居多神社 Kota Shrine 上越市
上越市の直江津海岸から西の五智海岸に、居多の浜というところがある。この海岸から山側に入ったところに、越後一の宮居多神社がある。927年に完成した『延喜式』に記載されている,頚城郡に13社あった延喜式内社のひとつとされる。 この神社は、平安時代のはじめ弘仁4年(813)に従五位下を、貞観3年(861)には従四位下という、弥彦神社とならぶ高い位の神社として位置付けられた。その後、室町時代、貞和3年(1347)に室町幕府から社殿修造費として田井保(上越市板倉区)三分のニを、観応2年(1351)には越後守護上杉憲顕から荒蒔保(上越市機清里区)を、それぞれ社領として賜った。 社運は隆盛。文明18年(1486)に京都常光院の堯恵法師が、長享2年(1488)には京都相国寺の万里集九がここを訪れたことが社伝にみえる。 戦国時代長尾為景・上杉謙信もこの神社を崇敬したので「越後一の宮」としてうやまわれてきた。 ところが、居多神社は、天正6年(1578)の御館の乱のとき、三郎景虎に味方したので、景勝軍の攻撃を受けて焼き払われてしまい、神官花ヶ前家は能登へ逃亡し、上杉景勝の会津移封(1598)後、帰国してふたたび居多の浜へ再興。しかし、昔のように栄えることはなかった。春日山城主堀秀治も社領13石を寄せて保護の手を加えた。慶安元年(1648)には、徳川3代将軍家光から朱印100石を安堵された。 居多神社に祭られている祭神は、大国主命・奴奈川姫命・建御奈方命・事代主命となっている。縁結び、子宝・安産祈願の神として信仰されている。 親子関係にある三柱の主祭神を一緒に祀っているのは県内では珍しい。三柱が並ぶ石像にお参りをすると、よりご利益を授かれるとも言われ、若いカップルも多く参拝に訪れる。良縁祈願に子宝や安産祈願にと家族の人生に寄り添う神社だ。 承元元年(1207)専修念仏が禁止され、親鸞上人は越後国府に流罪となったが、居多神社に参拝した際、 『すゑ遠く法を守らせ居多の神 弥陀と衆生のあらんかぎりは』
と詠み、神前に供え祈願したところ、境内の葦の葉が片葉になったという。今日も群生しており、越後七不思議の一つに数えられている。以前は北方の日本海岸寄りにあったが、 海岸侵食によって社地が崩壊したため、明治12年(1879)に現在地に社殿が造営され遷座した。この社殿は明治35年(1902)に火災で焼失、明治40年(1907)に仮社殿が造営された。その後、平成20年(2008)6月に本社殿が造営されて現在に至っている。 境域は、杉・ケヤキの老樹の茂る小丘上に位置し、石灯籠をくぐった奥に切妻造り、瓦葺きの拝殿、本殿などがたつ。社宝として、長尾為景祈願文、堀秀治寄進状、家光の朱印状、観応2年(1351)の越後守護上杉憲顕寄進状、鎌倉公方足利満兼(1378-1408)の書状など、貴重な古文書類が所蔵されている。
≪現地案内看板≫
越後一の宮 居多神社 祭神 大国主命 奴奈川姫 建御名方命 祭典 例祭 五月三日 講社大祭 八月十九日・二十日 由緒
宝物 居多神社文書・狛犬(上越市指定文化財) 親鸞聖人御旧蹟 親鸞聖人日の丸御名号・御詠歌 越後七不思議「片葉の芦」 境内社 雁田神社 祭神 高皇産霊神・神皇産霊神 子宝・安産の神 稲荷神社 祭神 倉稲魂命(商売繁昌の神) |