松尾芭蕉 Matsuo Basho
🔗市振での芭蕉俳諧の旅人、北陸へ向かう俳人松尾芭蕉は、寛永21年(1644)、伊賀国上野赤坂(現在の三重県伊賀市上野赤坂町)に生まれた。出生地については江戸時代以来、上野説と柘植説の両説があるが、現在の「史跡芭蕉翁生家」は上野赤坂にあり、芭蕉が青年期まで過ごした場所として伝えられている。江戸へ出て俳諧師として名を高めた芭蕉は、元禄2年(1689)、46歳の時に生涯を代表する旅に出る。門人河合曾良を伴い、江戸深川から奥州、出羽、北陸を巡り、美濃大垣まで至る長旅であった。旅の総距離は約六百里とされ、単なる観光旅行ではなく、古人の足跡や歌枕を訪ね、自然と歴史の中に身を置きながら俳諧を深める旅でもあった。芭蕉は『おくのほそ道』の冒頭で「月日は百代の過客」と書き、自らの人生そのものを旅としてとらえる姿勢を示している。 旅立ちの日については興味深い問題がある。『おくのほそ道』本文では「弥生も末の七日」とあり、元禄2年3月27日を出立日とする。一方、曾良の旅日記の序には「巳三月廿日、同出、深川出船」と記されている。この食い違いは古くから議論されてきたが、本文、芭蕉の書簡などを総合して3月27日を実際の旅立ちの日とみる考えが有力である。 深川を出た二人は千住から北へ向かい、日光、那須、白河を越え、仙台、松島、平泉を巡った。その後は出羽へ入り、羽黒山、鶴岡、酒田、象潟などを経て、いよいよ北陸道を南下することになる。旅の大きな目的の一つであった象潟をあとにすると、芭蕉と曾良は酒田から日本海沿いを進み、越後の国境へ近づいていった。 鼠ヶ関を越え、いよいよ越後へ元禄2年6月25日、酒田を発った一行は北陸道を南下し、6月26日に温海へ入った。27日、芭蕉は馬を借りて温海から鼠ヶ関へ向かい、曾良は途中で温海の湯本に立ち寄って別行動をとった。その日の夕刻、一行は越後最北部の山北地方にあたる中村へ入った。曾良の記録には「中村に宿す」と簡潔に残されている。翌28日は中村を出発して村上へ入り、村上では二泊することになる。現在なら車で短時間に移動できる距離も、当時は山道や峠道を徒歩と馬で進まなければならない。特に夏の日本海側は暑さと湿気が厳しく、川を渡り、坂道を越え、宿を探しながら進む旅だった。『おくのほそ道』本文も、このころの越後路について「暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」と記している。越後入り直後から、芭蕉は体調を崩すほどの暑さと湿気に悩まされていたのである。 それでも、この越後入りは芭蕉にとって単なる通過ではなかった。村上には曾良にとって特別な縁があったからである。 村上で明らかになる曾良の過去6月28日、芭蕉と曾良は村上城下へ入り、大和屋久左衛門宅に泊まった。曾良の旅日記によれば、二人は村上城中へ案内され、町年寄の喜兵衛や友兵衛らの訪問を受けている。翌29日には、喜兵衛、友兵衛の案内で光栄寺を訪れ、榊原家の家老であった榊原一燈の墓を詣でた。さらに村上藩筆頭家老の榊原帯刀から銭百疋を拝領し、宿に戻ると冷麦のもてなしも受けている。この一燈とは、榊原良兼という人物である。良兼は曾良が伊勢長島藩主松平良尚に仕えていた時代と深く関係する人物で、松平良尚の三男として生まれ、のちに村上藩の有力家臣であった榊原家の養子となった。一燈は俳号でもあり、江戸にいたころ芭蕉と交友があったとされる。貞享4年(1687)7月29日に亡くなっており、芭蕉たちが村上を訪れた元禄2年は、その三回忌にあたっていた。 この偶然は、実に興味深い。曾良たちは一燈の命日にあたる時期を見計らったかのように村上へ入っている。しかも城内へ案内され、家老から餞別まで受けている。芭蕉の紀行として見ると村上の記述は短いが、曾良自身の人生史という観点では、非常に重要な訪問だったと考えられる。 芭蕉と曾良の旅は、師匠と弟子が名所を巡るだけのものではなかった。曾良自身にも、旅先で再会すべき人、訪ねるべき寺、確かめるべき過去があった。村上では、それがはっきりと姿を現したのである。 