小栗美作 上越市



上越の恩人・小栗美作守正矩

〔生〕1626(寛永3)年 〔没〕1681(延宝9)年6月22日 56歳 切腹により死亡

江戸前期、高田藩を未曾有の災害から立て直し、城下町の礎を築いた人物が小栗美作守正矩である。寛文高田地震からの復興、新田開発、中江用水の建設、直江津港の整備など、その功績は現在の上越市の原形を築いたと言っても過言ではない。一方で、強引な改革は多くの敵を生み、越後騒動の渦中で切腹という悲劇的な最期を迎えた。その生涯は、名君を支えた名臣の栄光と悲劇が交錯する物語だった。

徳川譜代の名門に生まれる

小栗美作守正矩(通称 美作)は寛永3年(1626)、高田藩家老・小栗五郎左衛門正重の嫡男として生まれた。小栗家は代々徳川家に仕えた名門で、その祖先は戦国末期から徳川家康に重用されていた。曾祖父の小栗大六重国は、家康から深い信任を受け、家康の次男・結城秀康の補佐役として越前へ赴任した。秀康は家康が最も期待した息子の一人であり、その補佐役に抜擢されたことは、小栗家への信頼の厚さを物語る。
祖父の重勝は当初江戸で二代将軍徳川秀忠に仕えたが、父の死後は越前へ戻り、結城家に仕え続けた。その後、福井藩主松平忠直が改易されると、忠直の弟・松平光長が高田藩二十五万石に移封され、小栗家も高田へ移った。
父の正重は卓越した政治手腕を発揮し、一万六千石という家臣としては破格の知行を与えられ、高田藩最大の実力者となった。正矩は幼い頃から父の背中を見て育ち、藩政の実務を学びながら成長していった。

光長の義弟となる

正矩は美作守に任じられ、美作の通称で呼ばれるようになる。寛文3年(1663)には藩主松平光長の異母妹・於勘を妻に迎えた。これは単なる婚姻ではなく、藩主一族との結び付きによって政治的地位を一層強固にする意味を持っていた。
しかし、この婚姻は後に越後騒動で反小栗派から「藩主一族を利用して権勢を振るった」と攻撃される材料にもなっていく。

雪四メートルの城下を襲った大地震

寛文5年12月27日(1666年2月1日)、高田を巨大地震が襲った。現在「寛文高田地震」と呼ばれるこの地震は、直江津沖を震源とするマグニチュード6.7~6.8程度と推定される。だが、この災害を恐ろしいものにした最大の要因は雪だった。当時の高田では積雪がおよそ四・五メートルにも達していた。屋根は雪に押し潰されそうになり、人々は夕食の支度をしていた午後四時過ぎ、大地が激しく揺れた。城では本丸角櫓二基が倒れ、土居は崩壊した。二の丸城代屋敷、大手門、武家屋敷七百戸余りが倒壊し、町屋もほとんど壊滅した。
さらに囲炉裏やかまどの火から大火が発生した。雪に閉ざされた道では逃げ場がなく、家屋の下敷きになった人々は火に包まれた。死者は一四〇〇~一五〇〇人に達し、日本史上でも屈指の雪害を伴う地震となった。この地震で筆頭家老だった父・小栗五郎左衛門正重も圧死した。三十九歳だった美作は突然、藩政の中心へ立つことになる。

悲しみを押し殺した決断

父を失った悲しみに浸る暇はなかった。城下は瓦礫に埋まり、人々は寒さと飢えに苦しんでいた。美作は即座に復興へ動く。まず幕府へ援助を求め、寛文6年3月、五万両という巨額の資金を借り受けることに成功した。その使い方が見事だった。半分は城や城下の復旧に充て、残りは町民へ貸し付けたのである。単なる施しではなく、「商売を再開するための資金」として貸し出したため、町の経済活動は驚くほど早く息を吹き返した。この発想は、現代で言えば災害復興融資にも似た政策だった。町人の中には「家も店も失ったが、美作様のおかげで商売を続けられた」と語り継ぐ家もあったという。

