高田城 Takada Castle Ruins 上越市



高田藩の戊辰戦争

現在の上越市高田地区は、慶長19年(1614)に、初代将軍徳川家康の六男松平忠輝がこの地に高田城を築くにあたって、新たに造営された計画都市である。

(松平忠輝)

文禄元年1月4日(1592年2月16日)〔生〕-天和3年7月3日(1683年8月24日)〔没〕

徳川家康の六男として江戸城で誕生した。徳川家康がまだ尾張にいた頃、鷹狩りの帰途百姓与五松の妻茶阿とその娘おはちを救う。そして茶阿は家康の風呂番を命ぜられたが、そのうちに家康の六子松平忠輝を産んで茶阿局に出世する。家康が忠輝と面会したのは、慶長3年(1598)のことであるが、家康は忠輝を嫌っていたと言われている。
茶阿と前夫との間の娘おはちは、その後忠輝の家老花井遠州吉成にめとられる。その間にできた娘は村上藩主村上忠勝の妻となる。
幼年で三川松平家(長沢松平ともいう)を継ぎ、武蔵深谷、下総佐倉、信濃川中島の城主を経て慶長15年(1610)18歳の時、改易された堀氏に代わって越後入りした。このとき川中島12万石と併合して合計75万石の太守に任じられた。大久保長安の仲介により、伊達政宗の長女・五郎八姫と結婚した。
家康が越後の地に忠輝を配したのは、北陸と江戸を結ぶ要地を固める意味で軍事上・政治上重要な戦略の一つだった。徳川家康は、佐渡奉行であった大久保長安に命じて、江戸や駿府に出府の際、高田城に寄り忠輝の様子を見させている。
元和元年(1615)大坂夏の陣の帰路の事、忠輝は、禁止の間道を通って戻った。そして森山で行列の前を横切り、無礼を働いたとして秀忠直属の旗本三人を切り捨てにした。また家康の病気見舞いに出府しなかったり、夏の陣では遅参により、さっぱり戦らしい戦をしなかったなど、幕府は様々な罪を数え上げ忠輝の行状を追求した。
元和2年(1616)4月16日、家康が死去した際には、駿府に駆け付けるも、面会は許されなかった。
そして、7月6日、忠輝は兄・秀忠から改易を命じられ、伊勢国朝熊に流罪とされた。元和4年(1618)には飛騨国高山に、寛永3年(1626)には信濃国諏訪に流された。そして天和3年(1683)7月3日、幽閉先である諏訪高島城(南の丸)にて死去した。

(高田に築城した要因)

忠輝が入城したのは、堀氏が慶長12年に関川戸保倉河河口近くに築いた福島城である。忠輝の所領は、越後一円と川中島を合わせて75万石と言われている。忠輝は、入封4年後に関川河口から13キロあまり南方の内陸部に新城を築くことにした。水陸交通の要衝に位置し、築城間もない福島城を捨て、高田平野に新城を築いたのはなぜか。早くから諸説があるが、いまだ定説はない。
最大の理由は、加賀前田氏への備えとして不十分と考えたことだろう。前田氏の藩祖利家は120万石を領する大大名で、豊臣家五大老の一人として,秀吉の死後、豊臣秀頼を補佐し、その子利長は、関が原の戦いでは徳川方についたが、謀反の風聞もあった。徳川氏としては北陸鎮護の要塞として高田に堅固な城を築く必要があったのであろう。また、佐渡支配の中継地強化の意味もあったろう。いずれにしても、権力交代を象徴して営まれた大事業で、旧城領域をフロント化・外港化し、内陸部の関川左岸に大規模な政庁を築いて、北陸と信濃・奥州への陸上交通を完璧に掌握しようとする、戦略目的の具体的な表れと考えなければならない。

(築城と高田町の町割)

企図は、家康・秀忠によって認可され、仙台城主の伊達正宗、金沢城主前田利光、奥州盛岡城主南部利直、若松城主蒲生忠郷、出羽山形城主最上家親、米沢城主上杉景勝、秋田城主佐竹義宣、信州小諸城主仙石秀久、上田城主真田信之、松本城主小笠原秀政、甲斐谷村城主鳥居成次、越後村上城主村上忠勝、新発田城主溝口宣勝の13大名にこの普請の助役を命じた。外堀まで含めると面積は60ヘクタール以上と大規模で、幕府の力の入れ具合が伝わってくる。
そして、普請の総指揮にあたったのが、ほかならぬ忠輝を娘婿とする伊達正宗。起工は3月15日である。