宿では冷麦が振る舞われ、瀬波海岸へも案内された。旅の途中で土地の人々から歓待を受けることは、長旅を続ける芭蕉たちにとって大きな慰めだった。村上滞在は二泊にすぎないが、そこには人的なつながりが重なり合う濃密な時間があった。 村上から乙宝寺へ7月1日、喜兵衛らの案内で榊原家ゆかりの寺へ参詣したのち、村上を出発する。曾良の日記によれば、午前中に村上を立ち、乙村へ入り、知人の次作を訪ねた。次作は二人を大いにもてなし、その案内で乙宝寺を訪ねる。雨に見舞われながらも寺を見学し、その夜は築地村の次市郎宅に泊まった。翌日にはいよいよ新潟へ向かうことになる。この時代、旅人にとって宿は必ずしも現在のように容易に見つかるものではなかった。紹介状や知人のつてが重要であり、土地の人から人へとつながる人脈が旅を支えていた。芭蕉の旅日記を読むと、宿の変更や突然の雨、案内人との出会いが何度も登場する。名所旧跡だけを追った旅ではなく、土地の人々との関係そのものが旅の成否を左右していたことが分かる。 新潟で宿を断られ、「浮見宿」を詠む7月2日、芭蕉と曾良は新潟へ入った。この日の出来事は、越後路の中でも特に旅人としての苦労を感じさせる。新潟では追込宿以外に適当な宿がなく、しかも雨に降られて一行は困り果てた。その時、町中の大工源七という人物が芭蕉たちを泊めた。見ず知らずの旅人に宿を提供することは、当時としても決して当たり前ではなかっただろう。疲れと雨に苦しむ旅の途中で突然宿を得た芭蕉にとって、源七の行為は強く心に残った。そこで詠まれたと伝わるのが、
新潟には現在もこの句に関係する句碑が伝えられ、芭蕉の越後路をたどる上で重要な場所となっている。新潟という大きな湊町に入ったにもかかわらず、名所をゆっくり見物するどころか、宿探しに苦労するという一夜だったことが、この句にかえって強い実感を与えている。 弥彦神社から寺泊、西生寺へ7月3日、芭蕉一行は新潟を出発した。源七から「駄賃が高い」と注意されたため、馬を使わず徒歩で進んだという。この小さな逸話からも、旅人が常に経費を気にしていたことが分かる。長旅では宿代だけでなく、馬代、人足代、荷物の運搬費などが積み重なった。芭蕉は俳諧師として各地の門人や知己から歓待を受けていたものの、旅を続けるには節約も必要だった。この日は弥彦神社へ参詣し、弥彦に宿泊した。弥彦は古くから越後一宮として広く信仰を集める土地であり、越後の旅では外せない場所だった。翌4日は弥彦を出発し、寺泊方面へ向かう。途中、西生寺に立ち寄り、弘智法印の即身仏を拝観した。西生寺の弘智法印は、長い苦行の末に即身仏となった人物として信仰を集めていた。曾良の日記にも、この参詣の経緯がかなり具体的に記されている。弥彦を出た二人は道をそれて西生寺へ向かい、その後野積浜へ抜けている。 ここには、芭蕉の旅の特徴がよく表れている。目的地へ最短距離で向かうのではなく、古寺や霊場、伝説の地に立ち寄りながら進む。『おくのほそ道』の旅は、いわば「寄り道の旅」でもあった。その寄り道こそが、旅に深みを与えていた。 この日の夕刻、一行は出雲崎へ入り、大崎屋に泊まった。出雲崎は佐渡金銀の積み出し港として栄えた土地であり、日本海を隔てて佐渡島を望む場所でもある。後に芭蕉が「荒海や佐渡に横たふ天の河」という句を残す背景には、この日本海の風景があった。 柏崎で宿を断られ、鉢崎へ7月5日、出雲崎を出た一行は柏崎へ向かった。あらかじめ天屋弥惣兵衛への紹介状を持っていたが、曾良旅日記には、宿を頼んだものの「不快して出づ」と記されている。つまり、宿泊を断られたのである。しかも道中では、いったん引き留めようとして人が走って追ってきたものの、結局泊まらずに先へ進んだという。雨も断続的に降っていた。こうして芭蕉たちは柏崎をあとにし、夕刻になって鉢崎へ到着した。宿は俵屋六郎兵衛方の「たわら屋」だった。 新潟でも宿を探し、柏崎でも断られる。これだけを見ると、越後路はずいぶんつれない旅だったようにも思える。しかし実際には、源七のように突然救いの手を差し伸べる人もいた。旅とは、歓待と拒絶、安心と不安を交互に味わうものだったのである。 