城下町をつくり直す

復旧だけでは終わらなかった。美作は災害を機に、高田の町そのものを作り替えた。火災が広がりにくい町割りを考え、道路を整備し、水路を見直し、屋敷配置を改めた。現在の上越市高田地区の町並みは、この時の整備が基礎になっている。雪国特有の生活も考慮された。広い道路は除雪や荷運びを助け、水路は排水だけでなく生活用水としても機能した。単なる復興ではなく、「災害に強い町づくり」を目指したのである。

財政再建への執念

地震で藩財政は破綻寸前だった。藩主松平光長は将軍家との交際や江戸での生活に多額の費用を使っていた。地方では貨幣経済が浸透し、武士の生活費も増え続けていた。美作は根本的な改革に踏み切る。父が進めていた新田開発をさらに拡大した。

河村瑞賢との大開発

美作最大の事業が大瀁郷の開発だった。現在の頸城区・大潟区一帯に広がる広大な湿地を水田へ変える壮大な計画である。そのため江戸屈指の土木技術者・河村瑞賢を招いた。瑞賢は東廻り航路・西廻り航路を整備した人物として知られる。二人は現地を歩き、水の流れを調べ、排水路を設計した。工事は泥との闘いだった。足を取られ、人夫が腰まで沈むことも珍しくなかった。
だが延宝6年(1678)、四十年越しの事業は完成した。新たに一万六千四百五十六石もの水田が誕生したのである。これは一つの村をいくつも作れるほどの規模だった。農民たちは「沼が黄金の田になった」と喜んだという。

中江用水という生命線

もう一つの大事業が中江用水だった。東部地域は水不足に悩まされていた。美作は藩費を惜しまず工事を命じた。延宝2年(1674)に着工し、四年後に完成した。この用水は今なお地域農業を支える重要な水路として受け継がれている。工事中には洪水で堤が流されることもあったが、美作は現場へ足を運び、「今日崩れても明日積み直せ」と人夫を励ましたと伝わる。

港と街道を整える

農業だけでは藩は豊かにならない。美作は物流にも目を向けた。直江津港を改修し、関川を浚渫して舟運を発達させた。これにより米や木材の輸送が効率化された。北国街道の宿場も整備し、人や物が集まりやすい仕組みを築いた。現在の直江津が港町として発展する基礎には、この頃の整備がある。

厳しすぎる改革

美作は有能な人材なら身分にこだわらず登用した。軽輩の武士や町人まで抜擢したため、古参家臣は強い不満を抱いた。さらに蔵米制への移行は反発を招く。地方知行を廃止し、小役銀や足役銀を藩へ直接納めさせた結果、多くの藩士は収入が減った。美作は不正も許さなかった。新田検地では役人が賄賂を受け取れば厳しく処罰した。酒造には許可制を導入し、酒株運上を徴収した。青苧・白布・蝋・漆にも課税した。御林制度を設け、無秩序な伐採を禁じた。今で言えば森林保護政策にも通じる取り組みだった。しかし厳格さは「冷酷」と映ることもあった。

贅沢好きという評判

美作には別の顔もあった。豪華な衣装を好み、屋敷の調度にも金をかけたという記録が残る。実際にどこまでが事実かは議論がある。反対派による誇張も含まれている可能性が高い。ただ、その華やかな振る舞いが敵を増やしたことは確かだった。「藩の金を締め付け、自分は贅沢をする。」そんな噂は瞬く間に広がった。

荻田本繁との対立

反小栗派の中心となったのが家老・荻田本繁(主馬)だった。知行一万五千石を持つ重臣である。小栗派と荻田派は人事や政策で激しく対立した。藩内では家臣同士が互いを監視するようになり、些細な失言まで報告される空気が生まれた。やがて藩主光長の後継問題まで絡み、この対立は藩全体を揺るがす越後騒動へ発展していく。