高田の地は、諸川が複雑に蛇行する反乱源で2,3の村落があるばかり、特に居城の場所は「菩提が原」と呼ばれ、寂寞としたところだったと言われている。

まず、河川を改修し、城郭を城下町にふさわしい構えを造った。東に回した関川を背後の要害として、旧河川敷を利用し、新たに開墾して何重もの堀をめぐらし、土塁を築き、あまたの建造物を建てた。
城郭は本丸の周りに二の丸、南に三の丸、瓢箪曲輪、その間に内堀、濁堀を配置し、石垣はなく、土塁で囲まれ固められている。また本丸に天守閣は造られず、御殿と三重櫓があった。おそらくは豊臣家との決戦を間近に控え、完成を急いだためといわれている。
築城の際の難工事は河川の流路変更であった。関川・矢代川・青田川・儀明川を付け替え、今の外堀は関川が大きく蛇行した部分を利用している。関川の流路を直進に切り替え、東部の要害として利用した。
こうして城下町は城の南・西・北側に造られた。城下へ入る街道は加賀街道・奥州街道・信州街道の三つである。街道が城下を通るように関川の橋を付け替えて街道を迂回させた。
侍町と町人町の境界はほぼ青田川であり、その内側には土塁が築かれた。城下町の街路は三つの主要街道を中心に防御的に造られ、T字・L字・鍵型・食い違い十字路など、見通しがきかないように屈曲させている。
侍町は城に近い大手に上級武士、その周りに中級武士で、青田川沿いに下級の足軽長屋を配置している。

町人町は商人町と職人町に分けられた。商人町は主に信州街道と奥州街道に沿っている。
天馬人足や旅籠・茶町・呉服町・紺屋町・材木町・鍋屋町・鍛冶屋町や、中心部には塩・紙・木綿などの問屋・大店が並んだ。
職人町は信州街道を東西に挟む街路で、東側を「職人町」といい。鞘師・柄巻師などの武具、桧物師・木工など木工関係。西側を「田端通り」と呼び、魚屋・髷師・桶屋・木挽・大工などを置き、町座制の下に集住させたのである。そして町人町のさらに西側の防備の手薄な地区に南北に二列の寺町を配置した。
町人町には、福島城下から小町・紺屋町・田端町・春日町・直江町・善光寺町・長門町・中屋敷町・寺町などが移された。高田城下町の中心部はほとんど福島城下の町を移転して建設された。
助役諸侯のうち、会津若松城主蒲生家関係の記録に「一日役銭1万人宛」とあり、一日に一万人の人夫や職工がこの普請に動員されて入たことがわかる。全体では少なくとも十数万人が連日昼夜を分かたず普請にあっていたと考えられる。
完工は7月上旬。勿論、都市としては荒削りであったろうが、約4ヶ月でこの事業が成し遂げられた。
昼夜兼行の”突貫工事”によって、7月5日には江戸と駿府から派遣されていた奉行たちが帰途につき、8月20日までに諸藩の人足もあい前後して帰郷した。13家の諸大名は藩の威信・存亡をかけて、すさまじい精力をこの普請に注ぎ込んでいたものと考えられる。
この頃、幕府の命令による大規模な普請が集中していた。例えば「名古屋城」、「二条城」「江戸城」などの普請が前後している。

高田城の三重櫓は平成5年(1993)に、極楽橋も同14年(2002)に復元された。町人町には、今でも住宅・店舗として使用され、飴屋、桶屋、染物屋などが残され、いくつかは重要文化財として保護されている。(高田城下略図) (高田城案内図)

≪高田城被災の歴史≫
・寛文5年12月27日(新暦1666年2月1日) - 高田大地震。高田城をはじめ武家屋敷700余戸,町家の大半が倒壊。
・享和2年3月4日(新暦1802年4月6日) - 高田城郭,全焼する
・明治3年11月26日(新暦1871年1月18日)- 高田藩政庁(高田城本丸御殿、三重櫓など)を焼失する

高田城は8家18代の城主が交替し、明治に入るまで257年存続した。稲葉家から榊原家までは、徳川家による全国支配に功績のあった家柄ではあるが、旧所領で問題を起こしたり、将軍に疎んじられて移封された。雪深く、天候も寒冷な高田が謹慎の場所としてあてがわれ、時期が過ぎれば他に転封された。
旧陸軍第13師団が入城すると建物は壊され、多くの土塁が切り崩されたが、今でも城の基本的な形状は留めている。
本丸南西隅に建つ三重櫓は、1870(明治3)年に火災のため焼失。現在の三重櫓は、1993(平成5)年に再建されたものである。(案内図)

高田城三重櫓

高田藩史

江戸時代初期は加賀藩前田家を抑えるための要地として、幕府はこれを重要視し親藩である大名を入封させた。しかし、稲葉氏以降は、幕府内の権力争いに敗れたり、その行状が将軍に嫌われた譜代大名の左遷地として利用された。榊原家は幕府内で特に大きな功績もなかったことから転封を免れたといわれる。左遷された大名は、冬の雪の多さに辟易して、何とか功績をあげ、移封を願っていたという。戸田忠真などは、雪の降らない宇都宮に決まると大喜びしたという。