直江津、雨の中の句会7月6日、鉢崎を出た芭蕉と曾良は浜沿いを通って今町、現在の直江津へ向かった。関川を渡り、聴信寺を訪ねる予定だった。美濃の俳人宮部弥三郎の紹介状を持っていたが、聴信寺ではちょうど忌中で、宿泊ができなかった。そこで古川市左衛門の家に宿を借りることになった。後にその家は旅館「古川屋」となり、2012年まで営業していたと伝えられる。ここでも宿をめぐる予定変更が起きている。にもかかわらず、この夜は土地の俳人たちが集まり、句会が開かれた。七夕を翌日に控えた旧暦7月6日の夜、芭蕉は「文月や六日も常の夜には似ず」と詠んだ。この句は、翌日が七夕であることを意識した夜の趣を詠んだものだ。まだ七夕本番ではない。しかし、七夕を翌日に控えた町には、すでにいつもの夜とは違う気配が漂っている。旅の疲れを抱えた芭蕉が、土地の人々と句を交わすことで、旅先の時間に自分を溶け込ませていくような一句でもある。 7月7日も雨は降り続いた。芭蕉は聴信寺からの招きを受け、さらに佐藤元仙宅へ招かれて句会を開いた。その夜に詠まれたとされるのが、あまりにも有名な、
この句には不思議な問題もある。曾良の日記によれば、この夜は雨と風が強く、「天の河」が実際に見える天候ではなかったとされる。それでもこの句は、七夕の夜、荒れる日本海、その向こうに横たわる佐渡という壮大なイメージを一気に結びつけている。実景をそのまま写したというより、現地で得た風景や想像を重ねて作り上げた句とも考えられる。 ここに芭蕉の文学の特徴がある。見たものをそのまま記録するのではなく、土地の記憶、古典的なイメージ、旅の感情を一つの景色に凝縮する。だからこそ、雨の夜にもかかわらず「天の河」が見えるのである。 高田三泊、俳諧に明け暮れた日々7月8日、雨のため出発を見合わせた後、芭蕉と曾良は高田へ向かった。高田では三泊し、越後路の中でも比較的長く滞在した。上越市の資料によれば、芭蕉は越後国内で村上に二泊したほか、高田に三泊、直江津今町に二泊しており、土地の人々と俳諧を行ったのもこの直江津と高田だった。高田では池田六左衛門宅に宿を取り、医師細川春庵を訪ねた。春庵は俳号を棟雪、あるいは青庵と称した俳人でもあり、医師として薬草を扱う人物だった。8日、春庵から人が迎えに来て芭蕉を案内し、その夜から俳諧が始まる。9日には前日の歌仙を満尾し、10日には中桐甚四郎宅へ招かれて一歌仙を巻いた。曾良の旅日記には、その一連の様子が簡潔ながら克明に残っている。この高田滞在で生まれた句が、
薬欄とは薬草を植えた場所を意味する。医師春庵の薬草園を前に、旅人である芭蕉がどの花を薬草と見定めるでもなく、むしろその草花を一つの「草枕」として眺めている。旅と薬草園、医師と旅人、病と養生という複数のイメージが重なっている。 上越市にはこの句にまつわる句碑が残る。五智国分寺にも句碑があり、句碑そのものは芭蕉の没後に建てられたものだが、地元では高田滞在を伝える重要な文化資料となっている。上越市の資料によると、元禄2年7月9日に細川春庵宅で開かれた俳諧の発句としてこの句が詠まれ、後に句碑へ刻まれたとされる。 高田の三日間は、越後路で苦労が続いた芭蕉にとって、ようやく心身を落ち着けて俳諧に打ち込めた時間だったと見ることができる。宿を断られ、雨に追われながら歩いた新潟や柏崎に比べると、高田では土地の俳人たちが集い、連句を巻き、食事をともにし、文学について語ることができた。旅の途中で一つの文化圏に身を置いた三日間だった。 五智国分寺、居多神社から能生へ7月11日、快晴となった。暑さは激しく、曾良は「暑甚シ」と書いている。それでも午前遅くに高田を出発し、五智国分寺、居多神社を参詣した。五智国分寺は越後における古代以来の仏教文化を象徴する寺院であり、居多神社も越後の古社として知られていた。芭蕉は旅の安全を願いながら、北陸道をさらに西へ進んだと考えられる。この日は能生まで進み、玉屋五郎兵衛宅に宿泊した。高田から能生への道は、現在の感覚なら一日の移動として考えにくいほどの距離だが、江戸時代の旅人は徒歩を基本としていた。