兵士だけで、徴兵された兵士にできることは無駄死にしないことだけである。戦場で戦うのは自分の命を守るためであった。 6月13日、同盟軍は不在であった総指揮者に、米沢藩の千坂太郎左衛門を指名し、漸く一体としての指揮命令系統が出来上がった。そして、6月14日、同盟軍による大攻勢が行われる。特に、筒場村・大黒村での戦いは激戦を極め、一進一退の消耗戦となった。 大黒を守っていたのは竹田十左衛門大隊のうち前田門之丞隊長に率いられた一小隊であった。会津・長岡の同盟軍が進攻してくると、不意をつかれ、戦わないで雲散し逃げ去った。これを聞いた薩摩藩の精鋭部隊が筒場村から兵を割いて救援に駆けつけるが、多くの戦死者を出し、薩摩藩城下士小銃十番隊長の山口鉄之助なども戦死してしまう。6月18日、柏崎の本営にいた西郷隆盛が、薩摩藩兵に多数の死傷者が出たことを聞き、新政府軍内で士気が下がっていることや戦術の調整がうまくいってないことを心配し、関原の本陣に赴き山県と黒田から事情を聴いている。(☛長岡口の戦い) 参謀山県は敵前逃亡し、戦争放棄に等しい行動をとった高田藩を厳しく追及し、総督府命で布告がなされた。高田藩は前田門之丞を銃士に降格したが、藩にとって大きな恥辱となった。 高田藩は会津藩が越後諸藩を結束しようとした「酒屋会議」にも参加せず、他藩とは一線を画していた。越後では唯一最初から新政府軍の一員として参加し、各地の戦いでは重要な役割を担った。 参謀山県も「高田兵の奮戦は余の感嘆に堪へざりし所にして、其台場外に突出し抜刀にて戦陣に切り込みたるが如き、去る14日に一支えも為さずして砲台を捨て去りたる兵隊とは全く別物の如く思はれけり。蓋し、先日の恥辱を洗雪せんとする念は彼らをして斯くの如く勇敢ならしめたらん。此日高田兵の死傷したるもの、実に三十余人の多きに及びしとなり」と、高田藩の戦いぶりを大方で認めており、新政府軍の越後における勝利は、高田藩を味方につけたことが大きな要因になっていた。 7月9日、奥羽征討総督仁和寺宮が参謀壬生基修と薩摩・加賀の兵を引き連れ直江津港に到着し、高田藩では藩主榊原政敬自ら海岸まで出迎え、守衛として一小隊を出した。10日午後五時に高田に入り森繁右衛門別邸(現高田まちかど交流館※地図)に泊まった。 14日朝、仁和寺宮は陣を整えて(徴兵五番隊を前軍に、同十二番隊を中軍に。御親兵を後軍に備えた。)総督府本営を柏崎に移した。 高田藩兵は越後平定が終わると、引き続き会津征討に向かった。9月22日会津藩が降伏しようやく高田藩の戦争が終わった。 高田藩家老中根貞和は軍務局判事として、若松城受取の任に当たった。藩兵は守備のため4小隊を残して、他は帰藩し10月凱旋した。 高田藩では、藩兵760人が越後・奥州戦争のための従軍したが内70余人が戦死した。北越戦争で高田藩は先鋒として多くの人、物、金を供出し消耗した。戦死者の中には、7月29日、筒場村(長岡北方)で戦死した大隊長の榊原若狭がいる。 戊辰戦役の戦功として、高田藩は賞禄永世一万石を与えられた。 榊原若狭家は、高田藩主榊原家の初代康政の兄清政を祖とする家系であり、3400石を与えられ、藩主家の一門として、家老より上席の家臣として仕えた。戊辰戦争に於いて、若狭隊は新政府軍の一隊として、進軍し、慶応4年4月6日に大嶋口より出陣し千手を通り、雪峠の戦いで衝鋒隊を撃破し小千谷に進駐し、長岡城攻めに参戦した。
長岡城を河井継之助の奇襲作戦によって奪われた新政府軍は、7月29日、小千谷方面からの部隊と関原(信濃川西岸)からの部隊と栃尾方面からの部隊によって長岡城を包囲するように攻撃を開始した。 若狭隊は関原方面軍に配属され、信濃川を渡河して西方より長岡の攻撃をおこなった。榊原若狭大隊は同盟軍に察知されず渡河に成功し、東岸の蔵王・中島方面に布陣する長岡藩兵や下条方面に布陣する米沢藩兵を駆逐した。 敗退する同盟軍に対し、新政府軍側は追撃に移ったが、戦線は各所で混戦状況となり、新政府軍側も各方面軍が入り乱れ戦闘が行われた。このような混戦状態の中、御親兵隊と協力して追撃戦をおこなった大隊長の榊原若狭は、米沢藩の本営が置かれた押切に向かったが、八丁沖付近の筒場村(※地図)で討たれ戦死した。享年25歳。 (墓所) 榊原若狭長貴(25歳) 金谷山官軍墓地 戦没者将士之墓
もう一つの戊辰戦争神木隊徳川家創立以来の世臣だった榊原家で、江戸や奥州にいた武士たちは、旧幕府軍に投じて官軍と戦った。江戸の藩邸にいた者はかねてから佐幕の熱意に燃え、藩の方針に従わず慶応4年2月彰義隊が上野の山にたてこもると藩士86人は遂に脱藩し、酒井良佐・渡辺千之助を首領として神木隊を組織し、上野の彰義隊に投じた。神木隊の名は「榊」を二字に分けたのである。 隊長の酒井良佐の祖父酒井良佑は直新陰流免許皆伝で、江戸で道場を開いていたが、良佐も剣術の腕が立ったといわれる。 慶応4年(1868)5月15日、神木隊は浩気隊(若狭藩)と共に穴稲荷門※地図 を守って岡山・柳河・尾張・佐土原の兵にあたって奮戦したが、敗れ17名の戦死者を出した。 隊長の酒井良良佐は激戦となった三枚橋(現在の永藤ビル周辺)※地図 で、薩摩藩桐野利秋の隊と戦い、敗れた後、隊士と共に覚成院に退いた。 (この上野戦争では、江戸新発田藩邸にとどまっていた新発田藩士たちは新政府軍に加勢した。此の事がのち越後国内での新発田藩の立場を有利にした。) 酒井は敗兵をまとめ、榎本武揚の軍に入って、函館に籠城し、翌2年(1869)5月に降伏、諸藩に預けられた後に旧藩へ引き渡され、国元で禁錮を申し付けられた。酒井はのち許されて高田に帰り、明治14年(1881)に死去した。 高田に戻った隊士は明治4年(1871),復職を許され元の禄の半分が支給された。 釜子陣屋奥州白河にあった高田藩領の陣屋が釜子にあった。高田藩15万石のうち本国に11万石、奥州に4万石であった。最後の奉行は吉田茂衛門であった。戊辰戦争時は、本国よりも会津藩の影響が大きく、藩士八木操利が31人を率いて会津方面に出兵した。 慶応4年6月25日、新政府軍が進撃してくると、攻撃を受ける前に、奉行自ら陣屋に火をかけ一切を焼き払った。八木操利を隊長として20人が若松城に籠城した。戦死者2名で、残り18名は会津落城後、猪苗代で謹慎が命ぜられ、後に高田に移され、閉門その他の刑を受けた。明治4年(1871),復職を許され元の禄が支給されている。 |
川浦代官所(川浦陣屋)跡 来迎時 官修高田墳墓地 極楽寺