長沢松平家 親藩、75万石

慶長15年(1610)徳川家康の6男松平忠輝が川中島から福島城主となる
堀氏の改易後には、家康の六男・松平忠輝が従来の川中島藩12万石に加え、越後の新領である63万石を領する75万石の太守として封じられた。松平忠輝は慶長19年(1614)に高田城を築城し、福嶋城を廃してこれに移った(厳密な意味ではこれ以降が高田藩である)。実際の藩政は慶長18年(1613)までは附家老の大久保長安が統括した。
元和2年(1616)7月6日、将軍秀忠の命により忠輝は改易および伊勢朝熊に配流となった。

酒井家 譜代、10万石

元和2年(1616)10月、松平忠輝が改易となり、伊勢の朝熊に流され、酒井家次が高崎から高田に入封する。家次は徳川四天王筆頭であった酒井忠次の嫡男。高田入部から2年足らずの元和4年(1618)3月に死去する。
元和4年(1618)3月、2代目酒井忠勝が信州松代に移封となる。

福井松平家 親藩、25万9000石

元和5年(1619)松平伊予守忠昌が川中島から高田に入封する。忠昌は結城秀康(家康の次男で忠輝の異母兄)の次男である。
寛永元年(1624)、越前福井藩を継いでいた長兄の松平忠直が不行跡を理由に改易されたため、幕命により忠昌は兄の跡を受けて宗家を継ぐこととなり、福井藩主となる。

越後松平家 親藩、26万石

寛永元年(1624)松平忠昌が北庄に転封となり、忠直の嫡男仙千代(のちの松平光長)が26万石を与えられて北庄から高田に入封する。
寛文5年(1665)寛文の大地震が発生する。高田城も城下町も壊滅し、本丸が崩れ、家中男女合わせて120名が死亡、2人の家老が死亡した。この後、藩政は復興事業に辣腕を振るった小栗美作一人が掌握するところとなった。
延宝7年(1679)越後騒動が起こる。
延宝9年(1681)将軍綱吉が越後騒動を親裁し、松平光長は改易され伊予へお預けとなり城地は幕府領となる。(☛ 越後騒動)

幕府領

延宝9年(1681)7月から高田は幕府領とされ、信濃などの諸大名が2家が組んで1年交代で城番を勤めた
これらの在番大名はあくまで1年限りの預かり当番であり、責任ある政治が勤まるわけもなく、高田は荒廃して治安が乱れ、放火や強盗も相次いだ。

稲葉家 譜代、10万3000石

貞享2年(1685) 、 幕府の要職を罷免された稲葉正往(正通)が10万3000石で移封され高田藩が再び立藩する。荒廃した高田の城下町を再建に努める。
元禄14年(1701)6月、稲葉正往が幕政に復権し、老中就任を経て下総佐倉藩に転封となる。

戸田家 譜代、6万8000石

元禄14年(1701)、佐倉藩主戸田忠真が入封。江戸城中で勅旨御馳走役浅野長矩が高家吉良義央に斬りつける事件があった際、急遽御馳走役の代役を担当したが、将軍綱吉の不興を買って、越後高田に懲罰的な移封となった。
宝永7年(1710)、戸田忠真が宇都宮に転封となる。

久松松平家 譜代、11万3000石

宝永7年(1710)、伊勢桑名藩主の久松松平家の松平定重が、野村騒動の処理が苛烈過ぎると幕府の不興を買って転封。
享保7年(1722) 松平定輝が3代目藩主の時、幕領内で質地騒動が起こると、藩兵を差し向けて鎮圧。首謀者多数が処刑される。久松松平家は高田藩政でも厳しい統治を行った。寛保元年(1741)、松平定賢が5代目藩主の時、伊勢から更に遠い陸奥白河藩へ転封となる。実質的な左遷であった。この時、柏崎周辺6万石ほどが松平家の支配地とされ、白河藩領となる。松平家が伊勢桑名藩に復帰した時以降は桑名藩領となっている。(☛ 頸城質地騒動)

榊原家 譜代、15万石

寛保元年(1741)11月、播磨姫路藩の第3代藩主であった榊原政岑は、その行状が幕府の不興を買い強制隠居させられた。その子政純が高田藩主として入封。榊原政岑は以後心を入れ替え、幼君政純の後見人として藩政の改革に努めた。
その後、榊原家6代の支配を経て明治維新を迎える。











高田城三重櫓   地図 ストリートビュー










高田城百万人観桜会 まで
















高田城址公園