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松尾芭蕉 Matsuo Basho



🔗市振での芭蕉

俳人松尾芭蕉は正保元年(1644)、伊賀国上の赤坂(三重県上野市)に生まれた。『おくのほそ道』の旅に出たのは、元禄2年(1689)3月20日、46歳の時であった。門弟曾良を連れて江戸深川の芭蕉庵を出て、平泉中尊寺金色堂を拝み、6月27日、「酒田余波日を重ねて」鼠ヶ関(山形県)を越えて越後に入る。出羽街道を歩き山北中村(現:村上市北中集落)に宿をとった。
28日、越後村上城下に入る。28日・29日村上久左衛門宅で2泊する。当時、村上は榊原氏の城下町で、城代家老の榊原帯刀の亡父良兼は、曾良が伊勢長島時代仕えた松平良尚の三男であり、養子となって村上へ移っていた。
29日、一行は榊原邸に伺い許可を得て、光栄寺(現在は上越市に移転)で墓参りをおこなった。
7月1日、乙(胎内市)の次作を訪ね乙宝寺を見学する。当夜は築地にある次作の子次市良の家に泊まる。
そして2日に新潟に入った。新潟では雨に降られ難渋していたところ、町中の源七という大工が宿を提供した。これに感激した芭蕉は、「海に降る雨や恋しき浮見宿」と詠んだ。句碑が神明宮境内(新潟市古町1)にある。
3日は弥彦神社に参詣し、弥彦に泊まる。
4日は寺泊町の西生寺に立寄り、出雲崎の大崎屋に泊まる。
5日は柏崎の天屋に泊まる予定で、紹介状もあったが宿泊を断られ、鉢崎(柏崎市米山)まで歩き、博労宿の「たわら屋」に泊まった。
6日荒川(関川)を渡し舟でわたって今町(直江津)に入った。聴信寺※地図に宿泊の予定であったが、葬儀が行われており、変更して古川市左衛門の家(後の旅館「古川屋」)に宿泊する。
この夜は聴信寺(上越市中央3)で句会が開かれ、七夕祭りの前夜であったので、「文月や六日も常の夜には似ず」の句を詠んだ。句碑は中央三の琴平神社境内にある。7日も聴信寺や佐藤元仙宅で句会が開かれた。有名な句、出雲崎で見た夜の日本海を「荒海や佐渡に横たふ天の河」と詠んだ。この夜は佐藤元仙宅に泊まる。
8日、高田に入り、大工町(中町四)の医師細川春庵(俳号棟雪)宅を訪問した。この日から池田六左衛門宅に3泊する。
9日・10日は雨に降られて滞在。この間、細川春庵宅の薬草園の花に寄せて「薬欄(やくらん)にいずれの花を草枕」と詠んだ。句碑は国分寺(五智三)と金谷山の「対米館」脇(大貫)にある。国分寺の句碑は。明和7年(1770)5月12日に建立されたものである。
11日は快晴、11時に高田を発って、国分寺、居多神社(五智6)に参拝し、旅の安全を祈願して越中に向かった。この日は能生に宿泊。
翌12日、白山神社を参詣したおり、神社に伝わる「汐路の鐘」のいわれを聞き、「曙や 霧にうつまくかねの聲 」の句を詠む。
汐路の鐘は、明応8年(1499)能登国仲居浦(現穴水町)で鋳造された。名前の由来は、潮の満ちてくると鐘が共鳴して、自然に音を出したということから「汐路の鐘」と言われています。
現在の損傷が激しいのは、明治の廃仏毀釈によって破損されたことによる。
そしてこの夜は県境市振に宿泊し、悲しいさだめめの女との出会いを「一家に遊女もねたり萩と月」の名句を残し、7月13日越中路に抜ける。

越後路は季節が夏真っ盛りで、芭蕉も体調が優れなかったことや、天候にも恵まれず、雨に降られることが多かった。また、新潟と柏崎で宿泊をことわられるなど、苦労が多かったことなどからか、『奥の細道』内で、越後についての記述は、他と比べてあっさりとしたものとなっている。しかし、同行した曾良が、几帳面な性格で書き溜めた旅記から、越後での芭蕉の行動については知ることができる。


