上杉謙信 Kenshin Uesugi 上越市



上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城
🔗誕生~越後国統一 🔗関東派兵、北条氏・武田氏との戦い 🔗合戦地図

(天下平定)

(越中平定)

謙信は朝廷と幕府を再興したいという大きな夢を持っていた。天文22年(1553)と永禄2年(1559)に上洛したのは、そのための布石であった。
謙信は、永禄3年(1560)、松倉城※GOOGLE 画像 主椎名康種らを助け、富山城主神保長職を討伐し、上洛の道を開く為越中へ駒を進めた。
永禄11年(1568)には、椎名康種が信玄に屈し、一向一揆と結んで越後を脅かした。謙信は兵を率いて椎名康種の松倉城を攻め、さらに神通川を渡って放生津に陣をはり、守山城攻撃を始めた。
ところが揚北の国衆本庄繁長が信玄の策略に屈し謀反をおこした。謙信の命を受け長尾藤景・景治兄弟を謀殺したが、これに対しての恩賞がなかったことに不満を持っての謀反であった。謙信はいそいで春日山城に帰り、本庄攻略の準備を進めた。
信玄は10月13日、杉原日向守を本庄城※GOOGLE 画像 へ遣わして、明春の戦略を密議させた。謙信は鮎川氏はじめ周辺の諸将に、守りを固めるとともに、信玄からの密使が本庄城と接触しないよう探索を強めさせた。
10月20日、謙信は自ら本庄城攻略の指揮を執るため、春日山城を出発した。11月7日から本庄城攻撃を始めた。本庄氏は、臥牛山にある難攻不落の要害に立て篭もり、謙信軍に対しては、正面からではなく、ゲリラ戦を仕掛けた。
さすがの謙信もこれにてこずり、年が明け長陣となった。本庄城には、頼みの綱の信玄からの援軍が到着せず、永禄12年(1569)3月、本庄繁長は謙信に降伏した。

永禄12年(1569)京都に上るため、背後の関東を安定させようと、北条氏と和解し、越相同盟を締結した。この盟約に基づき、元亀元年(1570)に康政の子を養子として迎え、景虎と改称させ、長尾政景の娘(景勝の姉)を妻にさせた。元亀2年(1571)10月に、同盟を主導していた北条氏康が病死すると、氏政は越相同盟を解消し、関東は再び不安定化し、両軍は衝突した。
謙信は席を温める暇もなく、越中へ向かった。以後、元亀元年(1570)から天正元年(1573)にかけ、毎年、越中へ出陣した。信玄と手を結んだ椎名康種が一向一揆と連携し、謙信方の諸城を攻撃したことから、越中在陣の武将たちから、しきりに出陣の要請があった。
天正元年(1573)、武田信玄が病死した。越中の武将たちは信玄を失い、烏合の衆となってしまった。7月、謙信は椎名・神保を討伐して越中を平定し、進んで能登・加賀へ進出しようとした。8月10日、謙信は自ら兵を率いて加賀・越中国境の朝日山城(金沢城)※GOOGLE 画像 を攻め立てた。
天正2年(1574)、能登七尾城主畠山義隆が、家臣の長続連・三宅長盛に毒殺され、城内は信長派と謙信派で対立していた。
織田信長は謙信の上洛を警戒し、天正2年(1574)3月に狩野永徳筆の『洛中洛外図屏風』一艘を謙信に送って機嫌を取る一方、天正4年(1576)には安土城を築いて謙信に備えた。他方、加賀の一向宗徒が謙信に援助を求めてきた。ここで謙信と本願寺との和睦が成立し、謙信上洛の道が開かれたのである。

(七尾城の攻防と手取川の戦い)

