魚沼中条駅から徒歩1時間。約700年前に土着した新田氏一族の勇将大井田経隆・氏経父子らの忠魂碑が本丸跡にたっている。
大井田氏は清和源氏新田支族で、新田氏の一族里見義継の男・氏継に起こり、越後国魚沼郡波多岐庄大井田郷(十日町市)を領して大井田と名乗った。以後代々越後に居住する。
鎌倉末期の当主は氏継の孫・大井田経隆で、経隆は本宗の新田義貞が元弘3年(1333)5月8日上野国新田庄で挙兵した際、大井田経隆は経兼・氏経・経世の三子のほか、越後の同族里見・田中・羽川・烏山ら2000騎を集め、まっさきに新田義貞の元に馳せ参じた。そして鎌倉攻めに加わり、化粧坂から打ちいった。いわゆる元弘の乱である。
大井田経隆は越後新田党の棟梁だったことがうかがわれる。
延元三年(1338)六月ごろ、新田義貞は越前丸石城にあり、上洛を企図していた。そして、越後波多庄にあった氏経に兵を率いて馳せ参じるように命じた。氏経は二万余の兵を率いて、越後を発し越中に侵入し、足利方の越中守護普門俊清軍を破り、加賀守護富樫高家を押し返した。そして新田本軍に合流しようとした。ところが、七月、新田義貞が戦死してしまったのである。新田本軍は散り散りになり、新田軍の上洛戦は夢と消えた。この悲報が大井田軍に届くと、二万の軍勢は一蹴に数千騎に減ってしまし、止むを得ず氏経は越後へと帰っていった。
その後、氏経を棟梁とする越後新田党は義貞の遺子義宗を妻有庄に迎え、城砦を築きあくまでも南朝方を貫こうとした。 翌年五月、幕府方は攻撃を開始し、その大軍を前に新田方の城砦群はつぎつぎと落城していき、ついに大井田氏経の守る大井田城のみが残った。氏経は連日連夜の猛攻をよく防ぎ、落城の気配は示さなかった。このとき、幕府方に一つの噂が飛んだ。新田義宗はすでに城内にいないというもので、義宗を討たなければ軍功にはならない、ということで攻撃がとまった。そして、三々五々、引き上げていった。こうして大井田城は落城を免れた。
正平17年(1362)北朝方の上杉憲顕が守護に選任されると、南朝の制圧に乗り出すと、南朝方は急速に没落の一途をたどり、新田義宗は正平23年(1368)、上野国との国境で討ち死にしている。
城は、JR飯山線魚沼中条駅の当方にそびえる標高320メートルほどの通称”中条の城山”山頂に築かれている。
頂部には三角形の主郭があり、西側に二列三段の階段状の郭が積み重ねられている。そして之を取り巻くようにして二段の帯郭があり、東側と北側には土類と堀が残っている。
城郭の規模は小さく、空壕、土塁、帯郭の発達が十分でないかわりに、周囲に多くの支城郡を配置した散点式連城の主城として古い形態を留めているが、南面に戦国期特有の遺構である畝形阻塞も残っている。
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