親不知 Oyashirazu 糸魚川市



☆ 地名の由来 ☆

親不知とは、新潟県南西端の、飛騨山脈の北端が日本海に落ち込む、崖の切り立ったところ。新潟県糸魚川市市振と外波との間にあり、古来、北陸道の最難所(天険)である。
親不知駅より東寄りには子不知海岸があり、この二つをまとめて、親不知子不知とも言う。親不知子不知海岸は延長15kmにも及ぶ海岸線であり、明治16年(1883)国道が開通するまでは、古来、北陸街道最大の難所としてその歴史を歩んできた。

平家が栄華を誇った頃、池大納言平頼盛は平清盛の弟でありながら確執があり、かねてより源頼朝に接近していた。平家が都落ちし滅亡後も源頼朝の情けにすがって京都に残ることを許された。しかし、平家を裏切ったという烙印を押され、朝廷にもまた京都にも居場所がなかった。頼盛は、越後の五百刈村(長岡市、旧中之島村)に領地を得て、ここで暮らすこととなった。(※頼盛は南北朝の戦乱で活躍した越後池氏の祖と言われている)ところが、京に残された奥方は夫が恋しくて、ある年、2歳になる子供を抱いて京都を出発、苦労しながら旅をして越後に入り、天下の嶮親不知子不知に差し掛かった。この日も波風の荒い日だったが、一刻も早く夫に逢いたい一念で海岸を歩いているうちに、我が子を懐から取り落とし、波にさらわれてしまった。奥方は悲しみのあまり、

親知らず 子はこの浦の波まくら 越路の磯のあわと消えゆく

という歌を詠んだという。これからこの地を親不知子不知と呼ぶようになったといわれている。これが地名の由来である。

☆ 親不知を歩く ☆

北陸線の親不知駅を境にして東海岸を子不知、西海岸を親不知という。この子不知海岸にも親ケ鼻や上杉謙信を裏切った大熊朝秀が上野家成と戦った駒返しなどがあり、大変な難所であった。

親不知の海岸沖に鬼クリ岩と投ヶ岩が見える。親不知の険で散々痛めつけられた腹いせに、弁慶が投げた岩がこの投ヶ岩だという。(諸説あり、大国主命が投げた岩とも云われている)これを見ながらぼつぼつ歩きだす。しばらくは穏やかな海岸を見ながら国道8号線を西へ、漁村外波の集落を通って竹ヶ鼻に着く。親不知は竹ヶ鼻から始まる。風波川を渡るために道路がカーブする所に展望台がある。上がって眺めればなるほど親不知は天下の険だと肯けよう。天気によっては波浪かなたに能登半島が望める。また、ここには国道8号線改修記念に建てられた『愛の母子像』もある。

かつては海岸線をなぞるように、国道と平行して走っていたJR北陸線は、浪害を避けて昭和40年(1965)10月に長さ5km余の親不知トンネルで地中に入った。国道は雪崩と落石から守る天蓋(セット)に覆われながら走り、天険トンネルに入る。その入り口にバスの天険停留所があるが、バス停の手前から降りて親不知コミュニティロード(旧国道)の遊歩道を歩くと、上の方に『波除観音』が二つ嵌め込まれている。
昔、波に子供をさらわれた母親が、一心に観音経を読んでいたら、愛児が返す波に乗って母親のところに返ってきたので、母は感謝して奉納したのだと伝えられている。旅人は無事に天険親不知が通過できるようにと祈る。
岩間から出ている清水を弁慶の力水という。のどを潤していよいよ難路にかかる。
この天嶮といわれるところに『髭剃り岩』がある。元は高い垂直の岩だったという。波をよけて、この岩の上の方にしがみついていたが、だんだん下へずり落ちるとともに、頬の髭が擦り切れてカミソリで剃ったようになるというので名付けられたという。そのあたりの浜を『弁慶の泣きっ面』という。波の恐ろしさにさすがの弁慶も泣きっ面になったようだ。

絶壁に『如砥如矢(とのごとく やのごとし)』と刻まれた箇所がある、これは明治16年(1883)旧国道が開通したのを記念して彫られたものである。ここから100m下が『大フトコロ』である。
断崖に小フトコロ、大フトコロ、大穴、小穴などという大小の洞窟がある。一番大きな『大フトコロ』には200人もの人が入れる。旅人は波に追われてこれらの洞窟に逃げ込んだものという。『大穴』と次の避難場所との距離が非常に遠く、『長走り』は逃げ場のないもっともこわい浜であった。南無遍照金剛と岩に彫られた大きな字を仰ぎ、『波よけ不動』の石祠まで走りこめばまず安全、ほっとしたところを『浄土』または『浄土崩れ』という。再び国道に上がって市振に向かう。