朝から夕刻まで歩き続け、宿に着いてからようやく食事をとり、翌朝また出発する。それが当時の街道旅行だった。 能生白山神社と「汐路の鐘」7月12日、能生を出発した芭蕉は白山神社へ参詣した。ここで伝え聞いたのが「汐路の鐘」の伝説である。汐路の鐘は明応8年(1499)、能登国仲居浦、現在の石川県穴水町付近で鋳造された梵鐘と伝えられる。潮が満ちてくると共鳴して自然に音を出したことから、「汐路の鐘」と呼ばれたという。明治初年の廃仏毀釈の際に破損し、現在は上下が割れた状態となっているが、昭和51年に新潟県文化財に指定された。芭蕉が能生を訪れた際、この鐘の話を聞いたことから、
朝霧の中から鐘の音が響いてくる。実際に目で見える鐘そのものより、音だけが霧の中を伝わる情景を描いたところに、この句の魅力がある。旅人にとって寺社は単なる見物の対象ではなく、そこで聞いた伝承や土地の話まで含めて旅の記憶となった。 能生を出た一行は、いよいよ越後路最大の難所へ向かう。親不知、子不知、犬戻り、駒返しと呼ばれる険しい海岸道である。 親不知・子不知を越えて市振へ親不知・子不知は、飛騨山脈の末端が日本海へ迫り、断崖と海岸が狭く接する難所だった。現在でこそ道路やトンネルによって安全に通行できるが、江戸時代には波の状況を見ながら海岸を進み、険しい岩場を越えなければならなかった。曾良の記録には、この日の旅の様子がさらに生々しく残る。能生を出た後、早川で芭蕉がつまずいて衣類を濡らし、川原でしばらく乾かしている。その後、糸魚川で休み、夕刻には市振へ到着した。つまり、市振の華やかな「遊女」の場面に至るまでにも、実際の旅では転倒や濡れた衣類、長距離歩行など、かなり泥臭い出来事が続いていた。 そして『おくのほそ道』は、ここで一転して文学的な趣を強める。芭蕉は市振の宿で、隣室から若い女性二人の声を聞く。新潟の遊女で、伊勢参宮の途中だという。翌朝、彼女たちは旅の同行を願うが、芭蕉は「我々は所々にてとどまる方おほし」と断る。その哀れさが心に残り、
『おくのほそ道』の中でも最も印象的な場面の一つである。しかし、この逸話については注意が必要だ。曾良の旅日記には遊女についての記載がなく、研究上、後から芭蕉が文学的に構成した可能性が指摘されている。芭蕉会議や近年の研究紹介でも、この市振の場面は実際の出来事をそのまま記録したものではなく、古典説話などを踏まえた創作的な文章ではないかと論じられている。 つまり、「遊女が本当に隣室にいたのか」という史実だけを問題にすると、この場面の文学的な意味を見失う。芭蕉は旅で出会った土地の風景や人々を、単なる日記ではなく、一つの作品として再構成したのである。 萩と月という取り合わせも象徴的である。地上に咲く萩と、その上に浮かぶ月。二つは同じ夜の中にありながら触れ合うことはない。そこに、旅の途中で一夜をともにした人間同士の、はかない出会いと別れが重ねられていると考えられてきた。 7月13日、越後を離れる7月13日、芭蕉と曾良は市振を出発した。境川を渡り、越後と越中の国境を越える。曾良の日記には、越中側に加賀藩の番所があり、通行のための手形を確認されたこと、入善付近では馬がなく、人を雇って荷物を運び黒部川を越えたことなどが記されている。夕刻には滑川へ到着した。こうして二人の越後路は終わり、旅は越中、加賀へと続いていく。酒田を出てから越後を通り抜けるまで、わずか二週間あまり。しかし、その間には村上での旧縁との再会、新潟での宿探し、弥彦や寺泊の古寺参詣、柏崎での宿泊拒否、直江津での句会、高田での連句、能生の鐘、そして親不知の難所越えが詰め込まれている。ところが、『おくのほそ道』本文だけを読むと、越後の記述は驚くほど短い。「此間九日、暑湿の労に神をなやまし、病おこりて事をしるさず」と記したあと、名立などを過ぎ、市振へ入っていく。新潟、高田、直江津などで実際には多くの人々と出会い、句会を重ね、寺社を巡り、宿に苦労しながら歩いたにもかかわらず、本文ではそれらが大幅に省略されている。この差を埋めてくれるのが曾良である。曾良は一行の旅程、宿泊先、天候、食事、道筋、出会った人物などを細かく記録した。