越後騒動 上越市
🔗上越の恩人・小栗美作守正矩 高田藩主松平光長は徳川秀忠の孫にあたり、越後中将家と呼ばれた。石高25万9,000石で御三家と並ぶ名門ながら、嗣子綱賢が延宝2年(1674)、42歳で病死すると、後継ぎ問題で越後騒動が起こった。 (騒動の原因)①美作は主席家老として藩内で積極的に諸事業を進めたが、そのための費用で藩財政が悪化していた。悪化した藩財政の建て直しのために、有能な下級武士を抜擢したり、寛文五年の大地震後藩の経済を救うという名目で、藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めるなど改革をすすめたが、蔵米制の採用は多くの藩士の収入の減少につながった。その手法と改革を進める美作の独断専横的な態度や、美作自身の贅沢好きに反感を抱く家臣も多かった。 ②延宝2年(1674)に藩主光長の嫡子綱賢が病死した。逝去した綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかっため急ぎ世継を定めねばならなくなった。候補者に(1)光長の異母弟の氷見大蔵長良、(2)寛文7年(1667)8月26日に38歳で死去した氷見市正長頼の遺子万徳丸、(3)尾張大納言光友の次男の松平左近少将義行、(4)美作の二男掃部(長男右衛門は4歳で死亡)などが挙げられていた。氷見市正と大蔵とは、忠直の妾腹の子で小栗美作の妻のお勘はその妹であった。 家老小栗美作守は万徳丸を推挙した。重臣会議の結果、光長の異母弟永見長良(通称 大蔵)が50歳を過ぎ高齢であることから、小栗が推す万徳丸に決し幕府もこれを認めた。万徳丸は翌年の11月23日に元服して、将軍家綱の一字をうけて三河守綱国と名を改めた。 万徳丸の母は、市正の正妻ではなく、下級武士の娘であった。永見大蔵がこの決定に不満をもった。 ③蔵米制の採用により、藩庫は少し潤ったが、実状は藩主が常に江戸にとどまって贅沢な生活をしたり、美作の開発事業費の支出などによって、藩庫の蓄財は底をついていた。美作は京都および堺から呼び寄せた町人を役人に取り立て、みずから大元締の収納司となって藩の財政の立て直しをはかった。また、城下の大商人から御用金をとったり、小前の家からは、かまどがかりと称する少額な取り立てを行い、城下市場の商人から冥加金をとり。婚礼や養子などいろいろなものにに「税金」と名付けて取り立てをおこなった。 光長に気に入られて、大横目に抜擢されていた渡辺九十郎などは、美作の独断専横の執政を批判し、税金に苦しむ領民の困窮を美作の失政であるとして、美作にとって代わろうという野心を持った。 (騒動の発生)反美作派は、美作がその子大六を世継ぎにしようとしているうわさもあって、みずからをお為方と称し、美作派を逆意方と称し美作を除く計画を立てた。逆意方と目される者は美作をはじめとして妹婿の本多監物・渥美久兵衛・小須賀藤平衛・林内蔵助・安藤治左衛門・野本右近など130余人であった。お為方は氷見大蔵を首領として、荻田主馬・岡島壱岐・渡辺九十郎・本多七左衛門・中根長左衛門・片山外記・多賀谷内記などをはじめ秀康以来の譜代の家臣890名といわれた。延宝7年(1679)1月9日、血気にはやる若者たち530余人が武装して美作の門外に押しかけ「越後騒動」は表面化した。 光長は美作に藩政を任せていたが、対立を収めようと、美作に対し隠居を命じた。お為方の片山主水が代わって政治をとった。争いは、ついに幕府でも知るところとなり、光長は片山外気、渡辺九十郎を使者として幕府にこれを報告し、幕府では大老の酒井雅楽頭が大目付渡辺綱貞に調べさせ、穏便にすますべしと覚書として指示し、この事件は一応落着したかに見えた。 しかし、渡辺九十郎らが氷見大蔵をひそかにそそのかし、覚書は美作の偽作であると宣伝したので、4月18日から再び騒動が起こった。 覚書を無視された形となって、幕府は9月19日、大老酒井忠清は双方を評定所に呼び出し裁定の結果、美作側の言い分が通り、事件が一時落着した。将軍上意が示され、「雑説を流布し家中の人心をまどわせた罪」で、お為方を処分するに至った。 大蔵は長門の毛利広綱に、主馬は出雲の松平綱近に、片山外記は伊予伊達利宗に、渡辺九十郎は播磨松平直矩に預けられた。他方美作方には何のお咎めもなかった。そればかりか美作の子掃部が延宝8年(1680)2月15日、将軍の謁見を許され、元服して名を大六と改めるという片手落ちで騒動は収まらなかった。 (将軍綱吉の親裁)こうした時、延宝8年(1680)5月8日、家綱が病死し弟の綱吉(35歳)が館林からはいって将軍となった。