越後騒動と小栗美作守 小栗美作守は悪人だったか



高田藩主松平光長は越後中将家と呼ばれ、御三家と並ぶ名門ながら、嗣子綱賢が延宝2年(1674)、42歳で病死すると、後継ぎ問題で越後騒動が起こった。
綱賢には子がなく、光長には他に男子がなかっため急ぎ世継を定めねばならなくなった。
家老小栗美作守は光長の弟永見市正長頼の子万徳丸を推挙した。重臣会議の結果、小栗が推す万徳丸に決し幕府もこれを認めた。一方、養子候補の一人であった光長の異母弟永見長良がこれに不満をもった。
藩財政のの建て直しなどのために、有能な下級武士を抜擢するするなど、改革をすすめる美作の正治手法に反感を抱く家臣も多かった。
氷見大蔵は、家老の荻田主馬ら役900名の小栗に反感を持つ人々を誘い小栗失脚を企て延宝七年一月九日、大挙武装して小栗家を襲撃したことから「越後騒動」は表面化した。永見大蔵方を「お為の方」、小栗美作守方を「逆意の方」と称した。このときは幕府の大老酒井忠清が穏便におさめようとして大事には至らなかった。四月に入り再び対立が激化。騒動を知った幕府は九月、永見らを他藩預けとした。

やがて綱吉が将軍に就任。事件を裁断した大老酒井忠清が失脚すると永見は綱吉に再審を働きかけ、自由の身となった。しかし、天和元年(1681)6月21日、騒動関係者一同は江戸城大広間で、五大将軍綱吉から取調べを受け、翌22日親裁が下った。小栗美作守と子の大六は切腹、永見大蔵と家老荻田主馬は八丈島へ、与力大将の岡島壱岐と本多七左衛門は三宅島へそれぞれ流刑、その他は他家へお預け、または追放という厳しい処分であった。光長は騒動を起こした罪で高田城を没収され松山藩へ、万徳丸は福山藩へお預けとなった。

この騒動の中心人物小栗美作守は極悪非道の悪臣と言われてきたが、その施策には見るべきものが多い。寛文5年(1665)の高田地震後の被災者の救援と城下町の復興、中江用水の開削、大潟新田の開発、直江津港の改築、大鹿たばこの栽培など。上越地方の基礎を築いた人物といえる。

江戸時代にも、次のような狂歌が詠まれている

御為というのは身為か、片目方、
潰して悔やむ氷見大蔵

氷見大蔵は隻眼で合ったので「お為方」を「片目方」と呼び、お家のためと言っているが実は自分の野心のためではなかったかと詠んでいる。

松平光長夫人土佐と光長の子綱賢の墓が林泉寺(中門前)に、小栗美作守の墓が善導寺(寺町二)に、永見市正長頼の墓が善行寺(寺町三)にある。小栗美作守の住居は、大手町の高田公園館の位置にあった。

(にいがた歴史紀行)

小栗美作守正矩
〔誕生〕1626(寛永3)年
〔死亡〕1681(延宝9)年6月22日 56歳 切腹により死亡
〔墓所〕新潟県上越市寺町 善導寺
〔記念碑〕
  • 小栗美作の住居跡の碑
     〔所在地〕 上越市大手町8−8
〔小栗美作を紹介しているサイト〕


《小栗美作の功績》
  • 中江用水の開削
    中江用水は延宝4年(1676)に完成した、源を野尻湖池尻川に発し総延長26㎞にも及ぶ用水路。周辺のおよそ100ヶ村もの村々が利益を受けた。
    美作は、各地の新田開発を行い、数万石の増収を図り、表高26万石が内高で40万石近い裕福な高田藩を作りあげた。


  • ①善導寺
  • ②小栗美作の住居跡の碑





【中江用水】 From YouTube ※左上隅をクリックすると再生リストが表示されます








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