大井田城跡 Oita Castle Ruins 十日町市



魚沼中条駅から徒歩1時間。約700年前に土着した新田氏一族の勇将大井田経隆・大井田氏経父子らの忠魂碑が本丸跡にたっている。
大井田氏は清和源氏新田支族で、新田氏の一族里見義継の子氏継に起こり、越後国魚沼郡波多岐庄大井田郷(十日町市)を領して大井田と名乗った。その子義隆の長子が経隆である。以後代々越後に居住する。

(大井田経隆)

〔生〕-〔没〕 不詳
鎌倉末期の当主は氏継の孫・大井田経隆で、経隆は本宗の新田義貞が元弘3年(1333)5月8日上野国新田庄生品明神の社前で1,500騎で挙兵した際、大井田経隆は経兼・氏経・経世の三子のほか、越後の同族里見・田中・羽川・烏山ら2000騎を集め、まっさきに新田義貞の元に馳せ参じた。
そして鎌倉攻めに加わり、化粧坂から討ちいった。いわゆる元弘の乱である。
大井田経隆は越後新田党の棟梁だったことがうかがわれる。
経隆のその後の事跡は明らかでない。1924年(大正13)2月正四位が追贈されている。経隆には3子があり、経兼、氏経、経世の名が知られる。

(大井田氏経)

〔生〕-〔没〕 不詳
次子氏経は新田義貞の幕下に属して有力な位置を占め、建武3延元元年(1336)5月18日、足利尊氏が西国から東上すると備後福山城に拠って戦ったが、足利直義に破られる。
建武3延元元年(1336)5月25日、足利尊氏・直義軍は楠木正成軍と新田義貞軍を分断し、『湊川の戦い』で楠木軍を破り、正成は自害した。その後足利尊氏・直義軍は西宮方面へ向かい、新田義貞軍・官軍と戦いこれを破る。大井田氏経は新田義貞の旗下で戦ったが、敗れて京都延暦寺に撤退した。後醍醐帝が足利尊氏と和睦を結ぶと、新田義貞は北陸道へ向かい、大井田氏経は越後に戻った。
建武5延元3年(1338)6月ごろ、新田義貞は越前丸石城にあり、上洛を企図していた。そして、越後波多庄にあった氏経に兵を率いて馳せ参じるように命じた。氏経は中条・鳥山・風間ら新田方の諸氏2万余の兵を率いて、越後を発し越中に侵入し、足利方の越中守護普門俊清軍を破り、加賀守護富樫高家を押し返した。そして新田本軍に合流しようとした。ところが、7月、新田義貞が戦死してしまったことで新田本軍は散り散りになり、新田軍の上洛戦は夢と消えた。この悲報が大井田軍に届くと、2万の軍勢は一気に数千騎に減ってしまし、止むを得ず氏経は越後へと戻った。
その後、氏経を棟梁とする越後新田党は義貞の遺子義宗を妻有庄に迎え、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。
建武6延元4年(1339)5月、足利氏一門の斯波氏斯波高経が派遣した大軍の攻撃を受け、新田方の城砦群はつぎつぎと落城していき、ついに大井田氏経の守る大井田城のみが残った。
氏経は連日連夜の猛攻をよく防ぎ、落城の気配は示さなかった。このとき、北朝方に一つの噂が飛んだ。新田義宗はすでに城内にいないというもので、義宗を討たなければ軍功にはならない、ということで攻撃がとまった。そして、北朝軍は三々五々、引き上げていった。こうして大井田城は落城を免れた。

(大井田氏経以降)

正平17年(1362)北朝方の上杉憲顕が守護に選任され、南朝の制圧に乗り出すと、南朝方は急速に没落の一途をたどり、新田義宗は正平23年(1368)、上野国との国境で討ち死にしている。
その後大井田氏は室町時代を上杉氏麾下の一土豪として生き延びた。
戦国期の大井田氏は上田長尾氏と同盟関係結び、越後国守護代の長尾氏と代々、姻戚関係をもった。
御館の乱では上田衆として出陣している。その後も上杉景勝の下で活躍し、会津への国替えの際にも同行している。その際、大井田城は廃城となった。

(大井田城)

城は、JR飯山線魚沼中条駅の当方にそびえる標高320メートルほどの通称"中条の城山"山頂に築かれている。 頂部には三角形の主郭があり、西側に二列三段の階段状の郭が積み重ねられている。そして之を取り巻くようにして二段の帯郭があり、東側と北側には土類と堀が残っている。 城郭の規模は小さく、空壕、土塁、帯郭の発達が十分でないかわりに、周囲に多くの支城郡を配置した散点式連城の主城として古い形態を留めているが、南面に戦国期特有の遺構である畝形阻塞も残っている。 (案内図)




現地案内看板
県指定文化財史跡 大井田城跡
昭和五十三年三月三十一日指定

大井田城跡は、南北朝時代、越後南朝方の中心勢力であったと伝えられています。大井田氏は、上野国(群馬県)の豪族新田氏の一族で、鎌倉時代の中ごろに大井田郷に土着し、勢力をふるうようになりました。
元弘三年(一三三三)、新田義貞が上野国で鎌倉幕府の討伐の兵をあげた時、真っ先きに馳せ参じたのは大井田経隆を首領とする越後の新田氏一族でした。これ以後、大井田氏などの一族は、建武の新政から南北朝時代の動乱期に、南朝方として各地に転戦し勇名をとどろかせました。
城の頂部には、三角形の主郭(本丸)があり、その西側に二列・三段にわたって階段状に郭が積み重ねられています。これらの郭を取り巻くように二段の帯郭があり、この南側端の山腹斜面に竪堀が掘られ、これに続いて畝方阻塞が設けられています。
このように、西側と南側に敵の攻撃を防ぐための施設が集中していますが、主郭の東側の尾根筋には、二条の空堀が設けられているにすぎません。
大井田城は、城の規模や構造などからすると、鎌倉時代の末期から南北朝時代(約七〇〇年前)にかけて築城され、その後、何度か補修や補強が行われ、戦国時代の末期(約四〇〇年前)まで使用されたものと考えられます。

十日町市教育委員会





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