上杉謙信  上越市

上杉謙信(うえすぎけんしん,=長尾景虎,ながおかげとら)は享禄3年1月21日
(1530.2.18)庚寅年.戊寅月.壬子日に守護長尾為景の末子として春日山城(現在の上越市)で生まれました。幼名虎千代、元服して景虎、のち政虎、輝虎と名を改め、晩年には仏門に入って、謙信と号した。

天文5年、7歳のとき、春日山城下の長尾家菩提寺林泉寺に入り、名僧天室光育より厳しい禅の修行文武の道を学んだ。
この年の8月、父為景は守護代長尾家の家督を嫡男晴景に譲る。
天文11年12月24日父為景が亡くなると、越後はかなり波瀾含みになります。後をついだ長尾晴景(景虎の兄)は病弱で器量のないことがわかると、中条藤資・本庄房長・色部勝長らの揚北衆は晴景の命令に従わず、そのうえ春日山城に参勤せず、わがままな振る舞いの限りを尽くした。
天文12年景虎14歳のとき、晴景は揚北衆を制するため、中越地区の拠点であった栃尾に弟の景虎を派遣し、当地を管理する古志長尾氏の養子にして少しでも反乱勢力の動きを抑えようとしました。

天文13年、雪が消えると近隣の武将達が景虎を若輩と侮り、方々から攻撃を仕掛けてきた。15歳の景虎は栃尾城主本庄実乃、三条城主山吉行盛や母方の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、敵を見事に撃退して初陣を飾った。

栃尾城での景虎の人望が日増しに高まると、景虎の叔父高梨政頼や揚北衆の中条藤資、母の実家栖吉城主長尾景信らは、景虎擁立を企てた。一方、晴景は義弟の坂戸城主長尾政景らの支援をうけ、景虎討伐を決意するに至った。

晴景と景虎との対立が起これば、それに乗じて上杉定実の地位も危うくなる。定実は両者を和解させるべく、賢明に晴景を説得し、ついには晴景は病気療養のため引退することになり、景虎が長尾家を継ぐことになったのです。景虎は天文17年(1548)、19歳のとき春日山城に入り、兄晴景に代わって守護代長尾家を相続した。以後、49歳で死去する間での30年間、春日山城を根拠地に越後を統治する一方、 京都・信州川中島・関東・北陸へと兵をすすめた。この間70余回戦ったといわれている。
謙信は、自らの野望のために戦ったということは、表面的にはほとんどなかった。救援を求められたり頼られたりして兵を進めることが多く、義を重んずる武将であった。

天文22年(1553)信濃の村上義清らが甲斐の武田晴信(信玄)に領地を奪われ越後に逃れてきます。当時武田は駿河の今川義元・関東の北条氏康との三国同盟を成立させ、南側が安定したので北信濃に進出しようとしていました。景虎は武田軍の北上を止めるため、同年8月大量の軍を動員し、川中島(現長野市南部)に展開しました。

もっとも「戦い」とはいうものの、第一回(1553),第二回(1555),第三回(1557)は実質的な戦闘は起きておらず両者にらみ合っただけで、最終的にはおとなしく両者軍を引いています。その間に景虎は北陸経由で2度(1553,1559)京都に行き、将軍家と接触したり天皇(後奈良・正親町)に拝謁したりして政治的な安定も図ります。

そして永禄4年(1561)8月、川中島で第四回の戦いを行いました。これは「川中島の戦い」の中でも最大の決戦でありました。武田晴信自身も負傷していますし、一説には晴信と政虎の一騎打ちもあったことで有名です。

上杉憲政が一応関東管領を嗣いで関東方面にわずかとなった所領を持っていましたが、永禄元年(1558)とうとう支えきれずに景虎を頼って越後に逃げてきました。謙信は永禄3年、三国峠を越えて関東平野へ出陣し、厩橋城に入った。翌永禄4年2月には、小田原城を攻囲した。閏3月16日、鎌倉鶴岡八幡宮で上杉憲政のたってのたのみで、上杉家の家督と関東管領の職を譲り受けることになりました。

謙信は朝廷と幕府を再興したいという大きな夢を持っていました。天文22年と永禄2年に上洛したのは、そのための布石でした。上洛の道を開くため天正5年(1577)9月15日、能登七尾城を攻略し、同23日、加賀湊川(手取川)で織田信長軍を撃退しました。

12月23日、上杉軍団の武将81名の動員名簿を作成し、翌天正6年3月15日を関東出陣の日と決めた。ところが出陣直前の3月9日正午頃突然発作が謙信を襲った。脳溢血で倒れ、13日、上洛の夢を見つつ、帰らぬ人となりました。時に49歳。法名不識院殿真光謙信。
「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」。大の酒豪であった謙信が、死の一ヶ月前に残した辞世の句といわれる。生涯妻を娶らず、ほとんど休むもなく戦い続けた一生でした。

遺骸は米沢の上杉家御廟所にあります。ほかに廟所は高野山に、供養塔は林泉寺と明静院にあります。


毎年8月16日・17日に、謙信公祭が盛大に行われます。






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