栃尾城跡 Tochio Castle Ruins 長岡市
長岡市栃尾西郊にそびえる標高227mの堅固な山城で県史跡に指定されている。 本丸は幅9m、長さ57mで、中央に石祠が祭られている。眺望はきわめてよく、栃尾盆地から周囲の山々が手にとるようにわかる。 けわしい尾根の要の部分に、本丸以下多数の曲輪を結んで強固な主要陣地帯をかまえる。 左右の尾根を削って設けた大小七つの曲輪はすべて中腹以下に及ぶ縦濠で仕切られている。南へ二の丸・中の丸・びわ丸・狼煙台と連なり、北へ向かって松の丸・三の丸・五島曲輪が連なって鶴翼を形どり、舞鶴城とも呼ばれている。戦国末期の遺構がよく残る貴重な遺跡である。 東麓の大野集落に当時の城主の居宅や根小屋などがあった。今は住宅や畑となり、わずかに城主の居館跡の「館屋敷(たてやしき)」、佐々木屋敷などの地名にその名残を留めているにすぎない。諏訪神社(三光口)から登る道が大手で、本丸跡まで30分で登れる。 文献に現れる栃尾城は、野州宇都宮党の芳賀兵衛入道禅可が、駿州薩種山の戦いに功あって足利尊氏から越後の田を給せられ、正平7年(1352)栃尾城に入城したことに始まる。芳賀禅可は栃尾城を現在見られる鶴翼の形に大改築した。 延元2年(1337)足利尊氏は、対立していた鎌倉公方方だった上杉憲顕が臣従したため、これを越後・伊豆・上野三国の守護に任じており、この為、上杉憲顕は正平18年(北朝貞治2年、1363)坂戸城に拠って越後各地で芳賀禅可と戦った。 敗れた芳賀禅可は下野国に逃れた。 以来、越後は上杉氏の支配する所となり、守護代長尾氏が差配することとなった。 杤尾は長尾氏の本領となり、室町時代、古志長尾氏の一門や重将が交代で在番した。(案内図) (上杉謙信時代)謙信が8歳の時、まだ虎千代と呼ばれていた天文6年(1537)8月、兄長尾晴景(一説には父為景)は林泉寺から帰された虎千代を、高僧と名高かった瑞麟寺の門察和尚のもとに送り、僧となることを期待していた。門察和尚について学を修め、禅を問うた。しかし敵対する勢力の手が、瑞麟寺の虎千代にのびたことから、一旦春日山に帰っている。(☛ 上杉謙信)天文5年(1536)春日山城で長尾為景(上杉謙信の父)が没すると(※1543年とする説がある)、その子の長尾晴景が家督を継いだが、晴景は病弱であったため、守護職上杉氏の養子問題に絡む動乱をおさめきれず、越後内の豪族たちは各地で戦いに明け暮れた。 天文12年(1543)、揚北国人衆の争いが中越地方にも広がってきたため、晴景は春日山城下の林泉寺で修行の日々を送っていた弟長尾景虎(後の上杉謙信)を、中越地方の長尾家所領を確保するため、古志長尾氏をたより、自分の名代として、中越の要の栃尾城に送り込んだ。武将として再び栃尾城を訪れた景虎は、城将 14歳の謙信は、天文17年(1548)までの5年の間、栃尾在城し、城将本庄実乃や瑞麟寺の門察和尚の補翼を受ける。謙信の軍略は本庄実乃からの教えが大きかったといわれる。 近隣の豪族たちが若い謙信を侮り、栃尾城に攻め寄せた。謙信は本庄実乃らの補佐で、みごとに敵を撃退し初陣を飾った。 この後、謙信の武将としての素質が並々でないことを知った豪族たちは、次第に謙信の指揮に従うようになった。 また、17歳の時には兄晴景に背いた重臣黒田秀忠を討伐するなど、次第に名声を高めていった。これに危機感を抱いた晴景は景虎に対し討伐軍を発した。しかし景虎は米山合戦でこれを打ち破り大勝し春日山城下に迫った。 この内紛を憂いた守護・上杉定実が両者を調停し、天文17(1548)年、景虎は晴景の養子となって守護代長尾家を嗣ぐ事となり、栃尾城から春日山城に移った。 本庄実乃は以後、謙信からの信任をえて、側近実力者として、奉行職、七手組大将などを務めた。また本庄氏は、その子秀綱の代に至る迄30余年栃尾城の守りにあった。 弘治2年(1556)、臣下の領地争いに嫌気が差した謙信が出奔するという出来事があったが、このとき、各当事者に加担する実力者本庄実乃と他方の実力者大熊朝秀の争いでもあった。大熊は敗れて武田信玄の元へ走ることになる。 天正6年(1578)、謙信が亡くなったとき、実乃は殉死したともいわれる。(☛ 春日山城 大熊朝秀) (上杉景勝時代)天正6年(1578)の御館の乱の際、栃尾城主本庄秀綱(実乃の子)は上杉景虎に味方したため、天正8年(1580)4月22日、上杉景勝の猛攻撃を受けて落城した。本庄秀綱は落城時、会津方面へ落ちのび、その後は佐々成政に仕えたという。 栃尾城は以後上杉氏の支城として、景勝の臣、宮島三河守将監、清水蔵之助などが城代を務めた。 (堀氏時代)慶長3年(1598)、景勝が会津へ移り、代わって春日山城に入った堀秀治は家臣神子田政友を1万石で入れた。慶長15年(1610)、堀家の改易にともなって廃城となった。(☛ 堀秀治)≪現地案内看板≫
栃尾城跡(舞鶴城) 古志長尾氏の栖吉城とともに中核をなす戦国時代の山城(鶴城山・標高二二七m)。鶴が翼を広げたようなU字形の険しい山稜を骨格として築かれ、その要の位置に本丸がある。山麓の南、大野には家臣の居館を置き、東の大手門前の大町には商業集団を配置するという、壮大な根小屋式の城郭である。南北朝時代に芳賀禅可が築城したと伝えられ、以降整備を加え、付近二十余りの砦の中心として威容を誇った。 天文十二年(一五四三)、長尾景虎(後の上杉謙信公)は十四才の時に中郡の郡司として栃尾城に入城、城主本庄実乃の補佐を受け、「義」の信条をもって近隣を制圧した。在城六年、十九才の時に国主となって春日山に登る。 天正八年(一五八〇)、御館の乱において城主本庄秀綱は上杉景虎の旗頭として活躍したが、上杉景勝・直江兼続の攻撃を受けて落城。その後は上杉景勝の武将が在番したが、堀秀治が太守となると、神子田政友が七千石を得て守りについた。江戸時代になるとその機能を失い、戦国の城郭は永い眠りについた。 長岡市 |
栃尾城跡 瑞麟寺跡