大熊朝秀 上越市



大熊 朝秀(おおくま ともひで、?〔生〕 - 1582年(天正10年)3月11日(新暦1582年4月3日)〔没〕

上杉家の家中において段銭方などの要職を務める重臣であった。越後国中頸城郡箕冠(みかぶり)城主(板倉町)。箕冠城は板倉町山部に位置する標高237メートルの中世の典型的山城である。春日山城の支城群の一城で、信越国境を警備する重要な任務を持っていた。
箕冠城址


弘治2年(1556年)、上野家成と下平修理亮との上田を巡る領地争いをきっかけに家中内の旧上杉家派と長尾家派の派閥対立が激化。争いに嫌気がさした長尾景虎(上杉謙信)の出家騒動が起こると、上杉家派に属していた大熊秀朝は、武田信玄に内通し反旗を翻す。謙信27歳のときである。会津の芦名盛氏と共に越後に進入するが、西頸城郡駒帰にて上野家成に敗れ甲斐国へと逃れた。

その後朝秀は上野箕輪城攻めなどで活躍し、武田家中でも信頼を置かれ、旗本の足軽大将に抜擢される。信玄直臣として、騎馬30騎、足軽75人持となる。
勝頼の時代になってもその地位は揺るがず、遠江小山城代に任じられている。上杉謙信が亡くなった後に発生した御館の乱の際は、古くの人脈を買われ上杉景勝との交渉に当たっている。

天正10年(1582年)、天目山の戦いにおいて多くの重臣が織田家・徳川家へ寝返る中、最期まで勝頼と運命を共にし武田家への恩に報いた。子孫は真田家に仕え武田家遺臣として家老を勤めるなど存続した。

武勇に優れ、信玄の命で上野国の長野業盛を攻めた際に、は新陰流の祖と仰がれた上泉信綱と一騎打ちを演じ無傷で引き分けたといわれる。


〔墓所〕日蓮宗仏寿山妙遠寺
       山梨県甲府市元紺屋町 ⇒ストリートビュー