旅程
(旧暦)
6月27日 〔🌂〕 鼠ヶ関を経て中村(現村上市北中)着、泊 ※地図 ※ストリートビュー
6月28日 〔⛅/☂〕 葡萄峠を越え午後4時頃村上着、久左衛門宅泊 ※地図 ※ストリートビュー
6月29日 光栄寺で墓参し瀬波へ、村上久左衛門宅泊
7月 1日 〔🌂/⛆〕 午前11時頃村上を立ち、泰叟院(現在の浄念寺)、石船神社、午後1時頃乙宝寺に立ち寄る。築地次市良泊。
7月 2日 〔⛅〕 午前8時頃築地を立ち船に乗り、午後3時頃新潟着、源七宅泊
7月 3日 午後4時頃弥彦に着く。弥彦神社に参詣、弥彦泊
7月 4日 /⛆〕 午前8時頃弥彦を立ち、西生寺から野積を経て午後4時頃出雲崎着、大崎屋泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月 5日 〔☂〕 午前8時頃出雲崎を立ち、柏崎、米山峠経て、午後5時頃鉢崎(現米山町)「たわら屋」泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月 6日 〔⛅〕 昼頃鉢崎を立ち、直江津、古川屋古川市左衛門宅泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月 7日 〔☂〕 直江津、佐藤元仙宅泊
7月 8日 〔⛅〕 午後3時頃高田着、池田六左衛門宅泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月 9日 〔🌂〕 高田、池田六左衛門宅泊
7月10日 〔🌂〕 高田、池田六左衛門宅泊
7月11日 午前10時半ころ高田を立ち、直江津を経て能生、旅籠玉屋五郎兵衛泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月12日 親不知子不知を越て午後5時頃市振着、桔梗屋泊 ※地図 ※ストリートビュー
7月13日 〔⛅〕 境川を渡って300kmに及ぶ越後路を終る
句碑
「荒海や佐渡に横たふあまの川」
出雲崎町住吉町芭蕉園内 ※地図 ※ストリートビュー
北陸自動車道米山SA(下り) ※地図 ※ストリートビュー
弥彦村弥彦宝光院境内 ※地図
出雲崎町尼瀬妙福寺境内 ※地図
「文月や六日も常の夜には似ず」
村上市石船神社境内 ※地図
上越市中央3琴平神社境内 ※地図 ※ストリートビュー
北陸自動車道名立谷浜SA(下り) ※地図 ※ストリートビュー
「一家に遊女もねたり萩と月」
糸魚川市市振長円寺境内 ※地図 ※ストリートビュー
「薬欄にいつれの花を草枕」
上越市五智3国分寺境内 ※地図 ※ストリートビュー
上越市大貫2丁目18 レルヒロード ※地図 ※ストリートビュー
「うたがふな潮の花も浦の春」
寺泊町大町法福寺祖師堂境内 ※地図 ※ストリートビュー
「海に降る雨や恋しきうきみ宿」
新潟市古町1神明宮境内 ※地図 ※ストリートビュー
「曙や 霧にうつまくかねの聲」
糸魚川市能生 白山神社境内 ※地図 ※ストリートビュー

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市振での芭蕉

午後4時頃、市振の小さな宿「桔梗屋」(1914年(大正3)の火災により現存せず、記念碑がたっている)に到着した芭蕉達がくつろいでいると、一間隔てた表の部屋から若い女達の話し声が聞こえてきた。
このころ、一生に一度、伊勢神宮をお参りするのが庶民の夢であったが、女達も、お伊勢参りの途中の新潟の遊女でった。
浮草稼業の身の上を嘆き、前生の業のふかさにおびえる女たちと、浮世を捨てた僧形のわが身が同じ屋根の下にとまることにものの哀れを感じつつ、耿耿と照る月のした、宿のの庭に咲く萩を眺めて作ったのが
「一家に遊女もねたり萩と月」
の名句である。
今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。

『一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月』

曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
桔梗屋跡碑
〔所在地〕新潟県糸魚川市市振728番地1
桔梗屋跡現地案内看板
史跡 伝芭蕉の宿桔梗屋跡

この地は、元禄二(一六八九)年七月十二日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり、

一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正三(一九一四)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。

安政三(一八五六)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。

市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、
遊女も寝たる旧地なり。
寝覚めして 何やらゆかし 宿の花

良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています。

市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月

昭和五十年二月十五日指定
糸魚川市教育委員会

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@村上市観光協会
千年鮭 井筒屋

松尾芭蕉が投宿した場所とされる村上市小町の旅館「井筒屋」(※2001年に廃業)の建物を活用し、鮭加工販売業「村上の千年鮭 きっかわ」が、2017年3月17日に村上市名産の塩引き鮭を食べられる食事どころを開店した。






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