芭蕉の『おくのほそ道』が文学作品として磨き上げられた旅の物語であるのに対し、曾良の記録は現地で何が起きたのかを知るための貴重な旅行記になっている。両方を読み比べることで、芭蕉の旅は初めて立体的に見えてくる。 越後路は「何もなかった旅」ではない越後の旅を振り返ると、芭蕉が不運に見舞われた場面が多いことに気づく。まず夏の暑さと湿気に苦しみ、雨にも何度も遭遇した。新潟では宿泊に困り、柏崎では紹介状を持って訪ねた宿を断られた。直江津では予定していた聴信寺に泊まれず、急きょ別の家に宿を求めた。能生から糸魚川への道では芭蕉自身が川でつまずき、衣服を濡らしている。しかし、それだけではない。村上では曾良の旧縁によって城内へ案内され、高田では土地の俳人たちと連句を巻き、能生では古い鐘の伝説を聞く。つまり、越後路は「災難の連続」ではなく、「苦労の中に人の情があった旅」だったともいえる。 特に宿をめぐる出来事は象徴的だ。新潟や柏崎では拒まれた一方、源七のように困っている旅人を泊めてくれる人もいた。江戸時代の街道旅行では、旅人は地域社会の中に身を置かなければならない。宿を提供してもらうこと、紹介状を持参すること、土地の人から案内を受けること、旅費を節約すること。そうした一つ一つの行動によって旅が進んでいった。 その意味で、芭蕉の越後路は名所旧跡だけを訪ねた旅ではない。人間と人間との間を渡り歩く旅でもあった。 高田と直江津が残したもの現在の上越市域に、芭蕉の足跡が比較的はっきり残っているのは、この旅の実態が曾良の記録と土地の資料によって追えるからである。直江津今町には二泊、高田城下には三泊し、越後国内では村上を除けば一か所一泊が基本だった中で、この地域では長く滞在している。さらに、地元の人々と俳諧を行ったのも直江津と高田であった。高田での「薬欄にいづれの花をくさ枕」、直江津での「文月や六日も常の夜には似ず」「荒海や佐渡に横たふ天の河」は、越後路を象徴する三句といえる。 一方、新潟での「海に降る雨や恋しき浮見宿」は、名句として全国的に知られる「荒海や」のような壮大さはないが、旅人芭蕉の人間らしさが濃く表れている。雨の中、宿を求めて歩き回り、ようやく一夜の居場所を得た。その感情が「恋しき」という言葉に凝縮されている。 芭蕉は壮大な自然だけを詠んだのではない。雨、宿、薬草、鐘、人の声といった、旅の途中でふと心に残った小さな出来事をも句にした。その積み重ねが、最終的に『おくのほそ道』という大きな旅の物語を形作っている。 史実と文学、その境界にある『おくのほそ道』『おくのほそ道』を読む際に忘れてはならないのが、これは単純な旅行日記ではないという点である。上越市も『おくのほそ道』を、芭蕉の実際の旅を素材としながら、俳諧と格調ある文章によって構成された文学作品と位置づけている。そのため、曾良の旅日記と比較すると、実際の旅と作品の間に違いが見つかる。市振の遊女の場面はその代表例である。また「荒海や」の句も、実際の天候との食い違いが指摘されている。だが、これは『おくのほそ道』の価値を低めるものではない。むしろ、芭蕉が旅で得た体験をどのように文学へと昇華したかを示している。 実際の旅では、雨が降り、宿を断られ、服を濡らし、荷物を担ぎ、疲れ切って宿に入る。そこには取るに足らない出来事も多い。しかし芭蕉は、その中から一瞬の風景を取り出し、「月」「佐渡」「萩」「鐘」「薬欄」といった象徴的な世界へ変えていく。だから『おくのほそ道』の芭蕉は、旅をする男であると同時に、旅を文学へ作り替える作者でもある。 越後に刻まれた芭蕉の足跡現在、越後路には芭蕉ゆかりの句碑や伝承地が各所に残る。新潟では源七の宿、高田では細川春庵ゆかりの地と「薬欄」の句碑、五智国分寺ではその句碑、直江津では「文月や」の句碑、能生では「汐路の鐘」の伝承、市振では「一家に遊女もねたり萩と月」の伝承地が残されている。市振の「伝芭蕉の宿桔梗屋跡」や親不知も、糸魚川市が『おくのほそ道』の景観を構成する重要な文化資産として位置づけている。