節黒城跡 Fushiguro Castle Ruins 十日町市




@じゃらん
新田義貞の子新田義宗は正平7年/観応3年(1352)閏2月上野で挙兵する。一時鎌倉の奪還を果たすが、その後足利尊氏率いる北朝軍と「武蔵野合戦」を戦い敗れて、宗良親王と共に越後に逃れた。越後には新田氏の一族の里見氏の領地があり、そこにかくまわれ、その際築いた城が節黒城といわれる。
新町新田から整備された道を登りつめると標高365メートルの山頂城跡につく。前は開け、左右は沢が深く周辺には老松が天空を色どり、中世城跡の雰囲気を漂よわせている。
本丸跡は東西33メートル南北23メートルの三角形で、城祉碑が建っている。
節黒城の名の由来は、急いで城を築いたため用材を運ぶ暇がなく、節が多くて黒い雑木を用いたところからこの名がつけられたと言われている。
節黒城は、信濃川対岸の大井田城とともに越後南朝勢力の拠点として重要な役割を果たした。
その後、室町時代の半ば頃に、やはり新田氏の流れをくむといわれる上野氏の居城となり、長尾氏と密接な関係を持つようになった。
上野家成は弘治2年(1556)8月23日、武田信玄に通じて上杉謙信に背いた箕冠城主大熊朝秀を駒帰で撃破した。また永禄12年(1569)、越相同盟締結の交渉にあたって、上杉謙信の命で沼田城蒋として活躍した。
節黒城は上杉氏の会津移封に従い廃城となった。(案内図)



≪現地案内板≫
節黒城跡

【十日町市指定文化財 史跡 節黒城跡 昭和50年2月26日
旧西川町史跡となり、合併後の十日町市に引き継がれる。標高365m】

節黒城は、信濃川の左岸、関田山脈系から南進する枝嶺の先端高部にその主郭群を置き、東に向かって築城された城郭である。
郭群は、麓から一之木戸・二之木戸(冬城ともいわれる)・三之木戸・実城部に区分され、三之木戸と呼称される場所以外には施設がみられる。(中略)
本丸に立つと信濃川流域に広がる中魚沼の河岸段丘を一望できる。中世には関東と越後府中を結ぶ重要な街道で、文明18年(1486)に聖護院門蹟道興准后、長亨2年(1488)に万里集九が渡った「木落渡し」を眼下におさめられる。東方には北魚沼境にある後山城、東南には南魚沼上田郡境の中将岳を望み、北西には柏崎市と柿崎境にある旗持山が遠望される。
「中魚沼郡風土志」によれば「本城址は新田氏の築く所にして、後村上天皇正平9年新田義宗、脇屋義治兵を率いて、武蔵守義興の応援として関東に向ひ碓氷峠に陣す、我軍備えず大敗し、旗杖を弄て奔り、皆此に匿ると云々。本城は固と新田氏の急に築きしものにて、結構粗造、用材削らず、多節黒木を用いて一時の拒を為せしにより、節黒城と名く。(中略)二百余年を過ぎ天文永禄の間、新田氏の族上野中務大輔長安、上杉謙信の麾下に属し、地方を領し、勇名あり、慶長三年参議景勝封を会津に移さる。長安止まりて従はず、庚子之役(1600)起る兵を挙て難に会津に赴く、後従ふて米沢に移り此城廃す」とあり、上野西永寺19世義忠和尚の手になる文化6年(1804)の「節黒城蹟記」も同様に伝えている。
(中略)また、上野中務長安が本城最後の城主であったことを幕末期の記録は伝えている。
「日本城郭大系 第7巻(新潟・富山・石川)」、『中魚沼郡風土史』より抜粋

節黒城跡展望台(平成25年10月改築)

平成24年、戦国時代末期・節黒城最後の城主上野中務長安の天守台を想定し、史実確認の上で規模・構造を検証し改築設計。改築を行う。

十日町市





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