元禄2年(1689)、「今日は親知らず・子知らず・犬戻・駒返しなどという北国一の難所を越えて、疲れ侍れば、枕引きよせて寝ねたるに(中略)一家に遊女も寝たり萩と月」と『奥の細道』にある松尾芭蕉が泊まった市振関に入り、長い町並みを通って駅に向かう。(案内図)

☆市道天険親不知線(旧国道)開削☆

糸魚川市道天険親不知線は、海抜約100mの断崖を開削して拓いた東西1.0kmの道路で、1966年(昭和41)に国道8号天険トンネルが開通する以前の国道の旧道にあたり、現在は主に観光客向けに親不知コミュニティロードの遊歩道として利用されている。昭和61年(1986)、日本の道100選に選定された。
天険親不知線が開通する前の古人が旅した北陸道は、高波時には危険な海岸線を通るか、山越えの悪路にて通過するしかなかった。
安全な新道建設にむけた運動が盛り上がり、国道開設工事が行われることとなった。
1882年(明治15)5月に工事着工し 翌1883年(明治16)12月1日に国道が完工、12月8日に開通式が行われた。ここでようやく、日本海側の東西を結ぶ幹線道路が誕生し、人力車や荷車が往来できるようになった。
この工事は、断崖絶壁を縫ってすべて人力で行なわれ、苦難を極めたと語り継がれている。その道路完成を記念し、道路の上にある日本海に面した一枚の大岩盤面に、約1メートル角の四大刻字で「如砥如矢」と刻まれた。

☆ 『越後つついし親不知』 ☆

昭和37年(1962)12月発表された、水上勉の『越後つついし親不知』は、親不知から約5キロメートル山奥へ入ったところの歌合村を舞台にしている。
JR北陸本線親不知駅を降りて、東に150メートル、旧道トンネル駒返し入り口に近いところに、昭和60年文学碑が建てられた。

海はちりめんじわのあかね色、
空は橙いろに金糸をはしらせ
た来迎の絵屏風。
美しい親不知の海にいま身を
はてて死ぬるより生きようと
おしんは思うた。
水上勉『越後つついし親不知』 より

黒いみかげ石には、上のような文が刻まれている。

見どころ


現地案内看板

著名作家に愛された親不知 親不知ジオサイト

親不知を舞台にした小説「越後つついし親不知」や「雁の寺」、「飢餓海峡」等で知られる作家の水上勉(大正8年~平成16年/1919~2004)は、著書「新日本紀行」の中で親不知について次のように書いています。
越後の「親不知」を私は好きである。美しい日本の風土の中で私はいちばん「親不知」が好きである。私は、これまで「親不知」を何ど訪ねたことだろう。東京に住むようになってから私は若狭へ帰るたびに、わざわざ北廻りの汽車に乗ったのは「親不知」の風光を見るためであった。「親不知」は激しい断崖と荒波の海しか見えない。 日本の中心部を横断する中部山岳地帯が、北の海へ落ちこむのはこの親不知付近である。山は固く、頑固な壁となって北陸道へ険しく襲いかかるように、樹木の少ない荒ぶれた肌をみせて落ちこんでいる。

糸魚川市
現地案内看板

親不知文学散歩 親不知ジオサイト

親不知は、古来より多くの文学作品に登場しています。
「源平盛衰記」作者不詳/「善光寺紀行」尭恵
「奥の細道」松尾芭蕉/「東遊記」橘 南谿
「諸国道中金の草鞋」十返舎一九/「三富集」中江晩籟
「能登-人に知られぬ日本の秘境-」パーシヴァル・ローウェル
「日本アルプス登山と探検」ウォルター・ウェストン
「山椒太夫」森鴎外/「日本美の発見」ブルーノ・タウト
「親不知・子不知」深田久彌/「日本海の波」久保田万太郎
「越後つついし親不知」水上勉
「万葉翡翠」松本清張/「かんじき飛脚」山本一力


親不知の晩秋をうたった詩に右のような一節があります。

しらなみ 中野重治

ここにあるのは細ながい磯だ
うねりは遥かな沖なかにわいて
よりあいながら寄せてくる
そして この渚に さびしい声をあげ
秋の姿でたおれかける
(中略)
ああ越後のくに 親しらず 市振の海岸
ひるがえる白浪のひまに
旅の心はひえびえとしめりをおびて来るのだ

糸魚川市
























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