小栗美作 上越市
☆上越の恩人・小栗美作守正矩☆〔生〕1626(寛永3)年 〔没〕1681(延宝9)年6月22日 56歳 切腹により死亡江戸前期の越後国高田藩(新潟県上越市)家老。寛永3年(1626)高田藩家老小栗五郎左衛門(正重)の長男として生まれた。名は正矩、美作守に任ぜられ美作が通称となる。 美作の曾祖父大六重国は家康に重んじられた旗本で、結城秀康の補佐役に任じられた。その子(美作の祖父)重勝は当初、江戸で徳川秀忠に仕えていたが、父が結城で死去した後に子正重(美作の父)とともに秀康に出仕する。福井藩松平忠直改易後、松平光長の高田立藩に際し高田藩に出仕し、重勝は高田城代を務める。 美作の父、正重もまた名臣の聞こえが高く、光長の後見となり1万6千石となり、権勢はほかに並ぶものがなかった。 寛文3年(1663)正月17日に美作は藩主光長の腹違いの妹にあたる於勘を妻に迎えた。 (高田地震)寛文高田地震が寛文5年12月27日(1666年2月1日)申の下刻(16~17時)に発生した。震源は直江津沖、マグニチュードは6.75程度と推定されている。地震発生時、約4.5mほど積雪していた。高田城を始め城下町の被害は大きく、本丸の角櫓2つと土居約50間、二の丸の城代屋敷、三の丸の蔀土居約40間、大手一ノ門、三の丸屋敷、その他の建物、武士の家700余戸それに町屋の大半が倒壊した。その上2人の家老をはじめ家臣35人、その家族奉公人男女120余人、それに多数の町人の圧死、焼死、負傷者が出、全体の死者は1,400~1,500人に達した。約4mの積雪に加え、夕食時であったため、火事がおこり被害を一層大きくした。 死傷者の中には、父小栗五郎左衛門正重と次席家老の荻田隼人がいた。この当時39歳であった小栗美作守正矩は、圧死した父小栗五郎左衛門正重の跡を継いで筆頭家老となり、家禄1万7000石を譲り受け、藩政の実権を握った。 美作は寛文6年(1666)3月13日、5万両を幕府から借り受けその半分を城下町の復興に使い、残りは被害を受けた町民に貸し与え、途方に暮れた町民を救うことによって、再建を早めた。この地震を契機として、美作は城下町を整備したが、この時の城下町の形態が現在の上越市高田地区の市街を形成した。 (美作の藩政改革)この大地震は藩の財政に大きな影響を与え、藩政の窮乏化が一層進んだ。藩主の松平光長は徳川家康につながる家柄で、江戸にあっては将軍家はもとより諸大名や寺社などと親交を結ぶため、多額の費用を使っていた。光長の関心は主に江戸での生活に向いており、地元の藩政は家老たちが支えていた。武士が都市で消費生活を送ることによって、貨幣経済の影響を受け藩政はすでに窮乏していた。藩財政を改善するため、美作の父五郎左衛門正重は、北部地区の新田開発に積極的に力を入れ、収入の増加を図っていた。 家老職を引き継いだ美作も、藩の収入増加をはかるため新田開発に藩費を投入して積極手に推し進めていった。 江戸の殖産家河村瑞賢を招き、その指導の下、父の時代から継続していた北部に広がる大瀁郷(おおぶけごう)の湿地帯を新田に変える開発を延宝6年(1678)40年ぶりに完成させた。これにより、新たに1万6456石の水田を産み出した。 また東部地域の田を灌漑するための中江用水を掘り進める工事を、藩費を投じて延宝2年(1674)から着工し、延宝6年(1678)に完了させている。 小栗美作は藩の職制改革を行い、軽輩の藩士や町人からも才能あるものを抜擢して役職に就けた。そのため、藩の政治から遠ざけられる藩士が出てきて、美作の指導体制が強化される一方で、反感を持つ一派ができる要因となった。 藩士の禄を地方知行制から蔵米制に改めることによって、藩士の収入源となっていた小役銀・足役銀を藩に直接収めさせることとした。また新田の検知を行い、年貢の収納にあたり不正がないよう厳しく監視した。 そのほかさまざまな改革をおこなった。例えば、藩境には口留番所を新設し、米・大豆などの出入りを取り締まる。