越後騒動の悲劇

天和元年(1681)、将軍徳川綱吉は越後騒動を親裁する。結果は驚くべきものだった。「お為方」「逆意方」双方とも処罰。勝者のいない裁定だった。美作は六月二十二日、松平綱昌邸で切腹を命じられる。嫡男・大六も十八歳で切腹した。藩主光長は改易。高田藩二十五万石は消滅した。十五年間かけて築いた改革は、一夜にして崩れ去った。

最期の辞世

美作は最期に漢詩を残した。
  • 五十余年夢 覚来帰一元 戴前離弦時 清響包乾坤
「五十余年は夢のようなもの。目覚めれば万物は一つへ帰る。放たれた矢のように、この響きは天地に満ちる。」執着を捨て、静かに死を受け入れた心境がうかがえる。

消えなかった功績

越後騒動後、小栗家は断絶した。しかし、美作の仕事までは消えなかった。中江用水は今も流れる。大瀁郷の田は実り続ける。高田の町割りは現在まで受け継がれる。直江津港は発展の基礎となった。後世の人々は次第に、小栗美作を「藩を滅ぼした家老」ではなく、「上越を築いた恩人」として語るようになる。

上越に残る美作の足跡

現在の上越市には、美作の業績を思い起こさせる場所が数多く残る。高田城址公園周辺には地震復興後の町割りの面影が残り、中江用水は地域の農業を支え続けている。大瀁郷では広大な水田が広がり、かつて湿地だったことを想像するのは難しいほどだ。直江津港も近世以来の港町として発展を続けている。地元では「上越の恩人」として紹介されることも多く、その評価は近代以降大きく見直された。

歴史が与えた評価

小栗美作守正矩は、災害復興、農業振興、港湾整備、交通網整備、財政改革という多方面にわたって藩を立て直した稀有な政治家だった。その一方で、改革は痛みを伴い、敵を増やした。優れた行政手腕を持ちながら、人心掌握では決して成功したとは言えない。その矛盾が越後騒動という悲劇につながった。
それでも、四メートルを超える雪の中で壊滅した城下を立て直し、その町並みを三百五十年以上後の現在まで残した功績は揺るがない。小栗美作守正矩は、高田藩最大の改革者であり、上越地方の礎を築いた先駆者として、その名を歴史に刻み続けている。


🔙戻る

没後 年が経過しました。



❏〔墓所〕
善導寺(上越市寺町)には、小栗美作守正矩を顕彰する墓碑が建つ。越後騒動で切腹したため当時の墓は残らず、現在の墓石は1911年(明治44)に中江用水組合が建立したもの。中江用水開削という大事業によって地域農業の発展に尽くした功績を後世へ伝えるために建てられ、今も上越の恩人をしのぶ顕彰の場となっている。

❏〔ゆかりの地〕
  • 🔶小栗美作の住居跡の碑
    小栗美作守正矩の住居跡は、高田城三の丸に置かれていた上屋敷の跡地で、筆頭家老として藩政を指揮した拠点だった。寛文高田地震後には、この屋敷を拠点に城下復興や藩政改革を進めたと伝わる。屋敷そのものは越後騒動後に姿を消したが、高田藩最大の実力者が十五年にわたり藩政を担った場所として、上越の歴史を語るゆかりの地となっている。
  • 🔶ちょんまげ地蔵
    上越市板倉区の宝寿院に伝わる地蔵尊で、小栗美作をしのぶ地域の信仰と結びついている。特徴は、頭部に武士の髷を思わせる形があることから「ちょんまげ地蔵」と呼ばれる点にある。中江用水の開削などを進め、頸城平野の農業発展に尽くした美作の功績を伝える存在として、地元では「悠久の恩人」として敬われてきた。用水によって水田を潤した美作への感謝が、地蔵という形で後世に受け継がれている。

