大熊朝秀 Tomohide Okuma 上越市
🔗箕冠城跡 大熊 朝秀(おおくま ともひで、?〔生〕 - 1582年(天正10)3月11日(新暦1582年4月3日)〔没〕 (上杉家家臣時代)大熊氏は、守護上杉氏につかえ、2代にわたって段銭方(財政担当)を務める重臣であった。景虎(謙信)が府中を掌握した後も、財務担当の奉行職に任じられ、越後国中頸城郡箕冠(みかぶり)城主(現上越市板倉区)となる。箕冠城は板倉区山部に位置する標高237メートルの中世の典型的山城である。春日山城の支城群の一城で、信越国境を警備する重要な任務を持っていた。この当時景虎(謙信)を支えたのは、大熊朝秀(段銭方)、本庄実乃(栃尾城主)、直江景綱(与板城主)の三名で、さらに庄田定賢、山吉政応(三条城主)などが実務を担っていた。 景虎が新参奉行人として長尾一族や譜代など、自身に近い武将を登用すると、奉行間で溝が生れた。 弘治2年(1556)、上野家成と下平修理亮との上田を巡る領地争いをきっかけに、これが発展し下平方の大熊朝秀らと上野方の本庄実乃らの争いとなる。家中内の守護上杉家派と守護代長尾家派の派閥対立が激化した。 本庄実乃は栃尾城主で、長尾晴景の時代から長尾氏(後の上杉氏)に仕えていたが、幼少期の景虎の器量を見抜いて、早くから栃尾城に迎えてその側近となった。景虎(謙信)は、本庄実乃ら側近の進言を聞き入れ、大熊朝秀ら旧臣を要職から排除し、朝秀の進言を聞き入れなくなっていた。 6月28日、家臣間の争いに嫌気がさした長尾景虎(謙信)の出家騒動が起こると、守護上杉家派に属していた大熊朝秀は、武田信玄に内通し反旗を翻す。謙信27歳のときである。朝秀は正確な年齢は分からないが25歳くらいと推定されている。謙信は、反対派の反乱を誘引するためにあえて越後を離れたとも言われている。 8月23日、朝秀は長尾氏と敵対する会津の蘆名盛氏と呼応し、越中一向一揆勢を率いて越中国から越後へ攻め入った。西頸城郡駒返(現糸魚川市)※地図 の戦いで、上野家成や庄田定賢らに敗れ、信玄を頼って甲斐国に逃れた。 (武田家家臣時代)弘治2年(1556)甲斐へ身を寄せた。その後永禄6年(1563)武田の上州攻略に際しては無類の働きを賞され、信玄に招聘され、譜代家老・山県昌景の同心衆とされた。永禄9年(1566)9月、武田信玄が長野業盛の守る箕輪城を落として、西上野を制圧する。朝秀はこの上野箕輪城攻めなどで活躍し、武田家中でも信頼を置かれ、旗本の足軽大将に抜擢され、信玄直臣として、騎馬30騎、足軽75人持となる。箕輪城を攻めた際には新陰流の祖と仰がれた上泉信綱と一騎打ちを演じ無傷で引き分けたといわれ、信玄から称賛されたという。 また信玄側近の小畠山城虎盛の妹を妻とし、躑躅ヶ崎館に近くに屋敷を構えた。 大熊館は近年まで存在したが、現在では、朝秀が鎮守として祀った甲府市天神町の天満宮が跡を残すのみである。※ストリートビュー 朝秀は武田家に臣従し幕紋を上杉時代の「丸の内に桔梗」から「丸に籠目」変えたといわれる。 上杉謙信(景虎)は重臣であった朝秀が寝返ったことで、武田方に越後の情勢が伝わり、その後の信玄との戦いで大いに痛手となった。謙信は、臣下の意見を聞き入れることは少なく、完全な臣従を求め、これに反するものは征伐の対象とされた。結果謙信は常に家臣の離反に悩まされていた。いっぽう信玄は、弟の信繁を側近に置き、家臣の具申を聞き入れるだけの懐の広さがあった。また、有能な人材については、その家柄などを問わず登用したことで、越後国内でも信玄の誘いに心動かされた武将は多かったという。 勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、元亀2年(1571)遠江小山城代※地図に任じられている。 天正6年(1578)上杉謙信が亡くなった後に発生した御館の乱で、上杉景勝は北条氏と武田氏の連合軍に攻め込まれ、窮地に陥ったが、武田勝頼と同盟を結ぶことによって窮地を脱することができた。 その際、朝秀は古くの人脈を買われ上杉景勝との交渉に当たっている。 春日山城実城にあった金銀を差し出すことと、勝頼の妹を景勝が妻に迎えることが講和の条件となったが、かつて上杉方で財務担当していた朝秀が景勝の経済負担能力を推し量っていたとも思われる。 天正10年(1582)、天目山※ストリートビューの戦いにおいて多くの重臣が織田家・徳川家へ寝返る中、最期まで勝頼と運命を共にし武田家への恩に報いた。法名は道秀だった。主家につくした大熊のこの精忠は、いまなお甲府では高くたたえられている。子孫は真田家に仕え武田家遺臣として家老を勤めるなど存続した。 🔙戻る
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新潟県上越市板倉区(旧中頸城郡板倉町)にあった山城。築城時期は不明だが、越後国守護上杉氏の重臣大熊氏が居城とした城である。標高237m東西北が切り立った独立峰で、山の東側には大熊川、西側には小熊川が流れ、外堀の役目を果たし、天然の砦となっていた。 |
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