上杉謙信 Kenshin Uesugi 上越市



上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城
🔗関東派兵、北条氏・武田氏との戦い 🔗天下平定 🔗合戦地図

享禄3年1月21日(1530年2月18日)庚寅年.戊寅月.壬子日〔生〕~天正6年3月13日(1578年4月19日)〔没〕

(誕生~越後国統一)

(晴景の治世)

父の為景(初名六郎)は16歳の初陣から、関東出陣など百余戦、越後守護上杉房能、定実(房能の養子)を助け国内の統一を進めたが、のちに定実と対立するようになり、戦乱は収まらなかった。
天文5年(1536)8月、父為景は守護代長尾家の家督を嫡男晴景に譲るが,12月24日に上条上杉の上杉定憲との戦乱のやまないうちに病死すると、国内はたちまち乱れた。上条軍が為景の葬列に押し寄せ、6歳の謙信が甲冑ををつけて棺を守った。
後をついだ長尾晴景(当時25歳)は病弱で器量のないことがわかると、中条藤資・本庄房長・色部勝長らの揚北衆は晴景の命令に従わず、そのうえ春日山城に参勤せず、わがままな振る舞いの限りを尽くした。
この年、7歳の謙信は、春日山城下の長尾家菩提寺林泉寺に入り、名僧天室光育より厳しい禅の修行文武の道を学んだ。

(景虎栃尾入部)

天文12年 (1543)謙信(景虎)13歳のとき、晴景は揚北衆を制するため、中越地区の拠点であった本庄実乃の栃尾城に弟の謙信(景虎)を派遣し、当地を管理する古志長尾氏の養子にし、国内支配を強化しようと考えた。
天文13年(1544)、雪が消えると近隣の武将達が謙信(景虎)を若輩と侮り、方々から攻撃を仕掛けてきた。
14歳の謙信(景虎)は栃尾城主本庄実乃、三条城主山吉行盛や母方の実家栖吉城主長尾氏らの協力を得て、敵を見事に撃退して初陣を飾った。
天文14年(1545)謙信15歳、上杉房能の時代以来守護に仕えてきた老臣である黒滝城の城主黒田秀忠が、長尾家に反旗を翻し、晴景の弟長尾景康・長尾景房らを殺害した。守護代長尾晴景が病弱で優柔不断なことから守護代の器でないと見こし、謀反を起こしたといわれる。
景虎は杤尾を出て春日山に登り、上杉一門の桃井などと謀ったうえ村山与七郎に命じて、居城黒滝城(西蒲原郡弥彦村)を攻めさせた。黒田は頭を丸めて出家し、他国へ逃れたいと懇願したので、景虎らは黒田を許した。
天文15年(1546)2月、黒田は再度黒滝城に立て籠もって反攻に立ち上がった。景虎は黒滝城を攻め落とし、黒田一族ことごとくを自害させている。

(兄晴景との対立)

栃尾城での謙信(景虎)の人望が日増しに高まると、謙信(景虎)の叔父高梨政頼や揚北衆の中条藤資、母の実家栖吉城主長尾景信らは、謙信(景虎)擁立を企てた。景虎を新しい国主の座へと推したのは、栃尾の本庄実乃はもちろん、三条の山吉氏、母の実家栖吉の長尾景信、与板の直江實綱など中部の実力者たちで、揚北の国人の中からは奥山荘の中条藤資も之に加わり、府内でも守護所で財政機関を握っていた大熊政秀なども景虎方となった。こうして景虎を中核として一大勢力が中越地方の武士たちを中心に出来上がった。
一方、晴景は妹(後の仙桃院)の嫁ぎ先である坂戸城主長尾政景らの支援をうけ、謙信(景虎)討伐を決意するに至った。府内方は上田庄の長尾政景の他に、奥山荘で中条氏と抗争していた黒川清実であり、府内、頸城郡の大部分の武士たちもこれに加わった。

(春日山城に入り国主となる)

両勢力の衝突は、天文17年(1548)に起こった。晴景と謙信(景虎)との対立が起これば、それに乗じて上杉定実の地位も危うくなる。定実は両者を和解させるべく、賢明に晴景を説得し、ついには晴景は病気療養のため引退することになり、謙信(景虎)を養子として長尾家を継ぐことになった。
謙信(景虎)は天文17年(1548)12月晦日、18歳のとき春日山城※地図に入り、兄晴景(当時39歳)に代わって守護代長尾家を相続した。以後、49歳で死去する間での30年間、春日山城を根拠地に越後を統治する一方、 京都・信州川中島・関東・北陸へと兵をすすめた。この間70余回戦ったといわれている。
しかし景虎の権力掌握はすんなりとはいかなかった。景虎の後ろ盾として担ぎ上げた古志郡の武士団と魚沼郡長尾政景との間で激しい抗争が続いた。
天文19年(1550)2月謙信(景虎)20歳の時、上杉定実が亡くなり、後継ぎがないため、越後上杉家は断絶、実権は全く謙信(景虎)のものとなった。幕府も白傘袋、毛氈鞍覆の使用を許して大名としてこれを認めた。
天文20年(1551)、坂戸城主長尾政景が降伏した。のち、政景は謙信によって湯沢町にあったといわれる野尻湖で謀殺されたという話が伝えられている。
翌21年(1552)正月早々、小田原北条氏康に攻められた関東管領上杉憲政が景虎のもとに亡命してきた。
謙信は、自らの野望のために戦ったということは、表面的にはほとんどなかった。救援を求められたり頼られたりして兵を進めることが多く、義を重んずる武将であった。
一方、謙信は自分は毘沙門天の生まれ変わりであると宣言し、戦では常に先陣にあった。自分の立てた戦術や方策に対して、公然と批判する者は許さなかった。川中島の戦いで戦功のあった同族の長尾藤景ですら攻め滅ぼしている。

信仰

禅門と密教に帰依し、41歳の時、林泉寺住職宗謙から一字をいただいて謙信と号し、45歳の時に高野山の無量光院の住職清胤を師とし、剃髪して僧形となった。さらにまた毘沙門を信じ、軍旗は「毘」、隊旗「刀八毘沙門」と書いたものを用い、謙信がいる本陣に隊旗を立て「我を毘沙門と思え」といったという。
外に軍旗として「龍」を使用したが、「龍」は仏法で不動明王を示し、敵国退散の守護神を意味している。戦場で、「毘」と「龍」をいただいた兵が、仏法の力で敵を撃破退散させたいと謙信は考えていた。
また謙信が用いた軍旗「龍」は懸かり乱れ龍と言われる旗である。上杉軍が敵に総攻撃を仕掛ける際、上杉軍の本陣に立てられた旗印である。合戦の突撃の合図に使用されたという。

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