公儀評定で、将軍上意が示されたにもかかわらず、不満を持ちこれに従わないのは、先の将軍家綱時代に大老酒井忠清が専横をほしいままにし、幕府の体制が緩み切ったからだと綱吉は考え、幕府の権威を失墜させたとして延宝8年(1680)12月9日に大老酒井を更迭した。 これを好機ととらへ、永見大蔵一派は先に出された将軍上意に不満を持ち、裁定を覆そうと堀田正俊に働きかけて、ついに将軍再審査の許可を得た。 大老酒井の更迭理由は、表向きは病気療養のためとなっているが諸説ある。家綱が亡くなった後、朝廷から有栖川宮を将軍として招き、鎌倉幕府のように執権制度を敷こうとしていたが、堀田正俊が推す徳川綱吉が徳川光圀の後ろ盾を得て将軍職となったことで沙汰止みとなった事も理由の一つとみられる。この時松平光長は、妹婿好仁親王の末である有栖川宮幸仁親王を招こうとしていた大老酒井に同調していたという。 将軍上意を徹底させるためには、高田藩に対して厳しく対処しなければならなかった。通常お家騒動を、将軍が直々に裁くという前例はなかった。綱吉がこの事件を利用して将軍の親裁によって幕府の権威を世に示そうと、いかに力が入っていたのかがわかる。 再審査は12月から始められ、まず小栗美作らを呼び寄せ、次いで氷見大蔵を呼んで取り調べ、翌延宝9年(1681)1月17日から予審に入り、裁判は6月21日辰の刻に千代田城で綱吉の親裁によって開かれた。 天和元年(1681)6月21日、騒動関係者一同は江戸城大広間で、五代将軍綱吉が直接取調べ、翌22日親裁が下った。 小栗美作守と子の大六は切腹、永見大蔵と家老荻田主馬(本繁)は八丈島へ、与力大将の岡島壱岐と本多七左衛門は三宅島へそれぞれ流刑、その他は他家へお預け、または追放という厳しい処分であった。 高田藩家臣団は両成敗、光長は騒動を起こした罪で高田城を没収され松山藩へ、万徳丸は福山藩へお預けとなった。 美作は同日、越前松平綱昌邸の屋敷で切腹し、「五十余年の夢 覚め来たって一元に帰す 截断す離弦の時 清響、乾坤を包む」の辞世の句を残した。大六は岡山藩主池田綱政の屋敷で切腹した。18歳であった。 6月26日、光長(67歳)は井伊直該の邸で、家国を鎮御することができず騒動を起こしたという理由で、「城地を取り上げ、伊予松平定直にあずけ合力米(ほどこし米)として1万俵を与える」旨の宣告を受けた。同日、綱国も酒井忠直の邸で、備後福山(広島県)水野勝種にあずけ、合力米3千俵を支給する旨の宣告があった。 6月27日、騒動の余波は越後騒動に関係した幕府の役人にも及び、中でも大目付渡辺綱貞、相馬権五郎は「この事件に関し審議よろしからず」との罪により八丈島流刑を言い渡された。 光長の従弟、松平直矩、同上近栄は閉門を命じられた。元和2年(1682)2月10日に直矩は封地15万石のうち、8万石を削られて姫路から豊後の日田(大分県)に移された。近栄は3万石のうち1万5千石を削られたが出雲の広瀬(島根県)に留まることができた。 綱吉親裁前の5月19日に死去していた前大老酒井忠清に対しては、大目付彦坂九兵衛・目付北条新蔵が出張して自殺か否かを検視するという過酷な措置がとられた。 元和2年(1682)4月27日、幕府は諸大名に対し「越後家お仕置きの事」を告げ、前後3年にわたった越後騒動は終わりを告げた。 将軍綱吉は、自分の将軍職就任に異を唱えた大老酒井と光長をこの騒動を利用することで葬り去り、幕府内における酒井の影響力を排除することができた。 (世評)この騒動の中心人物小栗美作守は1万7000石を領する藩の上席家老であったが、講談本はもとより、正史、研究書においても美作は、極悪非道、越後騒動の張本人として紹介されている。政治家としての手腕は優秀であったが、敵を作りやすい、欠陥の多い人物であったという。 しかしその施策には見るべきものが多い。寛文5年(1665)の高田地震後の被災者の救援と城下町の復興、26kmにわたる中江用水の開削、大潟新田の開発、直江津港の改築、大鹿たばこの栽培、上田銀山の開発など。高田藩の最も栄えた時代を作った。現在でも開発の先達者として敬愛されている。 江戸時代にも、次のような狂歌が詠まれている
松平光長夫人土佐と光長の子綱賢の墓が林泉寺(中門前)に、小栗美作守の墓が善導寺(寺町2)に、永見市正長頼の墓が善行寺(寺町3)にある。小栗美作守の住居は、大手町の高田公園館の位置にあった。 ≪関連人物のその後≫
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