天正4年(1576)9月謙信46歳、謙信は上洛の道を開くため越中へ出陣し、次いで能登へ侵攻した。12月までに能登の大部分を平定し、最後に七尾城※GOOGLE 画像 総攻撃にとりかかった。
9月13日、七尾城を包囲する。しかし難攻不落の名城は、一向に動じない。十三夜の月下、七尾城を望んだ謙信は酒盛りをして、「霜は軍営に満ちて 秋気清し、 数行の過雁 月三更、 越山併せ得たり 能州の景、 遮莫 家郷の 遠征を思うを」の詩を吟じた。
天正5年(1577)の正月を迎えた。小田原城主北条氏政が謙信方諸城の攻撃を始めたため、3月、ひとまず春日山城に帰り、関東出陣の陣触を出した。
ところが、前将軍足利義昭や毛利輝元から、至急上洛するようにという強い要請の手紙が届いた。
謙信は、閏7月、春日山城を発し、一路、能登を目指した。閏7月17日には、もう天神川原に陣をはった。9月15日、謙信と内通した遊佐続光は温井景隆らと城内でクーデターを起こし、長綱連一族百余人を殺害して謙信に味方した。畠山氏の名城も、あえなく落城してしまった。
9月18日、謙信は信長軍が総勢5万騎で加賀湊川を越えたという情報をうけ、部隊を急ぎ南下させた。
謙信は更に、3万5千の兵をもって加賀湊川(手取川)に兵を進め、一方柴田勝家の率いる織田信長軍5万余は手取川を渡り陣を敷いていた。七尾落城の悲報が伝わると、信長軍は浮足立ち、9月23日、夜陰に紛れて退却を始めた。ところが運悪く、雨天による湊川の増水で逃げ場を失い、信長軍は千余人が討ち取られ、川に流されたもの、その数を知らず、といわれたほど大打撃を受けて退散した。

「上杉にあっては織田も手取川、はねる謙信、逃げる信長」と落書された。

(謙信の死)

再び関東の北条氏の動きが活発になったので、越後に戻った謙信は、天正5年(1577)12月23日、上杉軍団の武将81名の動員名簿を作成し、翌天正6年(1578)3月15日を関東出陣の日と決めた。ところが出陣直前の3月9日正午頃突然発作が謙信を襲った。脳溢血で倒れ、13日、上洛の夢を見つつ、帰らぬ人となりた。時に49歳。法名不識院殿真光謙信。
謙信は亡くなる1か月前に寿像を画かせ「四十九年一睡夢一期栄花一盃酒」という辞世をつくっている。生涯妻を娶らず、ほとんど休むもなく戦い続けた一生であった。

遺骸は米沢の上杉家御廟所にありる。ほかに廟所は高野山に、供養塔は林泉寺と明静院にある。

一向一揆対策


織田信長など多くの戦国武将を悩ませたものに、一向宗門徒の一向一揆があるが、謙信も例外ではなかった。北陸に根拠を置く一向門徒は謙信の祖父能景と戦って、能景は越中で戦死した。父為景は越後から一向門徒を追い払った。一方武田信玄の妻の妹が本願寺11代顕如の妻であったので、信玄と一向門徒が手を結んで、謙信の後背地である北陸地方で謙信に対抗させた。
謙信は上洛の道を開けるため天文22年(1553)の上洛に際し、親鸞配流の聖地越後に布教をすることを認めるという条件で、加賀の本誓寺の住職超賢と和した。その後も、信玄と結んだ一向門徒との戦いがあったが、信玄の死後、信長という共同の敵に対して、謙信と一向門徒が和睦をして信長にあたるようになった。本誓寺との和睦後、一向宗の寺院が越後に移ってきた。新潟県に真宗が多い理由と言われる。

(領国経営)

謙信は四囲を敵に囲まれながら、すぐれた集団戦法と敵も敬服する人格で平定が進み、全盛時には領国が、越後、佐渡、越中、能登の四国、加賀、越前、飛騨、上野、下野、武蔵、相模、安房、信野、下総、常陸および奥羽の一部にまたがり、その広大な領国から300万石の年収を得たという。
謙信の行政組織は簡単で、奉行職の下に郡代、代官、大目付、横目などを置き、税は地子、諸役、営業税、輸出税、輸入税のほか臨時特別税があり、城下町は保護のため、臨時、新税を免除した。
殖産興業には意を用い、上田銀山、西三川の砂金、鶴子山の銀などを発掘して貨幣を造り、青苧による麻織物、漆木具、武器の製作、馬市、移民を招いて開墾を進めて財政を潤した。
謙信の徳を慕い、毎年8月16日・17日に、上越市では謙信公祭が盛大に行われる。謙信がはじめたと伝えられる妙高山の代参登山「南方位山(なんぼいさん)」は、現在でも春日神社の「御剣祭南方位登山」として神社と氏子たちで行われている。


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🔶〔墓所〕

🔶〔記念碑〕
🔶〔古戦場〕

🔶〔その他史跡〕
〔ゆかりの地〕
  • 関温泉
    上杉謙信が、将兵の疲れを癒すための隠し湯といわれています。
  • 眼の温泉 奥湯沢 貝掛温泉
    上杉謙信が関東攻略の際、将兵の英気を養い、傷を癒すために貝掛に浸からせたと言い伝わっている。


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