清崎城跡 Kiyosaki Castle Ruins 糸魚川市



🔗荻田一族 🔗糸魚川藩

清崎城は 、現在の糸魚川市役所(一の宮1丁目地内)を中心とした箇所に所在していたことが、文献・絵図資料及び発掘調査資料によって分かっています。
慶長5年(1600)9月に関が原の合戦が行われたが、それに先行して徳川家康は上杉打倒の兵を挙げ会津に向かった。越後堀氏に対しても越後から会津に侵入し上杉氏を攻めるよう命じた。
会津の知将直江兼続は、これに対し、堀氏の統治に不満を持つ地侍や土着の豪族を誘って一揆をおこさせた。8月会津上杉氏は越後に侵入し、上杉遺民一揆を扇動したが、越後堀氏の一族や与力大名の溝口・村上氏が反撃し、徹底的にこれを制圧した。
堀秀治の一族で根知城主堀清重は、遺民一揆に備える戦略から、また糸魚川の地が北国街道と松本街道が合流する交通の要衝であり、上杉氏の時代にも城が置かれていたことから、慶長6年(1601)根知城を廃し、清崎城を築城した。
越後春日山城主堀忠俊が慶長12年(1607)、直江津に福島城を築城し越後福島藩を立藩したが、慶長15年(1610)、堀氏はお家騒動で改易となった。その後松平忠輝が高田城を新築し高田藩を立藩する中で、糸魚川清崎城には松平氏や稲場氏が入城又は勤番 などで支配を行なった。
高田城主松平光永の家老職 三代目荻田孫十郎荻田長繁 永禄5年(1562)〔生〕- 寛永18年11月4日(1641年12月8日)〔没〕上杉家に仕えていたが、景勝の不興をかい追放となる。越前松平秀康に仕官し、その孫松平光長が越後国高田藩を立藩した際、長繁は光長に仕えて越後に戻る事となった。が大阪夏の陣で功をあげ、寛永元年(1624)に糸魚川清崎城城代として入城した。しかし天和元年(1681)の高田藩の相続争い越後騒動により五代目荻田主馬本繁が八丈島に流罪とされ、城はとりこわしとなり二度と築城されずに終わった。
現市庁舎建築に伴う発掘調査が行われ、江戸末期に描かれた「清崎城絵図」と符合する遺構の一部が確認された。現在の糸魚川市役所を中心とした一帯が清崎城であったといわれ、清崎神社前のお堀がその名残といわれる。
≪清崎城の歴史≫
・慶長6年(1601) 根地城主堀清重が築城
・慶長15年(1610)松平忠輝の越後福島城移封に伴い重臣松平信直が城代として入城
・元和4年(1618)松平忠昌の高田城移封に伴い重臣稲葉正成が入城
・寛永元年(1624)松平光永の高田城移封に伴い家老荻田長繁が城代として入城
・天和元年(1681)高田城主松平光永が改易となり、荻田主馬本繁が流罪となったため廃城となる


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≪荻田一族≫


越後荻田氏の初代荻田孫十郎は近江から流れてきた浪人であり、能生谷小見村の龍光寺に身を寄せた。
初代孫十郎は越後守護代長尾為景に仕え、二代目荻田長繁は上杉謙信に仕え、天正6年(1578)に起った「御館の乱」では上杉景勝に味方し、景虎の重臣北条丹後守景広を討ち取り抜群の軍功ありとされ、いっきに上杉時代の糸魚川城城代に抜擢された。
文禄3年(1594)10月、時は豊臣秀吉の全盛のとき、上杉景勝が上杉屋敷に秀吉を招いて宴を催した。荻田長繁の子荻田孫市は秀吉に服薬のための白湯を献ずる役目をおおせつかったが、秀吉の目前で薬湯をこぼし、秀吉の権勢に水をさすとはとの怒りにふれ、父長繁とともに景勝によって追放された。しかし荻田氏の名声を耳にしていた越前松平忠直が荻田を迎え入れ、しかも1万石の禄をあたえた。
元和元年(1610)大坂夏の陣で長繁は子勝定とともに大坂城内に討ち入り、火を放つ武功をあげ、徳川秀忠から1万石、松平忠直から5千石の加禄、寛永元年(1624)には糸魚川城主にして、しかも高田藩の家老職も歴任した。
孫市の弟主馬勝定が三代目の家督を継いでいたが、寛永12年(1636)、父長繁に先駆けて病死。
四代目隼人長磐も寛文5年(1666)に発生した高田の大地震で城内で圧死。
五代目荻田主馬本繁は家老と城代を引き継ぎながらも高田城の「越後騒動」に巻き込まれ、徳川綱吉の親裁の結果八丈島に流罪。元禄14年(1701)島で病死した。
能生谷の中ほどに小見集落があり、小高いところに曹洞宗竜光寺がある。ここに荻田一族二代から四代の墓(五輪塔)が三基たつ。五代本繁の墓は八丈島にひっそりと立つ。
≪荻田一族の系譜≫

一代目 荻田孫十郎

二代目 荻田長繁 永禄5年(1562)〔生〕- 天文10年(1641)

荻田孫市 三代目 荻田主馬勝定 慶長3年(1598)〔生〕- 寛永12年(1635)〔没〕

四代目 荻田長磐(別名隼人) 寛永5年(1628)〔生〕- 寛文5年(1666)〔没〕

五代目 荻田本繁 寛永17年(1640年)〔生〕- 元禄14年(1701)〔没〕
🔶荻田三代の墓



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≪糸魚川藩≫


越後騒動後、日向延岡にあった有馬清純が元禄5年(1692)に無城大名に格下げの上で越後糸魚川に移封され、無城大名として糸魚川藩を立藩した。
元禄8年(1695)5月に有馬清純が越前丸岡藩へ移封され、糸魚川藩は廃藩となり、その所領は天領となる。
元禄禄12年(1699)、出羽村山藩主本多助芳が1万石で入り、糸井川藩を立藩。
享保2年(1717)、本多助芳が飯山藩に移封されたのに伴い糸魚川藩主となったのは福井藩とつながりのある松平直之天和2年4月26日(1682年6月2日)〔生〕- 享保3年10月6日(1718年10月29日)〔没〕享保2年(1717)2月16日には先祖の功績などを評価されて、知行地のない1万俵支給から糸魚川藩主(石高1万石)となったであった。福井松平藩と言えば徳川の血を引く系統で、1万石の小藩ではあったが、定府大名(※参勤交代を行わずに江戸に定住する大名)であったため、糸魚川には陣屋をおき江戸からの役人派遣により藩領を統治していた。のち旧糸魚川城(清崎城)跡は糸魚川7カ町(寺町、新屋、七間、横町、新田、鉄砲)と上刈村へ払い下げらることになった。

糸魚川藩陣屋跡
糸魚川陣屋は横町2丁目付近に築かれていたが、現存する遺構はまったくない。


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荻田一族

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  • 作者:志村平治
  • 出版社:歴研
  • 発売日: 2011年02月

知れば知るほど面白い!江戸三百藩

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  • 作者:山本明
  • 出版社:西東社
  • 発売日: 2011年01月


























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