❏〔小栗美作を紹介しているサイト〕




中江用水の開削

高田平野東部の平地では、毎年のように水不足により多くの農民が苦しんでいた。
1670年頃は特に大干ばつとなった。寛文12年(1672)今池村(上越市池)の久右衛門ほかの近隣の村々の大肝煎計12人は、費用を出し合い用水路を掘削することに決した。
工事は高野村(上越市板倉区高野)のあたりまで掘り進めたところで費用がつき、大肝煎らは、藩に対して工事継続を願い出た。
新田開発を積極的に推し進めていた家老の小栗美作は、米の収穫の増加が見込めることから、先頭に立ってこの工事を進めることとした。
小栗美作は江戸から殖産家河村瑞賢を呼び寄せた。瑞賢を伴って現地を調べ、関川上流の妙高山の麓や、関川に合流する池尻川の水源の野尻湖を視察した。瑞賢は約3か月あまり高田藩に滞在し、多くの合理的な技術的助言を行ない、西条取水口からの導水計画を推進することを考え小栗美作に助言した。そして、延宝2年(1674)から普請奉行の長尾小右衛門の指揮のもと、野尻湖池尻川に発する関川の水を分けて、高田平野の東部を縦断する大工事が延宝3年(1675)に開始された。
関川の水を水上村西条地内(現妙高市西条)で堰き止め、関川の本流を用水江に取り入れ、途中で重川を利用しながら左内古新田で保倉川に注ぐ用水路で、水路の長さ26km、川幅7.2m、両岸の土堤3.6mずつ、計14.4mという用水路で、高田平野には大熊川、小熊川、別所川、櫛池川、飯田川などの中小河川が関川に流れ込んでおり、それぞれの河川を掛樋(川や用水路を越えて水を引くための樋)によって横断する難事業であった。
藩費から2万両を支出し、遅くとも延宝6年(1678)には通水ができた。水路完成した中江用水は122カ村、石高2万5619石余(諸説ある)の水田を灌漑するようになった。完成後、用水の維持管理に藩では特別の保護を加え、小栗美作は、江回り役2人にそれぞれ二人扶持・給米4石を給し中江用水の維持管理に保護を加えた。また、年々の「御普請所」費用を頸城全部から負担させる「余荷制度」が明治6年(1873)まで採られていた。
貞享元年(1684)の「改帳」には、江口・樋口の寸法や堰の構造と共に村別用水高や立会村数が記されている。
開削当時の受益地域は122ヵ村・石高2万5千619石余、その内、別所川に掛かる福田掛樋から上流の無出金地域16ヶ村・918石余を除き、残り1万6430石余が用水組合を組織して用水路の維持管理に努めてきた。

最大の功労者である小栗美作をかたどったと言われているちょんまげ地蔵が上越市の宝寿院の境内に置かれている。





































※国土地理院地図利用


❏中江用水の掛樋
小栗美作が工事を完成させた当時、川の水の引水には、川の上に樋を渡す掛樋が使用されていた。 ❏西条取水口
❏左内古新田排水口


🔙戻る









⇒越後騒動













雪に咲く

雪に咲く

  • 作者:村木嵐
  • 出版社:PHP研究所
  • 発売日: 2018年01月

大名廃業

大名廃業

  • 作者:安藤 優一郎
  • 出版社:彩図社
  • 発売日: 2023年01月27日頃

川霧の巷

川霧の巷

  • 作者:浅黄斑
  • 出版社:二見書房
  • 発売日: 2013年06月

冥暗の辻

冥暗の辻

  • 作者:浅黄斑
  • 出版社:リヨン社
  • 発売日: 2007年11月

北前船、されど北前船

北前船、されど北前船

  • 作者:北国諒星
  • 出版社:北海道出版企画センター
  • 発売日: 2017年11月