節黒城跡十日町市

新町新田集落背後の丘陵の一峯に節黒城跡がある。言い伝えでは新田義貞の子義宗が築いたものだという。
1351年(正平6年・観応2年)に、南朝方宗良親王は、新田義宗を率いて鎌倉の足利尊氏を攻めたが、武蔵国での戦いに敗れる。義宗は、越後の国に逃れ、節黒城を築いたという。
新町新田から整備された道を登りつめると標高365メートルの山頂城跡につく。前は開け、左右は沢が深く周辺には老松が天空を色どり、中世城跡の雰囲気を漂よわせている。
本丸跡は東西33メートル南北23メートルの三角形で、城祉碑が建っている。
節黒城の名の由来は、急いで城を築いたため用材を運ぶ暇がなく、節が多くて黒い雑木を用いたところからこの名がつけられたと言われている。
 節黒城は、信濃川対岸の大井田城とともに越後南朝勢力の拠点として重要な役割を果たした。
その後、室町時代の半ば頃に、やはり新田氏の流れをくむといわれる上野氏の居城となり、長尾氏と密接な関係を持つようになった。
上野家成は弘治2年(1556)8月23日、武田信玄に通じて上杉謙信に背いた箕冠城主大熊朝秀を駒帰で撃破した。また永禄12年(1569)、越相同盟締結の交渉にあたって、上杉謙信の命で沼田城蒋として活躍した。




■所在地 新潟県十日町市新町新田集落 


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