領内各地での酒造を許可制にして酒株運上(税金)を課した。青苧・白布・蝋漆についての増税。木材の伐りだしに伴う藩有林「御林」の新設や植林を命ずる。特産品(大鹿たばこ)の振興。 一方で経済の発展を支えるインフラを整備した。直江津港の改修し、関川の浚渫を行うことによって、河川舟運を発展させた。北国街道の宿駅や諸制度が完成した。 寛文6年(1666)から延宝6年(1681)までの間、小栗美作の執政15年間に、さまざまな改革を行った結果、高田藩の最盛期を現出した。藩の表高26万石が内高36万石になったのはその才腕によるところが大きい。しかし蔵米制への移行は、小役銀・足役銀を取り上げられるなど、多くの藩士にとっては減収となったことで小栗が怨まれた。 美作の政策の実施には辛辣で強引な面があったことから、他の重臣に反感を持たれ、家老で清崎城代荻田本繁(荻田主馬)(知行1万5千石)を中心とする反小栗派を勢いづかせることとなった。また美作自身の贅沢好きで傲慢な性格からも悪い感情を持たれ、さらに藩主光長の異母妹お勘を妻にしたことも、のちに騒動の原因のひとつとなった。 (美作の最後)藩主松平光長の継嗣問題が絡んでお家騒動(越後騒動)が起き,天和元(1681)年6月21日辰の刻将軍徳川綱吉の親裁が行われた。翌22日、評定所で判決が下され、お為方、逆意方両成敗となった。美作(56歳)は即日松平越前守綱昌邸で、大六(18歳)は岡山藩主松平剛政邸で切腹した。 美作の辞世 「五十余年夢、覚来帰一元、 戴前離弦時、 清響包乾坤」が残されている。 しかし美作は、まさに上越地方振興の偉大な先駆者であり、現在でも上越地方では、開発の先達者として敬愛されている。 🔙戻る
❏〔墓所〕新潟県上越市寺町 善導寺
※墓石は1911年(明治44)中江用水組合によって建立されたものである。 ❏〔ゆかりの施設〕
中江用水の開削高田平野東部の平地では、毎年のように水不足により多くの農民が苦しんでいた。1670年頃は特に大干ばつとなった。寛文12年(1672)今池村(上越市池)の久右衛門ほかの近隣の村々の大肝煎計12人は、費用を出し合い用水路を掘削することに決した。 工事は高野村(上越市板倉区高野)のあたりまで掘り進めたところで費用がつき、大肝煎らは、藩に対して工事継続を願い出た。 新田開発を積極的に推し進めていた家老の小栗美作は、米の収穫の増加が見込めることから、先頭に立ってこの工事を進めることとした。 小栗美作は江戸から殖産家河村瑞賢を呼び寄せた。瑞賢を伴って現地を調べ、関川上流の妙高山の麓や、関川に合流する池尻川の水源の野尻湖を視察した。瑞賢は約3か月あまり高田藩に滞在し、多くの合理的な技術的助言を行ない、西条取水口からの導水計画を推進することを考え小栗美作に助言した。そして、延宝2年(1674)から普請奉行の長尾小右衛門の指揮のもと、野尻湖池尻川に発し関川の水を分けて、高田平野の東部を縦断する大工事が開始された。 関川の水を水上村西条地内(現妙高市西条)で堰き止め、関川の本流を用水江に取り入れ、有田村佐内(現上越市佐内町)で保倉川に注ぐ用水路で、水路の長さ26km、川幅7.2m、両岸の土堤3.6mずつ、計14.4mという当時越後第一の用水路であった。 高田平野には大熊川、小熊川、別所川、櫛池川、飯田川などの中小河川が関川に流れ込んでおり、それぞれの河川を掛樋(川や用水路を越えて水を引くための樋)によって横断する難事業であった。 藩費から2万両を支出し、水路完成した中江用水は122カ村、石高2万5619石余(諸説ある)の水田を灌漑するようになった。また完成後、用水の維持管理に藩では特別の保護を加えた。 最大の功労者である小栗美作をかたどったと言われているちょんまげ地蔵が上越市の宝寿院の境内に置かれている。 🔙戻る
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