上杉謙信 謙信は大酒豪 春日山城 🔗誕生~越後国統一 🔗関東派兵、北条氏・武田氏との戦い 🔗合戦地図 (天下平定)謙信は朝廷と幕府を再興したいという大きな夢を持っていた。天文22年(1553)と永禄2年(1559)に上洛したのは、そのための布石であった。京都に上るため、背後の関東を安定させようと、北条氏と和解し、元亀元年(1570)に康政の第七子を養子として迎え、景虎と改称させ、長尾政景の娘(景勝の姉)を妻にさせた。後に、康政の跡を継いだ氏政によって和解は破棄される。 上洛の道を開くため北陸方面に遠征し、天正5年(1577)9月13日謙信47歳、七尾城を包囲する。十三夜の月下、七尾城を望んだ謙信は酒盛りをして、「霜は軍営に満ちて 秋気清し、 数行の過雁 月三更、 越山併せ得たり 能州の景、 遮莫 家郷の 遠征を思うを」の詩を吟じた。 9月15日、能登七尾城を攻略し、同23日、謙信は更に、3万5千の兵をもって加賀湊川(手取川)に兵を進め、柴田勝家の率いる織田信長軍5万余と衝突した。この時信長は戦わないで逃げた。「上杉にあっては織田も手取川、はねる謙信、逃げる信長」と落書された。 しかし、再び関東の北条氏の動きが活発になったので、越後に戻った謙信は、天正5年(1577)12月23日、上杉軍団の武将81名の動員名簿を作成し、翌天正6年(1578)3月15日を関東出陣の日と決めた。ところが出陣直前の3月9日正午頃突然発作が謙信を襲った。脳溢血で倒れ、13日、上洛の夢を見つつ、帰らぬ人となりた。時に49歳。法名不識院殿真光謙信。 謙信は亡くなる1か月前に寿像を画かせ「四十九年一睡夢一期栄花一盃酒」という辞世をつくっている。生涯妻を娶らず、ほとんど休むもなく戦い続けた一生であった。 遺骸は米沢の上杉家御廟所にありる。ほかに廟所は高野山に、供養塔は林泉寺と明静院にある。 一向一揆対策織田信長など多くの戦国武将を悩ませたものに、一向宗門徒の一向一揆があるが、謙信も例外ではなかった。北陸に根拠を置く一向門徒は謙信の祖父能景と戦って、能景は越中で戦死した。父為景は越後から一向門徒を追い払った。一方武田信玄の妻の妹が本願寺11代顕如の妻であったので、信玄と一向門徒が手を結んで、謙信の後背地である北陸地方で謙信に対抗させた。 謙信は上洛の道を開けるため天文22年(1553)の上洛に際し、親鸞配流の聖地越後に布教をすることを認めるという条件で、加賀の本誓寺の住職超賢と和した。その後も、信玄と結んだ一向門徒との戦いがあったが、信玄の死後、信長という共同の敵に対して、謙信と一向門徒が和睦をして信長にあたるようになった。本誓寺との和睦後、一向宗の寺院が越後に移ってきた。新潟県に真宗が多い理由と言われる。 (領国経営)謙信は四囲を敵に囲まれながら、すぐれた集団戦法と敵も敬服する人格で平定が進み、全盛時には領国が、越後、佐渡、越中、能登の四国、加賀、越前、飛騨、上野、下野、武蔵、相模、安房、信野、下総、常陸および奥羽の一部にまたがり、その広大な領国から300万石の年収を得たという。謙信の行政組織は簡単で、奉行職の下に郡代、代官、大目付、横目などを置き、税は地子、諸役、営業税、輸出税、輸入税のほか臨時特別税があり、城下町は保護のため、臨時、新税を免除した。 殖産興業には意を用い、上田銀山、西三川の砂金、鶴子山の銀などを発掘して貨幣を造り、青苧による麻織物、漆木具、武器の製作、馬市、移民を招いて開墾を進めて財政を潤した。 謙信の徳を慕い、毎年8月16日・17日に、上越市では謙信公祭が盛大に行われる。謙信がはじめたと伝えられる妙高山の代参登山「南方位山(なんぼいさん)」は、現在でも春日神社の「御剣祭南方位登山」として神社と氏子たちで行われている。 🔙戻る
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