こうして現地をたどると、芭蕉の越後路は単なる文学史の一項目ではなく、村上、胎内、新潟、弥彦、寺泊、出雲崎、柏崎、鉢崎、直江津、高田、五智、能生、糸魚川、市振へと続く一本の道として見えてくる。 その道の上を、今から三百年以上前、一人の俳人と一人の門人が歩いた。炎暑に苦しみ、雨に濡れ、宿を探し、時には人に断られ、それでも寺社へ参り、人と語り、句を詠み、さらに西へ歩き続けた。越後で過ごした日々は、芭蕉自身にとっては厳しい旅だった。しかし、曾良の記録を重ねて読むと、その旅には数多くの人との出会いと、豊かな文化的体験があったことが分かる。 村上では曾良の過去と再会し、新潟では一夜の人情に救われ、弥彦や西生寺では古い信仰に触れ、直江津では七夕を前に句を詠み、高田では俳人たちと連句を巻き、能生では霧と鐘の音を聞き、最後は親不知という北国随一の難所を越えた。その先に待っていたのが市振であり、「一家に遊女もねたり萩と月」という、旅のはかなさを象徴する一句だった。そして翌日、芭蕉は越後を離れ、越中へ入った。長い旅の一場面にすぎないはずの越後路が、三百年以上を経た現在まで記憶されているのは、そこに実際の旅の苦労があり、人との出会いがあり、さらにそれらを永遠の言葉へ変えた芭蕉の文学があるからにほかならない。 『おくのほそ道』の越後路は、名所を一直線に巡る華やかな旅ではない。雨と暑さ、宿の苦労、道の難所、偶然の出会い、土地の人々の厚意、そして一瞬の風景。そうした小さな出来事の連続が、芭蕉にとっての「旅」であり、やがてそれが日本文学史に残る一つの道となったのである。 ❏旅程
❏句碑
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市振での芭蕉午後4時頃、市振の小さな宿「桔梗屋」(1914年(大正3)の火災により現存せず、記念碑がたっている)に到着した芭蕉達がくつろいでいると、一間隔てた表の部屋から若い女達の話し声が聞こえてきた。このころ、一生に一度、伊勢神宮をお参りするのが庶民の夢であったが、女達も、お伊勢参りの途中の新潟の遊女でった。 浮草稼業の身の上を嘆き、前生の業のふかさにおびえる女たちと、浮世を捨てた僧形のわが身が同じ屋根の下にとまることにものの哀れを感じつつ、耿耿と照る月のした、宿のの庭に咲く萩を眺めて作ったのが 「一家に遊女もねたり萩と月」 の名句である。 今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし
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『一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月』 曾良にかたれば、書とヾめ侍る。
桔梗屋跡碑
※GOOGLE 画像
〔所在地〕新潟県糸魚川市市振728番地1 桔梗屋跡現地案内看板
史跡 伝芭蕉の宿桔梗屋跡 この地は、元禄二(一六八九)年七月十二日に、俳人松尾芭蕉が『奥の細道』の旅の道すがら、一夜の宿をとり、 一つ家に 遊女も寝たり 萩と月 の名句を詠んだと伝えられる桔梗屋跡です。桔梗屋は、市振宿における脇本陣でしたが、大正三(一九一四)年の大火で焼失してしまい、現在はその跡地が残るのみとなっています。 安政三(一八五六)年に刊行された俳人中江晩籟の句集『三富集』には次のように記されています。 市振の桔梗屋に宿る。むかし蕉翁、此宿に一泊の時、 遊女も寝たる旧地なり。 寝覚めして 何やらゆかし 宿の花 良寛もこの地に一宿し、次の句を詠んだといわれています。 市振や 芭蕉も寝たり おぼろ月 昭和五十年二月十五日指定 糸魚川市教育委員会 🔙戻る
千年鮭 井筒屋 松尾芭蕉が投宿した場所とされる村上市小町の旅館「井筒屋」(※2001年に廃業)の建物を活用し、鮭加工販売業「村上の千年鮭 きっかわ」が、2017年3月17日に村上市名産の塩引き鮭を食べられる食事どころを開店した。 |
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