根知城跡 Nechi Castle Ruins 糸魚川市



国道148号の「根知谷入口」から県道225号へ入り、根小屋集落に登山道の案内板がある。姫川が西側を、根知川が北側から東側を流れており、この両川はあたかも水を蓄えた堀のように集落を守っているようにも見える。
その背後にそびえる山頂・中腹を生かして築かれた戦国時代の典型的な山城の根知城は、「根小屋城」を中心に、標高525mの城山頂上に詰の城「上城山城」、標高100mの栗山に「栗山城」を配した大城塞である。
一般には「根小屋城」をもって根知城を示す。本丸跡と殿屋敷と称する郭跡を中心に、郭跡17、削平地201、堀切16、竪堀15というように大規模な城郭である。遺構は山腹から広い削平地が連続し、籠城、居住用のまさに根小屋として使用されていたことが分かる。そこから城主要部へは急斜面になり、山城独特の堀切などの縄張りを見せる。主郭は土塁があるものの面積は広くない。

@糸魚川市

上杉謙信が信濃からの武田勢の侵攻に備えて春日山上の支城として築いたといわれている。永禄8年(1565)葛尾城より逃避してきた村上義清を城主に定めている。謙信は永禄十一年以降、幾たびかに亘って根知城の警備を厳重にするようにとの文書を発給している。謙信は信玄が北信濃から松本街道を通って越後に侵攻してくることを恐れた。
村上義清の死後、仁科盛信、西方房家などが入城し、堀氏が春日山城の主となった慶長3年(1598)には、堀備中守清重が城主となっている。根知城に入った堀清重は、慶長5年(1600)に発生した上杉遺民一揆を契機に、交通の要衝に城を移すことを考え、慶長6年(1601)には糸魚川市一の宮に清崎城を築き根知城を廃したと言われている。

ウツグラといわれる栗山の館跡は東西57㍍、南北87㍍の館を中心に郭、削平地、堀切、井戸などが確認されている。またその南側に泥田堀といわれる高さ3㍍、長さ50㍍の大きな土塁が配され、南と東は幅5㍍、全長100㍍の泥田堀が取り巻いている。
ウツグラは武田信玄に追われ上杉謙信に迎えられた信濃の国人であり、川中島の発端をなした村上義清の館跡といわれている。





≪現地案内看板≫
新潟県指定文化財 史跡 根知城跡
昭和六三年三月二五日指定

根知城は、根小屋城、上城山城、栗山城を総称して呼び、上杉氏が勢力維持と防備の拠点とした春日山支城の一つである。
上城山を詰城、栗山城を館城、根小屋城を最大の要害としてそれぞれの役割をもち、根小屋・栗山集落は武士の館地であったと考えられている。
//上城山の南北は急峻な崖であり、東西を削平地・堅堀で固めている。ウツグラ(内蔵)の地は、村上義清が永禄八年根知城に入った際、修築し館城にしたと見られ、土塁、泥田堀が残る。義清と伝えられる墓は根小屋の不動山安福寺にある。//
根小屋城の頂上は本丸跡と考えられ、殿屋敷・ヒノミなどの地名と堀・井戸・くるわなどの遺構が残っている。集落から城山へ至るまっすぐな道は立川中道と呼ばれ、根知城の大手にあたる。
歴代の城主には、村上義清、仁科盛信、西方房家、桜井晴吉、堀左門、堀隼人佐などの名が見られ、上杉謙信・景勝時代の北信濃との国境警備の任務にあたった。
慶長三年上杉景勝の会津移封、堀秀治の春日山入封に伴い、堀左門が根知城に入ったが、上杉遺民一揆において、同六年清崎城に移り廃城となった。

新潟県教育委員会
糸魚川市教育委員会





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甲信越の名城を歩く 新潟編

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  • 作者:福原圭一/水澤幸一
  • 出版社:吉川弘文館
  • 発売日: 2016年02月15日頃