松尾芭蕉 



俳人松尾芭蕉は正保元年(1644)、伊賀国上の赤坂(三重県上野市)に生まれた。『奥の細道』の旅に出たのは、元禄2年(1689)3月20日、46歳の時であった。門弟曾良を連れて江戸深川の芭蕉庵を出て、平泉中尊寺金色堂を拝み、6月27日、「酒田余波日を重ねて」鼠ヶ関(山形県)を超えて越後村上城下に(村上市)にはいった。 そして日本海沿いに村上・築地・新潟・弥彦、7月4日出雲崎を経て、鉢崎、6日、荒川(関川)を渡し舟でわたって今町(直江津)に入った。この間出雲崎で、「荒海や佐渡に横たふ天の河」を詠んだ。

同夜、七夕祭りの前夜であったので、長信寺(上越市中央3)で、「文月や六日も常の夜には似ず」の句を詠んだ。句碑は中央三の琴平神社境内にある。八日、高田に入り、大工町(中町四)の医師細川春庵(俳号棟雪)宅を訪問した。9日・10日は雨に降られて滞在。この間、細川春庵宅の薬草園の花に寄せて「薬欄(やくらん)にいずれの花を草枕」と呼んだ。句碑は国分寺(五智三)と金谷山の対米館(大貫)にある。国分寺の句碑は。明和7年(1770)5月12日に建立されたものである。

11日は快晴、11時に高田を発って、国分寺、居多神社(五智六)に参拝し、旅の安全を祈願して越中に向かった。
黒井の本敬寺に「寂しさや花のあたりの翌(あす)ならう」の句碑が、南本町さんの正輪寺境内内に「景清も花見の座には七兵衛」の句碑がある。いずれも、上越市とは関係がない。

そして県境市振で、悲しいさだめめの女との出会いを「一家に遊女もねたり萩と月」の名句を残し、7月12日越中路に抜ける。

市振での芭蕉
午後4時頃、市振の小さな宿(「桔梗屋」火災により現存せず、記念碑がたっている)に到着した芭蕉達がくつろいでいると、一間隔てた表の部屋から若い女達の話し声が聞こえてきた。
このころ、一生に一度、伊勢神宮をお参りするのが庶民の夢であったが、女達も、お伊勢参りの途中の新潟の遊女でった。
浮草稼業の身の上を嘆き、前生の業のふかさにおびえる女たちと、浮世を捨てた僧形のわが身が同じ屋根の下にとまることにものの哀れを感じつつ、耿耿と照る月のした、宿のの庭に咲く萩を眺めて作ったのが
   「一家に遊女もねたり萩と月」
の名句である。

桔梗屋跡現地案内看板
史跡 伝芭蕉の宿桔梗屋跡

この地は、元禄二(一六八九)年七月十二日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり、

 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月

の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正三(一九一四)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。

安政三(一八五六)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。

 市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、
 遊女も寝たる旧地なり。
 寝覚めして 何やらゆかし 宿の花

良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています。

 市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月

昭和五十年二月十五日指定
糸魚川市教育委員会


桔梗屋跡碑 ストリートビュー
〔所在地〕新潟県糸魚川市市振728番地1


(出展:歴史紀行 上越) 


旅程
旧暦6月27日 鼠ヶ関を経て中村(現山北町北中)着、泊
6月28日 葡萄峠を越え村上着、泊
6月29日 瀬波へ村上泊
7月1日 石船神社、乙宝寺に立ち寄る。築地泊。
7月2日 船に乗り、午後3時頃新潟着、泊
7月3日 弥彦神社に参詣、弥彦泊
7月4日 西生寺から野積を経て出雲崎着、泊
7月5日 柏崎、米山峠経て鉢崎(現米山町)泊
7月6日 直江津泊
7月7日 直江津泊
7月8日 高田泊
7月9日 高田泊
7月10日 高田泊
7月11日 直江津を経て能生泊
7月12日 親不知子不知を越て市振着、泊
7月13日 境川を渡って300kmに及ぶ越後路を終る
句碑
「荒海や佐渡に横たふあまの川」
出雲崎町住吉町芭蕉園内 地図
北陸自動車道米山SA(下り) 地図
弥彦村弥彦宝光院境内 地図
出雲崎町尼瀬妙福寺境内 地図
「文月や六日も常の夜には似ず」
村上市石船神社境内 地図
上越市中央3琴平神社境内 地図
北陸自動車道名立谷浜SA(下り) 地図
「一家に遊女もねたり萩と月」
青海町市振長円寺境内 地図
「薬欄にいつれの花を草枕」
上越市五智3国分寺境内 地図
「うたがふな潮の花も浦の春」
寺泊町大町法福寺祖師堂境内 地図
「海に降る雨や恋しきうきみ宿
新潟市古町1神明宮境内 地図









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親不知観光ホテル
歴史ある古来北陸道の最難所、親不知。日本海に面した断崖絶壁に建つ当館で、見渡す限りの海の眺めと日本海ならではの新鮮魚介類をたっぷりと満喫。